千時千一夜

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 滝神社の紹介です(写真1〜7)。
 社頭案内板の由緒には、当社は「伊奘諾、伊弉冉尊を祀る」、以前は「熊野白山滝神社」という社名だったと書かれています(写真8)。社名のことはおくとして、一般参詣者は、ここに「瀬織津姫命」がまつられているなどとはまったくわからない表示です。一関・滝神社にも、どうやら「陰気」が漂っているようです。
 もう一つの由緒を記載する『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁編)も読んでみます。

瀧神社
  旧社格 村社
  鎮座地 一関市滝沢字下(舘下…引用者)一〇八番地
祭神 伊奘諾尊・伊弉册尊・瀬織津姫命
例祭 九月九日
由緒
 延暦十年(七九一)坂上田村麻呂東夷征伐の折、磐井郡司安倍黒人が田村麻呂に従い追討のため荒滝に来て賊を討ち、住民を安んじた。この時白山大神を桂峯に、熊野大神を延寿原に奉祀した。寛治二年(一〇八八)熊野大神を桂峯に奉遷して熊野・白山二神を合祀した。
 また大同年間(八〇六〜八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安し、後この三神を合せて一村の鎮守とした。
主要建物 本殿 神明造二坪、拝殿 八坪、神楽殿 八坪
境内神社 八雲神社
境内地  六、三五四坪
氏子   四一〇戸
崇敬者  一、三〇〇人
宮司   欠員〔後略〕

 延暦八年(七八九)における朝廷軍の歴史的大敗のあと、坂上田村麻呂は、延暦十年(七九一)に征夷副将軍(征東副使)に任命されます。このとき、当地に白山大神と熊野大神をまつったようです。その後、彼が征夷大将軍に任命されるのは延暦十六年(七九七)で、蝦夷[エミシ]の首魁阿弖流為[アテルイ]や母礼[モレ]を滅ぼすと、延暦二十一年(八〇二)には胆沢城を築いて北上しています。田村麻呂は、延暦二十三年(八〇四)に再び征夷大将軍に任命され陸奥国へやってきます。白山大神と熊野大神の先行祭祀では不足だったのか、このときに祓戸大神が追加祭祀されたようです。
 由緒が記す歴史時間を追走しつつ神々の祭祀を重ねると以上のようになりますが、由緒の祭神欄に記される伊奘諾尊・伊弉册尊と由緒内容中の白山大神・熊野大神の対応関係がはっきりしないものの、瀬織津姫命を祓戸大神とみなすことができるのは神道の一般常識といえましょう。
 ところで、社頭の案内板の末尾には「昭和六十三年十一月二十六日」と書かれていて(写真8)、名鑑の発刊は奥付によると「昭和六十三年六月十日」ですから、案内板の作成者(表示は「滝神社社務所」)は、祭神の一神を「瀬織津姫命」とする名鑑の記載を知っていたとおもわれます。もっとも、名鑑の発刊時点では、滝神社宮司の項は「欠員」となっていて、これも謎めいたことになってきますが、ともかく、案内板の作成者(新宮司?)は、意図的に「瀬織津姫命」を表示しなかったようです。
 拝殿の扁額には滝神社ではなく「熊野白山瀧神社」とあり、三社三大神の祭祀を今も主張しているようです(写真5)。熊野大神・白山大神・祓戸大神の三大神の祭祀というのは、ある意味、とても豪華・贅沢な祭祀で、全国的にみてもここ一社かもしれません。
 名鑑の由緒は、「大同年間(八〇六〜八一〇)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮祭して神威を仰ぎ滝神社を奉安」と記していました。坂上田村麻呂が「賊徒の強暴」を鎮めるために「祓戸大神」の神威に頼ったことがわかりますが、その真偽はおくとしても、ここには、祓戸大神と滝神が同神であることが書かれていて、さりげない記述ではあるものの、これはなかなかの神認識だといえます。
 また、熊野大神・白山大神・祓戸大神をまつっていた「熊野白山瀧神社」が、現在「瀧神社」一社に社名が統合されていることも示唆的といえばいえます。少なくとも、これら三大神の中心神は滝神・祓戸大神ということなのでしょう。
 すでに明かされているように(『円空と瀬織津姫』)、その本源祭祀においては、熊野大神も白山大神も、滝神・祓戸大神(瀬織津姫命)と異神ではありませんから、二つの由緒が説明を避けているにしても、「熊野白山瀧神社」を「瀧神社」一社に統合表示することで、祭神相互に齟齬が生じることはまったくありません。
 案内板作成者(新宮司?)が、せめて「瀬織津姫命」という神名を消したくなったとしても「むべなるかな」といったところでしょうか。
 本殿上に咲きかけていた山桜が印象的でしたが(写真7)、灌木林の参道傍らに、一服の清涼を感じさせるカタクリの花が番[つがい]で咲いていたのも印象的でした。桜とカタクリが同時に開花するというのは、エミシの国ならではです。

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