日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情

キリスト教や聖書について、日本ではあまり論じられない視点から解析していきたいと思います。

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プログレッシブ・キリスト教の水面下での浸透:欧米から日本へ(8)

イエスとは誰か:保守とプログレッシブの見解の違い

さて、Benjamin L. Corey博士を含め、必ずしも全てのプログレッシブ・キリスト教徒に支持されているわけではなさそうな珍妙な教えをする教師たちはさておいて、プログレッシブ・キリスト教のもっと本流に近い思想に容赦なく切り込んでまいりたいとおもいます。(K・Fさんゴメンネー!)

社長訓示を聞く社員、聞かない社員

ところで、あるたとえをさせていただきたいと思います。

あなたはある会社の社員だとします。年度の初めにあたって、社長が全社員に向けて訓示をしました。その訓示は、以下のように構成されていました。

1)会社の歴史。創業家の出身地、当初の事業、草創期の幹部社員たちの活躍など
2)今後の事業環境の推移、強力な競合他社の状況など
3)社員がとるべき行動への指針。

社員Aさんは、社長を心から尊敬し心酔しており、一語一句聞き逃さず、すべて暗記するほどでした。

社員Bさんは、やはり社長を尊敬していることはしていたのですが、1)は「どーせ昔の話でしょ!」と適当に聞き流し、2)は「またそんなネガティブなこと言って!そんなのこれからのオレらの頑張りでどうにでもなるって、チョロイチョロイ!」と真剣に受け取らず、3)だけは記憶しておきました。

さて、これを聖書とキリスト教徒にあてはめてみましょう。

1)は創世記その他のモーセ5書とイスラエルの歴史
2)は預言(特に、終末に関する預言)
3)は新約聖書にあるキリスト教徒への指針です。

保守派キリスト教においては、1)も2)も3)もそれぞれ神の言葉であり真正なものと考え、それを土台に、慎重に全ての神学を構築しようと試みます。

プログレッシブ・キリスト教においては、1)は伝説?ホラ話?イスラエル民族の正当性を主張するためのプロパガンダ?考古学的証拠はいっさいなし?と却下され、2)に至っては「アレ?そんなんあったっけ?・・・まあ、きっとなんかの『比喩』でしょ、『比喩』。気にすることないって」ってなノリです。

そして3)の「ごく一部」をとってきて「イエーイ!これがオレらの生き方だぜ!かっけーだろ!」と高く掲げ、同意しない他のキリスト教徒をジロっと睨み「ねえおたく、これ守ってないの?そんなんでシリアスなキリスト者って言えるわけ?」とつぶやきます。

そして、ひそひそと「あいつら『キリスト教』じゃなくて『聖書教』な?おっかしいよな、え?ほら、『教会ごっこ』やってるぜ、『教会ごっこ』。プーッ、クスクス」とささやきあうのです。

まあ、人が何を信じようが全く自由ですし、少々バカにされたところで面の皮の厚い筆者には何てことありませんが(苦笑)。

しかし、ここに大きな問題があります。

こういったプログレッシブ・キリスト教の立場は、イエスが「稀代の大嘘つき」あるいは「迷信家」であると仮定しなければ、到底成立しません。

ぶっちゃけ、この立場は、「まあうちの社長知ってのとおり大ぼら吹きだから。話半分に聞いとこうぜ」とうそぶきながら、なおかつ同時に「オレこそ社長の意向を最も理解した忠実な社員だ」と胸を張って内心他の社員を睥睨しつつ、社長が言っていることの文言内容を自分の判断で勝手にトリミングして、「なあ、これって社長の意向なんだから従わなきゃダメだよ」と同僚に告げるようなものです。

果たしてそんな同僚がいたらあなたはどうしますか?同意しますか?それとも社長の本当の意向を自分で確かめようとしますか?

筆者はこういった点に、プログレッシブ・キリスト教の最大の問題を感じるのです。

では、具体例を以下に挙げてみましょう。

イエスは旧約聖書を信じていたか

プログレッシブな主張においては、旧約聖書というものはそれ自体、時代が古いためその記述が信頼できない、あるいは根拠のない神話であるといった見解がありますがそれはほかならぬイエス自身の発言と大きく矛盾するものです。

これは、なにも高度な神学知識などまったく必要ない、きわめて簡単な作業で確認できます。

まずはマルコ福音書10:6 。
しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

おや?創世記を「神話」と決め付けたりする人もいますが・・・イエスは、神が人を男と女に造った創世記1-2章の記述を真実だと思っていたようです。これは彼らとは相容れない見解です。

マタイ福音書
23:35それは、義人アベルの血からこのかた・・・

創世記に出てくる人類の2世代目、アベルは伝説ではなかったのでしょうか。どうもイエス自身はそうは思ってはいなかったようです。

また、プログレッシブな立場ではノアの方舟をギルガメッシュ叙事詩のパロディと示唆したり、アブラハムを実在の人物と考えるキリスト教徒を揶揄する場合もありますが・・・・

24:37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 
24:38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 
24:39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。 

イエスはノア洪水「伝説」が実際にあったことだと信じていました。プログレッシブな立場にたつならイエスという人物はなんともはや迷信深い無知蒙昧な人物であったということになります!

ヨハネ福音書からも見てみます。

8:56あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」 
8:57そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」 
8:58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」 

イエスは、ある種のひとたちが断言するように「アブラハムは伝説」であるという「事実」を知らなかったのでしょうか。それとも、知っていて、嘘をついたのでしょうか。不思議ですねえ。

ルカ福音書にもこのような立場の人たちを容赦なく裏切るイエスの言葉があります。

17:28また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、 
17:29ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。 
17:30人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。
17:31その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。 17:32ロトの妻を思い出しなさい。 

おやおや、イエスはアブラハムの甥でモアブ人やアモン人の先祖ロトが実在すると考え、ソドム滅亡の逸話も史実だと信じていたとは!これは由々しき問題です。ロトの妻が「塩の柱になってしまった」という「迷信」を「思い出しなさい」・・・?困りましたね。

旧約聖書の解釈について、イエス自身は全然「プログレッシブ」でもなんでもないようです。むしろゴリゴリの「保守」に近いのではないでしょうか?

もう答えは明らかです。

自らはイエスを信じ、イエスに従っている、と主張するプログレッシブな立場は、イエスを迷信家、偽り者と断定しながらそうしているという極めて混乱したものになってしまっているのです。

そもそもイエスは誰なのか、キリストとは何なのか

プログレッシブな立場からは「いや、イエスは旧約聖書のごく一部分は引用したかも知れないが他の部分は無視している!きっとイエスは旧約聖書が捏造されたのを知っていたに違いない!」という反論があるかも知れません。

しかし、ここで筆者はそもそもの議論をぶつけてしまいましょう。

もしも旧約聖書が捏造だというなら、イエスは一体誰なのでしょうか?

ハッキリ言いましょう。そんな主張に立脚していたらイエスは「キリスト」ではありえません。むしろ、イエスは「ニセ文書」に基づく「ニセキリスト」だということになってしまいます。

旧約聖書がなければ「キリスト」も存在しえません。なぜならキリスト(メシア)とは、プログレッシブ的概念でもヒューマニズム的概念でもなく、すぐれて旧約聖書的な概念だからです。

イエスの弟子や信者たちは、イエスが旧約聖書の各所に預言されたメシアの条件を満たしていたからこそ彼を信じたのです。

ではそもそもイエスはいったいどんな存在だと思われていたのでしょう?

それを一挙にわかりやすく説明してくれる箇所がヨハネ福音書の最初のほうにあります。

1:19ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。
1:20彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。 
1:21また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」
1:22そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
1:23彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」
1:24彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。
1:25彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」
1:26ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。
1:27その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」
1:28この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。
1:29その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊
1:30私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。
1:31私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」
1:32またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
1:33私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
1:34私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」
1:35その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。
1:37ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
1:38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」
1:39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。
1:40ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
1:41彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。
 1:42彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」
1:43その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われた。
1:44ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
1:45彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:48ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
1:49ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です

これらの強調箇所から、洗礼者ヨハネ、そしてその弟子たちのうち、後にイエスの弟子となる幾人かやその友人たちはナザレ人イエスについて以下のことを信じていたことがわかります。

1)彼は「主(ヤハウェ)」から遣わされるために洗礼者ヨハネが道を備えた何者かであり
2) 世の罪を取り除き
3)メシア(油注がれた者)と認められ、
4)「神の子」とも称され
5)イスラエルの王として治める。

上記1)〜5)についてイエスを信じていた彼らの根拠は、何も彼らが勝手にひねり出したものではありません。全て、全てが律法、預言者、諸書からなる旧約聖書から来ています。(「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」。)

もっとも、プログレッシブの立場のみならず、無神論やイスラム教の立場からも、「いやいや、それは弟子たちや周囲が勝手にそう期待していただけであって、イエス本人は自分がそんなものだとは思っていなかったのだ」といった反論があります。

しかし、こういった各種の称号はイエス本人も認めていたことであることは福音書の各記述から明らかです。

まずは1)の点。

マタイ福音書
11:7この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
 11:9でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
11:10この人こそ、
『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』
と書かれているその人です。

洗礼者ヨハネはイザヤ書から、イエス自身は出エジプト記から、と引用箇所に違いはありますが、イエスは「洗礼者ヨハネは自分のために道備えをした者である」ことを認め、洗礼者ヨハネの証言に呼応し、これが真実であることを確認しています。

2)の点。

マタイ20:28
・・・・・人の子が来たの[は]・・・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・・」

3)と4)の点。

マタイ26:63-64
・・・・「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。・・・

キリスト、はメシアのギリシャ語です。

そして5)の点。

マタイ27:11
・・・・総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。

これらはほんの例に過ぎません。イエスは、ヨハネ福音書の冒頭で周囲が信じていたとおりの存在であったことを自分で知覚していました。

そしてそれぞれの称号には、福音書を表面的になぞるだけではわからない含意があります。旧約聖書のそこいらじゅうに預言箇所が埋もれているからです。それら一つ一つを点検していたら膨大な数になるでしょう、今後の投稿で出来る限りお分かちしていきたいとは思っていますが。

それは、ちょうど「ラピュタ」に出てくるような古代建築物遺跡の中にびっしりと根を張った木の根のようなものです。

そして、モーセ五書、預言書、諸書を建築物とたとえるならば、これらはそれぞれてんで勝手に建っているのではなく、古い物を土台にし、その上に新しい物が建っています。

これらの全ての文書は、天地創造、堕罪、楽園追放、洪水、バベルの塔、アブラハムの召命、イサク、ヤコブへの約束の継承、出エジプト、律法の授与、士師記、サムエルとダビデの活躍、王国の分裂と堕落、捕囚期前後の預言・・・・と、後の文書が前の文書を参照したり根拠にする形でひとつひとつ積みあがってきたもの。

イエスはその背景のもと活動し、その背景から導き出される「メシア(キリスト)」として弟子たちは彼を信じたのです。

それを考慮に入れないと、いつか取り上げた山崎和彦師のように、黙示録のイエスは「子羊」だから戦わない、といった、わけのわからない珍妙な解釈に行き着いてしまいかねません。

子羊は、上記のとおり、イエスの重要な称号です。しかし逆に言えば多数ある称号の一つ、なのです。

イエスはいったいどんな存在なのかを把握するためには、山崎氏がしているように新約聖書の何箇所かをチョチョッと覗いただけで結論を出すことなど到底できないのです。

次回は、プログレッシブ神学では決して触れられないメシアの実相にさらに分け入っていきます。

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