さて何処へ行かう風が吹く

キチガイ博士の極論・暴言・妄語――自分の「修行」用の覚え書きです。関係者以外はお引き取りください。

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2011年から

2011年(から)のグローバル社会運動の特徴として、わたしはかつて、次の三点を指摘したことがある。

(1) グローバル連動性
(2) 情報ネットワーク性
(3) 再帰性=自省性

第四点目として、(一部の例外を除き)きわだった「非暴力性」を付け加えることができるだろう。

(4)非暴力性――「平和的な直接行動によって社会を変えることができる」という人びとの確信。

運動の共通の目標は「民主主義」と「経済的正義」の実現=現実化。目標実現のための手段は、非暴力的直接行動と公共空間の奪還・再構築。

もちろん、「公共空間の奪還・再構築」はたんなる手段ではない。それは一つのプロセスであると同時に、究極の目的でもある。つまるところ、それは「民主主義」の実現=現実化と同じことだ(「経済的正義」すなわち、万人に対するベーシック・ヒューマンニーズ(「健康で文化的な最低限の生活」)の保障と一定の経済的平等は、「民主主義」実現=現実化のための不可欠な条件であり、かつまた「民主主義」の結果でもある)。目的が手段を規定し、手段が同時に目的でもある(目的と矛盾する手段――たとえば暴力――は用いない)のが、今回の社会運動の特徴の一つでもある。まとめると、2011年のグローバル社会運動の到達目標は、

(5) 公共空間の奪還・再構築と民主主義の実現=現実化。――民主主義とは、もちろん、直接・参加・水平・包摂・討議民主主義、全員参加の「真の・リアルな」民主主義のことである。

(6) 経済的正義の実現=現実化。

「わたしたちは、みなさんが自分たちのもっているパワーを主張し、行使することを強く要請します。平和に集まる権利をみんなで行使しましょう。公共空間を奪還しましょう。わたしたちが直面しているさまざまな問題に取り組むために、民主主義的なプロセスを創造しましょう。だれもが参加し、享受できる解決策を、共につくりあげましょう」(「ニューヨーク市占拠宣言」2011年9月29日)
http://www.nycga.net/resources/declaration/



2011年のグローバル社会運動の概略を簡単にまとめておく。以下の文献等を参考にした。


FROM CAIRO TO WALL STREET:VOICES FROM THE GLOBAL SPRING, 2012


◆中南米

中南米の情報は日本ではあまり知られていないが、過去数十年間、中南米は社会運動が最も活発な地域のひとつであった。そもそもの始まりは、

「9月11日、私たちの国は自由の敵に襲われました」

1973年9月11日、南米チリでピノチェト将軍率いる軍部がクーデタを起こし、3000人以上の市民が殺害された。

米国上院特別委員会の調査報告書によれば「選挙でアジェンデが第一位となってから11日後の1970年9月15日、当時のニクソン大統領が、アジェンデ政権の成立はアメリカにとって受け入れられない、と当時のヘルムスCIA長官に告げ、アジェンデの大統領就任を阻止するため、軍事クーデタを起こさせることを提案した。合衆国政府は、反アジェンデ軍事クーデタを支援し、陰謀派を激励した」。

米国(CIA)に支援された軍事クーデタによるアジェンデ政権崩壊後、チリをはじめとする南米で(米国の「シカゴ・ボーイズ」投入による)「ネオ・リベラル」政策が試行的に実施され、その後、この政策とイデオロギーは1980年代以降の世界を席巻することになる。

※以下を参照(分配の再設計)。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/44622433.html

しかし、かつての強引な「ネオ・リベラル」政策の反動で、ベネズエラのチャベス大統領に代表されるように、(中)南米は2007年現在、すでに「反米大陸」と化している。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/53763338.html


中南米では2011年に「多くの運動がラディカル化した」。アルゼンチンの鉱山開発反対運動、ボリビアのベロモンテ・ダム建設反対運動、ペルー、カハマルカの鉱山会社に対する運動、ボリビアの国立公園内の先住民保留地(TIPNIS)を横断する道路建設反対運動、等々。「反米左派政権」の下でも政府の「開発主義」に反対する民衆運動は続いている。2011年5月には、大学のプライバタイゼーションに反対し、公教育を擁護する、コロンビアとチリの学生運動が盛り上がった。チリの学生運動は国民的な支持を集め、12月の世論調査では、回答者の89%が学生の要求を支持している。


◆アラブ世界

ネオ・リベラル政策による社会的排除、貧困と不平等の拡大、民主主義的な権利の否定が「アラブの春」に火をつけた。2011年1-2月には、チュニジアのベン=アリー政権とエジプトのムバーラク政権が倒れた。




◆欧州

2011年前半の最も注目すべき運動は、スペインのindignados(怒れる人びと)の運動だった。5月15日に始まった運動(15M)は、アラブの春と欧米の運動をつなぐ触媒の役割を果たした。
http://en.wikipedia.org/wiki/2011%E2%80%932012_Spanish_protests

特にマドリッドとバルセロナでは、都市中心部の占拠、抗議運動、近隣の住民全体集会が結合して「真の民主主義」を求める運動が拡大、左派政党を含む既成の政治システムを脅かした。運動の主な要求は、政治的エリートの特権剥奪、労働時間短縮とワークシェアリングによる失業問題の解決、住居に対する権利、医療・教育・交通等々の良質な公共サービスの実現、銀行・金融資本・大企業のコントロール(政府による金融機関の損失補填や大企業の課税回避の禁止)、税制改革(累進課税、トービン税の導入、等々)、市民権、個人の自由、参加民主主義、インターネット活動に対する国家の干渉禁止、情報にアクセスする権利、強制的拘束力のある住民・国民投票制度の確立、選挙制度の改革(比例代表制)、裁判官の独立、軍事予算の削減、等々であった。運動の形態としては、全員参加の討議による決定。スローガンは「われわれは商品ではない」「真の民主主義をいま」("We are not goods in the hands of politicians and bankers" "They call it democracy, but it isn't." "They don't represent us." "Real Democracy Now!")


◆米国

2011年秋からウォール街占拠運動が米国内の1000地域にまで拡大した。この運動の要求は、たとえば、次のようなものであった(「ニューヨーク市占拠宣言」)。

>巨大な不正に対する、ふつうの人びと(the 99%)の怒りや憤りを表明するために、私たちは連帯してこの自由の広場に集まりました。私たちを結集させた「敵」を見失ってはなりません。私たちが、世界の巨大企業の暴力によって不当・不正な扱いを受けたと感じているすべての人びとの味方だ、ということを知らしめるために、私たちはこの文章を書きました。

>一つにまとまった、ふつうの人びとの集団として、私たちは以下のように現実を認識しています。人類の未来は、人びとの連帯と協力を必要としています。本来私たちの権利をまもらなければならないはずのシステムが腐敗堕落したときには、個人個人が自分たちの権利と隣人の権利をまもるためにたちあがる義務があります。民主主義的な政府の正統な権力は、ふつうの人びとに由来します。けれども巨大企業は、人びとと地球から富を搾り出すために、人びとの権力に同意しようとはしません。社会のさまざまなプロセスが経済的権力によって決定されているとき、真の意味での民主主義を実現することなど、できるはずがありません。企業の利益を人びとの利益よりも重視し、正義よりも企業の私益を大切にし、平等よりも抑圧をめざす、そのような巨大企業が私たちの政府と政治を乗っ取り、私物化している時代に、私たちはみなさんの前にやってきました。私たちはこの広場に平和に集まります――平和な集会をおこなうのは、私たちの権利だからです。そして、私たちは、以下の事実をみなさんにお知らせします。

■彼らは、不法・不当な差し押さえにより、人びとの家を奪った。
■彼らは、人びとが納めた税金から、会社の免責付き緊急救済資金をぶんどった。それにもかかわらず、彼らは、会社の役員に法外なボーナスを払い続けている。
■彼らは、職場の中で、年齢、肌の色、性アイデンティティ、性的指向を理由に、不平等と差別を永続させた。
■彼らは、手抜きにより、食品に毒を混入させ、独占をつうじて農業システムを破壊した。
■彼らは、無数の動物を拷問にかけ、監禁し、残酷な取り扱いをすることから莫大な利益を得てきた。そして自分たちの行為を意図的に隠してきた。
■彼らは、労働者が、よりよい給料、より安全な労働条件を求めて交渉する権利を、たえず奪おうとしてきた。
■彼らは、教育を受ける権利(これは人権の一つだ)をもっているはずの学生に莫大な借金を負わせることによって、学生を人質に取った。
■彼らは、一貫して労働のアウトソーシングをおこない、アウトソーシングを労働者のヘルスケアと給料をカットする手段にした。
■彼らは、裁判所に影響力を及ぼし、人びと(自然人)と同じ権利――しかし、人びととは違って、有責性のない権利――を手に入れた。
■彼らは、お雇い弁護士チームに莫大な金を支払って、労働者の健康保険に関する会社の契約義務をのがれた。
■彼らは、私たちのプライバシーを商品として売りつけた。
■彼らは、出版の自由を抑圧するために、軍事力と警察力を用いた。
■彼らは、利益を得るために、生命を危険にさらす欠陥商品のリコールを拒否した。
■彼らは、彼らの経済政策がこれまでずっと破局的な失敗をもたらしてきたし、今ももたらし続けているにもかかわらず、経済政策の決定権を握っている。
■彼らは巨額の資金を政治家たちに寄付してきたが、その政治家が彼らを「規制」している。
■彼らは、私たちを石油に依存させ続けるために、代替エネルギーの開発を阻止してきた。
■彼らは、すでに巨額の利益を回収している投資を保護するために、人びとの命を救い、または人びとの苦痛を軽減する、ジェネリック医薬品の普及を妨害し続けてきた。
■彼らは、利潤を追求するため、石油の流失、事故、欠陥帳簿、等々を意図的に覆い隠してきた。
■彼らは、メディアをコントロールすることによって、人びとに間違った情報を与え、人びとを恐怖支配の下に置いてきた(ショック・ドクトリン)。
■彼らは、囚人が罪を犯したかどうかに関して重大な疑義が提出されている時でさえも、囚人を殺害するため民間の契約を受け入れてきた。
■彼らは、国内と国外での植民地主義を永続化させてきた。
■彼らは、海外で無実の民間人を拷問にかけ、殺害することに関与してきた。
■彼らは、政府契約を取るために大量破壊兵器をつくり続けてきた。


(続く)

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2012年5月8日の「宣言」

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「主権はいつも下から、恐怖を抱いている者の意志によって形成される」(ミシェル・フーコー)

「人びとがみずからを恐怖(感)から解放したとき、権力は生き延びられなくなる」(ハート&ネグリ)


――ファイナンス(銀行、金融資本)の権力が支配する今日の世界では、多額の借金を背負うことが、人びとの「一般的で普遍的な生活条件」となりつつある。今日の社会で借金を抱えずに暮らしていくことは、ほとんど不可能である。奨学金、学業のためのローン、家を買うためのローン、車を買うためのローン、等々。

社会のセーフティネットは、ローン(借金)が社会的ニーズを満たすための基本的手段となるにつれ、「ウエルフェア(welfare:福祉―よい状態で暮らしていく)」のシステムから「デトフェア(debtfare:借金を背負って暮らしていく)」のシステムへと変化した。

人びとは借金することによって生き延び、「借りた金は期限通り返済しなければならない」という重圧の下で暮らしている。今では借金が人びとの生活をコントロールしている。借金が消費(の量と質)、仕事のリズム、人生設計や選択を規定する。奨学金を借りれば、それを返すために卒業後の選択肢が狭まる。ローンを組んで家を買えば、その後の生活が(会社をクビにならないように、冒険はしないように、政治的発言や行動は避ける、無難に生きる、等々)決まってしまう。借金は、労働倫理と同様、人びとを労働社会に縛り付けるのだ。

だから、

「主体を取り戻すプロセスは、拒絶することから始まる。断る。私たちは、《君たちの》借金を返済する意志はない。借金のカタにした家から追い立てられてスゴスゴ出て行くことを拒絶する。緊縮政策には従わない。それどころか逆に、私たちは、君たちの――もとい、《私たちの》冨を」、豊かさを、繁栄を、成長と発展を、「共に創り出し、共に享受したいのだ」。

つまり、

「私たちはbondとかdebtという言葉に新しい意味を付与し、新しい社会関係を創り出したいのだ。借金返済の拒絶は、マネーの権力とマネーが生み出すbond(拘束、債務証書)を破壊し、破棄すると同時に、新しいbond(紐帯)と、新しい形のdebt(借り、相身互いの恩義)を構築することを目指している。そうすれば、私たちはますます水平的な関係を強め、お互いに《恩義》を感じ(indebted)合うようになり、カネによる拘束・束縛ではなく、社会的・共同的な紐帯によって結ばれるようになる」


――マイケル・ハートとアントニオ・ネグリが2012年5月8日に発表した「宣言(Declaration)」は、2011年のグローバルな社会運動とその歴史的な(「人類史的な」と言ってもいいかもしれない)含意に関する、理論的かつ政治的な文書である。



この文書のキーワードはコモン(common「共」)とコモニング(commoning「共に創り出し、共に享受すること」)。スローガンは、プライバタイゼーションを脱し「パブリックからコモンへ」。


ネグリとハートは、ネオリベラル・グローバリズムが創り出した危機に曝されている人びと(Subjective Figures of the Crisis)として四つのカテゴリーを析出する。

すなわち、

(1)the indebted(借金を背負った人びと)、

(2)the mediatized(メディアに支配された人びと)、

(3)the securitized(セキュリティ社会に組み込まれた人びと)、

(4)the represented(代行者に、主権=政治的主体性を乗っ取られた人びと)

である。

>ネオリベラリズムの勝利とその危機は、経済的および政治的な生活の諸条件を変化させた。それは同時にまた、社会的・人間学的な変化をもたらし、新たな主体=臣下像をつくりあげた。金融資本のヘゲモニーは「借金を背負った人びと」をつくりだした。情報とコミュニケーションのネットワークに対するコントロールは「メディア化された人びと」をつくりだした。セキュリティ体制と例外状態の一般化は「セキュリティ化された人びと」すなわち、恐怖におびえ保護を求める人びとをつくり出した。そして民主主義の腐敗は政治的決定から疎外され、脱政治化された人びと、すなわち「代表された人びと」をつくり上げた。

>これら四つの主体=臣下像は、抵抗と反乱の運動がその上で、そしてそれに対して、活動しなければならない社会的な領域=地平を構成する。運動は、これらの主体=臣下像を拒絶するだけでなく、これらの主体=臣下像を反転・逆転させ、みずからの独立を示し、疎外されたみずからの力――政治的なアクションの力を表現することができる主体を創り出さなければならない。

すなわち、

四つのカテゴリーは、同時にまた「危機を乗り越える主体」でもある。「危機に対する反乱」は、上述のようなかたちで「借金の意味を逆転」させ、さらにまた、自分たちの新しいメディア(ツイッター、フェイスブック、ユーチューブ、等々)――そして何よりもリアルで対面的な討議と身体的=精神的なコミュニケーションをつうじて(マスメディアや学校教育等によるコントロールから脱し)「真実を創り出し」、共同の力、連帯の力でじぶんたちのセキュリティを確保し「上からのセキュリティコントロールを脱して自由」になり、「みずからを民主主義的な政治主体(主権者)として構成する」主体形成のプロセスでもある。


ちなみに題名の「宣言」とは米独立宣言の「宣言」のことである。

>・・・従って、私たちは以下の三点が自明の真理だとみなす。すなわち、(1)すべての人びとは平等であり、「人びとはみずからの政治的な闘争をつうじて、譲り渡すことができない諸権利を獲得してきた」。これらの諸権利には、生命・自由・幸福追求の権利が含まれるだけでなく、「コモン(共有地・共同空間・共有財・協同知識等々、一般に自然と社会的歴史的協働の成果全体)に対する自由なアクセス権、平等な冨の分配に対する権利、コモンの持続可能性に対する権利」が含まれる。(2)これらの諸権利を確実なものとするためには、その正当な権限が「被治者(すなわち、ふつうの人びと)の政治参加と統治組織の透明性」に由来する民主主義的な統治機構(ガバナンス)を創設しなければならない。最後に、(3)いかなる形態であれ、政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには、それを改めまたは廃止し、新たな政府を創設し、人びとにとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え、その権力を組織することは、ふつうの人びとの権利である。

※米独立宣言(第二段)に括弧内の文言を付け加えたもの。(3)の「革命権」は1776年の独立宣言「そのまま」である点に特に注意。

コンドルセやジェファスンは「憲法は各世代により、そのつど創設され続けなければならない(each generation must create its own constitution)」と主張した。私たちは、げんざいの反民主主義的な憲法諸制度と、ふつうの人びとの常識(共通感覚)が要求する民主主義的ニーズ(経済的正義)とのあいだのギャップを、後者を実現=現実化する方向で乗り超えていかなければならない。前者が後者を妨げるのであれば、そのような政治システムを変革するのは私たちの権利であり、かつまた義務でもある。

2011年のグローバル社会運動における時間の自律。民主主義的な決定の速度は遅いが、これは外部の力(選挙、国際会議のスケジュール、そしてなによりも「経済の論理」)によって時間が他律的に支配されていないことの表れでもある。運動は、運動それ自身の発展(単一のリーダーも「中央委員会」も存在しない状態での、水平的な討議、相互教育、意見の表明、専門的知識の吟味と批判的検討、知識の創造と普及、意見対立の調整と交渉、政治的感情(affects)の共有、等々)に必要な自律的リズムを確立した。エンキャンプメント(野営)は、社会的・民主主義的な感情(身体的接近、強い協力の経験、相互の安全確保、集団的な討議、決定への参加、仲間意識の醸成、共に行動する喜び、等々)を生み出す「偉大なる工場」であった。

2011年の野営と占拠は、コミュニケーションの重要性を再発見した。フェイスブック、ツイッター、インターネット、その他のコミュニケーションメカニズムはたしかに有用である。しかしこれらの電子技術は、複数の身体が同じ場所と時間に、共に存在するという経験、集合的な政治的知性と政治的アクションの基盤をなす「身体的なコミュニケーション」に取って代わるものではない。

直接参加水平民主主義。代表は民主主義の手段ではなく、民主主義実現の障害物である。冨の権力、メディアの権力、セキュリティ機関の権力が代表民主制を、腐敗した現在の「アンシャンレジーム」に変えてしまった。代表民主制によって「代表される人びと」は、効果的なアクションをおこなう力を奪われてしまった。

2011年のグローバル社会運動の特徴

第一の特徴は運動の「定住性」。

十年前のオルターグローバリゼーション運動は「ノマド的」であった。人びとはサミット会場から次のサミット会場へと移動して、グローバルな権力システムの中心的諸制度(WTO、IMF、世界銀行、G8)が不公正であり反民主主義的であることを暴き出した。2011年に始まった運動のサイクルは、これとは対照的に「定住的」でローカルなものであった。

第二の特徴は、特定のリーダーがいないこと。あるいは、毎日のようにリーダーが交代すること。

カイロからマドリッド、アテネからニューヨークに至るまで、2011年の運動は組織のための水平的なメカニズムを創り出した。運動は、運動参加者が共に学びあい、共にリードし合う、民主主義的な決定の実践=慣行を創り出した。

第三の特徴は、コモンのための闘いであるということ。

2011年の運動は、ネオリベラリズムの不正義に反対し、そして究極的には、私的所有の支配に対抗する運動、コモンを求める運動であった。しかし、それは社会主義的な運動ではなかった。運動のサイクルの中で伝統的な意味での社会主義的な運動はほとんどみられなかった。運動は、私的所有の支配に対抗する運動であると同時に、公的所有の支配、国家によるコントロールに反対する運動でもあったのだ。

最後に、

運動は抑圧的な体制を拒絶するための手段である、というだけではない。運動は主体を構成するプロセスでもあるのだ。人びとは新たなかたちの自立共生と、経済的・社会的・およびコミュニケーション的領域での自治と安全を発見し、政治的代表の代行システムから脱け出し、民主主義的なアクションをおこなう共同的な力を再発見した。

これこそまさしく、現在の運動がすでに達成した成果の一部であり、さらに発展させることができ、かつ、発展させるべき成果なのである。


※お断り。ネグリとハートの文書はざっと通読しただけであり、まだ読解が不十分な点もある[特に訳文と訳語はまったくこなれていない]ため、あとで本ブログ記事の一部を訂正するかもしれません。興味のある方は直接英語原文を参照してください。わたしの拙い紹介文が捨て石となり、多くの人びとが原文を読むきっかけとなれば幸いです[いずれ、誰かが全訳するでしょうが]。「宣言」の三原則(自明の真理)が現実化することを切に願います。

※参考記事(選挙から占拠へ?)。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/65223487.html

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新たな時代の始まり?

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(5月22日、40万人以上の人びとがケベック州政府に抗議した。モントリオールの人口は162万人)


The police didn't intervene, because it couldn't intervene and stop a crowd of 400,000 persons, the largest demonstration in Quebec's history.

「いや実際、ケベックで現在進行中の運動は、まさしくカナダの『アラブの春』かも知れないんだよな」

マイケル・ハートとアントニオ・ネグリが「宣言」(注1)の冒頭(Take Up the Baton)で述べているように、2010年12月18日に始まったチュニジア「ジャスミン革命」以降、とりわけ2011年の「アラブの春」以来、世界各地で社会運動の竜巻が吹き荒れ、地球規模の「運動バトンタッチリレー」が次々とおこなわれている。

(注1)http://www.amazon.com/Declaration-ebook/dp/B00816QAFY


いま(5月23日現在)一番盛り上がっているのがカナダ、ケベック州の学生運動のようだ(つい十日ほど前はスペインの「一周年祭」だったが)。

「歴史の中には、世界中の人びとが『今の世の中はおかしい』と考え、変革を求めて立ち上がるように見える、そういう時期があるものだ。1848年と1968年の革命的動乱は、確かにそういう時期だった。おそらく2011年も、そのような年なのだろう。多くの国々で多くの人びとが、失業、所得分配の極度な不平等に憤り、システムが不公正であるばかりか、壊れているとまで感じた。1848年も1968年も、新しい時代の始まりを告げる年となった。2011年も、新しい時代の始まりを象徴する年となるだろう。・・・北アフリカの海岸にある小国チュニジアで始まった若者の反乱が、あっと言う間に隣国のエジプトに広がり、それが中東の他の国々に波及した(アラブの春)。抗議の火花はスペインやギリシアに伝わり、2011年秋には英国と米国のウォールストリートに広がり、そして世界中の都市を揺り動かした。・・・若者たちがマスターした新しいテクノロジーとソーシャルメディアが抗議行動を組織する上でも、抗議行動が急速に拡大していく上でも、大きな役割を果たした。新しいテクノロジーは、大勢の人びとを連携させ、みずからの不満や怒りを表現する新しい方法があることを理解させた。しかし抗議の背後にある不満は、昔ながらの不満であり、それが新しいかたちと新たな切迫性を帯びたものだった。私たちの経済システムはどこかがおかしい、そして政治システムも、経済システムの失敗を正すどころか、むしろ経済システムの失敗を強化しており、機能不全に陥っている・・・」(ジョセフ・E・スティグリッツ「世界が目を覚ます」in『カイロからウォールストリートへ――地球の春のさまざまな声』2012年5月刊―注2)

(注2)FROM CAIRO TO WALL STREET:VOICES FROM THE GLOBAL SPRING(EDITED BY ANYA SCHIFFRIN AND EAMON KIRCHER-ALLEN, 2012)
http://thenewpress.com/index.php?option=com_title&task=view_title&metaproductid=1869

"This is the first essential text of a new and remarkably dynamic era of social activism that has already brought profound change to the world." (Bob Herbert)

世界各地で連鎖反応的に起こった「運動の要求は地域によりそれぞれ異なりさまざまだが、一つだけ普遍的な共通点がある。それは、大勢の人びとの平和的なアクションをつうじて、リアルな変化をもたらすことができるという人びとの確信である」

Over a year of protests, strikes, occupations, and anti-austerity uprisings across the Middle East, Europe, and now America, one thing has become clear: the changing nature of technology is changing the way that ordinary people think, act, and organise politically.

テクノロジーの変化が、ふつうの人びとが考え、行動し、みずからを政治的に組織する方法を変えつつある。世界各国の政府は、今のところ、人びとの動きを予測したりコントロールしたりすることができないでいる。むろん、コントロールしようと懸命に試みているのだが。

The organised, dedicated people gathering around the new networks of dissent and popular protest radiating from Occupy Wall Street are largely "young, time-rich and digitally enabled -- and unlike previous generations of protesters, they are able to create and disseminate their own media and control their own messaging.(Laurie Penny)

運動の中核を担っているのは、「若者、時間的余裕がある人びと」(皮肉なことに失業者はその典型だ)、「デジタル技術を駆使する能力をもっている人びと」である。以前の世代とは異なり、かれらは、じぶんたち自身のメディアを自由に駆使して、みずからメッセージを創り出し、そのメッセージを瞬時に世界中に拡散することができるのだ。


――ネグリとハートの「宣言」および『カイロからウォールストリートへ』の紹介と感想は別の機会に書くことにして、本日はカナダの学生運動について簡単にまとめておく。以下を参照した。

http://www.occupytheory.org/read/we-didn-t-know-it-was-impossible-so-we-did-it-the-quebec-student-strike-celebrates-its-100th-day.html

http://www.france.attac.org/articles/attac-france-soutient-la-lutte-exemplaire-des-etudiants-et-des-mouvements-sociaux-quebecois

http://links.org.au/node/2870

ケベックの学生は今から三ヶ月前の2月23日に、ケベック自由党政府の政策(財務相いわく「文化革命」つまり、社会的連帯を破壊し尽くし、すべてを私有化・経済化・市場化・消費者化・個人化する政策)、5年間で75%の学費値上げ(4月の修正案では7年間で82%)案に反対して無期限ストライキに突入した。4月22日のアースデイにはモントリオールの街路に30万人以上の人びと(一般の市民、教師、労働組合、各種社会団体、社会運動組織等々)が集まり、学生の運動(大学の民営化・商業化、学費値上げ、奨学金の過重負債化、研究の多国籍企業と金融資本の利益への従属等々、新自由主義的政策に対する反対)を応援した。

※昨年来の運動の経緯概略

2011年11月10日、20万人以上の学生が一日ストライキに突入。2万人が街頭に繰り出した。

2012年2月23日、30万人以上の学生が無期限ストに突入。

5月14日、学生代表との交渉に失敗した教育大臣(Line Beauchamp)が辞任。

5月18日、ケベック州議会は「法律78」という緊急特別法を採択。これは大学を夏まで閉鎖し「大学付近でのデモ、運動参加の呼びかけを禁止し、罰金を科すことにより、警察の介入を容易にする」法律である。「言論の自由」および「集会結社の自由」弾圧法だ。教育大臣によれば、ツイッターやフェイスブックで呼びかけるだけでも犯罪、抗議の意志を示す赤い四角のマークを身につけるだけでも犯罪になるという。

5月22日、ゼネスト100日目を迎える。

直接民主主義・参加民主主義・水平民主主義の原理にもとづく「学生総会(general assembly)で毎週、"再生可能なゼネスト"を維持するための投票がおこなわれてている」そうだ。


――最後に、『カイロからウォールストリートへ』のまえがきの一部を紹介しておく。

「アラブの春」に始まる一連のグローバル社会運動を描いた「最初の重要なテキスト」(Bob Herbert)である本書は、現在の新しい「新しい社会運動」の特徴として、「大衆の平和的なアクション」によって「リアルな変化」をもたらすことが可能だという、人びとの「新たな確信」を挙げている。そして「共通の要求」として、「民主主義と経済的正義の実現=現実化」があるという。

つまり、いまの世界は民主主義的でもなければ、公正でもないということだ(わかりきったことだが)。

「所得、教育、力の不平等」が、解決すべき「世界全体に共通の問題」となっている。われわれは悪循環の世界に暮らしてる。「金持ちはますます金持ちになり、政治的な力を拡大している。彼らは政治的な力を用いて、じぶんたちにかかる税金をカットし、政府のサービス(教育を含む)を縮小する」(新自由主義がそのイデオロギー、緊縮政策もそのあらわれ)。「富が力を生み、力が富者をますます富ませる」金権支配のシステム。そして金持ちは、かつてもっていた(かもしれない)社会に対する責任感(ノブレス・オブリージュ)を急速に失いつつある。彼らは「次のヨットや自家用飛行機」のことばかり考えている。

Money speaks with a loud voice in politics. Campaigning typically relies on expensive advertising and large spending. Yet my theory is that in the age of social networking -- Facebook, Twitter, YouTube, and more -- it will be possible to run effective campaigns on the energies of committed people, without vast sums. In other words, in the new network age, commitment and truth can outpace money and greed.

1%の支配(「マネーと貪欲」)に対抗して「世界中の若者たちが、この地球を新しい軌道に乗せようとしている。新しいリーダーの世代が、いま生まれつつある。新たな進歩的社会運動が始まったのだ」(Jeffrey D. Sachs)

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ベネズエラの左翼知識人

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エドガルド・ランデル

2012年6月20日から22日にかけて、ブラジルのリオデジャネイロで「リオ+20」国連持続可能な開発会議(地球サミット2012)が開催される。日本の外務省のサイトによれば、

(1)リオ+20の目的は、持続可能な開発に関する新たな政治的コミットメントを確保することです。

(2)また、リオ+20のテーマは、(ア)「持続可能な開発及び貧困根絶の文脈におけるグリーン経済」及び(イ)「持続可能な開発のための制度的枠組み」となっています。リオ+20の成果文書は、「焦点を絞った政治的文書」となることが期待されています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/rio_p20/gaiyo.html

1999年12月のWTOシアトル総会に対する抗議運動(注1)、2001年1月25日から30日まで、ブラジルのポルト・アレグレで開かれた「世界社会フォーラム」(注2)以降、各種の国際会議には「対抗フォーラム」――「市民の団体や運動組織」による、「考えを深め、アイデアを民主的に話し合い、提案をまとめ」るための、「公開された討議の場」(世界社会フォーラム憲章)――が形成され、ウェブ上での討議と幅広い意見交換がおこなわれるようになった。「リオ+20」の「対抗フォーラム」は、「ふつうの人びとによるサミットを建設する」「リオ+20ポータル」。http://rio20.net/en/

(注1)1999年12月シアトルで開かれたWTO閣僚会議に10万人といわれる各国NGO・市民が押し寄せ、一部エリートだけで進める「上からのグローバル化」政策(ネオリベラル・グローバリズム)に激しく抗議。その結果、各国代表の利害対立を激化させ、会議は流会に追いこまれた。

(注2)公式HPは、http://www.forumsocialmundial.org.br/
ウィキペディアによる解説。http://en.wikipedia.org/wiki/World_Social_Forum
世界社会フォーラム憲章(日本語訳)。http://www.kcn.ne.jp/~gauss/jsf/charter.html


――さて、ここからが本題だが、先日「リオ+20ポータル」に「a new historical period?」という題名の論文が掲載された。題名を全部日本語に直すと「新たな歴史時代の到来?――文明の危機、地球環境の限界、不平等、民主主義に対する攻撃、永続的な戦争状態、そして、抵抗に立ち上がる人びと」。著者はベネズエラのエドガルド・ランデル。
http://rio20.net/en/documentos/a-new-historical-period
わたしが読んだPDF版はこちら。http://rio20.net/wp-content/uploads/2012/02/A-new-historical-period_Edgardo-Lander_english.pdf

この論文は、もともとは2012年の2月に発表されたものらしいが、わたしは本日(5月21日)この論文を通読した。たいへん面白かった。以下は「さわり」の部分の拙訳。

>私たちは今、無限の経済成長と、地球上の生命を可能にする諸条件に対する系統的かつ組織的な戦争努力に基づく、人間中心主義的で、モノカルチュア的で、かつ家父長的な文明パターンの最期的危機を経験している。人間の「幸福」を物質的な財の蓄積と無限の経済成長というモノサシで測り、科学とテクノロジーの力によって「自然」を支配する文明――資本主義がその究極・最大の現れである――は、いまその終局の縁に達しつつある。その破壊的なダイナミクス、生活のすべての諸次元の商品化は、この文明パターンの存在を可能にする諸条件を急速に掘り崩しつつある。資本主義はその蓄積パターンの再生産の条件として永遠の経済成長を必要とするが、経済成長を永遠に続けることは明らかに、資源が有限な地球上では不可能なことである。資本主義が、新たな領域を併合し、新たな共有財を搾取=私物化し、他者の知識を強奪し、生命のコードを操作し(バイオテクノロジー)、物質のコードを操作し(ナノテクノロジー)、資本主義自身の限界を突破しようとすればするほど、みずからの破壊的なダイナミクスを深め、みずからの限界=破滅への接近を加速化するのだ。

>・・・今日私たちが直面している問題は、資本主義がその最期的な危機にもかかわらず生き延びることができるか否かではなく、私たちが短期間のうちに資本主義という組織的系統的な地球破壊マシンに終止符を打つことができなければ、資本主義の最終的な崩壊後に(いずれ崩壊することはわかりきっているのだが、その必然的な資本主義崩壊の後に)人類が生き残ることができなくなる、という問題(=資本主義と人類の共倒れ「心中問題」)なのだ。

上記論文「新たな歴史時代の到来?」の構成は以下の通り。

(1)ヘゲモニー的(支配的・覇権的)文明パターンの危機
(2)環境危機と地球の限界
(3)広く深く拡大しつつある不平等
(4)民主主義に対する多重攻撃
(5)グローバルな権力関係の再配置と米国の一国主義的帝国権力の衰退
(6)米国の軍事的なヘゲモニーと永続的戦争状態
(7)運動に立ち上がる人びと

著者のエドガルド・ランデルは2011年12月に「緑の経済――羊の皮を被ったオオカミ」という題名の論文を公表している。「リオ+20」主流派の「持続可能な開発」(「弱い」エコロジー的近代化路線)、とりわけ「グリーン経済」(グリーンニューディール、緑の資本主義論)に対する痛烈な批判である。
http://www.tni.org/sites/www.tni.org/files/download/green-economy.pdf


「新たな歴史時代の到来?」と「緑の経済――羊の皮を被ったオオカミ」の内容紹介は別の機会に回すことにして、本日は(これだけウェブ上に露出しているにもかかわらず)日本ではまったく知られていない(紹介すらされていない?)エドガルド・ランデルについて簡単にまとめておく。以下を参照。


エドガルド・ランデルはカラカスにあるベネズエラ中央大学の社会(科)学の教授。著名なベネズエラの左翼知識人で、2006年のカラカスにおける世界社会フォーラムの主要組織者の一人。チャベス大統領に対しては「建設的批判」の立場を採る。以下のような題名の本をスペイン語で書いている。『現実に存在するマルクス主義の批判――真理、科学、テクノロジー』『科学とテクノロジーと政策争点』『テクノロジー社会における民主主義の限界』『ネオリベラリズム、市民社会、民主主義』。専門領域は、ラテンアメリカ政治、ベネズエラの政治、近代社会科学知識のヨーロッパ中心主義および植民地主義的性格の批判、民主主義理論、産業文明と経済成長の限界、チャベスとベネズエラ、ラテンアメリカの左翼。

※エドガルド・ランデル「21世紀の社会主義と民主主義」(YouTubeの映像)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=oOQQkqwgm2o

Edgardo Lander, professor of sociology at the Central University of Venezuela and a Fellow at the Transnational Institute, discusses socialism and democracy in the 21st century at the Fifth Annual Human Security Forum hosted by the Centre for International Studies at Cape Breton University on November 4 and 5, 2011. The forum was titled “Life After Capitalism: Imagining an Alternative World.”
Visit the CIS website at http://cbu-cis.ca/

わたしと問題関心が重なる(特に経済とテクノロジーの反民主主義的性格の強調)上に、ラテンアメリカではかなり重要な理論家のようなので、ランデルについては、もう少し調べてみたい。

いずれにせよ、日本の情報が米国発の情報(操作)と経済(金融資本)中心主義・テクノロジー中心主義に極度に偏っていることだけは間違いない。わたしたちが、学校やマスメディアから入手する知識や情報は、世界のごく一部(まったくの虚偽ではないとしても、一面の真理)しか捕らえていない。ギリシア情勢に関する報道などは、その最たるものである。

世界には「見る気がない節穴」(その代表例:科学者専門家・エコノミスト)には見えないものがたくさんある。

(続く、予定)

※追記。帰りの電車が止まっている間に「緑の経済――羊の皮を被ったオオカミ」も通読した。これは面白い。リチャード・スミス以来の痛烈な批判だ。紹介記事をいずれ書く。

リチャード・スミス論文(定常状態資本主義論批判)については以下の記事などを参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/tessai2005/63999617.html
(経済成長なしの資本主義?)

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2010年代の若者の「脱物質主義」?

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――ネットから拾った「若者の意見」です。

>戦後アメリカ文化の影響を克服しつつある私たちの世代は、物質主義にはもはや染まってはいません。「高級車に乗っていれば女性に好かれる」ような時代ではなく、むしろそんな女性は避けたい時代なのです。シンプルに物を愛でることで、誠実に生きていくこと。クルマは今、本質的価値を提示しながら、この新しい価値観に基づいた人生の道筋に寄り添う努力が求められているのです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120515/232039/?P=3&ST=spc_henkaku

>長らく若者のクルマ離れが叫ばれています。しかし私を含め若者は、そもそもクルマに近づいてなどいないのです。

>最も大きな要因は、「買うお金がないから」ではなく、「必要がないから」です。なぜ必要ではないかと言えば「公共交通機関が発達しているから」となるでしょう。しかし私の真意はそこにはないのです。私は、他人や自然環境に迷惑をかけてでも手にしたい欲求と規範とを天秤にかけるのです。

>クルマに乗れば、交通事故で人を殺すかもしれません。排ガスは自然を破壊するかもしれません。維持費は他の支出を圧迫するでしょう。それにも関わらずクルマが欲しいのであれば、買えば良いでしょう。お金がなければ貯めればよいでしょう。けれども私には、これらのデメリットを越えるほどのメリットが感じられないのです。コンコルドがその速さ以上に環境に負荷をかけることによって進化の袋小路に入ってしまったことを想起せざるを得ないのです。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120515/232039/?P=2&ST=spc_henkaku

――わたしが十年ほど前に「クルマ断ち」をした最大の理由は、「首都圏で厳格に交通ルール(特に駐停車のルール)を守れば、これほど不便で費用効果の悪い乗り物はない」ということでした。クルマは本来、米国のような「田舎の乗り物」なのでしょう。都会では、こんなにカッコ悪い乗り物はない。都会のドライバーは、老人・女性をふくめ、みんなジコチュー(事故駐、自己中)の「無法者」になっていく。。。

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