羊の隠れ家

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2012年1月27日

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OMEGA−凶弾の方程式【3】

凶弾の方程式【3】
 
エレベーターを降りて中二階のエントランスを横切り、大通りへと下る階段を降りてゆくと、新藤絵里香はブーツで雪を踏み潰しながら、通りに停めてある黒塗りの大型リムジンへと足を進める。後部ドアの前に立っている初老の男は、絵里香を見つけると深々と頭を下げ、リムジンの後部ドアを開いた。
 
「いつもご苦労様です。長谷川さん。」
 
絵里香は初老の運転手に声をかけると、そのスーツの肩に積もっている雪を右手で払った。
 
「絵里香様。どうぞお気遣いなく・・・。」
 
運転手は恐縮しながら、絵里香に乗車を促す。
 
「長谷川さん。車の中で待っていればいいのに。」
 
絵里香が後部座席に身を沈めるのを確認すると、運転手は静かにドアを閉じて、自分も運転席へ乗り込んだ。
 
「ねえ、長谷川さん。これからは雨や雪の日は、車内で待機してくださいね。お体を壊してしまいますよ。」
 
「はい・・・絵里香様。お気遣いに感謝いたします。」
 
スタッドレス・タイヤを装着したリムジンは、雪の積もる市街をゆっくりと走りぬけ、東北自動車道の入り口へと向かう。大枝市から高速を使えば、盛岡市までは約1時間の距離だった。絵里香が右手首の腕時計で時間を確認していると、運転手が静かに話し始めた。
 
「昨晩、監査官の石田から入手した例のフィルムの件ですが・・・。」
 
「聞かせてくださいな。」
 
絵里香は視線を窓の外に向けたまま、運転手の話に応じる。
 
「はい。実は・・・フィルムを現像したのですが、何も写っていなかったようです。」
 
「どういうことでしょう?」
 
「はい。石田監査官が間違って、違うフィルムを持ってきたとは考えにくいので、おそらく石田本人も騙されたのではないでしょうか?」
 
「偽物を掴まされたということですか?」
 
「ええ・・・そう考えるのが自然かと思います。あの刑事が石田に嘘をついたのでしょう。」
 
「遠藤・・とかいう刑事でしたね?」
 
「はい。遠藤刑事です。」
 
「その刑事が監査官を欺く理由があるのですか?」
 
「おそらく遠藤が、あのフィルムを個人的に利用しようとしているのでは・・・?」
 
「個人的に・・・どういう意味ですか?」
 
「はい。我々の分析では、警察があのフィルムによって、我々に対して何らかのアクションを起こすとは考えにくい。遠藤刑事が自分の見たことを警察組織に主張しても、おそらく相手にされないということは、遠藤刑事自身が自覚しているのではないでしょうか?従って遠藤刑事の立場からすれば、警察組織が動かない以上、フィルムには何の意味もないことになります。」
 
「フィルムを有効に活用するために、警察組織ではなく、個人で行動するということですか?」
 
「そのように考えて、間違いないでしょう。それに、昨晩の一件もあります。昨晩の一件で遠藤刑事が死亡しなかった以上、石田監査官が彼の家に侵入して窃盗を働いたことは、すでに遠藤本人に発覚していると考えるべきです。石田が内通者であるという疑念を持ってしまえば、もう警察組織に頼ることなないでしょう。」
 
「そうね。多分、今頃遠藤刑事は疑念の渦中で混乱しているのでしょうね。」
 
「今後の方針に変更はございませんか?」
 
「ええ。その必要はありません。遠藤刑事はいずれ、近いうちに消滅します。本人が消滅してしまえば、フィルムも無意味です。」
 
「わかりました。石田監査官はどうしましょうか?」
 
「現状を維持しなさい。彼はまだまだ利用価値があります。」
 
「了解しました・・・。絵里香様。一つだけ質問があります。」
 
「何ですか・・・?」
 
「昨晩の件ですが、なぜ計画は失敗したのでしょう?」
 
長谷川は、「あの暗殺者」の弾丸が遠藤刑事を捉えることができなかったことを不審に感じていた。これまでに何人もの人間が「あの暗殺者」のターゲットとなった。そしてそのすべてが命を絶たれているのだ。
 
「長谷川さん。それは貴方の心配することではありません。違いますか・・・?」
 
「は・・はい。絵里香様。申し訳ございませんでした。質問は取り消します。」
 
「あのフィルムを有効に活用しようとする場合、遠藤刑事はどこへ行くか?何をするか?誰に合うか?それらを早急に分析して報告するのが貴方の仕事ですよ。わかりましたね。」
 
「はい。すべて了解しました。」
 
「それから、例の件は何か伸展がありましたか?」
 
「香坂の件・・・ですか?」
 
「ええ。あの二人の消息は?」
 
「申し訳ございません。現状は何も変わっておりません。」
 
「行方がわからないということですか?」
 
「はい。岩手県内のすべての市町村で調査したのですが(香坂姓)に関しては、老人と子供という取り合わせも該当者は発見できませんまでした。」
 
「わかりました。スタッフや予算が不足しているようなら、遠慮なく本部に請求しなさい。」
 
「はい。そうさせていただきます。二人が県外に脱出している可能性も考慮する必要がありますか?」
 
「そうねえ・・・・。」
 
絵里香はしばらくの間、無言のままで考えていた。
 
(他に身寄りのない老人が、まだ幼い孫を引き連れて、いったいどこへ行けるというのか・・・?)
 
「これから一ヶ月の間に発見できない場合、県外にも捜査の範囲を拡大しましょう。」
 
「わかりました・・・全力を尽くします。」
 
長谷川はそう言いながらアクセルを踏み込んだ。リムジンは高速道路の入り口へと続く長いスロープを駆け上ってゆく。
 
(香坂・・・綾乃)
 
まだ幼い少女の名前だったが、その名が絵里香の脳裏を過ぎってゆく時、その背筋に微かな鳥肌が立った。
 
(私が・・・恐れている・・・馬鹿らしい・・・!!)
 
絵里香は、自分の中に沸き上がろうとする感情を慌てて押し殺した。
 
(恐れなどではない・・・私があの子を恐れる理由など・・・ありはしない・・・!)
 
確かにそれは「論理」であり「合理的な判定」だった。しかし、いくら論理を重ねても、自分の内側から込み上げくるような感情のすべてを論理で分析することは出来ないことを、絵里香は十分に理解していた。
 
それは確かに存在し・・・
 
それはヒタヒタと静かに自分に接近し・・・
 
それはやがて脅威となって自分の前に立ちはだかるであろう・・・・。
 
絵里香の心の奥に湧き上がっている感情とは、そんな「予感」に対する警戒であり、防衛であり、そして怒りであった。
 
(香坂綾乃・・・・私が必ず踏む潰してあげる・・・・!!)
 
車窓に広がる銀世界を見つめながら、絵里香は小さくそう呟いた。

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OMEGA−凶弾の方程式【2】

凶弾の方程式【2】

 
喉に流れ込んでくる新藤絵里香の体温が、京子の血液を沸騰させる。破裂した毛細血管から滲み出す真紅が、京子の皮膚を赤く染める。唇を奪われ、言葉を奪われ、思考を奪われ、論理を奪われ、身も心も裸にされながら京子は野生となって叫び、悶え、繰りながら、煌く閃光の中で妖艶な舞踏を舞い続ける。侵略され、征服され、支配され、犯され、汚され、傷つけられながら、京子は自分を焼き尽くす炎の名を呼ぶ。
 
絵里香・・・!!
 
絵里香・・・!!
 
絵里香・・・!!
 
京子の皮膚から立ちこめる水蒸気の中で、その湿度に全身を濡らしながら絵里香もまた、自分を溶解させる熱の名を呼ぶ。
 
京子・・・!!
 
京子・・・!!
 
京子・・・!!
 
互いの体の、その奥へと伸ばされた指先が、互いの熱を感じあい、互いの湿度を感じあい、その意味を奪い合い、その意味を分け合いながら、一つの存在になろうとする。情報という名の刺激を受けとった大脳神経細胞は、その情報を「物質」に変換する。情報は脳内伝達物質に変換され、それを伝えるべき「相手」の元へと確実に届けられる。絵里香という名の細胞から放出された「物質」は、密着している京子の皮膚に浸透し、侵略し、侵入し、そしてやがて京子という名の細胞の中心へと流れ込んでゆく。
 
京子と言う名の、その細胞の中心には、京子が京子であり続けるための「法則」が、厳重な防護システムに守られながら保管され、管理されている。絵里香から放たれた物質は、その警備システムをいとも容易く潜り抜け、京子の情報が保管されている部屋の扉をゆっくりと開いてゆく。
 
左右に開かれた「京子の扉」の隙間に、絵里香の舌が侵入する。絵里香の体液が、京子の体液に混じり合いながら、その粘膜を伝って、ゆっくりと京子の中心へと進んでゆく。京子にはもう、自分自身を守る防御システムは何もない。「絵里香の物質」は京子の中心に侵入し、接触し、そして京子が京子として存在することを保障している巨大な分子羅列の中へと浸透してゆく。30億以上の分子が連結している二重螺旋構造の一部が、絵里香の分子を受け入れ、絵里香の情報を組み込んでゆく。
 
その直後・・・。
 
京子は絵里香と「何かを共有している」ことを確信する。自分の一部は、確実に「絵里香」となっている。その感覚が、京子の大脳に爆発しそうなエクスタシーを誘発する。真っ白な閃光に包まれながら全身を激しく痙攣させ、京子は絵里香の名前を大声で叫ぶ。
 
絵里香・・・!!
 
絵里香・・・!!
 
絵里香・・・!!
 
---------------------------------------------------------------------
 
「お出かけになるんですか・・・?」
 
「ええ。ちょっと東京に行ってくるわ。京子ちゃん。ここにいてもいいのよ。」
 
すでに外出の身支度を終えた絵里香は、白いブラウスに紺色のタイトスカートという、絵里香にしては地味とも言える服装に身を包み、まだ全裸のままの姿でベッドに横たわっている京子の脇に腰を下ろした。
 
「子猫ちゃん・・・まだお眠ですか?」
 
絵里香はそう言いながら微笑み、京子の頬を人差し指で撫でる。京子はそんな絵里香を見上げながら、その美しさに惹きつけられてしまう。
 
「いつ、お帰りになるのですか・・・?」
 
「明日には帰ってくるわよ。そんなに心配そうな顔をしないで。」
 
新藤絵里香には、自分がまだ知らない「別の顔」があることを、京子は薄々気づいていた。
 
新藤絵里香・・・。(財)生命科学研究所の一員として研究に参加していた女性だが、その存在は事実上、東堂教授の右腕であり、研究方針を左右するほどの影響力があった。東京のフェリス女子大学の助教授だと言うこともあり、京子は、そんな彼女が東京出身だとばかり思っていたのだが、彼女の故郷が岩手県だと言うことを最近になって知ったのだった。岩手県内には絵里香が自由に使える「部屋」が数箇所に存在し、そのどれもが決して庶民的なものではなく「高級」と呼ぶに相応しい物件ばかりだった。
 
研究チームが解散した後も、こうして週に一度は新藤絵里香と顔を合わせている京子だが、絵里香の「東京行き」は今回が初めてではなかった。絵里香が東京で誰に会い、何をしているのか、京子にはそれを尋ねることが出来なかった。と言うよりも、あれこれと他人の干渉を許容するような女性ではないことを、京子は直感で理解していたのだ。
 
 (近くにいてくれれば、それだけでいい・・・。)
 
これが京子の本心だったのだ。
 
しかし・・・。
 
絵里香がリモコンを手にして、TVのスイッチを入れた。テレビではローカル局の朝の情報番組が始まっていた。
 
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「みなさん。おはようございます。モーニング岩手の時間です。今朝は、昨晩、大枝総合病院で起きた狙撃事件について、現地から詳しくお伝えします。現場には高橋レポーターが行っています。高橋さん。」
 
「はい。高橋です。私は今、大枝総合病院前の駐車場からレポートしていますが、ご覧になれますですでしょうか?すでに駐車場は各局の報道陣で埋め尽くされている様子です。」
 
「ええ。確認できます。さて、高橋さん。警察からはその後、何か新しい情報は発表されましたか?」
 
「いいえ。今のところ、すべては捜査上の秘密と言った感がありますねえ。」
 
「そうですか。では、まだ犯人は特定されていないということですね?」
 
「そうですね。まだ犯人に結びつく手がかりは得られていないのではないでしょうか・・・?」
 
「あのお・・火災の被害状況はどうなのですか?」
 
「ええ。火災自体は、病室のカーテンの一部が燃えた程度の小火(ぼや)だったようで、火災による怪我人はいない模様です。」
 
「でも、火はライフルの銃弾が打ち込まれた部屋から出ているのですよね?何か関連性はあるのでしょうか?」
 
「はい。それについても警察は今のところノーコメントですねえ・・・。」
 
「襲撃された入院患者さんは大枝署の刑事だったそうですが、やはり犯行の動機は怨恨なのでしょうか?」
 
「そうですねえ。刑事さんともなると、色々と人に恨まれることもあるので、その線も考えられますねえ。」
 
当局からの公式発表が何もないままに、TVレポーターは放送時間をつぶすだけの意味しかない「個人的な憶測」を並べ続けていた。
 
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「物騒な世の中ね。こんな田舎町で狙撃事件だなんて・・・。」
 
絵里香はそう言いながらTVのスイッチを切ると、京子に視線を向けた。
 
「どうしたの・・・?難しい顔をして・・・・?」
 
絵里香はそう言って、ベッドに横たわる京子を覗き込んだ。
 
「絵里香さん・・・一つだけ・・・教えてください。」
 
(質問はしない)・・・これが絵里香と付き合うために京子が自分自身に課した「決意」だったが、今、その決意が揺らいでいた。
 
「何を知りたいの・・・?」
 
「怒らないで・・聞いてくれますか・・・?」
 
「なあに・・・怒らないわよ。話してごらんなさい。」
 
「あの・・・盛岡で・・・私たちが襲われた時のことです・・・・。」
 
絵里香は無言のまま、京子の次の言葉を待った。
 
「あの時・・・男の人が助けてくれましたよね・・・?」
 
「ええ・・・そんなこともあったわね。それがどうかしたのかしら?」
 
あの時、絵里香はその男性に向かって確かに言ったのだ。
 
(殺してはいけませんよ・・・)
 
その後京子は、その夜のことを幾度となく思い出し、その言葉の「意味」について感度も考えただった。
 
(殺してはいけませんよ・・・まるで母親が子供に注意するような口調だった。殺してはいけませんという制約があるなら、殺してもよいという許可もあることになる・・・。)
 
そして、翌日の新聞には、繁華街の駐車場で二人の若者が何者かに襲われて瀕死の重傷を負ったと報道されていた。報道内容は事実に反するが、重要なことはそんなことではない。絵里香と京子が暴漢に襲われそうになった時、まるでそれを監視していたかのように、突如男性が現れ、二人を救ったという事実こそが、京子にとっては重要なことだった。
 
(二人を救ったわけではない・・・あの人は絵里香さんを守ったのだ・・・。)
 
(あの人は誰・・・・絵里香さんの何・・・!!)
 
「まだ盛岡のことを気にしているの?変な娘ね。」
 
絵里香はそう言って笑う。
 
「わ・・私・・・見たんです・・・。」
 
「ん・・・?何を見たの?」
 
「昨日・・・ここに来る途中で・・・あの人を見たんです。病院の近くで。」と、そう言い掛けた直後、京子はその後の言葉を呑み込んだ。
 
自分を見下ろす絵里香の両目が、薄っすらと青白く輝いたように見えたのだ。
 
 

 

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