千時千一夜

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その後の「桜谷の社殿」──「狂」の神から「大福」の神へ

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 江戸期の「北」の探検家・松浦武四郎(一八一八〜一八八八)は「蝦夷地[えぞち]」を北海道と命名した人物ですが、彼は若い頃には九州も歩いていたようです。松浦が高千穂を訪れたときの紀行文には、高千穂・天真名井の地(桜谷)に「高山末、短山の末と唱る丘あり」、「其下に早川の瀬、桜の瀬などといふ小川あり。また瀬折津姫の社もあり」と記されています(「西海雑誌」、ブログ「梨の木平の桜」にて紹介)。
 高千穂の桜谷の地にも瀬織津姫祭祀があったことの意味はことのほか大きいです。
 大淀川の源流部の桜谷には、昭和二十年(一九四五)まで「社殿」があったが、同年の「大暴風雨に、桜谷の社殿は崩壊」したと記していたのは『末吉郷土史』でした。
 その後、この「桜谷の社殿」は再建されたのか、もし再建されているとしたなら、その祭神はどう表示されているのかが気になって、末吉(曽於市)の教育委員会に問い合わせてみました。
 結論からいいますと、社殿は平成二年(一九九〇)に再建され、紹介いただいた檍神社の神職氏によりますと、年一回祝詞を唱えるのみだが、社名は「桜谷神社」と呼んでいる、祭神は記録がなく不詳とのことでした。
 四十五年めにしてやっと再建された桜谷神社ですが、社守をしている方にも「氏神さん」以上の神名は伝わっておらず、瀬織津姫という神の置かれている歴史的立場をあらためておもうことになりました。
 神名不詳の桜谷神社は天岩戸の前にあります。正確には、天岩戸と対面するように社殿が設置されていて、参拝者は天岩戸にお尻を向けて拝むかたちとなります。つまり、桜谷神は天岩戸内のもうひとつの日神と対面していることになりますが、これは、神名不詳であるにもかかわらず、桜谷神が日向姫=向津媛(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の性格をもっていることを示唆しています(写真9)。
 さて、この桜谷の東の山を越えたところを南に流れる安楽[あんらく]川の、現在の花房峡のあたりがかつての「上津瀬」でした。そこには明治四十二年まで「上津片加男神社」がありましたが(同年、檍神社に合祀)、『三国名勝図会』(一八四三年)は、この社の祭神について、次のように記していました。

上津片加男神社上津瀬にあり、祭神三座八十狂津日神、表津少童命、表筒男命是なり。勧請の年月詳ならず。

 記紀における瀬織津姫神の貶称神名である八十禍(枉)津日神の「禍(枉)」では足りずに「八十狂津日神」と、あえて「狂」の字をあてているというのは、実は『三国名勝図会』に限っても、ここ(上津片加男神社)だけではありません。
 たとえば、「西霧島在所六所権現社」(現在の霧島神宮)の末社の項を、次のように記しています。

七社明神社 本社の末にて、本社の兌方二里川北村にあり、祭神八十狂津日命、神直日命、大直日命、天伊佐布玉命、天表春命、天背男命、経津主命。

 筆頭祭神に掲げられるも「八十狂津日命」はここでもみられます。この嫌悪を込めた貶称神名を瀬織津姫神にもどしてみますと、この神が霧島山の原祭祀(天孫降臨神話に準拠する前の祭祀)とも無縁ではない可能性が示唆されていて、逆説的な意味で、これは貴重な記録とはいえます。
 ここで、『三国名勝図会』の性格について少しふれておきますと、この書がもっている「皇国史観」の問題があります。これは、「書紀は、万世の正史なり」、「書紀は、皇国の古史第一の正書なり、是を破りて誤りとせば、皇国の事跡、日月地に墜ると斎しきなり」といったことばに端的に表れています。図会にみられる、書紀(日本書紀)の記述を絶対軸とする史観・思想の徹底性は半端ではありませんし、本書は藩撰によるものですから、この史観・思想は薩摩藩のものでもあります。
 図会は、日向・大隅・薩摩三国の地誌の記述においては比類のない正確さが認められるものの、一方、かなりの社寺に言及してもいて、薩摩藩の江戸末期における社寺調べの様相さえ呈しています。
 こういった薩摩藩の皇国史観・皇国思想の下で、書紀の記述を「破りて誤り」と指摘しかねない瀬織津姫という神の存在・祭祀が無事に通るはずもなく、それが「狂」の表記となったといえるかもしれません。
 しかし、これまでの本ブログ記事においても折々にみてきたように、瀬織津姫神への嫌悪による貶称(ときには「神の消去」)は、一人薩摩藩に限定されるものでないことはいうまでもありません。
 全国的にみれば、以下は氷山の一角のような事例にすぎませんが、日本の神道世界が瀬織津姫神(異称神名を含む)に対して、具体的に、どのような対応をしてきたかをいくつかみてみます。
 まず「狂」の女神の追加事例──。写真1の左・三所社は明治二年の「旧藩神社明細牒」、右・六所社は明治十五年の「大分県神社明細牒」記載のものですが(大分県立図書館所蔵)、三所社は「八十狂津日命」、六所社は「八十狂日命」とあります。「狂」の表示は、鹿児島ばかりでなく、大分にも確認できます。
 その他、全資料ではありませんが、明治期の神社資料を通覧しますと、「狂」の女神とはされなかったものの、旧豊後国の国東郡に限っても「八十枉津日神」の祭祀が六社、旧豊前国の宇佐郡(の一部)にしても四社みられます。宇佐神宮の神領地地域に、この神の祭祀がかつて集中していたことは何を意味しているのか、興味深いものがあります(大分全県の資料に広げて通覧するなら、八十枉津日神あるいは撞賢木厳之御魂天疎向津媛命といった瀬織津姫の異称祭祀社数はさらに増えることでしょう)。
 アマテラスとスサノオの「誓約[うけひ]」神話で誕生したとされる三女神でしたが、なかでもタギツヒメの代わりに瀬織津姫神が三女神の一神としてまつられているのが出水市・厳島神社でした(鹿児島県「宇佐・宗像神としての瀬織津姫神」参照)。
 瀬織津姫と異称同体とみてよいタギツヒメの、明治期における受難の実例もみておきます。
 大分市に豊後国一之宮を主張する神社が二社あります。一社は西寒多[ささむた]神社、もう一社は柞原[ゆすはら]八幡宮です。明治二年の「旧藩神社明細牒」には、柞原八幡宮には「湍津姫命」が主祭神格でまつられていました。なぜそれがわかるかといいますと、由緒の覧に、次のように明記されていたからです(写真2)。

欽明天皇之御宇八幡大神豊前宇佐ニ降臨之砌 神勅ニ因テ湍津姫命ヲ此地ニ移祭シテ柞原大神宮ト称シ奉ル 今ノ御社ハ天長四年比叡山延暦寺僧金亀和尚宇佐神ノ霊験ヲ蒙リ奏聞ヲ経テ承和三年三月〔中略〕新ニ社殿ヲ建立〔後略〕

 この由緒通りの祭祀がもし展開されますと、宇佐神宮の比売大神は湍津姫命とみなされかねません。タギツヒメと瀬織津姫神は至近の関係にありますから、このことを認識している当局の神祗関係者(たち)が、これを許すとはおもえません。案の定といいますか、明治二十三年の「神社明細牒」からは「欽明天皇之御宇八幡大神豊前宇佐ニ降臨之砌 神勅ニ因テ湍津姫命ヲ此地ニ移祭シテ柞原大神宮ト称シ奉ル」という創祀伝承とともに湍津姫命の名は消え(消され)、天長四年(八二七)の分霊勧請説、つまり、現在へとつづく勧請・由緒表示が定まります(写真3)。柞原八幡宮は自社の最重要な神および由緒の消去を代償のようにして、県社から国幣小社へと社格が上昇してゆくことになります。
 柞原八幡宮にみられる明治期の類例はほかにもあることですが(北海道「樽前山神社」参照)、社格上昇とは結びつかないものの、瀬織津姫(祭祀)の露骨な消去実態の「現在」を鹿児島県の神社にみておきます。
 昭和十年、鹿児島県神職会によってまとめられた『神社誌』(扉に「不許出門可深秘」の一行、鹿児島県立図書館所蔵)には、旧藩時代(明和五〜六年)の神社調べの記録と昭和十年時の「現神社明細帳」が対比できるように並記されていて、興味深い資料となっています。このなかにみえる、旧肝属郡東串良町池之原に鎮座する廣田神社(写真4・5)には、その社名からも想像できますが、天照大神荒魂がまつられていました(写真6、オレンジ線は筆者)。
 ところが、社を実際に訪ね、境内の案内をみますと、そこには「荒魂」が削除され、ただの「天照大神」と表示されています(写真7)。これでは、天照大神荒魂こと瀬織津姫神ではなく皇祖神・アマテラスが祭神とされていることになります。
 西宮市の廣田神社本社でさえ「天照大御神荒御魂(御祭神の御名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉る)」としているのに、これはどういうことだろうと疑問が湧いてきますが、廣田神社社標の裏には、次のように刻まれています。

祭神天照大神
  御大典奉祝記念
    平成二年書

 桜谷神社の再建も平成二年(一九九〇)のことでしたが、この碑文の意図するところは、現天皇の即位を記念して、当社は天照大神(アマテラス)をまつるというものでしょう。もし祭神名が「天照大神荒魂」のままだとしますと、「御大典奉祝記念」の一行は成り立ちませんし、あるいは皮肉とも受け取られることになります。皇祖神・アマテラスを背後から脅かす最たる位置にいるのが「天照大神荒魂」こと瀬織津姫神ですから、この神を消去してこそ皇祖神の安泰を図れるというのが、廣田神社社標碑文の本義です。
 荒魂(瀬織津姫神)を削除し祭神をアマテラスで通したいのならば、まず社名を変更し、鳥居は神明鳥居に変え、本殿の千木も外削ぎから内削ぎ(内宮仕様)に変更するくらい徹底すべきでしょうが、この小手先の「御大典奉祝記念」と「祭神天照大神」のセット表示は、「陰気」を突き抜けて「滑稽」の域に達しているようです。
 しかし、かくして、瀬織津姫神(天照大神荒魂)は、この現代においても削除・消去の対象神でありつづけているという事実は、まずだれよりも天皇自身が重く受け止める必要があるのかもしれません。
 さて、「狂」の女神から、いくつか「陰気」な事例を羅列してきましたが、最後に逆の例を一つ紹介します。
 大分県安心院[あじむ]町上内河野に鎮座する六社明神は、明治二十三年の「大分県神社明細牒」では「大禍津日命」ほか五柱をまつると記載されていましたが、『安心院町誌』(昭和四十五年)では「大福津日[おほさきつひ]命」と表記されています。瀬織津姫神の名を出せないならば、せめてもという気持ちがよく表れている神名変更です。
 町誌は「大福津日命は幸福をめぐむ神である」と説明していて、かつての大禍津日命から大福津日命への変更表示は確信的行為であることが読めます。
 京都・下鴨神社の境内社・井上社(御手洗社)の瀬織津姫神は「御手洗団子」ゆかりの神でしたが、安心院ではどうやら「大福」の神様のようです。「幸福をめぐむ神」が、一方では「狂」の神とされる日本の神社世界です。(鹿児島・大分関連資料・写真:日向の白龍)

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