双輪生活

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闇から光へ

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私はだいたい毎年12月10日から25日ぐらいまでの間、なんだか沈鬱な空気に頭を押さえられている感じがする。日照時間も一年のうちで最短になっているわけで、365日自転車での生活を送っている私には、そういう自然の変わり目がひしひしと動物的に感じられるのかもしれない。

それが28日ぐらいからだんだんオレンジ色のパワーが入ってくるような気がして(爆)、31日から1日には、宇宙的というかコペルニクス的に宇宙が反転したかのような、くるっと世界が変わった感じがする。

何とも言えない『年が改まった』感じが、自転車で走っていると大気感にある。

これは生物として地球に生きている人間には、本能的に世界共通なのではないか?

1週間ほど前、クリスマスの日のエリザベス女王陛下の年頭のスピーチで、『光は闇の中で輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。』というヨハネの福音書の一節が引用された。私のような『自転車族』には、これは体感的にピンとくる。

その一行が出てくる前には、ギリシャ哲学的な、言葉に命があった、この命は人の光であった、ということが書かれているわけですが、正統の解釈と違って、私はこれを逆に読む。

私がここにこうして文章を書いているのも、「命があればこそ」で、生命活動が文章を書かせ、ものを考えさせ、絵を描かせ、ものを作らせる。闇は生命の終わりであり、そこからは何も生まれない。言葉も出てこない。人の命は光のようなものという印象が私にはある。

もし、太陽の光がなければ、一切の生命活動は科学的にとまる。植物も動物も、太陽のエネルギーを受けて生命活動を続けている。

人間が頭で考えていることはみんな言葉で出来ているわけで、言葉を使わずものを考えることは出来ない。言葉がなければ、そこには感情しかないわけで、それなら子を思う感情も動物にもある。世界は言葉を使って認識されている。ねこもいぬも来年のことなど考えない。

その認識手段の部分を正しいものにしようと、哲学も宗教も出てきたわけで、私には東洋も西洋も、本質的な部分ではそれほど違ったことを言っているとは思えない。

西洋で、クリスマスと言えば「クリスマス・オレンジ」。これは太陽の象徴でしょう。日本の正月のお供えの蜜柑も、やはり太陽。その下に太陽の恵みである米で作った餅がある。その餅は、酷暑から稲を守り、雨をもたらす雲の形をしている。それは枯れることない緑の上に載っている。みごとな象徴だと思う。

そのオレンジや蜜柑は生もので、種がつまり、命が詰まっている。

そういうものを、宇宙の見えざる善なるちからにお供えし、感謝する。

私は昨今のお供え餅が白いプラスチックで、中に切り持ちが詰まり、蜜柑が空洞のプラスチックなのを見ると、ずいぶん形骸化しているように見えてしらける。

私は毎年、山の上のおごそかな星空の下から走り始め、5か所廻るのを自分の初走りとしていますが、毎年、人の活動は光だ、という思いを持ちます。

ここ数年、不景気で初詣の参拝客の列はどんどん長くなっている。時間も1時間以上余分にかかるようになりました。

私などは、「初詣がプラスチックの蜜柑」になっている世相を強く感じる。

クルマを飛ばし、スクーターを飛ばし、パーティー気分で大騒ぎ。おみくじを引き、「こうなりますように」みたいなお願いをして終了か?(笑)。

私が神さまなら「そんな都合の良いことばかり言っていて、オマエは昨年めんどうをみてもらった御礼に平素一度でも来たか?正月にここへ騒ぎに来るばかりではないか。オマエのお願い事などは後回し、一番最後だ』と言うに違いない(爆)。

まあ、それは人格者でない私の考えることかもしれませんが(笑)。

出来上がる自転車も、生き方も、みんな日頃の必然的な結果だろうと思う。ルーティーンの中で、いつしかプラスチックの蜜柑になってしまわないように頑張りたいと思う。私はたとえマーケットが安くて納期確実なプラスチック製が求められる世の中であろうと。

昔、ドイツ人の彼女とお寺へ行った。お参りの後で、
「あっ、いけない。お祈りを間違えたわ。」
「何を間違えたの?」
「良い演奏が出来ることと、私に今どうしても必要なこととは別のことだわ。」
「今の一言で、それは別の方向で聞きとどけられたと思うよ。それと君の深層意識にもね。」
その時の彼女の考えたことは、今年の私の考えでもある。

にぎやかな境内の一番奥の誰一人来ないところに、ひっそりと闇の中に障子が30センチほど開かれ、お堂の奥に、金色の大日如来の平安時代の像が光っていた。

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樹々と鳥の声と紅茶

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私はだいたいやる気喪失の時は1時間半ばかり自転車に乗ります。

それが出来るように八王子のはずれから今のところに移った。自転車に乗る者にとってどこに住むかは重要な問題です。

ドイツでは普通の人がサーキットへ行ってお金を払い入場して、レーシングスピードで飛ばしてウサ晴らしするシステムが人気がある。私はそういう中には、どこか「自滅的」なところと「破滅的」な部分が含まれている気がする。実際、それで命を落とす人も少なくない。

自転車の気分リセット方法は、ツーリング系であれば穏やかなものです。『サドルの上の瞑想』と言ってよい。あるいは古代ギリシャ式に言えば、『サドルの上のスコレー』。

不思議なもので、英国の森の中と日本の雑木林の中は同じ音がする。広葉落葉樹の音なのでしょうが、『森の声』のような気がしてならない。時には人間の10倍以上も生きる木々は、我々と生命のスピードが違い過ぎて声が聞こえないのかな?という気妙な感覚を起こす。じつに癒される。

うちには自転車乗りがよく来ますが、みんなそれぞれ悩みを抱えている。家に戻れば両親とも病気だったり、家族仲がよくなかったり、将来の不安だったり、仕事の悩みだったり、経済的な不安だったり。そういうものが一つもない人はまずほとんどいない。

ところが自転車にひとたびまたがると、もうそこは自分の世界なわけです。

鬱陶しい人間関係も、将来の不安も、ポストに溜まる請求書の山も、目減りする貯金も、仕事のストレスも、すべて関係ない。

『このまま、家に残っているものをすべてそのままに捨て去り、社会的な肩書きも地位も捨て、1年ぐらい放浪の旅に出てもよいな』と思うぐらいです(笑)。すべてを放捨して自転車出家(爆)。

人間の頭は2つのことを同時に考えられない。自転車に乗っていると、自分の考えていることで、孫悟空の頭の輪っかのように自分をキリキリ締めあげている日常的なものがとれる。それこそ自転車の素晴らしいところだと思う。

多くの人が、趣味の世界へ来て、会社でやっているのと同じことをやっているのをよく目にします。

「派閥をつくり」、「何歳でどのくらいの地位に登り」、「どのくらいの家に住まないと世間体が悪い」、などなど。そういうある種の「世間体へのアピール」のために、自転車は最高級のレア部品をつけないといけないとか、人より速く走らないといけないとか、人からうらやましがられるものを持とうとか、集まりやレースに出ないと肩身が狭いとか、それは会社組織に入ってやっていることと大差がない。

私などはこの歳になると、そういうことすべてが鬱陶しい。ストレスを溜めるしがらみから自分を解放し、本来の自分にもどるために自転車に乗るのではないのか?

私の写真の2号車はサドル以外はすべて『難あり部品で組んである』。ネットで買ったリアハブはネジが潰れ、リムはマビックでも安い方のオープンスポーツ、しかも黒塗装に傷がある。『使えばどうせキズがつくじゃないか」と自分で使う。ハンドルには凹みがある。「壊れる危険がなければいいじゃないか」。変速器はテンションが弱い。「変速技術があれば問題ない」。ペダルは「ジュニア車のものでカッコ悪い」と誰も欲しがらなかったもの。不具合はないし、まだまだ使える。

ありあわせのもので組んでも、それで香取神宮でも富士山でも行って快調なのだから困らない。

「こどもの残り物を食べて太る親のようだ」(爆)。

またがっていれば、ハブのグレードだの部品が高いか安いかなどは見えません。乗って快適ならよい。

今日は眺めの良いところに、誰が作ったのか、切株を置いたスツールを見た。「いいものを見せてもらった」と思った。このスツールが名のある陶芸家のものだったら幸福感が増すだろうか?私にはそうは思えない。このほうが「野趣があってよい」と思える。盗まれる心配もない。

今日は日曜日なので、街道ではロードレーサーの人をけっこう見た。不思議なもので、いままでにこういう小道で自転車乗りに出くわしたことが一度もありません。まあ、レーサーはこういうところを走る乗り物ではないし。

ここでは速く走ることは無意味。むしろ速く下ってしまったら風景が楽しめなくてもったいない。

落ち葉の上に道しるべのように山茶花の花が落ちている。タイヤの下で時々つぶしたどんぐりがパチパチはぜる。自転車ツーリストのみが知る感覚。

ゆっくりと走り、時にはあえて自転車を押し、眺めの良いところでおもむろにバスケットから小型魔法瓶を取りだして、鳥の声と樹々の何を言っているか聞き取れない声を楽しみつつ、ただ一人紅茶を楽しむ。収穫の終わった柿の木に、鳥のために残された柿が残っている。頭上でヒヨがなく。平和なひととき。

これ以上の気分転換は私には考えられない。

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他の人のブログを見ていると、その人の生活範囲と深さがみえてなかなか興味深い。そうとうあちこちのお店に行ったりしていても「浅い人生」の感じの人もいるし、海外旅行の話を書いていても深さを感じない。

多くの場合、海外へ行くのも「変化」を求めているだけで、海底深く真珠を求めて潜るわけではない。第三者でも敏感な人は「ああ、これはブランド品のハンドバッグを持つのと同様、海外旅行へ行って高級レストランというブランドをひけらかしているのだな」と見えてしまう。

20年ほど前、ずいぶん世界を旅した英国人と、今はもうない高田馬場のらんぶるで、「Everywhere is nowhere」という話を二人でしていた。

人間も動物ですから、オリに入れられたり、狭いセメントの箱に住まわせられたり、理不尽な芸をやらされたりしたら不幸になる。まあ、だいたい多くの社会人はそういう生活を強いられているわけですが。

さらに国家や会社から「こういう思想と価値観を持ったこういう人間になれ」というようなこころの中まで縛られるようになったら不幸の極みでしょう。

旅に出ているつかのまのあいだ、日常から解放されているわけですが、学校の休み同様、その解放時間は終わりが来る。

『果てしなく遠くへ逃げだす必要はほんとうはない』。身の回りに満足のゆく小宇宙が形成されていれば。

日本のこの50年間の都市づくり、国づくりは私は正直なところ失敗であったと考えている。

リニア新幹線なんかいらないから、ヨーロッパのように分解せずそのまま自転車が積める列車を走らせろと思う。

「遠くへ逃げだしてゆかなくても、日々楽しい生活場所を作る」のが都市づくり、国づくりなはずで、イタリアにもフランスにも英国にもそういう都市はいくらでもある。

日本の大都市はどこも失敗しているのではないか?昨日、じつは山陰地方へ行った人のツーリングの写真を見せてもらいましたが、自然が残っているところは魅力的。都市開発されたところはことごとく『プチTOKYO』でまったく魅力がない。長野県でも『渋谷の偽物』とか『原宿の偽物』がたくさんあるのと似ている。「東京の衆にも負けねぇずら」「いや、そうじゃなくって、せっかくのよさが、東京と同じぐらい醜悪になってる」。

中野の名曲喫茶は、閉まる前、若い人たちで満員だった。ずいぶん汚かった。もし、今、高田馬場にあったウィーンの劇場の天井桟敷のようなアインがあったら、満員だったろうと思う。そういうところは少なくない。「昔は良かった」ではなく、本当の現実だろうと思う。私の友人が喫茶店へ入りたくなり、休日にわざわざ横浜から神保町の喫茶店へ行ったら満員で入れなかったといいます。

私は休日の多摩川が大嫌い。どこかの学校の運動会かバザーのようにがさつな感じになっている。私はあれに実によく似た風景を見ている。それはイランの公園なのです。あたりは砂漠・土漠で林も森も野原もない。そこで彼らは所狭しと、混雑した海水浴場のように、人工的な公園で家族でピクニックをしている。

多摩川もどんどん河岸をセメントで固め、公園化して、昔のような河岸でイモリやオタマジャクシの獲れるこどもが遊べる池はなくなった。私が小学生の頃は四手網をもって、そういう場所で遊んでいた。いまや多摩川の河岸からはイモリもカエルもほぼ全滅している。イランの公園のようになって、緑も消滅するのでしょう。

さて、そういう時代のなかで、何を気晴らしに、「生活に根を生やすか?」。

まずは「楽しませてもらう」受動的な生活をやめて「スマホ絶ち」(笑)本を一冊もって、自転車に乗り、前線基地となる喫茶店を探すことから。やがてはクルマで行けないようなところのうまい店。そこから足を延ばして風情のある細道、自然の残る道へ。

「出雲へゆきたしと思えども、、」あまりに遠く、行くまでの間に「興ざめ単調現代日本建築」をあまた見ないといけないので、大國魂神社へゆく。

「太宰府天満宮へゆきたしと思えども、、」あまりに遠く、菅原道真公の息子が建てた谷保天神へゆく。

じつは「どこへ行こうと、風景は自らの内なる鏡に映っている。」そこへ到達する時間の速さや乗り物の種類、豪華さには左右されない。実際の場所すら「こころのフィルムに写ったもの」。

一杯の美味いカプチーノはコモ湖畔で飲もうと、東京で飲もうと変わりはない。Everywhere is nowhere.

自転車のほうが「風景の本質」とヘルメットやカウリング、自動車のボディ、ゴーグルやサングラスで隔てられていない。より現実感があるのです。

エンジンの音で世界の微妙な音を聞き逃すこともない。

遠くへ速く行くばかりが能ではない。

遅い自転車で気ままにうろうろして『自分の人生時間』を取り戻せ。

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エドワード朝田園紳士

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私がはじめて自転車にのめりこんでから半世紀ほど経ちますが、そのあいだに、常に禅寺の石庭の石のようにころがっていたのが自転車の画家、フランク・パターソンでした。

彼の絵の世界が、ほぼ私の少年期、青年期を支配していたといってよい。

しかし、フランク・パターソンがいかなる人物だったか?というのは、全体像があきらかにわからないままに数十年が過ぎた。うすぼんやりと、彼は家具や建築、自動車のイラストも描いたこと、ロンドンのテンプル・プレスがおもな仕事の相手であったことぐらいでした。

1986年ぐらいのこと、奇しくも市場の骨董屋の「パトリシア」が(略称『パット』でパターソンも『パット』と呼ばれていた)隣の市のマーケットに自転車のプリントがたくさんあった、とリポートしてくれた。

考えてみると、私の英国での重要な自転車情報はすべて彼女がきっかけになっている。彼女は英国でのポールタックス(人頭税)のあったあと、忽然と姿を消し、誰も行方を知らない。「彼女はプロヴィデンスで天から派遣された天使だったに違いない」とすら思う(笑)。

後年日本へ持って帰ってきた、WW2よりはるか前の黒塗りのラレーのロードスターでその町まで行ってみた。人がほとんどいない、かつては船着き場の倉庫か何かだったのを改造したアーケードの中に、古い絵を分類してその店はあった。といっても英国によくあるタイプで無人のスタンドで、会計はアーケードの中央の管理人が請け負っていた。

そこのTRASPORTATIONの分類の中ににあったんです。大量にパターソンの絵が。ほとんどすべてがパターソン・ブックにもパターソン・ブック2にもはいっていないものでした。

一山かかえてカウンターで清算を済ませ、
「長年の自転車愛好家で、はるか極東の地でも、WW2の前からすでにフランク・パターソンはサイクル・ツーリストの間で尊敬されており、ぜひ一度会ってお話ししたいと、このスタンドの持ち主にお伝えください。」
そこへケンブリッジの住所と名前を書いて置いてきたのですが、ほどなく手紙が来て、ぜひ拙宅へお茶にいらっしゃいという手紙がお付き合いの始まりになった。彼こそパターソン研究家のムーア氏でした。

そこで聞いたパターソンの話はすべて今まで知らないことでしたが、とくに4つのことが印象に残っている。ひとつはフランク・パターソンがエンジニアの家系で、父親からエンジニアになるように大きい圧力をかけられていたが、絵への夢を断ち切れずアート・スクールに行ったこと。その後赤貧生活が長らく続いたこと。

「あ〜〜、どこかで聞いたような話だな」と思った。私の祖父はどこぞの国の放送局の創立メンバーのひとりで、技術研究所の親玉をやっていた。父は自動車狂だったし、私が高校の時『エカキになりたい』といったら大騒ぎだった。高校の教師たちもしつこく『理科系に進学すれば間違いないから』と年中電話してきていた。私は「試験が終わったらすべて頭から抜けるようなくだらない受験勉強はしない」と宣言して、あてつけで自転車店で受験期にアルバイトをはじめたりしましたから。それを聞いて「おおっ!こういうのは洋の東西をとわないな」と納得。

教師たちは「仕事をきちんと持って絵は趣味にすればいい」と言ってきていましたが、彼らは何もわかっていない。『エカキ』というのは『生き方』の問題なのです。ただ絵が描ければいいとか、賞を取って有名になれば成功とか、豪邸が建てばうまくいったというものではない。ベルナール・ビュッフェなどはそれがわかっていた。だから彼は大成功の中で自らゴミ袋をかぶって果てた。

パターソンの絵の中には、なにかきわめて大きい「生き方の背景」を常に感じました。

英国の自動車メーカーは1903〜1908年ぐらいに創業のところが多いのですが、パターソンはこの時期ずいぶん自動車に乗っている。しかし、彼の関心は自動車へ移ることなく自転車にとどまった。彼は非常にしばしば自転車の自動車に対する優位を絵にしている。これは趣味として、醸し出す旅情、自然とのかかわり方において。

実際、ムーア氏はパターソンが機械を徹底的に嫌悪していたことを話していた。パターソンはエリザベス1世時代に建てられた農家に住んでいましたが、発電機を置いたり、電気を使うことに徹底的に反抗していた。彼はヴイクトリア朝のオイルランプと蝋燭の光の生活を押し通した。

これはピカソをはじめとする20世紀の画家の多くが「もはや絵画は人工光線の下で眺められるのだから、人工光線の下で描かれなければいけない」と言っていたのの真逆。彼は毎朝5時〜5時半には起きだしていたという。

人はだいたい「スケッチ」というとあらたまって「スケッチブック」を買うものですが、私の経験から言うと「スケッチブックは抵抗する」。まわりを観察しても、スケッチブックは最初の3〜5ページを使ってあとはおしまいの人がかなりの割合にあがる。「うまく描こう」という気持ちが邪魔をする。

パターソンは手紙の裏でも、封筒でも、手当たりしだいにあるものにスケッチし、あとはぼんやりとしか写らない、安い箱カメラで撮影。むしろはっきり写ったらよくない。そこから絵を起こし、写っていないところを「視覚的記憶とスケッチ」で描いたらしい。

意外に思えることは、パターソンは脚を怪我をして以来、自転車に乗れなくなっていた。それが、なんと35歳の時のこと。彼がサイクリングをしていた期間は20年弱だったのです。

それが証拠に、彼の描く自転車はほとんどそのすべてが1920年代までのものでストップしている。

かろうじて1930〜1940年代のロードスターが出てくるぐらい。HETCHINSやBATESやPARISは一台もない。しかし、テンプル・プレスの面々は、逆にパターソンの絵に影響され、わざわざ大改造して「絵のようにした」と告白しているとムーア氏が言っていた。

つまりパターソンは最終的に自転車に乗れなくなっていたにもかかわらず、絵によって、1950年代まで「英国自転車のシルエットに影響を与え続けた」わけなのです。

これは盲点でした。私はパターソンの絵が古い車両の修復の資料になると思っていましたから。

たしかに、私も「おかしいな」と思ったことがあるのです。たとえば彼の絵にフロントフォークの左右のブレードにランプブラケットを付け、オイルランプをツィンにしているものがありますが、ああいう車両は現実に存在しない。そういう左用のブラケットが製造された記録も、左右両方にブラケットがあるフロント・フォークも、問屋のカタログで調べてもありません。

私が乗っていたゴールデン・サンビーム・スポーツもパターソンの絵とまったく同じにすると奇妙なことになったのです。それはウィングナットは1910年代中頃のもの、ヘッドランプは1906年ぐらいのもの。車両は1928年で、ハンドル形状は1933年。サドルバッグは1920年という具合。

フランク・パターソンは彼の農場でほぼ自給自足でやっていました。彼は植物のことも学び、買い取ったその農場の木々を生き返らせ、果樹やさまざまなベリー類も実がなるように手入れをした。知られていないことですが、彼はビールまで自分で作り、樽を置いていつでも自宅で飲めるようにしていた。訪ねてくる友人たちには「ハウス・ビール」で歓待した。彼の家でしか飲めない味のビール。

私はムーア氏の所へ午後のお茶に行く前、ちょうどお昼をノリッジの骨董屋夫婦のところで食べていたとき「日本で英国のようなビールがつくれるようにならないかな」という話をしていて、150万円ぐらいで『マイクロ・ブリューワリイー』という家庭向けの一式があることを知った。「ああ、パターソンもそういうのを持っていたんだな」とここでも感心した。

私の住んでいた家の主人もパターソンと同じ、ヴイクトリア〜エドワード朝の文化の人だったので、たぶんあこがれの生活様式が似ていたのだろうと思う。やはり牛を飼い、ヤギを飼い、庭で野菜をつくり、垣根に果樹を育て、テレビもラジオも冷蔵庫すら持っていなかった。まだバッジの色が赤いロイスはガレージの中でホコリをかぶり、自転車でどこへでも移動していた。

これは、たぶん、あの時代の英国には『人間の制御が効かないくらいのペースで行き過ぎた科学技術』にヴイクトリア朝の公害や自然破壊の記憶と結びついて、そういう強い反発があったのではないか?

私の物故した友人たち(ムーア氏を含めて)は、多くがそういうライフ・スタイルで生活していた。

現代日本では、そういう英国式の生活、かつての日本の自然との共生生活を見直す必要があると私は考える。スモッグけむり、こどもの健康が損なわれる産業革命の英国から日本へきて、イザベラ・バードや多くの英国知識人が日本に理想郷を見た。

私も「江戸回帰」などとは言えないので「英国式」という看板をあげているに過ぎない。

右端は、自動車道路のために消失した風景を糾弾するイラスト。

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旅のスタイル

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このくらいの気候になって来ると、旅の服装にも自由がきくようになってきます。私は待ち合わせの場所にいかなる旅姿であらわれるか?というのが見ていて実に楽しい。

こどもの頃からヨーロッパ映画が好きで、見ている中で「旅支度」がもっとも興味深かった。

父はクルマにはずいぶん散財していましたが、カバンにはこだわらなかった。いつもボストンバックをふくらませ、プラスチックの頑丈な箱を入れ、合理主義に徹していました。それはそれでいいけれど、映画の世界にあこがれていた私にはどこか物足りなかった。

黄金期は1920〜1950年代ではないかな?と思う。思い出せる限り、1960年代に入ると、もはや「優雅な旅仕度」は映画の中でもあまり見られない。

自転車の場合は、とくにホコリまみれになりやすいので、そうとう考え抜かないとみすぼらしくなる。

とかくマニアというのは、その好みがきわめて小さい閉鎖的なサークルのなかの価値観になりやすい。

先週、6人ぐらいが1968〜1974年ぐらいの自転車と服装の一団がいて、私もギョッとなった。まわりと比べてあまりに特殊な集団に見えました。

もう10年以上昔、中部の山岳地帯で我々自転車組とモーターサイクル組で待ち合わせをしたことがあるのですが、意外なことに我々の方が先に着いた。バイク組はメカトラで途中時間をとられたらしい。

広場で2時間ぐらい待っていた。そうしたら、仲間の一人が「あっ!あれそうじゃないですか?絶対そうです。いや〜スゴイな。WW2時代の亡霊みたいですよ。」と叫んだ。

機械油の染みのついたコートや服、軍装品を多く使ったいでたちでバイクを置き、歩いてやってきた。道行くすれ違う人たちはみんな振り返っていた。

たしかにWW2の軍装品は1920年代のアウトドアの服や用具とシルエットは似ているのですが、視覚的に重い。優美なところもない。ちょっと違うのです。

野望に燃える20代の頃、無理をしてPapworthというところの革のウイークエンドケースを買った。将校か誰かの持ち物らしく、ローヤル・ネィヴイ―の焼き印が入っていた。WW1のあとのもので、当時30万円弱した。服を入れた小型の柔らかいスーツケースと、良い味のついたバッグをクルマのトランクから出し、、というのを計画していましたが、「自転車で行こう」と決めて、友人に譲ってしまった。

頭にあったのは、大脱走のときのディヴイッド・マッカラムがトンネルを抜け、森を抜け、駅にたどり着き新聞を読んでいるあのイメージ。

古いヨーロッパの旅行鞄はじつによく考えられていて、持って歩きやすいように、上下の高さを押さえてある。これは地面に引きずらないため。寝かしてもキズが付かないように側面にも足になる大きい銅鋲が打ってある。しかも軽い。日本の古い鞄はよく見ないと、一見革に見える「厚紙製」がけっこうある。

私は古きヨーロッパの洗練された旅仕度にシビれる。ディートリッヒの映画を観ても、ミス・マープルを観ても、そういうところばかり見ている。

ちょうどベルリンの壁が崩壊した後、ドイツ人の彼女とロンドンで待ち合わせた。大脱走でビッグ・エックスが「それじゃロンドンのスコットのバーで」、と言ってちりじりになってゆくシーンで「脳下垂体を溶かされていた私」は、「それじゃロンドンで最初に会ったベイトマンのカフェで」と言って指定の日にカフェへ行った。

ローデンフライのコートを着て、ベレーをかぶり、革のトランクと楽器ケースを持った彼女が来た時、「ああ、自分は映画の中にいる!」と思った(笑)。

「You are absolutely stunning !!!そのトランクもすごくイイね。」
「それがね。拾ったのよ。」
「エッ?」
「みんな東側の人たちは何かの時に西側へ逃げるつもりでいたじゃない。それがベルリンの壁が崩壊するや、『もうこんなトランクはいらない世界になった』って、ゴミ捨て場にたくさん捨ててあったわ。一番良い味の出ているのを選んで拾ってきたのよ。」
「良いのを選んだね。Indeed we are one of a kind.」(同類だ)

旅行道具にはロマンがある。

自転車のカバン、バッグは私はまだまだ改良の余地があると思っている。輪行などで使うロードのホイール・ケースも取っ手の位置が悪く、私の身長でも下を擦る。

そういう自分の好みなので、自分の乗る自転車にキャリア(荷台)は必須。これからは革のドクターズバッグ(ホームズのドクター・ワトソンがよく持っている)の出番が増える。

長距離ツーリングならパニアバッグかサイドバッグ。これも私は帆布のものが好みですが、かなり難しくなった。「きなり色」のものを常にタワシですがすがしく洗い、走り込んだ車両にこなれたバッグが熟達者のあかしだった。

「自転車を軸とした生活」なら、これからそういうバッグ類に目が向けられて、ナイロン一辺倒から抜け出ても良いのではないか?

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