東田端地区の歴史〜その33〜
|
『田端大橋』の完成と前後して、田端駅前の『切り通し』は昭和8年に完成しました。 上は昭和7年の地図ですが、下の昭和12年の地図では田端大橋とともに、『切り通し』が完成しています。 |
[ リスト | 詳細 ]
|
『田端大橋』の完成と前後して、田端駅前の『切り通し』は昭和8年に完成しました。 上は昭和7年の地図ですが、下の昭和12年の地図では田端大橋とともに、『切り通し』が完成しています。 |
|
昭和初期、逐年増加する交通量増加に伴い、東京都市計画事業と鐵道省が共同で、『江戸坂跨線道路橋』の架け替えを行うこととなりました。 それが現在の『田端大橋(ふれあい橋)』です。 (工事画報昭和十年7月號より) (土木学会誌第21巻第5号より) 昭和9年11月着工し、昭和10年7月5日に竣工しました。 田端大橋は当時、世界的な長大全溶接橋として有名で、日本最大の溶接橋だったそうです。 上の写真から、昭和初期の東田端地区の様子が伺えます。
|
|
「日本陸軍参謀本部陸地測量部」による明治42年測図大正14年部分修正の地形図です。 この地図では『江戸坂』が完成し、『跨線橋』が架けられていることがわかります。 この跨線橋は幅員3.6mの『江戸坂跨線橋』で、大正2年に竣工しています。 田端操車場建設に伴って、線路が複線化し、横断が遮られたため建設されました。 現在の「新田端大橋」や「ふれあい橋(田端大橋)」よりも、やや南側に架けられていました。 一方、この頃の田端駅は、現在よりも、北側にありました。 以下は当時の写真です。 江戸坂の途中から田端駅方面を写したもので、関東大震災後の被災者の様子です。 [写真] 上の地図には大正9年6月23日に開校した「滝野川第四尋常小学校」も記されていますが、「滝四小」の目の前にある、『東灌森稲荷神社』は、現在よりも南側にありました。 (追記)写真の掲載許可を取っていなかったため、写真は削除します。スミマセン。
|
|
「日本陸軍参謀本部陸地測量部」による明治13年測量の地形図です。 この頃は、鉄道も敷かれていませんし、切り通しもありません。 田端から道灌山を下りるには、現在の田端駅南口あたり、もしくはアスカタワーのあたりを通らなければなりませんでした。 田端駅南口には現在も『不動坂』があります。 不動坂降り口にある掲示板には、「坂名はかつて田端駅東口付近に石造り不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによります。この不動明王像は、明治四十五年(一九一二)五月に始まった田端駅拡張工事により現在地付近へ移され、さらに谷田川改修工事にともない。昭和十年(一九三五)十一月に現在地(田端三ー一四ー一隣接地)へ移され、田端不動尊となっています。」とあります。 源流は定かではありませんが、「不動の滝」があったため、地図のように斜面に対してまっすぐに坂を下って行くのだと思われます。 一方、アスカタワー脇にある坂は『江戸坂』といいます。 現在は田端の高台から田端駅前へと右に折れながら下っていますが、以前は左向きに下っていました。 現在もその坂の名残りはありますが、JR東日本の敷地内となっています。 「明治42年測図三河島」では旧江戸坂(当時江戸坂と言っていたか疑問ですが、便宜上「旧江戸坂」と呼びます)を下り、踏み切りを渡っていたことがわかります。 また、この地図からは、まだ跨線橋は出来ていないこともわかります。 |
|
現在、東田端地区と田端地区の行き来は、跨線橋である「新田端大橋」か「田端大橋(ふれあい橋)」を通り、切り通しを抜けますが、以前はどの様になっていたのでしょうか。 今回より数回、「田端の跨線橋と切り通し」について記述します。 大久寺に所蔵されている、明治の末ころ伊藤晴雨によって描かれた田端の古絵図です。 手前に谷田川(藍染川)が流れ、右手上の方にあるのが田端八幡神社で、その更に右手の高台へと登る山道が現在の切り通しの場所に当たります。 確かに江戸名所図会の「田畑八幡神宮」でも、一部雲に隠れていますが、切り通しがある様子はありません。
|
| 今日 | 全体 | |
|---|---|---|
| 訪問者 | 2 | 25404 |
| ブログリンク | 0 | 5 |
| コメント | 1 | 2716 |
| トラックバック | 0 | 2 |
開設日: 2009/5/11(月)