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歴史と旅のダイアリー
湯めぐりの備忘録です。たまに歴史の話も。

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神指城と米沢城

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 神指城跡二ノ丸北西隅に残る土塁上には、神指城跡を解説する案内板が設置されています。そこには、「慶長五年(千六〇〇)百二十万石を領する時の会津藩主上杉景勝は、石田三成等と力を合せて徳川家康を討とうとしたが、鶴ヶ城は山に近く守備に不利と見て、神指ヶ原に大規模な城郭を築くことを計画、家老直江兼続の指揮のもと十二万人の人夫を動員し、昼夜休みなく工事を急がせた。しかし、関ヶ原の戦は家康の勝利に終わったため、工事を途中で中止した。それ以後、この城は廃城となり現在にいたっている。」と書かれています。

 この解説文では、築城中止と関ヶ原合戦の時期の前後関係に誤りがあるほか、徳川家康を討つためになぜ神指築城が必要なのかが説明されていません。ただ、会津においては、上杉家が天下を狙っていたとする見方が根強く、著名な研究者の方でもそうした論調で叙述されている方がいらっしゃいます。会津松平家の土地柄ですからやむを得ない部分もあります。また、蒲生期よりも年貢率を大幅に引き上げ、重労働を課し、あっという間に米沢に去っていった上杉家ですから、会津にはあまり良い印象が残っていないのかもしれません。

 前回は、神指城が提起する6つの問題を書き留めてみました。その最後に掲げた「米沢城下の中に、神指城に関するヒントが隠れていないか」という点について今回は触れてみたいと思います。

 これは、神指城跡を紹介する物語風の短文をある本に書かせていただいたときに触れた内容なのですが、限りなく空想に近い話なので、笑って読み流していただければ幸いです。

 周知の通り、米沢城と城下の整備が本格的に行われるのは、上杉家が30万石に減封されたあとのことです。居城として準備していた神指城の構想が破綻し、譜代の家臣をリストラせずに米沢入りしたわけですから、神指城に託した構想を米沢で実現させるなどというのは、夢のまた夢であったと思われます。耕地の拡大、治水の整備、城下の地割などが最優先で、城自体の普請は後回しになったことが伝えられています。発掘調査でも行われないかぎり何とも言えませんが、米沢城本丸の規模自体は、蒲生期、直江期と比較しても大きく変わっていないのではないかと推測されます。それでもなお、神指城と米沢城の縄張が似ているというのは偶然なのでしょうか。

 写真に見られるように、方形を基調とした輪郭式の二つの城は、二ノ丸大手口の位置と形状、本丸外郭線の形状などが良く似ています。また、本丸南東隅に高台が設けられ、ここに横矢掛りが認められる点も共通しています。神指城のこの地点はすでに削られていますが、なぜ高台だったと推測できるかというと、地籍図においてここが耕地になっていないからです。平坦な場所は畑地(オレンジ色)、堀跡などの低湿地は水田(ピンク色)、起伏ある場所はおおむね草地・山林(緑色)になっています。本丸南東隅は、この緑色の範囲がひときわ広く、しかも平面範囲が方形を呈していますので、なんらかの構造物が予定されていた場所と推定されます。

 この本丸南東隅という場所は、米沢城において上杉謙信の廟所「御堂」が設置された場所にあたります。米沢城本丸改修の際に真っ先に着手されたのが、この「御堂」であったと伝えられています。土の城と言われる米沢城にありながら、巨石を運び込んで堅牢に作られたのがこの場所です。かたや神指城本丸の着工は、謙信23回忌の5日後(慶長5年3月18日)。本丸南東隅は、慶山からの石引道の最短距離地点にあたります。ここに脈絡を感じるのは私だけでしょうか。

 謙信の尊骸は、具足を付けた状態で大甕に入れられ、越後の春日山に祀られていたと伝えられます。慶長3年に会津に入部した景勝は、8月に謙信廟を会津若松城の西南隅に仮設し、ここを「御堂」と命名しています。謙信の薫陶を受けた景勝は言うに及ばず、御堂は上杉家にとっての精神的支柱であり、常に居城の本丸内に設置すべきと認識されていた可能性があります。しかし、蒲生氏郷が整備した若松城内に御堂を設置することは、越後春日山城を初めて離れた景勝にとって、家祖に対する畏敬を損なうものと感じられていたのではないでしょうか。景勝は、上杉家の誇りにかけて、自らが築く新城に謙信廟を設ける所存だったのではないかと私は推測しています。

 だからといって、神指城の本丸南東隅が御堂になるはずだったと無理矢理主張するつもりはありません(なにせ証拠がありませんので)。ただ、会津において実現できなかった謙信廟の整備が、米沢でようやく実現できたという経緯を考えれば、神指城に託した景勝・兼続の思いの一端を垣間見ることができるのではないかと思うのです。

 ここでもう一度地籍図を観察してみたいと思います。明治期の地籍図は、小字ごとに作成されていて、縮尺も全く不揃いです。これを写真に撮ってつなぎ合わせ、城跡の旧状を復原するというのは、結構骨の折れる作業です。どうしても隙間が空いてしまうし、うまくつながらない場所も出てきます。図の中で白くなっている場所は、うまくつながらなかった場所です。時間があればもう一度チャレンジし、より正確な図になるよう頑張ってみたいと思います。

 ○印をつけた4ヶ所のうち、「掘り残し土橋」と記入した地点は、堀が完成せずに土橋風に取り残された場所です。こんな不整形の土橋はありえないと思いますので、「掘り残し」と表現しました。東大手口付近で分岐する2本の道が、この2ヶ所の「掘り残し土橋」に通じています。つまり、石垣の石を運ぶ通路にあたる部分は意図的に掘り残され、最終的に整備する予定だったことが窺えるのです。

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