バプテスマは到達点、それとも始まり?
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『まずはイエス様を受け容れることです。』『何事もイエス様を受け容れてバプテスマを受けてからです』
こう教会では言われる。ここのところが私にとって大きな曲がり角・わかれ道なのだ。バプテスマは単なる始まりにすぎない、そこから長い道のりが始まるのだ、と思っている。
「バプテスマを受けた」、「信者になった」、「永遠の命が保証された」、「天の掲示板に自分の名が記された」、なのだけれど、むしろそれから苦しみが始まる、ように思う。いや、帰って悩み・苦しみが増すのではないか。
その辺りに応えが見いだせないままバプテスマを受けて信者になっても、むしろ苦しくなる、そのような思いが根強くあるので、今はこれ以上歩みを進めず、ひたすら聖書と向き合って答えを見つけていきたい。
バプテスマを受けることを決心すると、牧師によるバプテスマ教育が始まり、信者候補者はバプテスマへと導かれるのだが、その途中でいや待てよ、と踏みとどまったり離脱したりする信者候補者は実は少なくないだろう。
一旦決心して挫折すると、それはインパクトが大きい、再度の決心に時間を費やすだろうし、再度決心してまた挫折する、という不安にさいなまれることもあるはずだ。それは信仰の喜びよりも恐怖である。そこを乗り越えるのはそんなに簡単なことではない。
バプテスマを受け信者になった人は悩まなかったのだろうか、どうやって恐怖を乗り越えたのだろうか。
「イエス様を受け容れてクリスチャンになろうと思われた方は静かに手を挙げてください」 私は未だに手を挙げる勇気を持てないまま、教会に通い続けている。
バプテスマを受けない未信者はまともな扱いを受けない、これは厳として存在する事実。 |
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