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フリードマンとガルブレイスを超える21世紀 (エコノミスト 2006/12/19号)
2006年は・フリードマンとガルブレイスが亡くなった年として記憶されるだろう。新年を迎えるに当たり、すべて1こ対照的だった2人の思想と足跡を考える。
伊東光晴(京部大学名誉教授)
2006年、アメリカは第二次世界大戦後の経済学界でその名を逸することのできない2人の経済学者を失った。1人は11月16日、その死が報じられたミルトン・フリードマンであり、もう1人は、4月29日に世を去ったジョン・ケネス・ガルブレイスである。ガルブレイスは97歳、フリードマンは94歳。ともに高齢であった。2人はある意味で、ともに異端であり、社会に大きな影響を与え、対照的な仕事をした、歴史に残る人物である。
戦後の前半は、ガルプレイスの活躍の30年であった。しかし、後半の30年の社会的文脈はフリードマンに味方した。ガルブレイスの3大著作をはじめ、社会に大きな反響をよんだ著作は前30年間のものであり、彼が強い関係をもった政治家であるジョン・F・ケネディ(元大統領)もジョージ・マクガバン(元上院議員)もこの時代の人であった。
対するフリードマンは、1980年代に入ってアメリカでロナルド・レーガン大統領が、イギリスでマーガレット・サッチャー首相が登場するなか、それまでのジョン・メイナード・ケインズに代わって時代の経済学者になった。
私がガルブレイスを知ったのは、主著『ゆたかな社会』(58年)によってであり、フリードマンのそれは、やはり06年2月5日に亡くなった都留重人・元一橋大学長を通じてであった。
50年代の半ば、韓国で李承晩大統領(当時)が反対派を弾圧していたころのことである。フリードマンが日本に来て、ぜひとも日本の著名なマルクス経済学者「ウノ」に会いたいと言っている、君は宇野弘蔵さんに面識があるから伝えてくれ、と都留先生から言われた。
だが、宇野さんは、フリードマンと議論するのを固辞された。フリードマンが別のマルクス経済学者をというので、横浜国立大学助教授だった長洲一二さん(後に神奈川県知事)にお願いした。そして、フリードマン、長洲さん、都留先生と私の4人で会った。
フリードマンの“ユダヤ人としての”信条
フリードマンは話の半ばから、東欧におけるユダヤ人について、その人間的自由が抑圧されていることについて、長洲さんに質問を続けた。長洲さんは極東軍事裁判で通訳として働いたこともある見事な英語で応じていたが、なにしろ東欧の現状についての知識がないため、一方的に押されていた。そこで都留さんが日本語で「李承晩のことを言え」とささやいた。とたんに長洲さんは李承晩治下の韓国のことを話しだした。具体的に、いかに思想弾圧が続いているか、反対派を投獄しているかを述べ、話は逆に一方的になりだした。そして食事で中断された。
フリードマンは私に向かって、良きマルクス経済学者を紹介してくれて感謝すると言った。日本のマルクス経済学者は「自由」を尊重している。自分はユダヤ人だ。ユダヤ人は、ヒトラー治下で、ソビエト体制下で、東欧で、抑圧され続けてきた。西欧でも差別されている。個人的自由はユダヤ人の心からの叫びである。そのためには、市場以外、人々を律するものがあってはならない、と。
この時まで私は、フリードマンについては、消費関数の形状についての論文以外、知識がなかった。彼のいう市場の自由の重要性が、彼らユダヤ人以外には理解できない重い体験に支えられていることを、初めて知ったように思った。
だがそれから二十数年後、主著『選択の自由』(80年)のテレビ版冒頭で、カリフォルニア州の広大な自宅を背にして、両手を広げ、選択の自由があるならば貧しい出身でもこのような家を持つことができる、というフリードマンの姿を見た時、かつてフリードマンに感じた親愛の心は消えていった。そこには、東欧から逃れるために貨物船の底で病に冒された同胞への思いもなく、貧困のなかで死んでいった同胞への涙もない。競争に勝ち抜いた実業家の成功物語のようで、幻滅を感じた。
ガルブレイスは「技術の進歩が社会を変える」
フリードマンにあっては、イデオロギーと政策とが直結している。自由な市場が最も良いというイデオロギーがまずある。そして、それを実現するための政策が提起されるのである。それは、分配をおいて問わないならば、自由な市場は資源の合理的配分を実現するというパレート最適に基礎づけられた新古典派(主流派経済学)のように、理論によって基礎づけられた自由な市場論ではない。重い体験によって導かれたイデオロギーとして、自由な市場をよしとするものである。
これに対して、ガルブレイスの体系はどのようなものであろうか。ガルブレイスにあっては、現代の資本主義の特徴を形づくるものが、ファクト・ファインディング(事実の発見)として摘出される。新古典派の経済学者が前提する消費者主権に基づく消費の選好は、そのような形では存在せず、生産者による広告・宣伝によって操作されている。彼が『ゆたかな社会』でいう依存効果――消費が生産によって動かされている――である。
市場は需給によって価格が決まる第一次産品などと、大企業が計画的に生産体制を作り上げ、価格をコストによって決める市場とがある。この後者の市場の実証が大著『新しい産業国家』(67年)である。こうした企業体制を支えるのが、高度な専門知識をもつテクノストラクチャー(専門家集団)であり、経営における権力の所在は、経営者からこうしたテクノストラクチャーに移りつつあると同書はいう。資本家から経営者、そしてテクノストラクチャーへである。それは株主主権を強く主張するフリードマンと対照的である。
ガルブレイスはさらに、生産の拡大は、利潤を生む分野に資本と資源を集め、それと無関係の公共分野は立ち遅れる。そして社会資本の立ち遅れ、公教育問題、環境問題等々「社会的アンバランス」が生まれる、とした。
ガルブレイスの考えは、アメリカで制度学派を創始したソースティン・ヴェブレンの流れを汲むものと位置づけられる。制度学派の特徴は、経済現象を歴史的に発展するもの、進化するものととらえ、その基礎に技術の進歩があるという考えを持ち、その変化の時代的特徴を取り出し、それによって社会を改善する方途を見いだそうとするものである。
ガルプレイスにおいてもしかりである。それはフリードマンのように、まずイデオロギーがあるというものではない。歴史的現実の重要な一面の把握である。それがその時の主流派経済学への批判となっている。
主流派経済学が、人々の嗜好を与えられたものとみなし、それによって静学的理論を展開しているのに対して、ヴェブレンは衒示的消費論――消費には合理的選択とはかけ離れた他人への見栄のためのものがある――を展開した。それはアメリカの19世紀最後の四半世紀――モルガン財閥やスタンダード・オイルに代表される巨大企業が金融操作で生まれ、とてつもない富者が生まれ、彼らが富を競い合ったいわゆる「金メッキ時代」の社会批判であった。ガルブレイスはこうした考えを20世紀後半のアメリカ大衆社会に移し、操作される消費を依存効果として理論化し、静学的需要曲線の^前提を批判したのである。
ガルプレイスにあっては、技術の進歩が大企業体制を生み、企業の生産体制を計画的に組織化し、専門化していく。彼が『新しい産業国家』であげた乗用軍生産ひとつをとってもいい。どのような新車を作るか。将来を見ての市場調査から始まり、専用機械の製作をはじめ、大量生産によるコスト削減のために、各分野の専門家が協力し、生産体制から販売体制までを計画的に組織化していく。ガルブレイスの大企業体制論は、現代の大企業の実証的分析のう又に立っている。
それは、企業の内部組織、内部構造をとらえず、「資本と労働を組み合わせて生産を行う」場合、最も効率的な組み合わせは何か、とだけしか考えない新古典派の理論と対照的である。それで現代の産業社会の生産ができると主流派の経済学者は考えているのであろうか。
大企業体制が計画化、組織化を試みようとするのは、企業内組織だけではない。大量生産の結果としての生産物の市場についてもしかりである。それが、コストに応じて価格を決めるという価格政策であり、また企業による需要確保のための広告・宣伝であり、後者が依存効果をつくり出すのである。こうした考えを持つガルプレイスは、前述したように、多元論の価格論1-価格がコストによって決まる市場と、第-次産品のように需給によって決まる市場という2分法――をとる。
こうしたガルブレイスの考えが特異でないことを知るためには、英国の経済学者、ジョン・ヒックスに注目する必要がある。ヒックスはアメリカの主流派経済学者から、自分たちの理論の基礎を作り上げた人物と考えられている。だが彼は、自由な価格の動きが経済均衡の中心と単純には考えていなかった。60年代以降のいわゆる「後期ヒックス」は、経済の歴史的変化に注目している。
20世紀に入って、製造業は巨額の固定的資本を必要とする生産体制に入り、同時に製品差別化が進行した。これらは、市場での需給の調整を、価格から生産数量の調整へと変化させだした。そして社会を全体として見るならば、第一次産品のように、仲買人が価格をつけ、需給が価格で調整される市場と、製造業のように生産者がコストに応じて価格を決め、需給の調整を生産数量の調整で行う市場とがあるという価格論2分法をとった。
歴史的変化の認識→多元的価格論という点で、ヒックスはガルブレイスと同じ線上にある。これに対して、歴史的変化の認識のない新古典派とフリードマンは、需要・供給による価格決定の一元論である。
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ガルブレイスはメディアタレントと称されて評価が低いですね。
私の頃は第三の波などがヒットした頃ですが、晩年の評価はイマイチでしたね。
2010/6/6(日) 午後 1:57