双輪生活

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6

イメージ 6

私のブログを長いこと読んでおられる方はお気づきと思いますが、1時間、2時間の自転車散策でも、必ず何か拾って記事にしています。「獲物」は必ずある。

今日は朝の晴れているうちに倉庫を片付け、頼まれた部品を発送して、昼ちょっと前に家を出て、追加の展示品を自転車で届けた。

途中、鳥が良く来る場所を抜けるのがわかっていたので、服は『地球色』で、午後は天気が曇ってきて雨という予報なので、自転車はローズにした。

日曜日と言うこともあって、アマチュアの野鳥撮影家がたくさん、大きいカメラと三脚を持って歩きまわっていました。

しかし、私から見ると、ちょっと違和感がある。白いダウンジャケットを着たり、ブルーや赤のウィンドブレーカーを着ていた。三脚はアルミのアルマイト色だし、カメラは巨大なレンズの付いた白だったりシルバーだったり。

鳥はじつによくそういうところを見ています。なにしろ飛んでいる蚊まで見えるのですから。

巨大な目玉のようなズームレンズや望遠レンズを向けられて、目立つ服を着ていたら、鳥から見たら怖いだろうと思う。

かつて、黄色いウィンドブレーカーを着て、ブルーと白のロードに乗っていた時、鳥にまったく近寄れなかった。

そういうものは『自然の中の異物』なのです。メカメカしいMTBも同様。

たとえば、小川のほとりに南部の黒い鉄瓶を置いても違和感はない。アルミの赤いヤカンやシルバーのヤカンは目立つ異物でしょう。

これは『デザイン・トレンド』とか、そう言う話ではなく、『自然と同化したいのか?』『自然と対立して自然に立ち向かいたいのか?』という話です。

フィルム・カメラ時代の名写真家のなかには、カメラから『金属っぽさを消すために黒い布テープを貼っている人もいた』。

私は『自然と共にありたい』と思うので、そういう自然に立ち向かうデザインは大嫌い。前にうちの自転車を「プラスチックのバケツのような色に塗ってくれ」という話がきて、そんな色は絶対にうちの自転車には塗りたくないと思った。

その人は英国の自動車にそう言う色があるので、「英国的」にやりたいと思ったのかもしれませんが、その色が英国にあったのは、そのクルマがトラックのシャーシーを使ってジープのようなものを作り、さらに余っていた塗料がそういう「ユーティリティーのもの用の塗料」だったということに過ぎない。

今日も、鳥たちが怖がって逃げまどい、三脚をもって鳥の後を追いかけて右往左往していました。

私は「地球色」の服で、自転車には枯れ枝そのもののバスケットが付いているし、カメラは3千円の黒い小さい無音のカメラ。私が少し離れたところまで自転車で動き、川辺を眺めていたら、カワセミが眼の前にやってきて、魚を狙い始めた。

自然の中に入るための道具というのはファッションではない。フライフィッシングの毛針にも近いものだと私は考える。

この記事に

初走り七福神

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7 イメージ 8 イメージ 9
イメージ 10 イメージ 11 イメージ 12 イメージ 13 イメージ 14

イメージ 14

今回の七福神めぐりは、いままでと少々やりかたを変えました。私はパターソンの絵の中でいつもパブで集うシーンが懐かしくて仕方がない。

じつは、英国ではいまだにそういう場所は健在です。細かい場所などをここで書くと『雑誌系の旅行者』に荒らされるので、どこかというのは書きませんが、パラゴン・レーサーズ・クラブはどこのティーショップ、ディクシ―・ホイーラーズはどこそこのパブと、「たむろす場所が決まっている」。

いまだに「店内はすべてパターソンの絵」というところもあります。クラブの基地ですから、草レースのトロフィーや写真なども飾ってある。

これは自転車にかぎらず、ほかのスポーツでも同じ。『キング・オヴ・ザ・テムズ』にはボートの連中が集まり、「ステージ・ドア・パブ」には俳優と演劇関係者が集まる。日本にはこれがない。ましてやフランチャイズのカフェでは絶対に不可能です。

さて、今年は江戸名所図会に出ている大栗橋のたもとのカフェで待ちあわせました。
「3日の日やってる?」
「やってますよ。11時から。」
無理に10時から開けてもらった(笑)。

橋は江戸時代の木の太鼓橋から鉄の橋になっていますが、丘の風景、道の曲がり具合など、目を凝らして想像力を働かせると、江戸、桃山、鎌倉、室町の風景がしのばれる。

そこでモーニング珈琲を一杯飲んで、山の上の天守台まで登る。参加者10名。うちの自転車に乗っている人は4名。途中、かって「どぶろく」を作っていた谷があって「どぶろくやと」と昔は呼ばれていたあたりをとおる。頂上には宮崎アニメの「耳をすませば」のなかの『告白の神社』がある。金毘羅さまの神社で、ここ数年のブームでいつのまにか「自動おみくじ機」が設置された。

ここからは新宿、中野方面から埼玉の方まで見渡せます。かつては敵の軍勢が攻めてくるのを見張るのに絶好の場所だった。いまだにその眺望は素晴らしい。

頂上から駆け下って、一宮神社まで。このまわりには用水路に小魚から鮒まで泳いでいて田園風景たっぷり。この神社、最初に記録に現れるのは772年の奈良時代のことです。平安初期の旧事本記にも出てくる。

かつてはこのあたり一帯は「吉富」と言われて、多摩川の運ぶ良い土に恵まれていた。天守台の向かいの山には武蔵国分寺の屋根瓦を焼いたあともある。

そこから今回は尾根伝いに走った。鎌倉時代、奥州へ向かう源勢が陣地を張った百草八幡の裏を抜けて高幡へ出る。そこからさらに平山へ。

今年は途中で昼飯。去年までは大急ぎですべてのお寺を巡り、1時半過ぎにお昼でしたが、今年は途中で食べた。かつてひいきにしていた小川さんの蕎麦屋と同じ屋号の姉妹店がある。小川さんのところはこのブログでも書きましたが『10インチ海老天丼』で有名でしたが、ご主人が倒れられてから店をたたんでしまった。こちらの姉妹店のほうは直径15cm、厚さ6cmぐらいのかき揚げが付くざる蕎麦が名物。ひとり10インチ穴子丼(勝手な命名です、笑)を注文。

同行の一人が「あっ!ここは良い匂いがする」と一言。すごく真面目な味。私は好きです。

今回は7か所巡って最後の御朱印をもらって1分ほど。「これで満願だ。じゃあ、満願カプチーノでも行くか」と言っていたちょうどそのとき、奇跡的な瑞祥が!

「R&Fさん。あそこ!見てください。」
雲の柱が七色の虹になっていた。雨でもないのに。彩雲とか瑞雲とか言われる吉祥です。目でははっきりと七色に見えたのですが、写真には写りませんでした(左端の写真)。

私は長い人生ではじめて彩雲を生で見た。そういうタイミングで彩雲が見られる確率はどれくらいなものか?

今年はみなさん神仏の御加護がありそうだ。

この記事に

闇から光へ

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

イメージ 4

私はだいたい毎年12月10日から25日ぐらいまでの間、なんだか沈鬱な空気に頭を押さえられている感じがする。日照時間も一年のうちで最短になっているわけで、365日自転車での生活を送っている私には、そういう自然の変わり目がひしひしと動物的に感じられるのかもしれない。

それが28日ぐらいからだんだんオレンジ色のパワーが入ってくるような気がして(爆)、31日から1日には、宇宙的というかコペルニクス的に宇宙が反転したかのような、くるっと世界が変わった感じがする。

何とも言えない『年が改まった』感じが、自転車で走っていると大気感にある。

これは生物として地球に生きている人間には、本能的に世界共通なのではないか?

1週間ほど前、クリスマスの日のエリザベス女王陛下の年頭のスピーチで、『光は闇の中で輝いている。そして闇はこれに勝たなかった。』というヨハネの福音書の一節が引用された。私のような『自転車族』には、これは体感的にピンとくる。

その一行が出てくる前には、ギリシャ哲学的な、言葉に命があった、この命は人の光であった、ということが書かれているわけですが、正統の解釈と違って、私はこれを逆に読む。

私がここにこうして文章を書いているのも、「命があればこそ」で、生命活動が文章を書かせ、ものを考えさせ、絵を描かせ、ものを作らせる。闇は生命の終わりであり、そこからは何も生まれない。言葉も出てこない。人の命は光のようなものという印象が私にはある。

もし、太陽の光がなければ、一切の生命活動は科学的にとまる。植物も動物も、太陽のエネルギーを受けて生命活動を続けている。

人間が頭で考えていることはみんな言葉で出来ているわけで、言葉を使わずものを考えることは出来ない。言葉がなければ、そこには感情しかないわけで、それなら子を思う感情も動物にもある。世界は言葉を使って認識されている。ねこもいぬも来年のことなど考えない。

その認識手段の部分を正しいものにしようと、哲学も宗教も出てきたわけで、私には東洋も西洋も、本質的な部分ではそれほど違ったことを言っているとは思えない。

西洋で、クリスマスと言えば「クリスマス・オレンジ」。これは太陽の象徴でしょう。日本の正月のお供えの蜜柑も、やはり太陽。その下に太陽の恵みである米で作った餅がある。その餅は、酷暑から稲を守り、雨をもたらす雲の形をしている。それは枯れることない緑の上に載っている。みごとな象徴だと思う。

そのオレンジや蜜柑は生もので、種がつまり、命が詰まっている。

そういうものを、宇宙の見えざる善なるちからにお供えし、感謝する。

私は昨今のお供え餅が白いプラスチックで、中に切り持ちが詰まり、蜜柑が空洞のプラスチックなのを見ると、ずいぶん形骸化しているように見えてしらける。

私は毎年、山の上のおごそかな星空の下から走り始め、5か所廻るのを自分の初走りとしていますが、毎年、人の活動は光だ、という思いを持ちます。

ここ数年、不景気で初詣の参拝客の列はどんどん長くなっている。時間も1時間以上余分にかかるようになりました。

私などは、「初詣がプラスチックの蜜柑」になっている世相を強く感じる。

クルマを飛ばし、スクーターを飛ばし、パーティー気分で大騒ぎ。おみくじを引き、「こうなりますように」みたいなお願いをして終了か?(笑)。

私が神さまなら「そんな都合の良いことばかり言っていて、オマエは昨年めんどうをみてもらった御礼に平素一度でも来たか?正月にここへ騒ぎに来るばかりではないか。オマエのお願い事などは後回し、一番最後だ』と言うに違いない(爆)。

まあ、それは人格者でない私の考えることかもしれませんが(笑)。

出来上がる自転車も、生き方も、みんな日頃の必然的な結果だろうと思う。ルーティーンの中で、いつしかプラスチックの蜜柑になってしまわないように頑張りたいと思う。私はたとえマーケットが安くて納期確実なプラスチック製が求められる世の中であろうと。

昔、ドイツ人の彼女とお寺へ行った。お参りの後で、
「あっ、いけない。お祈りを間違えたわ。」
「何を間違えたの?」
「良い演奏が出来ることと、私に今どうしても必要なこととは別のことだわ。」
「今の一言で、それは別の方向で聞きとどけられたと思うよ。それと君の深層意識にもね。」
その時の彼女の考えたことは、今年の私の考えでもある。

にぎやかな境内の一番奥の誰一人来ないところに、ひっそりと闇の中に障子が30センチほど開かれ、お堂の奥に、金色の大日如来の平安時代の像が光っていた。

この記事に

樹々と鳥の声と紅茶

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4 イメージ 5 イメージ 6 イメージ 7

イメージ 7

私はだいたいやる気喪失の時は1時間半ばかり自転車に乗ります。

それが出来るように八王子のはずれから今のところに移った。自転車に乗る者にとってどこに住むかは重要な問題です。

ドイツでは普通の人がサーキットへ行ってお金を払い入場して、レーシングスピードで飛ばしてウサ晴らしするシステムが人気がある。私はそういう中には、どこか「自滅的」なところと「破滅的」な部分が含まれている気がする。実際、それで命を落とす人も少なくない。

自転車の気分リセット方法は、ツーリング系であれば穏やかなものです。『サドルの上の瞑想』と言ってよい。あるいは古代ギリシャ式に言えば、『サドルの上のスコレー』。

不思議なもので、英国の森の中と日本の雑木林の中は同じ音がする。広葉落葉樹の音なのでしょうが、『森の声』のような気がしてならない。時には人間の10倍以上も生きる木々は、我々と生命のスピードが違い過ぎて声が聞こえないのかな?という気妙な感覚を起こす。じつに癒される。

うちには自転車乗りがよく来ますが、みんなそれぞれ悩みを抱えている。家に戻れば両親とも病気だったり、家族仲がよくなかったり、将来の不安だったり、仕事の悩みだったり、経済的な不安だったり。そういうものが一つもない人はまずほとんどいない。

ところが自転車にひとたびまたがると、もうそこは自分の世界なわけです。

鬱陶しい人間関係も、将来の不安も、ポストに溜まる請求書の山も、目減りする貯金も、仕事のストレスも、すべて関係ない。

『このまま、家に残っているものをすべてそのままに捨て去り、社会的な肩書きも地位も捨て、1年ぐらい放浪の旅に出てもよいな』と思うぐらいです(笑)。すべてを放捨して自転車出家(爆)。

人間の頭は2つのことを同時に考えられない。自転車に乗っていると、自分の考えていることで、孫悟空の頭の輪っかのように自分をキリキリ締めあげている日常的なものがとれる。それこそ自転車の素晴らしいところだと思う。

多くの人が、趣味の世界へ来て、会社でやっているのと同じことをやっているのをよく目にします。

「派閥をつくり」、「何歳でどのくらいの地位に登り」、「どのくらいの家に住まないと世間体が悪い」、などなど。そういうある種の「世間体へのアピール」のために、自転車は最高級のレア部品をつけないといけないとか、人より速く走らないといけないとか、人からうらやましがられるものを持とうとか、集まりやレースに出ないと肩身が狭いとか、それは会社組織に入ってやっていることと大差がない。

私などはこの歳になると、そういうことすべてが鬱陶しい。ストレスを溜めるしがらみから自分を解放し、本来の自分にもどるために自転車に乗るのではないのか?

私の写真の2号車はサドル以外はすべて『難あり部品で組んである』。ネットで買ったリアハブはネジが潰れ、リムはマビックでも安い方のオープンスポーツ、しかも黒塗装に傷がある。『使えばどうせキズがつくじゃないか」と自分で使う。ハンドルには凹みがある。「壊れる危険がなければいいじゃないか」。変速器はテンションが弱い。「変速技術があれば問題ない」。ペダルは「ジュニア車のものでカッコ悪い」と誰も欲しがらなかったもの。不具合はないし、まだまだ使える。

ありあわせのもので組んでも、それで香取神宮でも富士山でも行って快調なのだから困らない。

「こどもの残り物を食べて太る親のようだ」(爆)。

またがっていれば、ハブのグレードだの部品が高いか安いかなどは見えません。乗って快適ならよい。

今日は眺めの良いところに、誰が作ったのか、切株を置いたスツールを見た。「いいものを見せてもらった」と思った。このスツールが名のある陶芸家のものだったら幸福感が増すだろうか?私にはそうは思えない。このほうが「野趣があってよい」と思える。盗まれる心配もない。

今日は日曜日なので、街道ではロードレーサーの人をけっこう見た。不思議なもので、いままでにこういう小道で自転車乗りに出くわしたことが一度もありません。まあ、レーサーはこういうところを走る乗り物ではないし。

ここでは速く走ることは無意味。むしろ速く下ってしまったら風景が楽しめなくてもったいない。

落ち葉の上に道しるべのように山茶花の花が落ちている。タイヤの下で時々つぶしたどんぐりがパチパチはぜる。自転車ツーリストのみが知る感覚。

ゆっくりと走り、時にはあえて自転車を押し、眺めの良いところでおもむろにバスケットから小型魔法瓶を取りだして、鳥の声と樹々の何を言っているか聞き取れない声を楽しみつつ、ただ一人紅茶を楽しむ。収穫の終わった柿の木に、鳥のために残された柿が残っている。頭上でヒヨがなく。平和なひととき。

これ以上の気分転換は私には考えられない。

この記事に

イメージ 1

他の人のブログを見ていると、その人の生活範囲と深さがみえてなかなか興味深い。そうとうあちこちのお店に行ったりしていても「浅い人生」の感じの人もいるし、海外旅行の話を書いていても深さを感じない。

多くの場合、海外へ行くのも「変化」を求めているだけで、海底深く真珠を求めて潜るわけではない。第三者でも敏感な人は「ああ、これはブランド品のハンドバッグを持つのと同様、海外旅行へ行って高級レストランというブランドをひけらかしているのだな」と見えてしまう。

20年ほど前、ずいぶん世界を旅した英国人と、今はもうない高田馬場のらんぶるで、「Everywhere is nowhere」という話を二人でしていた。

人間も動物ですから、オリに入れられたり、狭いセメントの箱に住まわせられたり、理不尽な芸をやらされたりしたら不幸になる。まあ、だいたい多くの社会人はそういう生活を強いられているわけですが。

さらに国家や会社から「こういう思想と価値観を持ったこういう人間になれ」というようなこころの中まで縛られるようになったら不幸の極みでしょう。

旅に出ているつかのまのあいだ、日常から解放されているわけですが、学校の休み同様、その解放時間は終わりが来る。

『果てしなく遠くへ逃げだす必要はほんとうはない』。身の回りに満足のゆく小宇宙が形成されていれば。

日本のこの50年間の都市づくり、国づくりは私は正直なところ失敗であったと考えている。

リニア新幹線なんかいらないから、ヨーロッパのように分解せずそのまま自転車が積める列車を走らせろと思う。

「遠くへ逃げだしてゆかなくても、日々楽しい生活場所を作る」のが都市づくり、国づくりなはずで、イタリアにもフランスにも英国にもそういう都市はいくらでもある。

日本の大都市はどこも失敗しているのではないか?昨日、じつは山陰地方へ行った人のツーリングの写真を見せてもらいましたが、自然が残っているところは魅力的。都市開発されたところはことごとく『プチTOKYO』でまったく魅力がない。長野県でも『渋谷の偽物』とか『原宿の偽物』がたくさんあるのと似ている。「東京の衆にも負けねぇずら」「いや、そうじゃなくって、せっかくのよさが、東京と同じぐらい醜悪になってる」。

中野の名曲喫茶は、閉まる前、若い人たちで満員だった。ずいぶん汚かった。もし、今、高田馬場にあったウィーンの劇場の天井桟敷のようなアインがあったら、満員だったろうと思う。そういうところは少なくない。「昔は良かった」ではなく、本当の現実だろうと思う。私の友人が喫茶店へ入りたくなり、休日にわざわざ横浜から神保町の喫茶店へ行ったら満員で入れなかったといいます。

私は休日の多摩川が大嫌い。どこかの学校の運動会かバザーのようにがさつな感じになっている。私はあれに実によく似た風景を見ている。それはイランの公園なのです。あたりは砂漠・土漠で林も森も野原もない。そこで彼らは所狭しと、混雑した海水浴場のように、人工的な公園で家族でピクニックをしている。

多摩川もどんどん河岸をセメントで固め、公園化して、昔のような河岸でイモリやオタマジャクシの獲れるこどもが遊べる池はなくなった。私が小学生の頃は四手網をもって、そういう場所で遊んでいた。いまや多摩川の河岸からはイモリもカエルもほぼ全滅している。イランの公園のようになって、緑も消滅するのでしょう。

さて、そういう時代のなかで、何を気晴らしに、「生活に根を生やすか?」。

まずは「楽しませてもらう」受動的な生活をやめて「スマホ絶ち」(笑)本を一冊もって、自転車に乗り、前線基地となる喫茶店を探すことから。やがてはクルマで行けないようなところのうまい店。そこから足を延ばして風情のある細道、自然の残る道へ。

「出雲へゆきたしと思えども、、」あまりに遠く、行くまでの間に「興ざめ単調現代日本建築」をあまた見ないといけないので、大國魂神社へゆく。

「太宰府天満宮へゆきたしと思えども、、」あまりに遠く、菅原道真公の息子が建てた谷保天神へゆく。

じつは「どこへ行こうと、風景は自らの内なる鏡に映っている。」そこへ到達する時間の速さや乗り物の種類、豪華さには左右されない。実際の場所すら「こころのフィルムに写ったもの」。

一杯の美味いカプチーノはコモ湖畔で飲もうと、東京で飲もうと変わりはない。Everywhere is nowhere.

自転車のほうが「風景の本質」とヘルメットやカウリング、自動車のボディ、ゴーグルやサングラスで隔てられていない。より現実感があるのです。

エンジンの音で世界の微妙な音を聞き逃すこともない。

遠くへ速く行くばかりが能ではない。

遅い自転車で気ままにうろうろして『自分の人生時間』を取り戻せ。

この記事に


.


みんなの更新記事