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修験道 その1

 修験道  92年2月著 その1

(これを書いてから25年も経て、今では内容を変えるべきと思う箇所も多い。
 私は、これを書いた当時、修験道が密教であり、それは利他行よりは利己行の性格を帯びたものであり、大多数の民衆の幸福を祈念するという大乗仏教というより、むしろ個人的救済を求める小乗仏教の性質を強く持っていたと考える。
 学問的には密教は大乗に包摂されているが、私は誤りであると考えた)
 

 日本の高峻山岳に初登の栄誉を求めて登った岳人や測量者たちは、人跡未踏と思われていた日本屈指の険しい山々、例えば北アルプスの剣岳などでさえ、苦難の登頂に成功して喜んだのもつかのま、山頂にまさかと思われる修験道の遺物を発見して愕然とした。

 私自身、20年このかた日本全国の数百の山を歩いた経験からいっても、どの地域の山へ行っても、山岳信仰やその痕跡を見いださない場所はないといっていい。このことは、おおかたの山歩き愛好家が同意されるであろう。

 日本ほど豊かな食糧をもたらしてくれる山野に恵まれた地域は地球上に決して多くないのだから、山岳地帯に人間生活に伴った歴史的遺物が多く残されていても全然不思議でないのだが、それにしても隅から隅まで、よくもこれほどの宗教遺産が存在するものだと感心できるほど多く、かつ古い伝統をもっているのは、山岳信仰こそ日本文化の特異な本質に関わるものといえるかもしれない。

 そのような意味で、山岳信仰については民俗・考古学者の関心を集め、これまでにも優れた研究書が多く出版されているが、一般受けする面白さには欠けるので、山旅を好む人々に読まれることも少なかった。

 だが、山旅愛好家が、単に歩くことに満足するのでなく、人と山との歴史的な交歓の視点に気づくようになると、自然の野山にすぎなかった光景の背後に、山岳信仰の巨大な歴史的骨格がおぼろげに見えてくるのである。

 それは、まるで、路端のつまらぬ石コロがダイヤモンドの大きな原石であることを知ったときのように感動的である。そこには、麓の里人にさえ知られぬ謎に包まれた特異な宗教的風景があった。
 また、それは日本国家の成立にも関与した考古学上のミステリーも含んでいる。山岳信仰こそは、柳田国男が最後までこだわった縄文式文化の継承者としての日本先住民(山人)の謎に迫るものであるともいえるかもしれない。


 先史、古代史から

 おそらくは数十万年も前からインドネシア・ジャワ島付近にあったはずの巨大島に棲息したと思われる人類の祖先(ホモエレクトス・ピテカントロプス)の子孫の一群は、ユーラシア大陸東部を北上してモンゴロイドとなった。

 また別の一群は、黒潮海流に流され、あるいは航行して北上し、台湾・南西諸島や日本列島東岸沿いに棲みつき定着した。ここで、リス・ウルムの氷期に接続した大陸から渡来した人々と混血を重ね、今日、縄文人と呼ばれる日本先住民になったと考えられる。

 海洋系ともいえる縄文先住民の外見上の特徴は、乳児の蒙古斑が少なく、ねばっこい耳垢をもち、体毛が濃く、四角い顔に大きな目と二重瞼をそなえ、その彫りは深く、額と鼻の間の明確にくぼんだ特徴をもった人々。
 性格は、あまり我慢を好まず即物的であるが、ツングース地方で寒冷地適応を受けた騎馬民族系モンゴロイドに比較すると、対照的にひどく気が小さく、優しい。

 だが、一方で古い時代から食人習慣をもっていたのは、一種の離脱精神に陥りやすい、つまり暗示にかかりやすい特徴があったからのように思える。

  台湾山岳部や南西諸島、隠岐島などの離島、あるいは中部・東北の日本海側の山村に、いまだこの形質を色濃く残した人々が大勢いる。アイヌ民族もまたそうであるが、むしろ、これらの人々は、アイヌと総称しても誤っていないほど、言語・地名・民俗など古代アイヌ文化に包摂されていた。

 彼らのうち、さらに北上したものはアイヌ族として北海道・千島・樺太に定住し、また、その一部はベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に流入し、今度は南下して南アメリカにまで進んだ。今日、インディアンと呼ばれる南北アメリカ大陸先住民がそうである。

 アルゼンチンやチリには多くの縄文遺跡が発掘されていて、これがベーリング経由か、太平洋経由なのかについては議論が分かれている。 原住民の形質は縄文型日本人とほとんど変わるところがない。

  だが、現在のようにラテン形質が普通になってしまったのは、近世のスペイン人による残酷な侵略によるものであって、コーカソイドの形質が移入されから、まだ400年ほどしかたっていない。

 縄文人は、海岸から深く野山に分け入り、日本列島中北部の落葉樹林帯のなかで小規模な集団で採集遊猟の生活を営んでいたと考えられ、石器の材料や食料を求めて、非常な奥地にまで生活圏をひろげていたことが知られている。(たとえば、八ツ岳周辺は、縄文石器文化の一大中心地であった)

 彼らが深い山奥で、天を突く高峰に神秘的な神格を見いだしたであろうことは想像に難くない。
 しかし、言語記録のない時代ゆえに、当時の山岳信仰を正確に調査するのは困難である。今日知られる縄文信仰遺跡は、各地で発掘される土偶や骨角器・石板などの呪具、信州周辺で見つかる配石遺跡などがあげられるが、その具体的な意味はよくわかっていない。

 紀元前五世紀から紀元三世紀にかけて、米作農耕生活を基本とし、高度な漢字記録文化を身につけた大陸モンゴロイドの弥生人や騎馬民族が、黄海や朝鮮半島からやってきて日本列島南西部(九州・山陰・瀬戸内海沿岸・畿内)の常緑広葉樹林帯の湿原平野に流入し定着すると、彼らは稲作文化にともなう土俗信仰をもちこんだ。

 弥生人とは、3000年ほど前に、雲南・チベット・ブータンの山岳高地に居住していた人々が、楊子江下流の呉越地方に勢力圏を広げ、その後、2500年前の呉越戦争などで日本に避難した人々の末裔ではないかと私は考える。

 彼らの最も基本的な特徴は、モチ米系の稲作を主作物とし、アクの強いドングリをもつ照葉樹林帯に依存して生活した人々であって、背負い型ではなくテンビン型の運搬をし、イロリではなくカマド型の炊飯をし、極めておおらかな性生活(例えば夜這い習慣のような)をエンジョイし、歌垣を楽しみ、法や道徳に縛られない自由な生活風俗をもっていたと考えられる。

 人相は、タイのミャオ族に見られるように、大きなぱっちりとした目、厚い唇、丸い顔、鼻梁上部は凹み、鼻のアグラは大きい。全体に小柄で、性格は天真爛漫で心も広いが放縦である。 西日本から太平洋岸で一般的な顔立ちであろう。

 今日、四国山岳地帯や愛知・静岡県山岳部に特異的に見られる山岳高地の尾根に設けられた家屋に居住する木地屋やサンカの子孫は、民俗上の共通点から雲南系の高地族の直接の子孫であるような気もしている。
 雲南の食習慣である、味噌・納豆・モヤシ・コンニャク・餅米・木地椀・轆轤などが直接継承されていることがそれを端的に証明しているし、人相・性格も実に似ているからである。

 それに対して、3世紀から8世紀、古墳時代を築いた朝鮮半島系の渡来者である騎馬民族の子孫は、その圧倒的な教養と武力で、たちまちのうちに日本列島の支配階級に君臨し、武家階級となった。

 彼らは、フヨ(扶余)呼ばれ、始皇帝の秦の子孫を自称した満州(文殊)地方の騎馬民族と同一の流れの人々と思われ、典型的な寒冷地適応の北方モンゴロイドの特徴を備え、乳児に明確な蒙古斑があり、体毛は薄く、のっぺりした寒気に強い顔立ちで、眉と鼻の間が狼のようになめらかでケルト人のように高く、ややつりあがった切れ長の目と一重瞼の人が多い。

 また、長州地方に典型的に見るように、長頭形の頭蓋骨をもつ人も多い。耳垢は乾燥型であって、性格は極めて我慢強く理性的で、戦争を得意とし、支配階級に向いている。ひとことでいうなら、朝鮮人の形質である。

 今日、その最も典型的な人相風貌を保存している古家が天皇家である。
ツングース系モンゴロイドは、朝鮮半島以外にも、沿海州から津軽地方と交流があったことが知られていて、東北地方の人種形質に関与していると思われるが、大和朝廷との関係については明かでない。

 日本には、朝鮮の戦乱によって、8世紀頃まで渡来人の大規模な流入が相次いだ。百済などは、新羅に攻められて事実上国ごと日本に移住し、言語文化能力に優れた人々が多かったので渡来地でも敬われ、大和朝廷権力に加わった者(あるいは乗っ取った?)も多かったと思われる。
 
 それどころか、実は、日本という国家、つまり大和朝廷は、唐の国書(旧唐書)に、朝鮮半島に存在していると記録されている。日本は、国ごと朝鮮から移住したとさえ考えられるのである。

 このことは、弥生人国家であった日本列島の「倭」を、騎馬民族の大和朝廷、つまり南朝鮮にあった「日本」が乗っ取ったようにも思われる。

 別の視点では、「倭」とは南朝鮮から九州山陰の広い範囲の海岸住民を指す形容で、我々が考える日本人のカテゴリーとは、まったく異なる存在かもしれない。

 騎馬民族が日本列島に洪水のように数次にわたって流入した理由は謎だが、当時、中央アジアから朝鮮半島にかけて猛威をふるった同じく騎馬軍団・匈奴やエベンキ族の圧力に押し出されたと考えるのが妥当であろう。

 修験道をかたちづくる土台の、民族的考察はこのようなものであり、すなわち、修験道が、どのような渡来人によって日本列島にもちこまれかを理解することができよう。少なくとも、これは縄文先住民のものではなかった。

 渡来系民族の信仰のうちで、もっとも大切なものは、稲作の成否にかかわる水にまつわる信仰であった。それは水分(みくまり)信仰と呼ばれるもので、水源地帯の山の神々に豊穣の願いと礼を捧げるものである。

 これが、農耕社会における山岳信仰の原初的形態であっただろう。この信仰が神道の原型になったと思われ、西日本や畿内には水分神社が多く残っている。

 しかし、弥生文化には、縄文文化には見られぬ一定の様式を備えた宗教儀礼が成立していたと考えられる。
 例えば祭器を見ても、銅鐸・青銅鏡・剣・矛など精密多様であって、呪術などが著しく発達していた様子は、中国の史書などからも窺うことができる。

 また、かなり早い時期から、大がかりな古墳造営や呪術が知られていたことは、彼らのうちに、すでに自然発生的土俗宗教を超える宗教イデオロギーが成立していたことを示している。

 騎馬民族が朝鮮半島から移住した当時、すでに中国・朝鮮は周・秦・漢・三国・唐などの封建的王朝支配が確立していて、唐代に道教として体系化される土俗信仰も、それらの王朝の庇護を受けて一定の様式で確立していたにちがいない。

 それらの文化の影響下にあった移住者たちは、日本海を渡る海運能力も含めて、分業社会組織による国家主義観念をもち、漢字による言語文化、祭礼宗教文化などを成立させていたであろう。それは、最初から儒教・道教のイデオロギーに影響された高度に組織的、観念的なものであったと考えられよう。

 日本先住民の縄文人は、その当時、国家主義観念を成立させるほど成熟しておらず、原始共産主義に近い母系氏族社会を形成していたと考えられ、つまり、共同幻想としての自分達の帰属する国という観念はなく、あえて帰属を意識するとすれば、自分達の集落単位のグループ程度ではなかったか。

 したがって、彼らの世界観は、アイヌ民族がそうであるように、断じて私物化されざる母なる大地と、「ウタリ」すなわち仲間達がすべてであって、権力を必要とせず、したがって共同幻想たる絶対神も必要としなかったのである。

 ゆえに、生産・戦闘などの民族的能力で、農耕によって集団力を鍛えあげられた弥生人には及びもつかず、最初に弥生人、後には騎馬民族の侵略にあっけなく山奥に追い散らされていったにちがいない。

 その一部は農耕文化を受け入れ、弥生人(倭族)の国家社会に帰属していったであろうが、弥生人権力社会に隷属するのを潔ぎよしとしない誇り高き部族は、主に中部・東北の山岳地帯に拠点を構え、蝦夷(えみし)と呼ばれ、弥生人の国家に強力に対抗した。
絶対神すぐれて絶対権力をもちこんだ渡来人と、私物観念のない、したがって権力を必要としない縄文人は、決して相いれぬものだったのである。

 彼らが国家権力に屈服するのは、騎馬民族、大和朝廷国家が幾多の内紛を経て強力に成立し、鎌倉幕府の武家戦闘集団の出現まで待たねばならない。さらには、元の侵略によって極度に強靭化された武装権力の出現によって、鎮圧されたのであるが、蝦夷のうちのアイヌ族は、北海道に逃れ、江戸時代初期まで独立した強力な氏族社会をつくっていた。

 弥生人部族国家は、騎馬民族の流入とともに彼らの支配下に入り、そのうちの最強の王が朝廷の大君という地位を確立し、9世紀には天皇を名乗るようになり、日本(南西部)の支配権力として揺るぎのない地位を確立し、大和朝廷として独立国家権力を成立させることになる。以降、彼らは、今日まで一貫して日本の支配階級として君臨するのである。

 彼らは、中国王朝との国交樹立に際し、属国ではない独自性を主張するために、性急に史書(古事記・日本書紀)を編纂し、史書の内容に合わせて記録を改ざん破棄した。(神皇正統記に記述されている)また、朝鮮からもちこんだ道教的土俗信仰を記紀にミックスさせて独自の宗教を成立させ、これが神道と呼ばれるようになる。


 道教

 騎馬民族の権力信仰の象徴とでもいうべきものは、古墳であった。古墳は、強大な国家権力の成立にともなって、道教の山岳信仰がもちこまれたものと思われ、朝鮮・中国の倭族の影響下にあった地域にも多く残されている。

 その意味は、道教が山岳修行によって不老不死の永遠の生命と超能力を獲得すること、つまり普通の人間の超人化を目的とするものであったことから、死んだ権力者を古墳という人工山岳に移して葬ることにより、甦りを期待するものであっただろう。

 あるいは、断片的に中国に伝えられていた仏教の転生輪廻の思想もミックスされていたかもしれない。いずれにせよ、古墳に葬られた王は、再び王として甦ることができると考えられたにちがいない。

 このような、権力者の遺骸を巨大構造物に保存して再生を願うという信仰は、エジプト・ピラミッド文明やメソポタミア文明、インカやアステカなどの古代文明にも一様に見られる。
 中国における道教の再生思想も、死者に赤い衣を着せ(赤は甦りを意味した)、防腐剤として朱砂(水銀)で覆い巨大墳墓に葬った。ただし、広大な平野を舞台とした王朝に、山岳墳墓の発想はない。

 日本で、還暦を迎えた老人に、赤いチャンチャンコを着せて祝う風習は道教のものだし、還暦そのものも、道教の形而上学である陰陽五行説によるものである。また、埴輪・絵馬・人形(テルテルボウズなど)・鬼・龍・化物などの形而的信仰も道教によってもたらされた。

 さらに、神道伝承の舞台が高千穂のように山岳地帯であるのも、道教の発想といえよう。神道自体、道教を原型としていることが明らかだが、道教文化のなごりは、日本の民衆生活のいたるところに広がっているのである。

 道教は権力史にも大きな影響を残している。例えば「天皇」という呼称は、8世紀末の中国派遣使節によって、道教の神である「天皇大帝」が持ちこまれたものであり、それは、天界の星座のうちで唯一不動の中心である北極星を意味するものであった。

 それまで、天皇は「大君」と呼ばれていた。また、三種の神器も、道教の護璽器であった鏡と剣に玉を加えたものである。
 道教は、中国使節によって何度も日本に持ちこまれたと思われるが、体系として日本には定着しなかった。

 それは、おそらく同時期に仏教(密教)がはるかに魅力的な体系として輸入されていたことに加えて、中国支配階級のイデオロギーであった道教を日本で普及させれば、最高位の神が中国に存在し、したがって日本の最高支配者も中国の皇帝であることにされてしまうのを恐れ、抑圧したのではないかと思われる。

 道教の本質を端的にいえば、普通の人間が山岳地帯で修行することによって超人的な仙人になり、不老不死の生命を得て、呪術によって人々を救うというものである。

 これが他の大宗教と異なるのは、神になるのは普通の人間であって、キリスト教のゴッドのような絶対的存在が想定されていないという点である。(最高神に近いものも想定されてはいるが、極めて多様で不安定である。)

 これには、明らかに当時中国に伝えられ、独自の進化を遂げた密教の影響が含まれているように思える。
 密教は大乗仏教の中の一宗派という考え方が常識的だが、本来の意味を考えれば、私は容認できない。

 大乗の本質を「利他行」と捉えるなら、密教は必ずしも利他の教えに沿っていない。むしろ、特定の集団や個人の異能を開発するという意味で小乗に近いものであるような気がする。

 釈迦の唱えたような大乗仏教の哲学規範による民衆全体の救済志向(顕教)とは異なり、修行者個人の超人化に主点をおく密教の思想が道士・道術の発想に色濃く現れている。

 紀元前後の中国思想形成期には、密・儒・道が相互に不可分の影響を与えあったと見るべきであろう。

 道教の呪術(道術)にともなう護摩行も、密教と同様、オリエント文明のゾロアスター教(拝火教)の護摩焚きがシルクロードによって伝えられたものであると考えられる。
 つまり、道教や密教もまた、シルクロードの交易のなかで、多様な思想が混ざりあったるつぼのうちに結晶したものであるといえよう。

 道教は、中国に古くから伝承された自然発生的な土俗宗教である易経・陰陽道・五斗米道・太平道などが、3世紀頃に「道蔵」として体系化され、当時の中国支配階級の庇護を得て体系的宗教として成立した。

 老子は、孔子らの儒学への批判のうえに道学を構築したともいわれるが、その形而上学は、儒教と同じく弁証法的な事物現象の陰陽二元論と、当時発見されていた五つの惑星の運行に帰納する「陰陽五行説」であった。
 その不老不死願望は、漢方医療の源流となり東洋医学の基礎をかたちづくった。始皇帝に派遣された徐福や華陀の伝説にもそれを知ることができる。


  ゾロアスター教

 道教や、同時期に中国で体系化された密教に見られる拝火思想は、オリエント文明の古代ペルシャ(イラン)に、紀元前5世紀頃に成立したゾロアスター教の影響を濃厚に受けている。

 ゾロアスター(ザラスシュトラ)の説いた宗旨は、世界には善なる光の神アフラ・マヅダと、暗黒の悪の神アーリマンが存在し、絶えず争いを繰り返しているとする単純明快な二元神論である。光の神を信じ善行を重ねれば天国に導かれ、暗黒のうちに悪行を行えば地獄に落とされるという。

 したがって、ゾロアスターの宗徒は闇を恐怖し、光を求めて絶えず火を焚くことになる。つまり、拝火教といえる。あるいは、ゾロアスター宗徒の焚火による森林破壊が、メソポタミア地方の砂漠化に関与していたかもしれない。

 人類最古のメソポタミア文明が成立した頃、西域には非常な数の猛獣が徘徊していた。当時、欧州やインドまでもライオンやハイエナの王国だったようだ。それどころか、史上最凶暴の猛獣であった剣歯虎さえも、最後の生き残りの遺骸がこの時代の地層から発見されている。

 それらが闇に出没して人々を襲い続けたにちがいなく、民衆は防衛のために火を焚き続けなければならなかったであろう。その習慣が、やがて拝火思想となっていったと思われる。

 これがシルクロードによって中国に伝えられると、道教・密教の護摩焚行になり、さらに日本の修験道にも取り入れられるのである。

 アフラ・マズダを崇拝する儀式には、牛を犠牲として捧げ、ハオマ酒を供える。ハオマ酒には麻薬成分が含まれている。それはデューラ・ウシャと呼ばれ、その意味は「遠くを見させるもの」、つまり幻覚陶酔作用を示しているとされる。

 ゾロアスターの宗派に「アサシン」という教団がある。これは暗殺を専門にする教団で、ハオマ酒に耽溺した者を刺客にしたてた。つまり、麻薬の力によって暗殺者をつくったのである。
 この教団の名が、暗殺(アサシネーション)の語源となった。また、不思議な術を用いるアサシンの司祭をマギと呼び、マジックの語源となった。

 アサシン教団は、現在でもイランに存在しているといわれる。先頃、ホメイニによって暗殺宣告された作者による「悪魔の詩」の翻訳者であった筑波大学助教授が、アサシンの伝統的な暗殺手法である「ナイフによる頚動脈切断」にのっとって首を切られて殺されたが、これには明らかにアサシンの影が見え隠れして不気味である。日本には、大勢のイラン人が流れこんできている。

 松本清張は、現代に生き残るゾロアスター宗徒の儀式に立ち会い、司祭のつくったハオマ酒を飲んだ。それにはアルコール分は含まれず、赤っぽい茎をつぶした汁が主剤だったという。原料を問うと、司祭は「フーム」と答えたが、それがなんであるのかは教えなかった。

 ハオマ酒の原料については諸説あり、ザクロの根とする説が一般的だが、耽溺性の説明にはなりにくい。耽溺性麻薬の原料は当然ケシであり、ついでコカがあるが、コカは南米原産で、この時代イランにあったとは考えにくい。もうひとつ、漢方の葛根湯に処方されるマオウがある。この主成分はエフェドリンだが、これを覚醒剤メタンフェタミンに変えるのは容易である。

 ザクロは中近東原産で、その根は漢方で石榴皮と呼ぶ生薬である。主に寄生虫の駆除に使用するが、古代では極めて重要な薬だっただろう。ただし、毒性の副作用があるという。あるいは、幻覚作用も含むのかもしれない。

 古代ガンジス文明の、アーリアン教の聖典「ヴェーダ」に登場するソーマ酒も、ハオマ酒と同じものだとする説がある。ソーマ酒の原料についても諸説あるが、ベニテングタケ(幻覚成分ムスカリンを含む)、あるいはインド大麻とするのが有力だが、おそらくはケシを含む複合的な幻覚麻薬剤ではなかっただろうか。

 これらがシルクロードによって東方に伝えられ、道教・密教・修験道の護摩行のうちに陶酔性薬物が使用されるようになった。シャーマニズムには、薬物による陶酔が不可欠なのかもしれない。


 神道

 5世紀頃、仏教が日本に渡来すると、すでに一定の様式が成立していたいた道教的な稲作信仰儀礼と融合しながら修験道の原型となった山岳宗教が発生する。

 持ちこまれた仏教は、釈迦の哲学の普及による民衆救済をめざした大乗仏教(顕教)の法華経典だったと思われるが、実際の解釈は、すでに中国において主流を占めていた自己修行に重きをおく密教であっただろう。

 小乗とは乗り物が小さいという意味での大乗側からの蔑称であるともいわれる。
 本来、密教は大乗仏教のなかの宗派であるが、その内容は極めて小乗的、閉鎖的なものであって、本来の、あらゆる輪廻転生を容認し、利他思想を根源とする大乗仏教とは言い難い。

 密教側でも、それ以前の大乗小乗の枠を超えた第三の教えであると称するようになり、いわゆる大乗としての密教という概念は、おそらく誤りであろう。

 日本では、鎌倉時代に顕教が大衆化されるまで、仏教といえば密教であり、空海がその体系を輸入するまでは雑部密教と呼ばれ、呪術による現生利益を求めるという点で、本質的に道教と変わることのない土俗的なものであった。

 密教の特徴は、曼陀羅に見られるように非常に多数の仏が存在し、自分に縁をもった仏の元に修行して即身成仏するというものだが、本来、釈迦の説いた教義には四天王など多数の仏は存在せず、また伽藍儀式や偶像仏崇拝とも無縁であった。

 四天王や阿弥陀などは、もともと中央アジアの土俗信仰であり、それが中国の事大主義によって仏教を修飾し、道教の土俗的な神々とも結びついて権威主義的な密教の体系に変わっていったのである。

 輸入された仏教は朝廷権力と結びつき、百済人であった蘇我氏や聖徳太子の一族の強力な支援を受けて事実上国教となり、飛鳥・天平文化のうちに大きな華を咲かせるが、古墳時代後期から朝鮮渡来人によって形成されていた大和朝廷は、仏教などの中国文化の輸入にともなって、中国王朝、とりわけ強大な中央集権国家主義を確立した唐の領土拡大主義の圧迫に苦しまねばならなかった。
 
 中国王朝は唯一最高の支配権力であることを欲し、朝鮮などの近隣諸国を属国と見なしていた。したがって渡来人による大和王朝も中国の属国ということになり、それが侵略の口実にされる恐れがあった。
 だから大和朝廷は、中国との国交を開くなかで、中国に対して独自の歴史をもった由緒ある独立国であることを示さねばならなかったのではないか。

 7世紀から8世紀にかけて、朝廷はあわてて独自の歴史を示す史書(古事記・日本書紀)の編纂を強引に行い、遣唐使によって中国に送った。都合の悪い、天皇家の朝鮮渡来の事実関係を隠ぺいする作業も行った。

 さらに、中国の侵略に備えて国力を充実させ、それを示威するために、日本中北部の蝦夷(えみし)も平定し、領民として税を収奪する必要に迫られた。

 宗教についても、大和朝廷の正当性を主張するために、当時独自の発展を遂げつつあった密教に古事記などの史書との整合性を求め、弥生時代から伝えられてきた土俗的信仰を基盤として、中国文化から独立した権威ある新教をつくりだす必要があった。

 9世紀、天台宗は山王一実神道をつくりだし、真言宗は両部神道をつくりだした。神道における神々は、大日如来以下の諸仏が姿を変えて(権現として)現れたものにされた。これを本地垂邇説といい、仏教系神道の本質をなしている。
 ここに、道教の濃厚な影響下で稲作農耕にまつわる水分(みくまり)などの土俗的農耕儀礼を発展させた信仰に、はじめて「神道」という名が与えられることになった。
 ゆえに、神道の原点は稲作祭礼であるが、宗教となったはじまりは、神仏を同じとした権現信仰であった。神道は仏教によって形造られ包摂された。

 これらが仏教と一線を画した独立した宗教体系として成立したのは鎌倉時代の伊勢度会(わたらい)神道とされるが、実際に今日見られるように仏教から独立した神社神道が確立したのは、明治政府による作為的な国家神道の強制によるものであった。

 明治政府は、江戸時代、武家支配権力に苦しんだ被支配階層から登場した、本居宣長・平田篤胤らの尊皇復古思想を、維新による激動のなかで政権安定の基盤に利用しようとした。

 それは、欧米列強に対抗するための強大な国家主義を確立するために天皇信仰を利用したのであって、天皇制を神格化し、宗教イデオロギーによる日本統一を図ろうとしたものであっただろう。

 その目的のために、古来からの神道である神仏習合の権現信仰を破壊し、仏教を堕しめて神道を独立純粋化し、天皇制を唯一至高の価値として最高位に位置づけ正当化しようとしたのである。

 明治初期、平田国学徒による排仏棄釈の嵐はすさまじいもので、苗木藩(岐阜県中津川市)や石川県白峰地方のように、再建が絶望視されるほど藩内の寺院をすべて破壊し尽くしたところさえあった。

 また、冨士講のように、修験道でありながら宗派対立のために平田派にくみして習合神道を敵対視するようになった宗派もあった。純粋神道と唱えてきた伊勢度会派や吉田派神道も、情勢に便乗して仏教破壊に走った。

 習合神道を代表した修験道は、天皇の権威に敵対する邪教として憎まれ、その活動を禁止された。それらが、実体上復活できたのは、天皇が神の地位を滑り落ちた戦後のことである

 歴史上、神道を最初に確立したのは密教系の仏教宗派であったが、仏教は民衆の平和を願うものであり、戦争を正当化できる思想ではない。

 ところが、古代権力の確立したこの時代、国家主義あるいは覇権主義の目的で、中部東北の縄文人の末裔を征服するために戦闘的なイデオロギーが要求され、かつ中央集権権力の正当化のために、唯一の絶対神を必要としたと思われる。

 そこで、戦争と民衆管理に必要な「神」の思想が生みだされたと考えるのは不自然ではない。「神」は、いつでも、どんなときでも、戦いと管理のために生まれるのである。

 かつて両部神道の影を色濃く残した天台密教=比叡山も、戦前、国家主義に迎合して戦争を翼賛して大失敗したのに懲りず、再び、今、戦争推進の日本会議に加わっているのも、その例というべきだろう。

 神道には体系的教典がないが、あえて原典というなら、それは8世紀に編纂された紀記である。これは、中国に対して天皇家の独自性・正当性を主張するための史書であり、都合の悪い事実はすべて切り捨てられ、王権の元祖を紀元前6世紀におくなど、相当部分がひどく捏造されたものであった。

 いずれにせよ、記紀の虚構から神道の枝葉が伸びていった。しかし、実体として神道が成立するのは平安時代の山王・両部(習合)神道であり、体系化するのは鎌倉時代の度会神道である。今日見られる神社神道は、室町時代の吉田神道によって築かれた。

 平安時代に、延喜式という政道百科事典がつくられ、神社の格式が定められたが、神社神道が明らかに成立したのはこの時代であって、それ以前のものには明確な根拠がない。しかも、そのほとんどは権現信仰にもとづくものであって、仏教に包摂され、仏教の下におかれたものであった。

 ただ、権現造りと呼ばれる神社も含めて、拝殿の建築様式は、米作農耕のために浸水しやすい湿地帯に住んだ弥生人の高床式住居を直接継承したものであって、イロリが掘れないために設けられたカマドや、副次的な食品のうちで大切な保存食であったスルメ・コンブなどが祭物として受け継がれているのは弥生文化の継承を示唆するもので興味深い。

 このことは、神社神道が弥生人の稲作農耕の生活に密着した風俗から発生した事実を示すものであって、必ずしも騎馬民族独自のものでないことを示すものである。さらに、仏教によって両部神道として権威化される以前には、渡来人の精神的支柱として、実体上大きな意味をもっていたことを窺わせるのである。

 すなわち、仏教(密教)系神道が成立する以前に存在した農耕儀礼こそ、疑いもなく弥生人の基幹宗教であって、本居宣長の考えた「古代神道」は、確かに存在したともいえよう。

  神道をイデオロギーの観点から見れば、権力の統治者はカミ(神・上・守)を称することによって、民衆の信仰心を利用して支配を企てようとしたと考えられる。
 このことは、好戦的な騎馬民族の末えいであった日本武士階級が、カミ(守)を称する風習を伝えていたことからも窺えるのである。
 神道の神は、道教と同じく人間の変化したものであった。例えば、天皇は人間のまま神であり、秀吉は死後明神となり、家康は死後権現となった。明治以降の戦争のなかでも、功績をあげたものはやたら軍神にされ、戦争で死んだ者を靖国神社に祭るといった発想も同じである。
 したがって、この思想は、支配階級が民衆を戦争に駆り立てるのに非常に役に立つものであった。
 「神が栄えれば仏は沈む」と書いた僧がいるが、まさしく妙理で、神道はいつでも戦争とともにあるのであって、神道の栄える時代は、すなわち争いの時代といえよう。
 修験道が密教によって誕生しながら、中世以降しだいに神道の要素が高まっていった理由は、山伏の軍事集団化と関係しているように思えるのである。


 役の行者 

 役の小角(えんのおづぬ)と呼ばれた、日本史上のもっとも魅力的な一人であるこの人物は、修験道の開祖と位置づけられている。

 小角が活躍したのは、紀元700年前後のことである。この当時の日本史の事情を見てみよう。
 7世紀、推古大君、聖徳太子をはじめ、飛鳥朝廷の大君以下の主要人物は、戦乱によって朝鮮を追われた百済出身者で占められていた。
 その故郷の任那(伽羅)も、この当時は倭国に含まれていた。というよりは、百済にあった王朝が、5世紀から6世紀にかけて海を渡って日本列島に引っ越してきたと考えるほうが合理的である。

 彼らの文化能力は、飛鳥文化に見られるように際だって優れたものであって、それ以前から部族抗争を繰り返してきた弥生人の部族を短期間のうちに統一したと思われる。
 620年前後、唐が勃興し、強力な中央集権国家主義が台頭すると、新羅は唐の支配下にはいり、しきりに倭の領土を纂奪しようとする。

 百済は、領土の多くを失い朝鮮の南端、伽羅に押しこめられたが、645年の内乱(大化の改新)と蝦夷平定戦争によって弱体化した倭王朝を見て、660年、新羅は大挙して伽羅に攻め入った。

 中大兄皇子(天智大君)は兵を伽羅に送ったが、白村江で大敗を喫し、とうとう倭国は父祖の地から追われてしまった。百済に残っていた倭人は日本に渡った。以降、倭寇や秀吉の侵略にも耐え、昭和初期の日本軍部による帝国主義侵略まで、朝鮮は外見上、独立を保つことになる。

 同じ時期、おそらく百済人に似た理由で、高松塚古墳に見られるように高句麗文化を身につけた人々も、多く日本に渡来してきたにちがいない。それに騎馬戦闘文化をもたらした人々も含まれていたことは、後期古墳の出土品から明らかである。

 彼らは、いずれも高度な文化人であって、支配階級に融合してゆく。
 この時代の権力者にとって、人としての認識に堪える者は、中国の先進文化を身につけ、高度な生産能力を持った者に限られたであろうことは、後の律令体制における差別体系によっても明らかである。したがって、朝廷権力にとって、人とは渡来人のことであったに違いない。

 672年には、大海人と大友の争いによる壬申の乱が起きる。大海人(天武)は天智の弟だが、王位を弟が嗣ぐ風習をはじめ、この当時の権力構造は、中央アジア騎馬民族の習慣が直接受け継がれていることに注目しておきたい。

 700年頃には、律令制度が発足し、公地公民制による口分田・班田収受法などが施行される。
 これは唐の律令を手本にしたものだが、まことに日本的に不徹底で非現実的なものであったため、民衆の逃散が多く、後には豪族の出現を招き、天皇王政崩壊の直接原因になった。

 710年には、奈良に都が置かれ、唐の長安にならった平城京が成立する。712年には古事記がつくられ、720年には日本書紀がつくられた。

 740年には、国分寺が制定され、東大寺・薬師寺の建立がはじまった。天平文化が頂点を迎えるのである。
 この前後の100年ほどは、日本史の、すさまじいばかりの黎明期であって、時代の進展速度は今日でさえ及びもつかない。

 「続日本紀」西暦699年、5月24日の項に、役の小角が登場する。その記述は、「日本霊異記」など他の文書と同じく畏敬に満ちたものである。

 これらに見える小角の姿は、超絶的な超能力者である。小角は、大和葛城茅原に棲む優婆塞(うばそく)と呼ばれる私度僧であった。

 藤の皮を身につけ、花汁をすすって30年の間、孔雀明王の呪をとなえて修行し、鬼神(この当時の鬼とは、大和・熊野山中に棲む非弥生人のうちで、戦闘的な部族を指したと思われる)を使役し、空中を飛行し、対した者を呪縛してみせた。
 (孔雀明王とは、雑密曼陀羅の仏で、孔雀が悪喰で毒蛇や蠍を食っても平気なことから、悪を消化する仏にされ、密教を代表したが、もともとは中央アジアの土俗信仰に含まれる。)

 その能力のすさまじさのゆえに、渡来人の呪術者であった一言主(韓国連広足)に讒訴され、伊豆に流される。
 朝廷は、どうしても小角を捕らえられず、母を捕らえて小角を縛るのである。伊豆では、毎夜富士山に飛行して修行したとされる。

 大峰の「金峰山本縁起」には、伊豆から帰った小角は、母を伴って唐に渡り道士(道教僧)となり、唐四十仙中、第三座の仙人とされ、鬼神を使役したと記されている。
 遣唐使の道昭という僧が新羅の山寺で法華経を講じたときに、質問した道士が日本語を使ったので不思議に思って尋ねると、「自分は役の小角である」と言ったという。

 この伝承は、修験道の正体について、端的な回答を与えているように思える。これは、山岳信仰・呪術(超能力修行)・護摩行など主要なファクターで共通する道教に、紛れもなく一致するものなのである。

平安末期、小角の伝承は修飾され、修験道の開祖として同時代の行基と同様、誇張を交えて伝説化されることになる。

 上記の「金峰山縁起」もそのひとつであるが、大峰山に依った密教修行僧たちは、修行の具体的なモデルとしての役の行者像を成立させるのである。
 飛鳥時代、仏教が国教化される過程で、百済人によって占められた官人は朝廷によって建設された官寺に修行する僧を厳選し、今日の大蔵省官僚でも及びもつかないほどの権威を与えた。

 これらの官僧になれる者は渡来人系のエリートに限られ、仏教を信仰し修行しようとした一般民衆は私度僧になるしかなかった。
 当時、文字を解する者は希だったはずだから、一般民衆といっても実際には、言語文化に触れる機会を得た上流階級の子弟であっただろう。

 官寺は彼らの受け入れを認めず、当時輸入されていた雑密と道教の断片的な知識を依りどころにした求法者たちは、険しい山岳地帯に篭もって道教の符呪や密教の陀羅尼の呪や、小角のように孔雀明王の呪を唱え、念力を磨いていたのである。

 後に、この時期に中国で不空三蔵や恵果らが体系化した密教を、完全な形で日本に持ち帰った大天才の空海でさえ、若き日は雑密修験者として山岳地帯で求法修行し、呪を唱えて歩いた。

 空海ほどの人物でも、遣唐使に僧として加わることは許されなかった。彼が帰国後、不動の地位を占めるのは、中国最新の流行文化であった密教体系の輸入という実績が評価されただけにすぎない。

 輸入された密教体系が朝廷によって評価されるとともに、それは再びエリート官僧によって独占されるものとなり、私度僧は、あいかわらず雑密の断片的な知識をもとにした修行に終始した。

 官僧以外の求法私度僧は、国家権力に厭われることはあっても評価されることはなく、したがって重く用いられることもなく、その存在理由は、呪術による民衆の具体的な(たとえば、病気治療などの)救済による自己満足と名声の流布しかありえず、自らの依拠する権威を自ら構築するしかなかった。

 このような修行僧には依拠すべき体系規範がなかったから、当時評判を得ていた役の行者の伝説をモデルにするのがてっとりばやかった。つまり、修行僧は、教義理論ではなく役の行者の名声をめざしたのである。

 山岳地帯での呪術修行を好んだ雑密僧のうちから、やがて密教や密教系神道を基盤にした独自の宗風が生じ、それに修験道という名が与えられてからも、官によるエリート理論に無縁だった彼らには、教義としての理論的な体系はつくられたことがなく、また必要とせず、役の行者の行風をモデルにした土俗的、習慣的な修行スタイルが続いたと思われる。

 いいかえるなら、官による東大寺、薬師寺、あるいは比叡山、高野山を仏教の表街道とするならば、修験道は、まさしく裏街道をゆくものであった。
 しかし、それは権力権威による評価と無縁だったという意味で、それらの呪縛から解放され、真に民衆の具体的な救済に威力を発揮しただろうと思われるのである。

 もう少し、モデルにされた役の行者像を見てみよう。
 役の行者の伝説は、小角が大峰で修行するうちに(本当は葛木の修行者だったが)、修験道の本尊である金剛蔵王権現を感得したとされる。

 それは不動明王に近いがそれよりも激しく、その本地仏は大日如来である。その激しい怒りの形相は、修験道の修行の苛酷なエネルギーに対応するものであった。いったい、何に対する怒りなのか。なにゆえの修行なのか。

 山岳は縄文人の舞台であった。
 当時、九州の縄文人系土民(海洋族)であったクマソや隼人族は弥生人権力に対して反乱を繰り返し、ようやく平定された時期であったが、紀州大和の非弥生人系の土民も熊野山岳にいたらしい。

(縄文人は黒潮に乗って南からやってきたのであるから、薩摩、土佐、南紀、房総などには、縄文人が最も早くから棲みついていたはずである。しかし、紀州には、徐福やユダヤの伝説もあって、簡単に縄文人と決めつけられない。)

 また、九州から奴隷として連行された土蜘蛛とよばれる種族もいたらしい。初期渡来人であった大国主らに追われた出雲原住民(サンカか?)もいた。

  小角は、葛木の非弥生人に生まれたのかもしれない。(黒岩重吾もその説をとっているが、出自とされる賀茂氏は渡来人系である)とすれば、山岳の激しい修行も、金剛蔵王権現の怒りも、弥生時代後期から、弥生人権力に奴隷として使役され、古墳造営の苦役に苦しんだ非弥生人系の民衆の怒りを代弁する行者の姿勢として読み取れるのである。
 すなわち、小角の修験道は、反権力の砦をめざしたのではなかったか。

 このことは、後の修験道が南西地方よりも、むしろ蝦夷の拠点であった出羽地方を中心に大いに勢力を広げたことにも窺えるような気がする。
 いずれにせよ、弥生人圏の宇佐八幡や山陰大山・大峰でも、修験道は弥生人の居住地域の湿原平野には無縁であり、したがって弥生人文化と修験道文化は相入れないものである。

 大和朝廷に隷属馴致されるのを拒否する者は山岳に逃げるしかなく、そこには弥生人による苦役から逃れようとした非弥生人の民衆が存在し、修験者がその人々となんらかの形で結びついていたのは明らかである。だが、現段階では、このあたりの事情は謎に包まれている。

この記事に

それぞれの山の物語 6 修験道路の山旅  前編 91年11月16日の大峰山行

 登山やハイキングで山岳地帯に出向いたとき、山のなかに祁られている宗教的遺構に出会うことが少なくない。それは山神様の小さな祠であったり、道中の無事を祈る地蔵であったりするが、ときには、大木の幹に梵字で書かれた短冊が張りつけてあったり、笹を四角に切り開いた小さな空き地に何やら木札を燃した跡が残っていたりすることもある。

 これは護摩とよばれる修験道の儀式の跡で、私たちの古い先祖から伝えられた五穀豊穣、生活安泰を願う修験者(山伏)による祈りの儀式の跡である。

 山伏は、その名の通り、山岳地帯を主な活動の場にしている。その修験道と今日呼ばれる山岳宗教は、古代中国の道教(タオイズム)に包摂される多くの宗教様式・儀礼が、1400年ほど前、朝鮮半島から集団でやってきた人々によって伝えられ、進化を遂げたもののようだ。

 道教は、中国文明成立の頃から伝えられた占いや医療を中心としたさまざまの民間信仰・儀礼(アニミズム)が、老子・荘子などによる体系的思想の著述や、その後の漢王朝(漢祖劉邦の謀臣、張良は代表的道家だった)などが国家思想に用いたことにより、まとまった宗教様式・儀礼になったものと考えられるが、時代によって、太平道・五斗米道・茅山派など多くの宗派があった。

 基本的な特徴は、人が山へ登って仙人になるための修行(登仙)を行い、空中を歩いたり、不老不死の秘薬を調合するなど超人的能力を身につけて人々を救うというものである。今日まで伝わる太極拳・小林拳などのクンフーや、それが日本に伝えられ発展した空手・柔術・漢方医学の伝統は、すべて道教に源を発したものといえよう。忍者も、またそうであった。

 修験道もまた道教から生まれたものであって、この基本要素をすべて継承し、人が山のなかで辛い修行を重ねれば、やがて自在に空を飛んだり天気を変えたりする念力を身につけることができ、超能力者になることで人々を救うことができると考えるのである。

 したがって外国の文献には、修験道は日本的タオイズムと紹介されていることが多い。
 これらは、大乗仏教やキリスト教のように、ものの考え方を教えることで民衆を分け隔てなく救済するという、民主的で教育的要素の強い方法でなく、特別に秀でた個人的能力を開発し、個人的修行による救済をめざすという点で、より実践的・具体的性格の強い宗教といえよう。

 ただし、民衆全体の能力を高めるというより、選ばれたプロ救済者のレベルアップを図るという、あまり民主的でない方法がとられていた。だから、、特異能力の軍事集団としても活躍したし、調伏という名の呪いによる敵対者の破滅祈願を行うこともあった。修験道は、人を怯えさせるような残酷な裏面史も多く持っている。

 日本で修験道が史誌に記録されだしたのは、史誌の始まりの奈良時代からで、大和葛城の役の小角という行者が修験道の開祖ということになっているが、実際には、この時代に修験道という独立した宗教が現れたわけでなく、道教の影響を受け、仏教(密教)や古神道の混ざりあった宗教的儀礼のなかに、道教的な山岳的要素の強いものが現れたということのようだ。

 役の行者は、後に新羅の国に出向いて道教の上位の仙人として君臨したという伝説もあり、また、神道も密教も本地垂迹説というひとつの教理にくみこまれ、仏教系寺院で祭祁が行われていた。つまり、奈良時代では、民衆の認識にあっては修験道と神道・仏教は一般的な「宗教」という大まかな概念で包摂され、すくなくとも、今日のような明確な区別はなかったように思う。

 修験道には、定まった体系的教義が残されていない。それは、もともと山岳地帯における修行そのものが宗教活動の主体で、伽藍や仏像のような形而下の崇拝対象や思想理論にこだわらないこの宗教の性格からきているのだが、実際には、明治時代初期に、天皇制神道を絶対化しようとした国家権力によって、神道とまぎらわしい修験道が禁止され歴史的遺物が破壊されたことで、古い伝統や理論が捨て去られてしまった事情がもっとも大きな原因なのである。

 それが実践的に復活したのは、今からわずか40年ほど前の1950年前後にすぎないし、復活の主体になったのが天台宗や真言宗の密教僧であったことによって、それは古い本来の修験道よりも、江戸期に煩わしい観念的規範によって体系化した仏教的要素の強いものになっている。
 だから、私たちが修験道を理解するのには実証面で困難があり、先人の思索と修行を知るためには、実際にその足跡をたどり、想像力を働かせてみなければならない。

 私は修験道の総本山、大峰山脈に過去6度ほど登山している。ただし、奥駆け全行程を歩いていないので、暇と体力のあるうちに吉野から熊野まで踏破してみたいと考えた。歩きながら、修験道の本質について何らかのヒントを得たかった。

 奥駆け修行の行場の第一番は熊野本宮にあって、熊野から辿るのを順峰といい天台宗系の本山派とよばれる行者が行った。第75番の吉野神宮から辿るのを逆峰といい、真言宗系の当山派の行者によって歩かれているのだが、現在、大峰の修験道は、当山派の修験本宗が復活したこともあって、大部分が逆峰によって行われているようだ。

 伝統的な山伏は、この奥駆け全行程を、75箇所([靡]なびき)の行場を巡礼しながら2週間ほどで歩いたといわれるが、山歩きの標準的なコースタイムを考えると、およそ1週間というところだろうと考えた。

 もうすぐ冬に入ろうという時期が時期なので、山小屋での食料補給が望めず、全行程の食糧と冬山登山に近い幕営装備を担いでゆかねばならないのがつらい。
 そこで、行程を予備日も含めて9日と考え、食糧を原則として米だけにし、副食を極度に抑えることにした。これによって、食糧の総重量を7キロ程度にまとめることができた。これ以上ないほど荷重を抑えたつもりだったが、荷ができあがってみると30キロ近いズシリとした重さに、いささか気後れしてしまった。

 91年11月16日の朝、近鉄名古屋駅から吉野に向かった。吉野駅に到着したのは昼で、ひとりでとぼとぼと大峰をめざして歩きはじめた。この時期は、比較的天候に恵まれているので、快適な登山ができる。

 駅前に蔵王堂方面のロープウェイがあったが、たいした節約にならないので歩道を歩くことにする。ジグザグの踏跡を登りつめると吉野街道に出て、両側に古く懐かしい雰囲気の商店街が続き、狭いが歴史の薫り漂う古街道を行くようになる。

 道端に「南朝の里」と印刷された貼紙があった。吉野は、後醍醐が足利尊氏に追われて南朝を設立した街である。歴史ファンである私は、ひどく懐かしいような思いがこみあげてきた。

 歴史の薫りのなかにほのかに混じるのはミタラシダンゴの甘い香りで、ついつい手がのびてしまう。ひさしぶりの懐かしい味。これが実に旨い。だが、30キロを超す荷物が肩にくいこみ、一度下ろした荷物を担ぐのが憂欝だ。この先が思いやられる。

 大峰名物の優れた胃腸薬である「陀羅尼助」の製造販売店があった。江戸時代の旧商家のたたずまいを伝える由緒風格にあふれた店先に、陀羅尼助が一瓶三千円で売られているが、これは観光土産の値段なのだろう。少々高いと愚痴らざるをえず、買おうという気にならない。

 これは吉野洞川、オウバク宗萬福寺に伝えられたとされる秘薬オウバク(キハダ)を煮詰めたもの。これは安全なすばらしい自然医薬である。古いものの良さを理解できない人は、田辺製薬のスモンのような化学物質を信仰すればよい。学歴権威信仰による絶大な効能がえられることであろう。

 陀羅尼助には、大昔、クマノイやケシ汁を混ぜていたという。山陰大山の練熊や、御岳の百草も陀羅尼助とまったく同じ成分だが、明治の宣伝文句にはケシ科のコマクサを混ぜていたことが書いてあり、これがコマクサ壊滅の原因になったようだ。

 これらは、道教の医薬(漢方)が伝わったと思われるが、全国に熊胆を売り歩いたマタギともなんらかの関係があるにちがいない。吉野の山伏にとって、陀羅尼助の行商は大切な生活資金源だっただろう。

 また売薬稼業は、戦国大名の依頼を受けて各地をスパイして歩くための大切な小道具にもなった。吉野の山伏は、戦国期、根来寺の非合法活動専門の僧兵の手足でもあり、伊賀・甲賀の忍者の祖でもあった。それは、驚くほど残酷な殺戮者だった時代もあったのだ。

 道は、大仏鋳造に余った銅でつくられた発心門と呼ばれる神仏混交の鳥居と山門をくぐり、自然に蔵王堂に入ってゆく。発心門は、修験本宗の吉野から熊野へと向かう入峰修行を行う者の最初の行場になる。

 「吉野なる銅の鳥居に手をかけて、弥陀の浄土に入るぞ嬉しき、おん、あびらうんけんそわか」
 と唱えて鳥居を回った行者は、次に「気抜けの塔」とよばれる小さな部屋に押しこめられて、外から突然鐘を鳴らされて気合いを入れられることになる。そうして、下界の日常的感覚から過酷な修行へと気持ちを切り替えさせられるのである。また、この塔には義経逃避行の伝説も残されている。

 吉野の町は、蔵王堂の門前町としてできあがったようだ。建物自体が国宝として知られる蔵王堂は、吉野の核心部の高台に巨大な木製伽欄を鎮座させている。石段を登ると修験本宗、金峯山寺蔵王堂の広い境内で、驚いたことに、たくさんのイスと巨大な放送設備が据え付けられ、なにやら人気ミュージシャンのコンサートの準備中であった。私は、この手のことに無知で、どのような理由で何が行われるか見当もつかない。

 蔵王堂は平安時代に創設され、数度の火災を経て江戸時代に修復されている。自然の大木をそのまま利用した柱が使われていて、独特の個性的迫力がある。堂内には護摩の煙が充満し、古刹の重厚な雰囲気に圧倒される。

 堂内の修験者は真言系らしく全て剃髪した僧形で、古来の山伏の面影はなく密教僧の雰囲気だ。天台系山伏の総髪のほうが山伏らしい。真言宗系の修験道を当山派と呼ぶのだが、明治の初めに当山派は強制的に真言宗か金峰神社に分離帰依させられ、天皇制国家神道による弾圧から解放されて修験本宗として再建されたのは、まだ1952年のことである。

 修験本宗は、長い空白のうちに明治以前の神仏習合の面影は薄れ、その間、強制的に帰属させられていた真言宗仏教の色合いが濃いものになってしまった。習合神道が天皇の権威に逆らう邪教として排斥された、戦前の天皇崇拝教育のおそるべき成果をここにもかいま見ることができるのである。

 今でも、毎年7月前半に、修験本宗の主催による奥駆け修行が一般者の参加を募って行われているという。蔵王堂は、その出発点となり、蔵王権現や役の行者像の前で、修験道独自の真言を唱えて峰入り前の護摩法要が営まれる。

 真言(マントラ)というのは密教による呪符で、例えば、「おん、あびらうんけん、ばさらだとばん」と唱えることで、自分と大日如来とを一体化させ、「なうまく、さまんだ、ぼだなん、ばく」と唱えれば、釈迦如来と一体化するという具合である。これらは、口に真言を唱え、手に印契を結び、心に仏を意念すること(三密加持)で大日如来と一体化し、即身成仏をめざすのである。
 
 吉野の街なみを大峰山脈の山地図を頼りに歩いたが、なかなかややこしい道であった。下千本、中千本、上千本と桜の名所が続く。春先には凄まじい雑踏になる場所だ。ここでは4月10日ころ、蔵王堂を中心に花供祭が行われる。蔵王権現に桜の花を供え、盛大な餅撒きが行われるという。修験道の花祭には、神道の古い農耕儀礼が体現されているという。全国の修験各派に、それぞれの花祭が残されている。

 上千本のあたりから大峰山脈が次第に形を整え、明確な尾根に変わってゆく。そこで、初老の男性と同じペースで歩くようになり、やがて言葉を交わした。話してみると、宗教歴史について恐ろしいほどの博識の方で、たちまち意気投合してしまった。立見さんといわれたその方は、どこかの大学教授ではないかと思った。

 吉野で見たいと思っていた水分(みくまり)神社は、吉野の水源尾根の中腹に構えていた。立見さんが権現造りといわれた社殿は、拝殿前の広場を取り囲むように建物が連なり、格調高いすばらしい雰囲気である。おそらく、日本の水分神社の草分け、あるいは総本山であろう。

 尾根に沿ってつけられた道路をとぼとぼと歩いてゆくと、金峰神社の道標にしたがって高城山という城址に登る。山頂に立派な休憩舎があり、そこから元の道に下る。無理して登った値打ちはなく、損をした気分になった。

 道なりに歩けば自然に金峯神社の境内に入る。ここは、古い修験道が天皇制時代に強制帰依させられていた本山である。祭神は金山彦で、これはすなわち大峰山脈に金鉱脈があったことの証である。

 ここまで予想外に時間を食ってしまい、「この先、よい幕営地はないですか」と社守のおばちゃんに尋ねると、
「この先は女人禁制だから、私は行ったことがない」
 と言う。改めて、修験の大峯に足を踏み入れたことを感じた。

 まずは水を求めて苔清水に向かう。苔清水は細い湧水だが、絶えたことがないという。整備された水場で大勢の中年観光客が騒いでいた。そのわずか上に平地があり、そこにツェルトを張ることにした。

 夜半、百人一首で知られる西行が創立したとされる西行庵の勤行の打木の音が気味悪かった。カメムシが臭くてかなわない。イノシシと思われる動物がうろつく音も聴こえ、あまりよく眠れなかった。
 冬も近いので山蛭など不快な虫が少ないのが利点だと思ったのだが、意外に生物が多い。重量節約のために、酒を携行しなかったのが辛い。

 日曜の朝、ゆっくりと7時に出発、青根ヵ峰を越えると再び林道になり、尾根をブルドーザが強引に踏みつぶしている最中だった。登山道を探すのが大変だ。どうやら黒滝村への道をつけているらしい。カクレ平からやっと普通の山道になる。

 五十丁、百丁の茶屋跡を過ぎ、快適なハイキングコースが続く。大天井ヶ岳のトラバースでは再び激しい重機の音が聞こえる。登山道のわずか50mほど下まで林道が迫り、なにか大きな工事をしている最中だ。

 バスの通行を可能にするための林道拡張工事だとすれば、修験行者のためのものであって、退廃ここに極まれりというべきか。だいいち、ここは聖域ではなかったのか。女はダメだが車はOKとでもいうのか。こんなものを許せば、次はロープウェイに決っている。

 わずかで女人結界、新しい立派な門がある。この時代にあって、女性の立ち入りを拒否し続けている、つまり憲法違反の慣習を公然と認めている国立公園は世界中探しても、大峰山だけだろう。確かに、残り少ない無形の歴史的伝統を守りたい気持ちは分かる。だが、女人結界が尊重すべき宗教的伝統だと考えるのは、私には早まっているように思える。

 私が後に大峰修験道を知る過程で、この宗教は、実は民衆救済を目的とするよりも、権力者にとっての軍事的役割の方がはるかに大きかった事実が分かってきたからである。
 驚くほど残酷な生命軽視の悪行が重ねられていた。私は歴史的事実を知る度に、山伏に対するイメージが、崇敬から恐怖に変わるのを抑えられなかった。

 歴史的には、権力奪取のための、調伏という名の呪殺をはじめ、謀略・毒殺・略奪・殺戮など、およそ人間の薄汚い裏面のすべてに山伏が関わってきたことを知った。
 少女誘拐、幼童強姦殺害など序の口であって、山伏は恐怖のアウトローの世界であったことを思い知らされた。
 そこには、決して正義や民衆救済宗教の美しさはない。戦国の乱破と呼ばれた殺戮破壊専門の忍者集団の祖となったのも山伏であった。

 薄汚く残酷な世界に女性を入れるわけにはいかない。女性は本来、そのようなアウトローには向いていない。大峰山が女性を拒否し続けた真の理由は、決して表に出せないその恐るべき歴史的真実にあったのではないか?

 洞辻茶屋まで行けば日曜だから営業しているかもしれないと思ったが、たどり着いてみると閑散とした木枯しが吹くばかり、休憩していると、驚いたことにアベックの二人連れが登ってきた。「凄い、偉い、立派」こうでなくっちゃ。

 男の方はガッチリした体格で、おそらく修験者とのトラブルを避けるためだろう、洞川の消防団のスタイルで決めている。もっとも、山上ヶ岳に登った女性は決して少なくない。例えば、女性登山家として著名な今井通子さんも、沢登りついでに登頂したと公言している。修験の方も昔のような厳しい戒律にこだわる人は希で、その気になれば誰だって登れるのである。

 ただし、峰入りシーズンは避けた方がよさそうだ。権威や伝統にこだわる程度の低い人物が多いからだ。林道を開通させ、車を通すことは可としても、女性だけはまかりならぬと本末転倒の愚かしい主張をする者も多いにちがいない。それでも、そのような伝統が山上ヶ岳を開発させない力になっているとすれば、それなりに有意義だとは思うが。

 登山道は茶屋をくぐり抜けてゆく。整備された板敷の道を登りつめると金懸岩で、そこから広大な山頂になる。両側には、峰入り修行の回数を誇る供養塔が立ち並ぶ。最高が50回程度のようだ。自慢は結構だけど、どれほどの霊力を得たことか。観光バスでやってきて、洞川から登って一回じゃ、役の行者が泣いてますぜ。

 途中、「西の覗き」と呼ばれる有名な行場がある。関西地方の男子は、一度はここに連れられてきて、300mの垂直の岩場に宙づりにされて親孝行を誓わされる伝統があったと司馬僚が書いている。

 「親孝行するか、一生懸命働くか」と問われ、肯づかねば落とすぞと脅されるのである。本心にもないことを無理矢理言わされるのでは、関西に親不孝者が増える理屈だなどと思ったりする。

 ここには捨身行と呼ばれる自殺行があった。かつて、この岩の下には無数の人骨が散乱していた。その昔、年老いて自由に動けなくなった山伏は、ほとんど捨身、すなわち投身自殺したようで、その神聖な人生最後の行場がこの岩であった。
 本山派の熊野修験者は、那智ノの滝上から飛びこんだと明治の文献にある。生きていることが、よほどの苦痛だった時代があったのだ。楽しければ死ぬものか。

 大峰山寺の宿坊群はさすがに凄い。まるで白馬の山小屋である。造りの良い分だけこちらの方が見栄えがある。これらは全部人力荷揚げだから大変な労力だっただろう。しかし人の姿は見えず、寂しい冷風に包まれていた。

 山上ヶ岳の山頂は大峰山寺の上にあり、広大な草原になっている。展望良好。さきほどのアベックに出会った。行き先を尋ねられて、熊野までと答えるとびっくりした表情になった。せこい優越感を味わう。快晴だが、やたらと冷える。休憩もそこそこに歩き出さずにいられない。

 30分程で、水場の小笹の宿に着いた。稜線直下だが水流があって、広い平地になっている。無数の石組の基礎が残っていて、ここにかつて非常に大きな宿坊群があったことを示している。文献には、当山派根拠地、小笹36坊とでている。赤塗の堂宇と小さな避難小屋があった。ありがたい。新しく快適な小屋であった。

 広場の中央には立派な護摩行場が設けられ、護摩の燃えかすが散乱している。大峰75箇所の行場には、すべて魔除の独鈷が立てられ護符が貼られている。独鈷は、もともとブーメランに似た武器であったというが、柄がつけられ山伏を象徴する杖となった。

 岳人のピッケルと同じで多目的であり、ときにシゴキ棒になったりするのも似ている。中国由来のこの武器の存在は、修験道が道教の直接の継承者であることの端的な証明の一つでもあると思う。
 この時期、縦走を企てる酔狂な人間はいない。静かな小屋の夜はふけて、ハンゴウで炊く飯は旨い。

 快適な一夜を過ごし、まだ暗い早朝、ツェルトを畳んで大普賢岳に向かう。
 小普賢岳の長い登りにうんざりするが、大峰山脈の核心部に到った充足感がある。ここで和佐又山からの道を併せるが、このルートから前鬼までは10年ほど前に縦走している。

 このルートには岩屋が多く、晦日(つごもり)山伏といわれた行者が越冬した場所である。以前歩いたときに、岩穴の奥に人骨片が散乱しているのを見た。
 越冬に堪えられず死んだ山伏も大勢いたのだろう。また、この地域は名だたる日本狼の棲息地でもあった。山伏は、飢えた狼のよき食糧になったかもしれない。

 岩屋で晦日修行を行った山伏は、春先に石楠の花を手に里に降り、里人はこれを山の神として畏敬して迎え、花を田に投げ入れることによって、それが田の神になって豊饒の収穫を守護したと柳翁や釈超翁が書いている。神は冬に山へ入って水源を護り、夏に田へ戻って稲を護るという原始農耕儀礼の原型となる伝承である。

 もっとも、和歌森太郎や宮家準などの民俗学者による、そんなキレイゴトの伝承は、ごく一部の表向きの話で、南方熊楠は恐るべき山伏の峰入り修行の実体について、いくつかの著書で触れている。

 例えば、この稜線には「稚児落とし」などという地名がいくつかある。
 この山域では、女人禁制の戒律があって女性を連れてこれないので、山伏の性欲処理のために買い取られたか、誘拐されてきた稚児と呼ばれる幼い子供達が、疲労で歩けなくなったり病に倒れたりしたときに、垂直の断崖で墜落死させられた事実を表している。
 これは謡曲「西行」などにも象徴的に語られている。

 今日でも、人間の本能が剥き出しになる裏の世界では、子供達への性的虐待が後を絶たない。二重性のある権力社会では、公然と本音を語ることのできない社会的地位をもった人物が、好んでそうした幼児虐待ビデオを購入している。
 二重性の強い社会ほど、そうした二面性のある人間を多く生み出すのだ。それが歴史上もっとも端的に現れたのがナチズムであった。

 人が貧しいとき、手を取りあい、助けあって生きているときには、誰でも美しい道義性を磨こうとするが、皆が豊かになり、他人に見下されまいと背伸びをするようになると、人は愚かしい差別主義に走り、ソドムの道を歩むようになる。こうなれば破滅し、殺戮しあって、再び貧しくなる日を待つしかないのだろうか? 

 日本史を見ても(おそらく世界史も?)、室町期のような温暖で豊かな自然条件に恵まれた時代は残酷な争いが多く、江戸期のように寒冷化による過酷な自然条件の時代は、人々の心は暖かくなるのである。今日、繁栄の極地にいるわれわれの心は極寒といっていい。

 早朝7時前、標高1780m、大普賢岳のトンガリ山頂の眺望は、南の釈迦ヶ岳と好対照の北山脈中の圧巻であって、紀州を代表する360度の広大な山岳大展望である。果てしなく続く紀州大山塊に魅入られ、呆然としてしまう。

 歩いているうちに薄暗い地平線が明るくなり、明るく爽やかな朝がやってきた。そして突然、南の山なみが一箇所キラキラと、この世のものとも思えぬほど美しく輝きだした。

 一瞬、我が目を疑い、これこそ江戸期の山師によって記録された金鉱脈から密かに立ちのぼるという幻の御神灯かとも思ったが、やがて、熊野灘に朝日が照り映えていることに気づいた。それは、まるで光の饗宴というにふさわしく、神々しいまでの美しさであった。海と山との境の見分けがつかぬほど、紀州山塊は広い。

 ここから七曜岳を超えて行者還岳に到るまでが、大峰山脈の最大の難所であり核心であって、ギザギザの鋸の刃のような苦しい上下が続く。「稚児落とし」を渡り、クサリ場をいくつも越えて、梯子を上下し緊張を強いられるが、南アの鋸岳ほどではなく、整備されているのでそれほど危険ではない。

 困ったことに、途中の水場は長期の晴天続きのため全部干上がっていた。しかし、前回の縦走のときはササ薮漕ぎに苦しんだ縦走路も、今回は刈入れされて歩きやすくなっていた。

 弥山への登りは、美しく快適な樹林を行く。ここは行者還トンネルに車を置けば、わずか2時間ほどで登れてしまう。もう15年も前に洞川から狼平を経て登っていて、山頂は今回で3度目ということになる。山頂直下の急登が辛いが、ひさしぶりの亜高山帯の針葉樹林に心が落ちつく。道には、ところどころ雪や霜柱が残っていた。

 弥山小屋にも人影はなく、おまけに水場が干上がっていた。冬期用避難舎に入り付近を探すと、便所の手洗いドラム缶に厚い氷が張っていたので、それを溶かして使うことにした。ナタで氷を砕きハンゴウで溶かすのに、ひどく時間がかかった。

 山頂は、小屋の上の鳥居をくぐったところにあり、山麓の天河弁財天社の奥宮が置かれている。これは芸能人に人気のある社として知られる。弁財天は、大黒天とともに鎌倉時代から信仰されるようになった。サンスクリット原典では、河の神、知恵、音楽、財物の神とされ、8本の腕をもつ女の姿である。神道ではイチキジマ姫尊とされ、後に、大黒天とともに福徳の神になった。芸能人にぴったりの神様なのだ。

 我々の知るのは、宝船に乗った七福人の紅一点の姿であるが、本当はもう少し奥行きのあるものらしい。修験道では、「オン、ソラソバテイエイソワカ」というのが弁財天のマントラにあたる。サンスクリットにある弁財天の原型は、古代ギリシアに伝えられて美の女神ビーナスになったと考えられる。

 朝、水をウーロン茶の容器に詰めて出発した。ひどい水で、いちいち沸かして茶にしなければ飲む気になれない。そのお茶も、ハンゴウの蓋に湯を沸かし、安い茎茶を放りこんで茶葉をペッペッと吐きながら飲むのだから旨かろうはずがない。荷をコンパクトにするために、余分なものを一切持たなかったのだ。

 30分ほどで、弥山の兄弟峰で大峰山脈最高峰かつ関西圏最高峰の八経ヶ岳、1915mである。仏教ヶ岳や八剣山の名もあるが、小角が法華経八巻を奉納した故事から名付けられたのだから八経岳で正しい。

 大峰のヘソにふさわしい広潤な展望である。なつかしい既登の山々を指呼に見渡すことができる。紀州山地北部のピークは大部分終っている。およそ100山以上も登っただろうか。我ながら、よくぞ歩いてきたものだと思う。

オオヤマレンゲの自生地を経て七面山に向かう。この付近、大峰山脈中の白眉といえる風景で、最初の奥駆けのときは新緑で、その類希な広葉樹林帯の美しさに言葉もでないほど感動したものである。

 しかし、当時すでに右手の七面谷の伐採が始まっていた。今回も、そのときの伐採跡地の荒廃がそのまま放置されているのを見た。本当にやりきれない思いがする。官僚主義の害毒を見せつけられる思いである。人間が利己権益主義を原理として生活するかぎり、自身を滅ぼす以外の道はないことを思い知らされるのである。

 七面山に近付くと、主綾は典型的な二重山稜になり、船窪状の地形が続く。粗末な副食のせいでビタミン不足の症状が現れはじめた。歯茎の出血は明らかなCの不足、茶を食べて補うつもりだったのだが追いつかない。茎茶でなく粉茶を直接食べるのでなければならなかった。B不足の脚気症状も現れ、こちらは黒砂糖を食べて補った。

 七面山の南側には大峰きっての高度差400メートルの岩場がある。奥駆けのなかでも大切な行場だが、ここは魔の大岩壁とよばれている。ロッククライミング中の墜死者も少なくない。古いこんな言い伝えが残されている。

 「古田の森に黒霧かかれば、そのなかより魔いで来たりて人を連れ、七面のクラにゆくことあり」と。
 稜線を素直に歩くと、この大岩壁の真上にさまよい出る。無意識のうち、いつのまにか行ってしまう。山伏には、あまりの悪行故に成仏できないで彷徨する魂が多く、そうした幽冥界をさまよう悪霊が、志操の緩い者に取り憑き、死へと誘うのである。

 楊次の森から長い登りになる。ふりかえれば、七面山の魔の岩場がすばらしい。
 途中、激しい倒木帯にでくわした。前回の縦走の記憶にないから、これは昨年、三重県地方を集中的に襲ったいくつかの台風の仕業ではないかと思えた。ルートが判然とせず迷いやすいが、適当に尾根を外さずに歩いた。
 迷いこみやすい枝尾根が多いのでガスの日は危険であろう。おまけに途中で主綾が屈曲しているので、いかにも遭難しそうだ。これでは、よほど山慣れた者以外は危険だ。

 仏生ヶ岳から、長い散歩道を歩く。このあたり石灰岩カルスト露頭で、五百羅漢と名付けられている。いつものクセで、化石を探したが良いものは見あたらなかった。
 研磨しなければ発見が難しい。良い化石は、高級なビルの大理石を探すのがてっとりばやい。

 釈迦ヶ岳がだんだん近付いてくるが、なかなか届かない。鞍部には、良い岩遊びのゲレンデになりそうな巨岩がある。修験では、これを両部分けと呼び、吉野からここまでを金剛界曼陀羅といい、これから熊野神宮までを胎蔵界曼陀羅といっている。大峰修験道のデベソといっていい。

 岩を回りこむようにして、いよいよ釈迦ヶ岳の急登がはじまる。両手足を使ってよじ登り、喘ぎ喘ぎ30分ほどで山頂に達する。

 大峰南部の秘峰、釈迦ヶ岳は、実に5度目の登頂である。懐かしい釈迦如来像も健在。
 最初に登ったときは1800mの標高だったものが、いつのまにかわずかに低くなっている。だが、大峰きっての絶景は変わることがない。これほどの大展望は、紀州山地全体でも一位を譲らないであろう。

 大きなブロンズ製如来像は、大正年間に岡田牛松というボッカが上げたもので、分解しても一つが200キロ近くある。多年の落雷によってかなり傷んできているのが気になる。

 ここで奥駆け修行のハイライトである秘法護摩が行われる。ゾロアスター教の拝火信仰が伝えられた護摩(ホーマ)には、大きく分けて3種類あり、病気災厄を防ぐ息災護摩、福利現世利益のための増益護摩、敵を呪い滅ぼす調伏護摩であるが、中世、権力抗争に加わった山伏は、もっぱら調伏護摩を盛んに行った。

 大名の世継ぎ争いでは、山伏による調伏の記録がたくさんでてくる。庶民の間に、丑の刻参りが流行ったのもこの影響であって、有名なブードー教の呪殺と同じ性質のものであった。

 今では、もちろん息災護摩が中心であって、大阪商人の多い大峰修験者には、もっぱら増益護摩が多くなるのも当然であろう。釈迦ヶ岳では、柴灯護摩の勤行が行われ、これは先祖供養の意味をもっているとされる。しかし、これらは密教のもので、本来の習合神道の伝統行は消えてしまったが、昔の行の内容を知りたいものだ。

 釈迦ヶ岳を熊野に向かってまっすぐ下ると、誤って十津川村登山口に下りやすいが、笹に隠された道を見失わないように本道を左手に折れて下ってゆけば深仙(じんぜん)の宿に着く。ここに古い堂宇が建てられている。

 これが本山派の伝法潅頂の行場であって、ここまで約1週間にわたって苦しい修行を続けてきた山伏に、洗礼の意味もった資格付与が行われた。

 潅頂(かんじょう)とは、十種の行を修めた者に戒律を与える儀式で、行者は大先達に護摩木を渡し、大先達は行者の頭に香水を振りかけるのだが、キリスト教の洗礼と変わるところがない理由は、密教を体系化した不空三蔵が、当時、唐に伝わっていた最新の宗教であった恵教(キリスト教)をモデルにしたのだろうと考える。ただし我説である。

 深仙堂の脇をトラバースして戻ると、香精水という水場があって、これが潅頂香水にされる。これをあてにしていたのだが枯れてしまっていた。半月以上の晴天続きのため、ここまでの水場は全滅であった。残り水はコップ一杯程度。先が長いのに困ってしまった。

 ほどほどに休憩して出発すると、すぐに大日岳がある。左手の踏跡をたどればスラブ状の岩場があって、鎖を登りつめて頂上に達する。もちろん、行場である。
わずかで太古の辻に着く。ここが、大峰と熊野を分ける境になり、奥駆けも、ここから前鬼に下るのが普通である。

 予定では、もちろん熊野に向かうつもりだったが、水が不足しているので考えこんでしまった。次の水場である持経の宿までは4時間以上かかるが、コップ1杯の水しか残っていない。
 それに、水場が枯れていない保証もない。結局、前鬼に下ることにした。ここまでのコースは何度も歩いていて、ここからの熊野コースこそ目的にして歩いてきたのだが、残念無念で未練が残ってしかたなかった。

 左手の急な道を下りはじめた。途中、鉄砲の音が聞こえ、鹿の鳴き声が続いた。二つ岩という奇岩が現れれば半ばである。何度も通った道なのに、ずいぶん遠く感じる。途中の沢は、すべて枯れていた。この標高差と距離では、もう再登する意欲も湧かないだろう。

 杉林が現れ、五鬼童、五鬼熊、五鬼継などの住居跡の表示がされていた。前回にはこのようなものはなかった。そして、懐かしい五鬼助家の建物が見えた。ひさしぶりの前鬼。誰かいるだろうか。

 だが、なんと、あてにしていた小仲坊がないではないか。そこには、建物の新しい基礎だけがあった。驚いたことに、車道のなかったはずの前鬼に、そこまでコンクリート舗装の狭い林道がつけられていた。

 なんということだ、前鬼も変わってしまうのか。前鬼を取り巻く見事な原生林も、王子製紙の手によって無惨に伐採されていた。

 この山々は、日本狼の最後の棲息地であった。10年前に会った神戸市の斐太猪之助さんは、前鬼に泊りこんで最後の狼家族を観察していた。その斐太さんも亡くなられた。

 なによりも、私が前鬼を何度も訪れるきっかけになった最後の鬼の子孫、小仲坊の主であった五鬼助五郎義价さんが文字通の鬼籍に入られて、すでに5年も経てしまった。

 前鬼は、役の行者が大峰を拓いたとき、従者として小角を世話した前鬼と後鬼が棲みついて修験者の世話をするようになったという伝承をもつ。開闢以来、実に1200年の伝統があった。

 五郎さんは、その最後の末裔であり、親切な人間性は、誰からも愛されていた。
 私がはじめて前鬼を訪れた十数年前、五郎さんは離れの小仲坊でなく、自宅に泊めてくれた。その夜は、数名の登山者とともに酒宴になった。五郎さんは、ひどく酔ってしまった。その前夜、一千年以上護り通してきた前鬼の守護神であった役の行者像が盗まれていたのである。

 私が持参のブランデをーすすめると、彼は戸棚を開けてみせた。すると、そこには世界中の銘酒がこれでもかと並んでいた。五郎さんは、西洋人の血を引くかと思えるほど端正な容姿で、熊野のユダヤ伝説をほうふつとさせるほどだったが、五十歳を過ぎてなお独身であった。こんな辺鄙な場所に来る嫁などいなかった。

 彼がどれほどの寂寥に堪えてきたか、自分も同じような境遇になってみて身に染みる。暴飲暴食するようになり、やがて体を壊して入院するようになった。優れた修験道学者であった父親の研究を引き継いでおられたが、世に出ることもなかった。

 その後も、幾度か前鬼を訪れたが、五郎さんに再会することはできなかった。何度目か小仲坊を訪れたとき、親戚の若者から五郎さんの訃報を聞いた。死因は糖尿病による内臓不全であった。享年54歳、祈念冥福。

 小仲坊は改築されるようだ。天気が悪くなっていたので、雨を凌げる軒下を探したが見あたらず、やむをえず広場にツェルトを張った。ハンゴウで飯を炊いていると、さきほど鉄砲を撃っていた猟師が降りてきた。

 話しているうちに、五郎さんのありし日のことが話題になった。その人は、子供の頃からの友人で、頻繁に五郎さんを訪れていた。五鬼助家は京都に親戚があって、その人が小仲坊の経営を引き継いでいるという。

 それから、猟の話になった。「いや、今そこで熊に吠えられてな」と、こともなげにいう。鹿を追っていて熊に気づかず、危ういところだったという。前鬼の付近は熊が多くて、何度も出会っているという。

 狼も、1950年代まで普通にいたといわれた。撃って、大学に毛皮を持ち込んだこともあったが、頭骨がないという理由で正体不明という結論になったそうである。「学者なんて、そんなもんさ」といわれた。日本狼の滅亡の公式年代は明治42年なのである。

 「気をつけて」といって去った後、ひとり取り残されて薄気味悪くなった。ツェルトのなかでシュラフに潜りこんでも、小さな音にもおびえた。

夜半、ときどき鹿の鳴き声が大きく響き、近くで枯葉を分けるガサガサという重い音がした。「熊かもしれない」と思い大声をあげると、足音はゆっくりと遠ざかっていった。やはり熊だったようだ。キャンプ場には、残飯を狙ってよく現れる。

 雨がフライシートを叩くようになり、それでも、いつのまにかウトウトとしてしまった。さすがに、疲れがでたのだ。翌朝、ひどく寒く、すぐれない天気であった。もはや熊野に登り返す気力も消滅し、支度をしてバス停に向かった。荷は10キロ近く軽くなって楽になった。

 五鬼助家の先で、前鬼の裏行場二十八宿への道を分ける。ここは三重の滝に出るルートだが非常に危険だという。山伏にも多くの死傷者が出ている。旧道を戻り、林道に出る。そこからバス停まで3時間。

 トンネルの手前で、左手の不動七重の滝がすばらしい。知られていないだけで、日光華厳の滝や、尾瀬三条の滝にも匹敵する見事さである。7段で、総落差およそ200m
 林道をとことこと歩いてゆくと、前鬼口に近いオワシ谷という場所で、右手の薮のなかから、突然ものすごいうなり声がおこってドギモを抜かれた。

 見ると、数十メートル離れた藪の奥に、人の大きさほどの熊らしき影が立ち上がってこちらを見ていた。すぐに熊だとピーンときたが、初めてではなかったのであわてなかった。8月に、浅草岳に登ったときも、六十里越峠で同じように吠えられたばかりである。

 大急ぎでそこを駆け抜け、少し歩いて振り返ると、林のなかに黒いものが蠢き、再びすさまじい吠え声があたり一帯に響きわたった。今度は、少々あわてて走って逃げた。今にも追いかけてくるように思えたからである。何十頭の大型犬が一度に吠えたような迫力であった。

 バス停に着くと、すぐにバスが来た。間に合ってよかった。新宮まで1日4本しかないのだ。バスは、以前は大型だったが、今度はマイクロに変わっていた。ローカル交通は採算割れの一途だからやむをえない。

 乗客は私独り、貸切りとは豪勢だ。バスの運転手さんに熊のことを言うと驚いていた。今年は、ピナツボ噴火の影響で、長雨のため実生も不作になり、熊が里に出るケースが多いようである。紅葉の悪い年は、熊が多く捕れるというのは間違いない。

 熊野駅に近づくにつれ、客も増えてきた。沿道の山々は、秋の台風のためひどい風害を被っているのが見えた。バスのなかで、酔ってそのことをわめいている男がいた。熊野灘がひどく美しく見えた。

 このとき歩き残した熊野奥駆けは、翌年春、玉置山から笠捨山まで歩いたが、林道が尾根筋を交錯し、原生林はほとんど皆伐され、あまり気分の良いものではなかった。

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前黒法師岳 1943m
(榛原郡本川根町寸又峡温泉より 90年4月13日)

 4月13日は仕事が暇で休みをもらえた。ところが、せっかくの連休はまたしても天候不順であった。土曜日の午後から大荒れになるという。せめて悪くなる前に、大急ぎでどこか登ってしまうことにした。狙い目は、不動・丸盆・中の尾根というところだが、残念だが、日帰りの山を選ばねばならない。

 12日の夜静岡方面に出発して、東名高速の車中で寸又峡温泉の山に決めた。途中、袋井インターで降りて、「静岡県の山147座」というガイドブックを購入し、寸又峡温泉の駐車場で前黒法師岳に決めた。この本には、寸又峡からは沢口岳・朝日岳・前黒法師岳の3つがでていた。寸又3山というそうである。

 寸又峡温泉は南ア登山の帰りに幾度も来ていて、よく知っている。駐車場には立派なトイレもあり、車泊には抜群の条件が揃っていて、温泉も、最近300円で入れる町営の露天風呂公衆浴場ができている。

 この温泉は子供の頃から記憶にあった。というのは、30年近くも前と思うが、キンキロウ事件というのがあって、在日朝鮮人の金氏がライフルを持って温泉に立て篭もった大事件があったからである。この事件は、臭いものにフタをしたがる日本人に、民族差別の現実を考えさせるきっかけになったと記憶している。

 この事件の当時は、義務教育に沖縄は存在せず、東アジアにおける日本人が民間人一千万人を殺害した暴虐も知らされず、朝鮮の婦女子が日本軍将校のための売春婦に強制徴用された事実も完全に隠蔽され、政府官僚は、「日本がそのような行為を行なった事実はない」と平然とシラをきっていた。

 上から下まで権威による嘘が充満する日本で、日本に大勢の朝鮮人が強制連行されて居住し、差別迫害されている事実を世間に知らしめたのがこの事件であった。
 これらの悪夢のような日本人の犯罪を考えれば、原爆やソ連のシベリア抑留などエラそうに弾劾できた義理でないことが思い知らされよう。

 寸又峡温泉は、1936年、大間ダムの建設現場で偶然発見された。といっても湯山・湯沢などの地名が昔からあったのだから、温泉が湧出することは古くから知られていたのだろう。

 現在は、奥大井渓谷最大の観光地になっている。この温泉が今日のように有名になったきっかけは、上記の事件だったようだ。だから、忘れ去られている恩人金氏のライフル所持像くらい建立してもよいのではないだろうか。実にユニークなのだが。


13日、朝7時に出発すると、6時までは青空だった空も、すでに鱗状雲に包まれてどんよりとしてきた。異常に暖かい。

 桜・梅・椿・コブシ・ツツジと、全部まとめて一斉に花をつけた温泉街を過ぎて、ゲートから林道に入ると、わずかで右下が深く切れ落ちた寸又峡である。立派なトイレを見てトンネルをくぐると、高さ100mの飛竜橋に出る。途中右下の大間ダムに降りると「夢の吊橋」とやらがある。

 ここに、「日本の残したい自然100選、寸又峡谷」という大きな看板がかかっているが、目の下は殺風景なダムのコンクリート塊で、対岸には無謀な林道建設によって大規模な崩壊を起こした山肌が無惨で、遊覧歩道も猛烈な落石でズタズタに破壊されているのを見ると、皮肉以外のなにものでもないと思える。

 飛竜橋を渡って左手の林道に入ると、200mほどで前黒法師岳の標識のついた鉄梯子があった。 急な道を高距100mも登ると、突然石組の部落跡にでた。尾根にへばりついたこの部落跡は、戸数およそ20戸もあったかと思える。50年くらい前までは人が住んでいた形跡があって、朽ちた材木や鍋釜ストーブが残っていた。

 資料がないので詳しいことは分からないが、この西側の谷が湯沢と呼ばれ、寸又峡温泉の源泉地になっているので、ここは孟八郎が黒法師登山のおりに経由した湯沢の部落ではないだろうか。当然、木地師の里だっただろう。

 急な斜面にあえいで杉の植林を1時間も登ると、広くて快適な尾根に合流する。ここに栗の木段と書かれた標識があった。この尾根上は、どこにでも幕営できそうだ。ここで休憩せずにはいられない。ここから気分のよい原生の疎林になる。

 しばらく幅広い尾根を緩やかに登り、ふたたび急で狭い尾根を喘登するようになると、しばらくで右手からの大きな尾根に合流する。この尾根にも踏跡がついていて、朽ちた標識もあるので、どうやら古い廃道のようだ。地形図を見ると、実に快適そうな尾根である。

 ここから、道はしっかりしてはいるが歩きにくくなる。標高1700mのあたりでシロガレの頭と書かれた標識を見て、やっと前黒法師の本体が見えたが、すでにガスに包まれていた。

 突然、大音量の鹿の鳴き声がして驚いた。私も反射的に「ワ!」と叫んだので、向こうも驚いただろう。このあたりから雪がでてきて、道には大量の鹿のフンがいたるところに落ちている。

 このフンは、日本鹿とカモシカのどちらも同じような形なので見分けがつかないが、鹿が走りながら落とすので散在するのに対し、カモシカは止まってするのでまとまるのが特徴である。ここのは、まとまっていた。

ヤブのなかで「ドドド」という音がした。わずかで、道に真新しい掘跡があった。イノシシが何かの根茎を掘っていたようだ。ユリ根だろうか。

 前黒法師の登りは、両手足を使うような急登である。半月ぶりなので苦しい思いをした。傾斜が緩くなると山頂の広い尾根になり、残雪に50センチも埋まりながら100mほどで看板のある小広い山頂についた。

 ちょうど11時で、寸又峡の駐車場から標高差1400m、所要4時間だ。このルートでは山慣れない人は入らない方が良さそうだ。結構ボリュームのある行程であった。重装備の幕営縦走では、ここらまでで1日行程になってしまいそうだ。

 ところが、実はこの山には山犬段方面から林道がついていて、車利用では終点から30分程度でここに来てしまえるのだ。なんとも不愉快な話だ。
 実際、私のたどったコースの雪上には足跡が皆無だったのに、頂上には林道方面の切り開きから足跡がついていた。もっとも、現在、林道は崩壊して通行不能だから、歩いてきたのだろうが。

 山頂は四方を木に遮られて展望皆無だった。あったとしても、このガスでは同じことだ。雨も本降りとなり、独りで恒例の万歳三唱の後、直ちに下山を開始した。

 下山途中、栗の木段から土砂降りになった。登山者が少なくて土が緩んでいるので、ズルズルと滑る。林道に降りると、高いガケの上からすぐ脇に大きな石が落ちてきた。猿か鹿が落としたのかもしれない。危うくお陀仏のところだ。林道にカモシカが出ていて、数mまで近寄ってゆくと、信じられないような急崖を寸又川に降りていった。寸又峡温泉には2時間で着いた。

 300円で露天風呂のチケットを買い、新設の風呂に行くと、番台には親切で感じの好い初老の男性がいて、「登山ですか」と話しかけてきた。「ヒルにやられなかったかい」と尋ねられ、「裸になってみないと分からないですね」と答えた。

 幸い、ヒルに喰われてはいなかったが、ここはこのような雨の日は、ヒルの名所なのだという。
 アルカリ性単純硫黄泉の、石鹸の泡立ちの好い風呂をゆっくり楽しんで着替えると、服にヒルがうねっていた。この時期、まだ動作が鈍いのかもしれない。一般に単独行はヒルにやられにくいようだ。

 昨年1年間で51回の登山のうち、ヒルにやられたのは1回だけだった。それも熊伏山のケモノ道だから、普通の登山道ではあまり心配する必要はなさそうだ。

 駐車場までの数百mは、足がいうことを聞かなくなって辛い思いをした。車にたどり着いたら、全然歩く気がしなくなった。ややオーバーワークのようだ。



蕎麦粒山  1627m
(榛原郡中川根町大字上長尾字尾呂久保より 91年3月3日 )

 この日は、京丸伝承による伝説の親王、尹良(由機良)の首が祀られたはずの、高塚山に登るつもりだった。ここには、盗掘された痕跡のある墓塚らしきものがあると、文献に記されている。

 ルートは、2月10日に登ったばかりの大札山の先の蕎麦粒山から、前黒法師岳に結ぶ稜線の、千石平の手前で左手に分岐すればよいはずだった。

 2日夜は、尾呂久保部落の入口にあって、オロチ伝説の伝わる小さな池の小公園に車泊した。すばらしく整備されている場所で、清潔そのもののトイレもあって、快適であった。このトイレは、宿泊に使えそうだ。

 尾呂久保へ向かう道は、南アルプス赤石幹線林道(スーパー林道)の中川根町入口から入るのだが、分岐に標識がないので分かりにくい。中川根町(上長尾)に入ったら、国道の出光のスタンドが目印になる。そこに、小さな「ウッドハウスオロクボ」の看板があって、尾呂久保まで車で30分ほどである。

 まだ明るいうちに着いたので、部落を見てまわった。落ち着いたたたずまいの、本当に美しい部落である。ここは他の山村と違って、無人の家はなく、住人がこの部落をを心から愛して住んでいる様子がうかがえる。

 でも、いったいどうして食べてゆけるのだろう。広い茶畑があるにはあるが、農林水産業を壊滅させようとする現在の政治体制のもとで、山村の農林業だけで生計をたてるのは非常に厳しいと思える。

 夕暮れが迫って、近くの家で話し声が聞こえたので、訪ねてみた。御主人に、部落の起源などについて話をうかがうことにした。

 この家の方の話では、部落の伝説によれば、武田信玄の四天王が、遠山城落城の際に落武者としてこの地に逃れ先祖となったとのことだった。しかし、この部落の寺に残された伝承から、600年程度の歴史があるということで、だとすれば、武田家の滅亡は1576年前後なので、それよりも200年も古いことになる。

 600年前は南北朝の時代で、この地方にあまた存在する尹良伝説の時代にほかならない。そして、それをほのめかす僅かな地誌もあった。
 御主人に、「この部落の人は、どうやって食べているんでしょうかね」と失礼千万な質問をしたところ、

「食うや食わずで生きてるずらよ」
 という答えが返ってきた。

 オロクボの名は、部落の入口にある小さな沼の大蛇伝説から、オロチクボとされたところからなのは明らかだが、この伝説も、そしてオロクボの起源はおろか地名すら、図書館の郷土資料に含まれたいかなる地誌文献にも掲載されていないのが不思議である。

 ここも、かつては超僻地であった。ここは海抜700mの大札山の尾根に開かれている。このような僻地山村の起源については、だいたい次のことが考えられる。

  12世紀の源平合戦に敗れた、平家の落武者が探索を逃れるため住んだ。
  近江小椋郷(永源寺町)に起源をもち、中部山岳を渡り歩いた木地師が定着した。
  東北山岳を中心に、遊猟して歩いたマタギが定着した。(太平洋側には稀だが)
  南西山岳河川を広く渡り歩いたサンカが定着した。(これは意外に多い)
  14世紀の南北朝の乱の際、足利方に追われた南朝の落武者が逃げ住んだ。
  それ以外の落武者、野伏山賊、修験者(山伏)などが定着した。
  もともとの土着民。(柳田国男は、大和民族以前の先住日本人を想定している、)

 このうち、可能性の強いのは落武者である。このような急峻な山岳地帯の生活環境に、土着民が定住していた可能性は薄い。なにか特別な事情がない限り、こんな不便な場所に土着する必然性があると思えない。(ただし、柳田国男の考えた日本先住民[山人]なら話は別であるが、その証明はない。)

 遠州地方の山村に最も多い起源は、木地師の定着村である。木地師が冬期の降雪の少ない山地を選ぶのは、当然である。また、部落の伝説にある武田の落武者説は、安部川上流部には信玄の隠し湯があって、武田一族の落武者の部落もあるのだが、このような部落の家の破風には、武田菱の家紋が刻まれているのが普通で、比較的わかりやすい。だが尾呂久保の部落にはそれがなかった。それに、上記の通り年代が合わない。

 私は、京丸伝説と共通の、南朝方藤原一族の末裔ではないかと考える。
 「遠江風土記伝」に、長尾村藤川についての記述がある。旧榛原郡誌はこれに説明を加え、次のようにいう。

 藤川とは、藤原という姓の人々の住んだ地域を流れる川を指し、今の榛原川をいう。
 川根地方には、右衛門・左衛門を称する者が多く、これは古代における京の衛士を意味したものと考えられる。
 また、藤何と称する姓もすこぶる多く、長尾村久保尾(誤記で、小井平が正しい)の藤本は藤原の本家で、傍らに分家したものを藤脇といい、川上に分家したものを藤江または藤上という。
 
 長尾の地名について、風土記伝中に、
 「金吾八幡社 在 長尾 由機良親王供奉 侍奥山金吾正定則卒、後火葬於倉平 而植 杉木二株 為 誌祀霊於長尾」という一節があって、奥山金吾を長尾に祀っている。
 また、上長尾のウサジと呼ばれる家の系図に、ジンガハヤシの記述がある。伝えるところでは、後醍醐天皇の御物なる緞子の幕と御旗を所蔵していたが、その威霊を冒涜するのを恐れ、焼いて灰にしてこれを埋め、神が林と称して神霊を保ったという。(以上、榛原郡誌)
 
 奥山金吾は尹良の随臣で、水窪町、佐久間町一帯の領主であった奥山一族の祖とされる伝説の人物である。これで、どうやら尾呂久保の所属する上長尾も尹良伝説にかかわっていることが分かる。

 また、隣ともいえる榛原川では藤原一族が居住したとされ、京丸とのつながりを暗示している。さらに、年代も符合している。

 そこで、京丸と尾呂久保と藤川(榛原川)の位置関係を考えてみると、尾根伝いのルートを選べば、尾呂久保から高塚山まで10キロ4時間程度、そこから京丸まで5キロ2時間程度で近いし、上記藤川こと榛原川は、大井川支流だが大札山の尾根向こうで、尾呂久保からは3キロ1時間程度、そこから高塚山まで8キロ3時間程度であり、互いに完全に交流圏にあったことが分かる。

 おまけに、京丸・尾呂久保・榛原川流域のいずれも、高塚山を守護するように拡った要の位置にあることが注目される。
 ということで、私は尾呂久保部落の起源について、京丸と同様、尹良随臣説をとりたい。

 つまり、尹良の首塚を取り巻くようにして、京丸・尾呂久保・藤川に藤原一族が部落を開いたのではないか、という推理である。

 この説は、尾呂久保に「藤」のつく姓があれば確定的なのだが、役場に問い合わせたところ、鈴木・土屋・滝本・梶原であると教えてくれた。藤何はなかった。
 というわけで、証明は不可能であり、推理を超えることはできなかった。


 3日の朝は、まずまずの天気であったが、このところの寒さは相変わらずである。
 2月10日に大札山に登った際、山犬段の手前でスーパー林道が崩落して通行止めになっていることを確認した。蕎麦粒山への登路は、崩壊地点の手前に小さな標識がでていた。

 ここはすでに標高1000mを超しているので、山頂までの標高差はわずか600mほどしかない。にもかかわらず、痩せた尾根をたどると雪に足をとられて結構時間がかかり、山頂まで1時間半も要した。ワカンが必要なのに、甘く考えて持参しなかったのを後悔するハメになった。このコースは荒廃していて、あまり歩かれていないようだった。メインコースは山犬段からであろう。

 山頂は公園のように整備されている。大札山と同じで、山犬段広場からの家族向けハイキングコースに設定されているのであろう。眺望も良い。だが、ヤブ好きのヘソマガリにはやや敬遠されそうだ。

 千石平方面の標識にしたがって主稜をたどると、雪はますます深くなり、ところどころアイスバーンで、縦走は危険かつ困難なものになった。凍りついた雪はスイスイ歩けるが、その気になっていると、突然1mも落ちるのである。

 このような場所では、ワカンを裏返しにしてアイゼンを併用するのがベストだが、甘く考えて持ってこなかった。
 執念深くがんばったが、高塚山の分岐の手前で何度も雪の落し穴に腰まで埋まり、さすがにバンザイしてしまった。もう、今来たワナのようなルートを戻る気もせず、右下に見えた林道に降りることにした。

 これが誤りで、ササヤブをかきわけて降りて行くと身動きがとれなくなり、しかも林道の上は高いガケが続いていた。1時間以上も難渋して、必死になってヤブを戻り、沢筋からやっと林道に降り立った。寒い日に軍手だったので、濡れた手は青白く無感覚になり、あわてて純毛手袋に替えたが、しばらくして激しく痛んだ。

 もう気力は失せた。林道を戻ると、山犬段までのあいだ各所で激しく崩壊し、この道がすでに利用不能の廃道化していることを知った。救いのない自然破壊だけが遺されてゆく。
 山犬段には立派な山小屋があった。トイレも整備され、大きな駐車場になっているが、途中の大崩壊のため当分車は来れない。

 車に戻る途中、地元の人とすれちがった。鉄砲を持っていないので、なんだろうと聞いてみると、サルノコシカケ採りとのことだった。この付近には多いという耳寄りな話を聞いて、高塚山再訪も含めて、また来なければならなくなってしまった。こちらは私の専門といっていい。

 追記、 この文章を書いた後、事実関係の確認のため、中川根町役場や教育委員会に電話した際、地元の郷土史家のカワムラケイジ氏(Tel 0547−56−1037)を紹介された。

 カワムラさんの研究では、尾呂久保の起源について、やはり武田遺臣団、それも山本勘助の関連の落武者ではないかとのことだったが、古文書などの文献が不足しているために、確実な結論が出せないといわれた。



 池口岳  2392m
(長野県下伊那郡南信濃村大字和田字池口より 1990年6月)

 池口岳は南ア深南部の秘鋒である。ここを狙ったのは、深田クラブの日本200名山を見ていたからである。6月3日に、中ア経ヶ岳に登ったおり横浜の日本山岳会の高沢英雄さんとお会いし、高沢さんから「先週登った池口岳は実に良い山だった」と聞かされ、さらに心が動いていた。

 前日の深夜に、車で新城から平岡を経て秋葉街道遠山郷の池口の部落にたどり着き、そこで一夜を明かした。

 朝、地図通りに登山口を探したが、池口尾根の入り口にある遠山さん宅の脇の道は、登山道ではなく林道に変わっていて迷った。
 できたての林道を進むと、1Kmほどで池口岳の標識がある。しかし標識の矢印の先はさらに1Km先で行き止まりになる。本当の登山道はなんと、その標識のま横から始まるのだ。

 この標識は、将来完成予定の南赤石幹線林道(南部スーパー林道)のためにつけられたもので、池口尾根をたどり、植物学上極めて貴重な池口岳の頂上直下原生林をかすめて、加加森山との鞍部を越え黒法師山方面に進むものである。

 ここにも未来への遺産を食いものにする林野庁の魔手が伸びて来ているのである。名峰、池口岳にも霧が峰の車山がたどった運命が待ち構えているのだろうか。なんとしてもこの林道建設を阻止したいものだ。

 7時半にここを出ようとすると、会互いして地元の3人連れが登って来ていてなんとなく一緒に出発した。世間話をしながら登ったが、彼等はここのコチョウランを採取にきたとのことだった。
 シャクナゲやランは良いアルバイトになるらしいが、あまり気分の良い話ではなかった。しかし、私がここに育ったならば、疑いもなく彼等と同じことをするにきまっている。

 広い尾根には薮のうるさい登山道がついている。全体に赤松が多く、キノコ党の私にはマツタケの香りさえ漂うようだ。ここは、焼畑という地名からも分かるように、江戸時代からの隠し畠だったようだ。この高度では稗が作られていただろう。おそらく、木地屋が拓いたのではないだろうか。

 1時間ほどで樹種が本来のブナ・クヌギ・コナラ林に変わり、その大木の多くに奇妙な人面がナタで刻まれている。ここを面切平という。地元の人もそのいわれは知らなかった。

 さらに30分ほどで、右手奥に社を見る。ここに落ち葉の澱んだ小さな水場があるが、よほどでなければ飲む気はしない。このコースは水がないと考えた方がよい。社の脇のヒノキの大木は、この数日以内につけられたと思われる熊の皮剥きがあった。伐採によってエサが不足するため熊がヒノキの甘皮を食べるのだが、木には致命的なダメージかもしれない。

 鹿に刈られた笹原が続くこのあたりは、美しい原生樹林帯である。林野庁が、この見事な芸術品を根こそぎ破壊しようと狙い、すでに林道がわずか下まで延びてきているのを思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。

 登山口から2時間ほどで右手に大きなガレを見る。ここを黒薙といい、コチョウランの名所である。ガレ越しに、初めて池口岳の美しい姿を捉えることができる。しかし、ここは非常に複雑な地形で、ひどく迷いやすい場所である。特にくだりは要注意である。

 というのも、ここの踏みあとはガレから遠ざかる迷いルートやケモノ道のほうがはっきりしているためである。本当のルートはガレ沿いの草薮のなかにかすかに見える。十分注意しよう。ただし、私は間違えたおかげで、産まれたてのバンビに出会うことができた。

 ここから踏みあとは心もとなくなり、右へ方向を変える。
 頂上へは、ここから原生林のヤセ尾根を2時間ほど登ることになる。ところどころに快適なテント場があるが、水はない。

 途中、上からみすぼらしい中年の登山者が降りてきた。こんな山に先行登山者がいるはずがないと決めつけていたので、非常にびっくりした。それが宮崎日出一さんだった。

 言葉を交わすうちに驚くことばかりであった。宮崎さんは、清水栄一さんの「信州100名山」に池口岳北峰が載り、そのなかに自分のことも紹介されていると切り抜きを見せてくれた。

 宮崎さんは、金剛山の6000回をはじめ、日本中の山を4000回以上歩いておられた。後で、中アのどこかで飯田山岳会の人から、そんな人物がいると聞いたことを思い出した。

 宮崎さんから「帰り乗せていってください」と頼まれ、一も二もなくOKした。とてつもない楽しみが増えそうな予感がした。

 急いで池口岳北峰にかけ上がる途中、踏跡の中央に比較的新しい、シカ毛と思われる毛玉フンを見た。毛玉フンはノロシ(狼煙)に使われるもので、日本オオカミの特徴のひとつでもある。後に、宮崎さんに問い合わせたら、熊の甘皮フン(繊維が毛玉フンに似ている)を見誤ったのではないかと答えられた。
 しかし、これは犬糞の形状だった。

 北峰の頂上は、樹林に遮られて展望はいまいちだが、はるばる来た甲斐のあるすばらしい頂であった。ナントカ大学ワンゲル部の標識がやたらに目についたのが少し興醒めだが、十分に満足できる雰囲気である。

 帰路、この日に限ってコンパスを忘れたため、頂上下の光岳への分岐と黒薙で迷い1時間近く損をしたので、宮崎さんとの待ち合わせ場所まで走って降りた。ゆるい尾根なので走るとたわいもなく下に着いてしまう。

 帰りの車中は、山の話で実に楽しいひとときだったが、佐久間ダム経由の道を選んだのは失敗だった。平岡からは、新野峠・151号経由で豊橋ICへ出るか、阿南町・151号経由で飯田ICへ出るか、さもなくば売木村・平谷峠418号を経て飯田街道から名古屋ICに出るべきである。

 池口を3時半に出て、名古屋駅に到着したのは9時になってしまった。
 宮崎さんに日本山岳会選定の日本300名山を送ってもらう約束をして別れたが、うかつにも連絡先のメモを紛失し、連絡がとれたのは1ヶ月後にNTT案内によってであった。



 鬼面山  1889m
(長野県上伊那郡大鹿村地蔵峠より 90年8月12日)

 鬼面山は、南アルプス伊那山脈の最高峰で、「信州100名山」に取り上げられていた。一度は行かねばならない。例のごとく、土曜の夜は大河原で車泊した。

 地蔵峠まで、道は狭いが舗装されている。舗装が終わると地蔵峠で、そこに鬼面山の登山口がある。朝一番の登山者は、露払いとクモノス払いを引き受けねばならない。最近は勤勉なので、いつもササの茎を上下に振りながら歩くはめになっている。その代わり、ヒルにやられることは少ない。

 地蔵峠は、伊那山脈の鬼面山と赤石山脈の奥茶臼、尾高山を結ぶ稜線である。割合やせた尾根道なので、迷うところは少ない。500mも行くと小屋がある。このあたりからササヤブがうるさい。朝露のおかげで、いくらも行かぬうちに全身ズブ濡れとなった。

 なんということもなく、頂上には1時間半程度で着いてしまった。頂上は一等三角点である。私は一等三角点が好きだ。それは標石が大きく座るのに都合が良いからだ。だが、ここの標石は航空測標がセットしてあって座れない。

 ここから、伊那側に比べて南ア本峰の見通しは悪い。だが、樹林の切れ目から、見事な鋭鋒が顔を覗かせている。池口岳であった。
 なんというすばらしい姿であろうか。まるで鹿島槍ではないか。私は、いつまでも飽きずに眺め続けた。

 頂上から伊那側に刈り上げて数年以内の道がついていた。また氏乗山方面にも縦走路があった。しかし、北への縦走路はまったく判らなかった。
 帰り道、冬期登山用の赤布を100本ほどセットした。

 地蔵峠に降り着いても全然物足らないので、熊伏山に登ることにした。伊那和田への狭い道を走ったが、青崩峠方面は工事通行止であった。やむをえず、地図を見ながら三河茶臼をめざした。

 三河茶臼山は愛知県の最高峰でありながら、登山の対象ではない。ありふれた三流観光地である。
 新野峠から登ると、駐車場には観光客が群がっていた。私は駐車場に車を止め、標高差200mの山頂に空身で駆け出した。頂上に12分で着いた。これで「信州100名山」いっちょうあがりである。


 94年、3月、無線仲間6名と再登したとき、積雪状態が悪くトレースもなく、山頂まで5時間を要した。ただし、車は4WDチェーンフル装備で、地蔵峠まで行けた。

 この付近は南アルプス特有の粉雪で、わかんでも踏みごたえがなく、苦しいラッセルを強いられる。おまけに雨のため表面だけが凍結したため、乗るとズボッと埋没し、なかなか次の一歩が踏み出せないと言う雪質だったのいで一同疲労困憊し、山頂ピークの手前で投了寸前になってしまった。
 辛うじて達した山頂は、中央と南アルプスの360度の大展望で、苦労した分、格別の満足感に包まれた。


 追記

 まだ、これ以外に、以下の山行記があったがフロッピーを紛失して加えることができない。

 朝日山
 鶏冠山・中之尾根山 
 不動岳
 大谷嶺・山伏岳
 竜爪山・真富士岳
 板取山・沢口山
 無双連山・春野山
 岩岳山

 92年〜96年、私は主にフリークライミングと沢登りに集中し、ほとんどの山行が遡渓・バリエーションルートになり、紀行紹介からルート紹介に変わった。鈴鹿については、遡行集を出している。

 これは南ア本峰に属し深南部の山ではないが、ついでに掲示
 笊ヶ岳  2629m(91年8月4・5日)
 
 笊ヶ岳はイザルガ岳とも言う。ザルのような頭峰からつけられた名であることは明らかだが、大無間山のようにもう少し神秘的な名前がつけられていたら、これほど不遇でなかったかもしれない。だが本当は、行った誰もがうなる、日本有数の秘鋒といってよい名山である。

 金曜の夜、畑薙ダムサイトに車泊したが、遅くに来て駐車場でエンジンをかけ放しにするジープに眠りを覚まされ、いいかげんヒステリーが起きて、「エンジンを切れ」と怒鳴ってしまった。これではヨメさんの来手がない。翌朝、他の車泊者は、私を怖そうに眺めた。

 二軒小屋に至るこの林道は、赤石ダムの工事のため、平日はひっきりなしにトラックが通過して埃を舞上げ、日曜は沼平のゲートは閉ざされる。フォレストのリムジンバスは当分運休である。大井川基幹林道の通行は相当に不愉快である。この工事が終わるまで、ルートは国道52号から雨畑・布引山経由か、転付峠経由をお勧めしたい。それに、その方が荒れていないから快適であろう。

 沼平のゲート前に駐車し歩き出す。約40分で畑薙大吊橋を分け、そこから1時間と少しで、笊ヶ岳登山道の標識にしたがって新設された中の宿大吊橋を渡る。渡り終えた場所には左右に踏み跡があり、どちらをとっても良い。

 右にとれば、草薮のなかを河原に降りて上流に歩く。左にとれば、トラバースルートを上下しながら行く。約500mほどで右からの中の宿沢を渡り、梯子を上がったところに笊ヶ岳の所の沢コース取付点があり、標識がある。

 ここから標高差1000mの尾根を登る。
 最初の200mHは、薮をかきわけて歩く。やがて、うるさい薮も消え、普通の登山道になる。ところどころに海抜標高標識がある。

 1600mHで、ルートは一旦100mほど左にトラバースをして尾根を変えて登ることになる。しかし、このあたり草薮が繁茂して迷いやすいから要注意である。
 1900mHからは、所ノ沢への3Km程度の大トラバースに入る。前半は快適であるが、やがて崩壊地やトゲ木・トゲ草のオンパレードとなり、ガケの上の倒木帯を行くようになり神経を使う。相当荒れていることを覚悟した方がよい。

 ガレの崩壊を20mほど下がって巻き、二つの沢を越えると僅かで所の沢に到着する。朝6時に沼平を出て、昼にはここに着いてしまった。所の沢のテント場は、テント5張程度の小平地で、脇に小沢が流れている。真夏のためアブやダニ、ノミなどの害虫が多くて閉口した。ということは、ここは獣道にあたっているようだ。ツエルトは軽くてよいが、底の合目から虫が入ってたまらない。

 この上には水場はない。昨日から気になっていた台風はどうやら房総方面に向かうようだ。時間的にもっと上に行きたいが、風も出てきたしここで幕営することにした。

 翌朝、うまいぐあいに台風は去り、5時に頂上に向かった。所の沢越まで200m、それから尾根伝いに布引山に向かう。コブを越えると急に踏み跡が悪くなった。

 ここは伐採跡地である。林野庁が資源を略奪した後、見せかけの植林をしたものの、手入れを怠ったため、無残に荒廃しているありふれた風景である。林野庁は、伐採の理由について森林の再生を挙げる。だが、それがどれほどひどい欺瞞を並べたてたものか、私はさんざん見せつけられてきた。

 ルートは完全に草薮に覆われ、あちこち探してもわからない。やがて、自分の帰り道さえ見失ってしまった。やむをえず、コンパスをたよりに強引に尾根を進むと、しばらくして踏み跡が現われた。ここで40分損をした。

 布引山の登りは、右手の大きなガレ沿いに登る。涼風が吹いて気分がよい。所の沢から、およそ3時間で布引山頂に着く。山頂で雨畑へのよい道を分けると、すぐに快適なテント場がある。しかし、水が得られないのが非常に残念だ。ここは樹林の尾根なので、風の影響も少ない。

 笊ヶ岳まで、ここからゆるくて長い吊り尾根を歩くが、道はさほど悪くない。右手に富士山が美しく見えている。1時間と少しで頂上に達する。ここまでうるさい樹林の中を歩くので、展望への期待も薄れるが、頂上に着いたとたん、ハイマツと岩稜の尾根となり、「スゴイ!」とうなるような大展望が開ける。

 このような展望を「絶佳」というのだろう。これまで立った南アルプスの、どの山頂よりもすばらしい大パノラマである。

 東に小ザルを前景にした富士山が実に見事で、北には甲斐駒か北岳か、見事に吃立した鋭いピラミッドが胸を打つ。西には、膨大な山体の荒川三山と赤石岳が屏風のようにそそり立ち、南には深南部の峰峰が大きく広がり、赤石沢には、面白くない施設だが、赤石ダム湖がエメラルドに輝いてみえる。

 今日中に名古屋へ戻る予定なので、ゆっくりしていられない。30分程度でなごり惜しい山頂を後にした。9時半に下山を始め、所の沢着が12時。ツエルトを畳み、エサをかきこんで12時半に出発し、3時半に大井川林道に降り立った。ここへきてバテがきて、大休止をした後、沼平着が6時。

 沼平の飯場の北側の階段の下にビールの自動販売機がある。これは救いであった。ビールで栄養補給をするうち、チクチクと痛む腕を見ると、数百箇所の切り傷で血まみれになっていた。
 途中のタラやバラ、アザミなどで切り裂いたものである。暑くとも、半ソデはやめたほうがよい。

 車を飛ばし、田代のオデン屋に飛び込んだ。ここのモツ串は抜群に旨い。ビールで流しこんでやっと息がつけた。帰り、接阻峡の300円温泉に浸かった後、名古屋へ帰ったのは12時になった。


 これもオマケ
 農鳥岳 3026m(91年1月1日)

 最初に南アルプスに入山したのは、もう15、6年も前のことで、そのときは畑薙ダムから上河内・聖・赤石を踏んで再び畑薙に戻ってきた。その夏は雨が降り続き、ほとんど青空を見なかった記憶がある。山行中展望のあったのは僅かで、下山のときも豪雨によってバスが不通となり、井川まで歩かされた。

 土砂崩れの危険の中を一緒に下山したなかに、台東区で八百屋さんを経営しておられた島さんがいた。島さんは、後に自分のビルを惜しげもなく売り飛ばして縞枯山荘の経営者となられ、今では北八ツを代表する名物オヤジである。

 13号台風の直後に光岳に入山したときは、畑薙ダムに浮いた犠牲者の遺体を引き上げる場面に出くわした。この人は、林道が崩壊したので斜面のトラバース中に崖崩れに巻き込まれたらしかった。また、台風による猛烈な倒木を越えるのに必死で、何度も迷ったことが印象に残っている。

 悪沢岳では、腐った雪の斜面のトラバースを50メートルも滑落し、ピッケルのピックが刺さらず、ブレードに切り替えて辛うじて命拾いしたものの、以後、私はトラバース恐怖症になってしまった。

 南アルプスの入山には、いつも何かしら事件がつきまとっていた。しかし、なぜか南アルプスにくると気持ちが落ち着くのである。北アルプスはレストラン、南アルプスは大衆食堂、やはり私にはメシ屋が似合う。

 南アルプスのジャイアントは、農鳥岳・間の岳を含むこの山行で全部踏み終わったことになる。一番ポピュラーなコースが、一番最後になった。それというのも、北部に最初に入ったのが鳳凰山で、ここのゼニゲバ鉱泉(失礼!御座石鉱泉)の印象があまりに不愉快で、なんとなく北部のイメージが悪くなったせいかもしれない。

 89年の暮れまで仕事が忙しく、30日の夜、奈良田温泉に車泊した。ここの湯は、部落の共同洗濯泉の水が暖かいので、掘ったら温泉が出たそうである。非常にキレイな湯で、決してゼニゲバでない。だが、年末年始は飛び込みで泊まれようはずがない。

 31日の早朝、30Kgを超す荷物を背負って、大門沢を登り始めた。標識はないが、通行止めのトンネルの脇の林道を登れば、道なりに登山道になる。

 最近、南アルプスでは正月の降雪が少ない。本来、正月に沢コースをとるのは、雪崩の危険があって勧められないが、最近はまったく危険を感じない。この日も雪の舞う中を進んだが、大門沢小屋までラッセルらしいラッセルはなかった。朝から他の登山者を見かけなかったので、もの悲しい気分だ。

 大門沢小屋には昼過ぎに着いたが、この上は農鳥小屋まで施設がないのでここに泊まるしかない。冬は当然無人である。

 小屋には下山組らしい大学山岳会のパーティがいた。20畳ほどの小屋の隅に荷を置いて食事の支度を始めると、驚いたことに、彼等は小屋の板敷に早稲田大学と書かれた大きなテントを3張も設営し始めた。

 私は目を剥いた。以前、恵那山から富士見台に下山した際、小屋の中は雪上訓練中の中津川労山のバカモノどもがテントで占領して泊まれず、頭にきて下山したことを思い出した。そのときから、私は労山を軽蔑している。

 大学山岳会は、これほどに落ちぶれたのかと唖然とした。かつて、アルプスの入山者で、標高2000mに満たないこんな小屋で、小屋内に幕営するものはいなかったし、そんなことをしたら皆にバカにされただろう。ところが、この後にやってきた3人組の関西人登山者は、これを見て自分たちも小屋内にテントを設営した。

 それから初老の登山者がきた。この人は無言で彼等を睨み付け、外の雪原にテントを設営した。夜、このバカダ大学山岳部の学生どもはテントの中で酒宴を始め、大騒ぎを始めた。
 私は「うるさい!」と怒鳴りつけた。それで静かになったが、そんな配慮ができるなら、なぜ外で幕営しないかと無性に腹が立った。

 決して寒くない一夜が明けた朝、外は新雪が数十センチも積もっていた。私は一番に出発し、ラッセルを続けた。登山道沿いにカモシカの足跡が延々と続き、ルートファインデングの手間を省いてくれた。

 沢を詰め上がった頃、左手の尾根にカモシカの姿が見えた。このあたり農鳥の主稜が見えるが、ひどく遠い。

 広河内岳に向かっての最後の登りは、本当に厳しい。これほどに息の苦しい登りを経験することは稀であろう。最後の急登は10歩登って10息休まねばならなかったが、無事に大門沢下降点に着くと、それまでの苦労は簡単に忘れてしまった。しかしこのあたりは、下降のときはルートが分かりにくく、しかも非常に危険が多い。

 農鳥の登りは、これまでの登路に比べれば散歩道である。しかし、風雪がひどく、セーターとヤッケではひどく凍えた。正月だというのに、稜線は岩稜と土がむき出しになり、アイゼンをつける場所はなかった。そして視界がないので、ひたすら歩き続けることになった。

 西農鳥岳は、農鳥岳よりもわずかに高い。雰囲気から言えば、こちらが主峰といえるかもしれない。このあたり岩稜で、農鳥小屋への下りは悪いトラバースもあり、このコース中一番の難所である。

 風雪で気温が低い。おそらくマイナス20度以下だろう。体感温度はマイナス40度程度だろうか、ヤッケフードの口元が凍りついて閉じず、顔が吹き曝しになった。後で、鼻の頭や耳がひどい凍傷を起こすことになった。

 関西人の3人組は、私と同じペースできたからかなり強い人達だ。しかし、他の数人の登山者は誰も来ない。

 農鳥小屋は数十メートル手前まで分からなかった。大きな小屋だが、冬期小屋は15畳程度だろうか。だが、この小屋の中も、テントで占領されていた。今ではこれが冬山の常識なのだろうか。私は雪洞で泊まることが多く、小屋はあまり泊まらないので、この光景に驚くばかりだ。

 前日の学生たちに頭にきていたので、私は「小屋の中にテントを張らねばならぬほど寒ければ、冬山に来なければいいのに」と大声を張り上げた。するとテントの中がモソモソと動いた。

 一緒に着いた3人組は、その晩テントを張らなかったが、「寒い寒い」と呻き、私を恨めしそうに睨みつけた。

 「寒けりゃこんなとこに来るなよ」と言いたかったが、しかし本当のところ寒いから、稜線ならば設営もやむを得ないだろうか。この夜、マイナス30度近くまで下がったかもしれない。この日、他の登山者はとうとう現われなかった。次の朝も吹雪だった。やはり1番で出発し、間の岳に向かった。

 吹雪は強く、視界も踏み跡もなかった。だが、ところどころ雪が吹き飛ばされて地面の黄色ペンキが見えるので、それを頼りに歩く。間の岳へは尾根ではなく広い雪原のトラバースである。

 なかなかルートが分かりにくく、コンパスに頼ろうにも寒くて出せない。膝上のラッセルを重ねて高い方に登ると、やがて頂上に達した。頂上は腰までの新雪とアイスバーンに覆われた運動場のようなところである。

 展望皆無で、ガスと吹雪がひどい。道なりに歩くと三峰岳に行ってしまった。戻るには精神力を要した。間の岳の頂上で北岳への縦走路を探したがまったく分からない。
 コンパスで方向は分かるがどこから降りてよいのか見当が着かない。途方にくれていると、しばらくしてガスの切れ目に、ほんの一瞬尾根筋が見えた。「これだ!」と叫んだ。

 それは本当に頂上直下から真北にあった。腰までのラッセルで進むと踏み跡が現われた。
 北岳稜線小屋には、何度も迷いながらも昼頃に着いた。途中、誰とも出会わなかった。

 もうこれ以上進めるような天気でなかったので、ここに避難することにした。ここの冬部屋もやはりテントで満杯だった。しかし、ここはコンクリート床なので、テントもやむを得ないだろう。

 濡れた服を乾かすために、私もテントを張った。後で畳むつもりだったが、結局畳まずに寝てしまった。私もいいかげんな男だ。

 ここで以前、双六岳でお会いしたことのある千葉の石渡武夫さんと再会した。石渡さんは穏やかな人柄で、どう見ても40代の前半だが、実際には50才を越えているという。遅くから山を始められたが、単身北鎌尾根や鋸などの危険な縦走も済まされ、100名山の完登も近いモーレツおじさんである。石渡さんも、私のことを覚えていてくれて嬉しかった。

 夜になっても、農鳥小屋方面からは誰も来なかった。どうやら、大門沢を登った20名近いメンバーのうちで、ここまでたどり着いたのは私一人らしい。皆、引き返したのだろうか。

 翌朝はすばらしい快晴となった。出発は石渡さんが1番で、私が続いた。北岳へ向かう稜線は、朝のまばゆい光を浴びて輝いているようだ。日本アルプスや奥秩父の、見慣れた山々が全部見えた。ところどころ、新雪のトラバースの難所で緊張させられた。

 八本歯への分岐で石渡さんに追いついたが、今日中に帰宅したいとのことで、私が静岡まで送ることを申し出た。八本歯へは胸までのラッセルで苦労した。ここは岩尾根をたどらなければならない。八本歯は新雪でナイフリッジになっていて、相当に神経を使った。しかし、石渡さんが先導してくれたおかげで、私は出る幕がなかった。

 池山吊尾根のコースは、ここからボーコンの頭までは、雪さえなければ天上の楽園の遊歩道である。途中で登りの登山者に出会って、やっとラッセルから解放され、醍醐味を味わうことができた。

 石渡さんは、雪中歩行がうまく、ついて行くのがやっとだった。私はズボラで、アイゼンさえ外すのが面倒で(疲れたときはコケルとこたえる)、とうとうそのまま林道まで降りてしまった。だが、本当はスキーの達人なのですぞ。

 ここから奈良田まで、延々と凍結した林道を歩かねばならない。しかし、鷲住山を越えて芦安へ出るよりは多少マシなはずである。それでも、話し相手がいなければ1日で北岳小屋から奈良田まで歩く気にはならない。奈良田まで、およそ5時間は本当に辛かった。
 奈良田で石渡さんが家に電話をかけたら、奥さんが泣いていたと恥ずかしそうに言われた。この方は奥ゆかしい人なのだ。静岡駅では、石渡さんにおごらせてしまった。ごめんなさいね。

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 それぞれの山の物語 5 南アルプス深南部 中編


 奈良代山  1624m
(磐田郡水窪町地頭方戸中の水窪ダムより、90年 3月17日)

 16日は寒い雨の日だった。こんな天気では、高い場所では雪模様だろう。憂鬱だったが、条件反射的惰性のために、頭脳を無視して体が勝手に遠州に向かってしまった。

 水窪町には元禄茶屋という良い食堂があるが、良い飲屋はないかとグルグル探し回ると、水窪警察署のそばに「玉之屋」という看板がでていたので入ってみることにした。ちょっと裏に入りこんだところに店があって、ノレンをくぐると、マスターの他に一組の男女がいた。

 こぎれいな普通の酒場で、オデンなどがメニューで、とりたてて珍しいものはない。奈良代山のことをたずねたが二人とも知らないようだった。私が山登りに来たと言うと、男性は、
 「親の心配も考えずに、どうしてあんなことをしたがるのか。」
 と全然ユニークでない発想で語りかけてきた。

 このような質問には辟易していて返答に戸惑ったが、話題を変えて、いろいろ調べていた地誌について触れると、私が水窪史についてたくさん知っているので驚いていた。

 女性は、私を「魅力ある」と言ってくれた。私は、普段、浮浪者のような身なりをしているので、胡散臭そうに見られるだけなのだが、こんなこと初めて言われた。

 男性は、神原の耳塚氏と言い、姓氏のいわれを調べてくれと頼まれたので、後に、大日本姓名辞典で調べると、項目はあったものの記述がなく、期待に沿えなかった。
 しかし、戦国時代の激しい戦闘で首級を持ち運ぶ余裕のないときに、耳を切り取って働きの証拠にしたことは普通だったようで、それらは耳塚に埋葬されたにちがいなく、印象深いこの地名が姓名に変わるのは自然なことだ。

 この付近でそのような大規模な戦闘が行なわれたのは、1575年、織田信長と武田勝頼による長篠の戦いで、これは世界戦争史上初の画期的な鉄砲による近代戦だったから、これがおそらく耳塚の由来になっただろうと思う。
 耳塚氏は、私より5年ほど年上だが、女性と待ち合わせたりして、なかなかヤリテのようだ。うらやましい。

 奈良代山は、麻布山登山口の手前の左に分岐する林道に標識が出ていた。
 尾根を絡む道を車で走ると、急斜面の尾根にへばりついている峠や根の部落を見てどんどん高度をあげてゆく。ここらの家の破風には、菊の紋章が刻まれていた。しばらくで、「水窪自然クラブ」という宿泊所や体育館の完備した立派な施設がある。ここは夏期のみ営業で、この時期はヒト気がない。

 ここから、水窪湖を隔てた対岸に、視界いっぱいの麻布山が見え、その重厚で貫禄のある姿に圧倒された。安定感のあるすばらしい姿だ。

 このあたりから新雪がでてきた。林道は地図よりもはるかに奥まで伸びていて、ほとんど奈良代山の直下までいっていた。雪が深くなったが、4WDのおかげで終点まで行った。

 針葉樹林の歩道にはテープがたくさんついていて迷うこともなかったが、標識にしたがう切り拓かれたばかりの道は、山頂を巻くようにつけられたひどく歩きにくい道で、なんでこんな道がつけられたのか疑問だった。

 しばらくで尾根の分岐があって、まっすぐそのまま歩くと戸中林業事務所の方へ降りていってしまったが、コンパスを見て誤りに気付き、あわてて山頂方面に戻った。

 林道の終点から1時間もかからずに達した山頂は、全然展望がないのでがっかりである。黒沢山方面のヤブ尾根を歩くと、ところどころ腰まで雪に埋まり、ワカンがなければ歩行不可能であることを思い知らされた。

 しかし、そこに登り道と別の道を見つけたので降りて行くと、突然、幻想的なまでに美しい1ヘクタールほどの湿原とおぼしき空間にでくわした。これが山登りの醍醐味なのである。

 どうやら、これが山名の由来となった奈良代のようだ。このときは新雪に覆われて殖生を確認できなかったが、すばらしい高層湿原であることはまちがいない。これで、登り道が変なつけかたをされていた事情も納得がいった。こんなところに、手軽に来させないほうがよいのは当然である。これを見るのは、私だけでよろしい。

 帰路、新雪の下のアイスバーンに気づかず、なんでもない傾斜で滑落した。全然止まらず、ヤブに突っこんでやっと止まった。冬山セットを持参しなければ危険であった。なめてはいけない。

 これは、山神様のご機嫌を損ねているのであろう。宮崎日出一氏からいただいた手紙には、山神はオコゼが好きで、オコゼとはすなわち陽物のことであって、山中で困難が生じた際に見せることで、まことに霊顕あらたかであると記されていた。山神様は女性なのである。

 これは、助言に沿って見せねばならない。そこで、まわりにヒト気のないのを確認して、変態気分を満喫しながら見せてまわったのであるが、とたんに再び滑落してしまった。

 これはいけない。私の思うところ、山神様の好きな一物は、使い込んで黒光した見事な代物でなければならず、私の貧しい一物では逆効果のようだ。

 ところで、そのための代用品こそがオコゼであって、オコゼとはいっても本当の毒のあるオコゼではなく、柳田国男の「山神とオコゼ」によれば、ガシラと呼ばれるカサゴを干物にしたもののようだ。魚屋でガシラを望見すれば、それがいかに陽物の化身であるか一目瞭然なのである。

 秋田のマタギから九州椎葉の猟師にいたるまで、猟に入山するときは、オコゼを守神として持参したという。
 日向の猟師はオコゼを紙に包んで持参し、狩の前にこう祈る。

 「オコゼ殿、オコゼ殿、今日は一頭の猪をとらせてくだされ。そのお礼に、あなたにこの世の光を見せましょうぞ。」

 といって、紙でオコゼを包む。願いの通り猪がとれると、また紙で包む。なんのことはない、オコゼ殿をだますのである。だから、先祖から伝わった古いオコゼになると、とれた猪の数だけの紙に包まれていて、誰もその中身を見たものはいない、と柳田は書いている。なんという麗しい風習なのであろう。

 ところで、宮崎日出一氏は、金剛山六千回を含む一万回を超えるほどの比類なき登山を行っておられる方だが、氏の紀行文集である「山岳巡礼」を拝見すると、たびたび山中で一物をお見せになっておられるようだ。

 車に戻ったのは10時で、時間もあり欲求不満なので、秋葉山に行った。

 もう新雪は溶けていて、山頂駐車場に車を置いて歩いた。十年ぶりの再訪だが、前回とは大きく様変わりしていた。鉄骨製の回廊風階段が設置され、山頂の神社もコンクリート製の実に無愛想な代物に変わっていた。
 なるほど、これなら二度と消失することはないだろうが、こんなもの八百長だ。シラけるばかりである。

 この神社の経営者たちは、とんでもない思い違いをしているようだ。こんなコンクリートの低俗な建物に、神様が安らかに鎮座するとでも思っているのだろうか。神霊は、いにしえを好むものと相場が決まっているのである。

 およそ神様が住まわれるからには、建築後最低でも百年以上、できれば三百年以上を経ていなければならない。そうしてやっと、建物は自然に同化し、八百万の霊魂が棲みつくとともにジワジワと神気に包まれてゆくのである。

 私の見るところ、三尺坊の魂は再び越後に逃げ帰ったに違いない。ああ、これからは火事の多い厄年が続くことになろう。すべては、秋葉神社経営者の軽率に帰せられねばなるまい。

 樹齢千年を超す巨杉は健在だった。そこから両部神道で有名な大権現秋葉寺に降りる尾根はヒト気もなかった。いまどきの参詣者は、車から数百メートルも歩かないのだろう。三尺坊の宿舎は、もう長いこと営業をしていないように見えた。世間は、何もかも車利用を前提に再編されてゆく。車に無縁な世界は滅び去るのみなのだろうか。



 黒法師岳 2067m (磐田郡水窪町水窪ダム戸中林道より 91年3月21・22日)

 数年ぶりの寒い冬も、3月に入るとさすがに辛いほどの厳しさも薄れ、「暑さ寒さも彼岸まで」という先人の格言通りに、めまぐるしい周期で晴と雨の日が交互に続き、一雨ごとに山の色彩も密かに移ろってゆく。

 そんな彼岸の日、2日の連休をとって念願の深南部主稜へとでかけた。南アルプス主稜も、光岳以北は大部分を歩いているのだが、深南部の主稜については、池口岳などわずかしか登っていない。

 不動・丸盆・中ノ尾根・信濃俣などの魅力的な山域はまだこれからであるが、ヒルの多い夏期よりも、水の心配をしなくてすむ積雪期の方がよいかもしれないと考えている。今回めざすのは、あこがれの一等三角点である黒法師岳と、できれば丸盆岳や不動岳も行ってみたかった。だが、天候には恵まれない。

 水窪ダムの、戸中林道をどんどん走ると黒法師岳の登山口があるはずだった。途中、長者屋敷跡という古跡には、宝篋印塔という石灯篭が残っている。これは中世中国伝来の珍しいもので、なぜこのようなものがここにあるのか謎に包まれていが、どうやら、南北朝時代、ここを拠点に北朝に対してゲリラ戦を展開した南朝方宗良にまつわる遺跡であるらしい。

 水窪ダムから10キロほど走ると戸中林業事務所の大きな建物が見え、その前には頑丈なゲートが行く手を塞いでいる。9時頃に到着したとき、すでに数台の車が停車していた。ここから歩かねばならない。
 ここで、普段から車に積みっぱなしにしている装備をまとめた。さすがに、3月の2000メートル級山岳だから、まじめにピッケル・アイゼン・ワカンの冬山セットも持参することにした。

 テントや、悪場として有名な鎌ナギ通過用のザイルなども含めると、優に30キロ近い荷物になってしまった。
ながらく重荷を担いでいなかったので、ひどく重く感じる。足どりも重く林道を進むと、2時間ほどで右上に目指す黒法師岳はじめ、丸盆や不動のきびしい姿が魅力的に見えるようになる。とりわけ、鎌ナギ付近の稜線のシルエットが、中アの仙崖嶺に似ていて個性的な見事さである。

戸中ゲートから8キロも歩くと、右手に日陰沢林道の分岐があって、そこに黒法師と不動の看板がでていた。地元山岳会のものである。

 ここまで来る間にも林道は相当荒れていて、数トンもありそうな巨石が道路の中央に落ちていて、車の通行は不可能のようだった。日陰沢林道はもっと凄くて、崩壊が進んで完全な廃道になっている。

 荒廃したこの道を1キロも歩くと、右手に青いトタン葺きの小屋があって、左手の山腹に踏跡がついている。赤布が取り付けてあるから、ここが等高尾根の登山口なのだろう。

 小屋は充分に使用可能で、しかも快適そうだ。旧営林作業小屋を登山者の便宜に提供していてくれるようだ。これを見て、ここに泊まって軽装で駆け登った方がよいかとも思ったが、時間も早すぎるし、たまにはテントで泊まるのもよいと考え尾根に向かった。一服の後、出発は昼過ぎになった。

 しかし、登りはじめてしばらくで、重荷を背負ったことを後悔するハメになった。このコースはよく踏まれているとはいっても、笹薮は深く急で、かなり歩きにくい。おまけに、1500m地点あたりからアイスバーンになってしまった。
 まったくペースに乗れない。普段の運動不足が響いてか、珍しくバテてしまった。

 めったに休憩などしない私が、5分登っては5分休むような悪循環に陥ってしまった。ルートは、いつまでもカリカリの氷の斜面が続いている。斜面が急なので、滑落したら樹林帯といえどもただではすまないだろう。アイゼンを装着した。
 軽装なら1時間半もあれば充分な尾根道に3時間以上も費やして、稜線に飛び出したのは、すでに4時近かった。
 尾根の上部は、南アルプスらしいシラビソやブナの快適な樹林帯になる。
稜線はさすがに雪が深くて、ところどころ股までもぐった。ワカンつけなければ全然歩けない。昨日の大雨で、雪が腐ってしまっているのだ。かと思うと、アイゼンの歯もたたないようなアイスバーンも出現したりする。

 これでは、丸盆や不動どころのはなしではない。黒法師岳でさえ、たどり着けるかどうか危ぶまれる。いずれにせよ持参のテントを設営することにした。
 稜線の小広い地点に荷物を広げると、持参したはずのテントのポールが見あたらない。他にも、ラジオや飲料水用の濾紙なども忘れている。このときばかりは、とうとう早発性痴呆症か慢性アルコール中毒性脳変性を発現したのではないかと真剣に心配になった。
 でも、よく考えたら、これが私の本来の姿だったことを思いだして安心した。

 幸いナタがあったので、近くの木の枝を伐採してポール代わりに用立て、ことなきをえた。雪水も、昨日の新雪が残っていたので、濾紙を使うまでもなかった。ただ、ラジオを忘れたのは退屈で困った。
 この日は、ここでそのまま寝てしまうことにした。

 わりあい暖かい日で、3シーズンシュラフしか持ってきてなかったが、十分に寝ることができた。
 夜半、雨がテントを叩きだした。しかし、しばらくでその音も消えた。
 朝4時に起きてみると、天井が垂れ下がっている。チャックを開けると、テントの上に雪が積もっている。外には、およそ20センチの新雪があった。これは予想外だ。この日の天気は、それほど悪いという予報ではなかったはずだ。

 ところが、稜線の向こうに見える前黒法師岳は、明らかな上下の二重雲にとり巻かれていた。これはまずい、二重雲は悪天の確実な前兆である。数時間後には、豪雨になる可能性が考えられた。

 不動岳はともかく、ひとつも登らずに逃げ帰ったのではカッコウがつかない。せめて黒法師だけでも登らねばならない。食事も取らずに、あわてて駆け出した。ワカンを装着し稜線を行くと、右手にガレ場を見て急な尾根を登るようになり、等高尾根分岐より1時間ほどで山頂に達した。と書くと簡単だが、実際は結構大変な歩行になった。

 黒法師岳の本峰頂上付近は、実に美しい針葉樹の森である。ゆるやかな頭峰で、展望は皆無であった。それでも、森の雰囲気がすばらしいので充分に満足することができた。ここにはエックス字型の変則三角点標識があるはずなのだが、1mの積雪に埋もれて全然わからない。興味はあったがどうしようもなかった。

 深南部の山々のなかでは、三角点の置かれたこの黒法師岳と大無間山は、古くから知られていた。旧榛原郡誌に、明治42年7月の、孟八郎による黒法師岳登山記がでている。

 「黒法師岳に上るには、大間・河内より入る。湯山より西にはケヤキ・ハンノキ・モミ・栂等の混淆樹林にして、下湯沢より上湯沢に至り、これよりは斧鉞入らざる密林にして森の下草は概ね熊笹なり、この辺までは冬は猟師通ひ、夏は黐取り入るといふ。

 焼畑のあたりに山葵沢あり。これより深く入れば雑木は少なくして針葉樹となり、青ナギ沢より西沢山を上がり青ナギ點に出づ。ここにては、東及び東北に奥法師・前黒法師を見、西南に板取・たばねぼつ・川上等を望むべし。

 これより西北に下りて大久保の小屋にい出づ。更に東北にたどり二ツ山にい出づべし。ここには針葉樹・ブナ・樺等を生ず。黒法師には五尺余の熊笹簇生ず。頂上は樹木なく、円盤状の小平地にして一等三角点の設あり。

 さて、二ツ山より更に方向をかへて、前黒法師に上がるべし。前黒法師には熊笹はなくして栂の密林ありて、その下には高野万年苔・甲苔等を布き、間々梅鉢草・舞鶴草などを點綴す。
 頂上には黒松・唐桧・ビャクシン等簇生し、三等三角点を置く。これより南に下りて湯沢に至るべし。」

 これでみると、明治末にはすでに一等三角点が敷設されていたようで、その頃には頂上に樹木はなく、すばらしい眺望だったにちがいない。孟八郎は、現在の寸又峡温泉の源泉地を経て上ったようだ。

さて私だが、黒法師山頂にやっとの思いで到達したものの、すでに小雪がちらつき始めていた。やがて本格的なミゾレとなり、もう丸盆岳にまで足をのばす意欲は失せた。急いでテントを畳み、7時には下山を開始した。

 昨晩のうちに新雪が積もったため、昨日の自分のトレースが完全に消えてしまっていた。等高尾根には標識テープがついているが、枝尾根が錯綜した恐ろしく複雑な地形で、テープを見失うと地形図とコンパスだけではとても下れそうもない。

 2、3回もルートを失い、元に戻って慎重に確認しなければならなかった。急なアイスバーンの下りはアイゼンをつけていても相当な危険を感じたが、1時間半ほどで日陰沢林道に降り立った。

 戸中山ゲートまでの道は長かった。雨は予想通り豪雨に変わり、ズブ濡れになって歩いていたのでひどく寒気がしてきた。車にたどりつき着替えると、心からホッとため息がでた。

 帰路、水窪の元禄茶屋名物のジンギスカンで腹ごしらえをして帰った。ここは肉屋も兼ねていて、旨い焼き肉を食べさせてくれる。
 そういえば、秋葉茶屋の名物もジンギスカンなのだが、この地方の名物がジンギスカンである理由は、平地が極端に少ないため、傾斜の強い山腹で飼育可能な羊を飼う農家が多いためであるという。



 麻布山  1685m
(磐田郡水窪町地双、水窪ダム湖、戸中大吊橋より 91年2月24日)

 麻布山は、秋葉山にはじまり常光寺山を経て黒法師岳に至る長い稜線に頭をもたげた、息をのむほど重厚な貫禄の山である。

 この山の背後に、前黒法師山1782m(前黒法師岳1943mとは違う)があって、その奥に鎮座する名峰黒法師岳に至る稜線伝いに踏跡があるという。この日は、前黒法師山をめざした。

 3月はじめに、京都の伊藤潤治さんから「日本山嶽誌」の深南部についての抄粋をいただき、添付の手紙には、山嶽誌に記された栃生山(戸中山)が麻布山であると書かれていた。ついでに書くと、恵儀岳は中ノ尾根山、西俣岳は塩見岳ということで見解が一致した。

 ちなみに伊藤さんは、過去にこの地域の多くの山を踏破されておられるヤブアルピニストの超ベテランで、77歳の今もバリバリの現役で、もはや超人というしかない方である。

 古い地図を見ると、戸中山の標高は、ほとんど麻布山のものになっているし、他の山々から望見した姿も、麻布山のピークの雄偉な姿がひときわ目立つので、かつて、この山が戸中山であったことは疑いない。現在の戸中山は、前黒法師山との間の1610mのピークに位置づけられている。

 登路の資料が得られなかったので、2・5万図通りに、水窪ダムの戸中吊橋からの破線路をめざした。
 ところが、この日、今冬最大で数年に一度しかないマイナス50度以下の寒気団が日本上空にきていた。天気予報は最悪で、日本全国(珍しく太平洋側も)雪模様であった。しかし、懲りもせず23日夜、出発した。まったく非常識というしかない。

 24日も、幸い戸中吊橋までは支障なく来れ、空模様も、ときおり薄暗くなるものの、青空の見えることもある程度だった。冬靴が壊れているので、スノーシューズを履いて出発した。

 吊橋を渡ると道は右手の山腹を上がる。キリキリする寒気のなか、最初からサラサラの新雪の中を歩くことになった。

 作業小屋を過ぎると、左手の尾根を上がる。右手に廃屋を見て、わずかで右の草むらに小さな石碑があって、板橋城水没記念碑となっている。水窪ダムによって水没した史跡を移したものらしい。

 その先5mほどに、右手に登る分岐があったのだが、この時は気づかずに真っすぐの良い歩道を歩いた。どんどん歩くと、伐採現業地の尾根になった。見事な杉と桧の植林地で、木曾の美林にも匹敵しよう。
 ここの切ったばかりの桧の年輪を数えると、約200〜250輪ほどであったので、これこそ山住家の植林地なのだろうと思った。

 年輪気象学というのがあって、その地域の過去の気象データは、古木の年輪によって正確に確認できるという。興味をもって、しばらく観察することにした。

 この植林は、江戸中期のものらしいが、後期までの100年間は、稀に見る順調な生育を示している。ということは、この地域は江戸後期まで非常に温暖な気候に恵まれたということである。徳川幕府が長期に渡る支配を確立しえたのも、この温暖の恵みによってであろう。民衆は、食える限りにおいて、権力のどんな横暴でも我慢することを、すべての歴史が証明している。

 ところが、百数十年前、浅間山の噴火やクラカトア火山の噴火に伴う大冷害の発生期、つまり天保天明の大飢饉の年前後は、異常なほど年輪が詰まり、この傾向は百年ほど前まで続いている。そして、食えなくなって明治維新が起きた。最近では、50年ほど前にも年輪が詰まっている。戦争中だろうか。

 このような観察は、ぜひお勧めしたい。各地域によっての差異を発見するのは興味深いものである。これこそが、学ぶというものだ。

 伐採用の道をつめると、上部で道は消えてしまった。新雪のなかなので見失っただけかもしれない。とにかく、強引に尾根に這い上がることにした。

 よじ登った主尾根に、立派な道があった。おそらく木馬道であろう。この地域の山は、登山者がほとんどいないわりに、しっかりした道の多いのは、古くから木地師が深い山奥に居住していたことと、現在もなお、山里の住人と山との日常的な結びつきが強いためであろう。

 この日、狩猟シーズンも盛りで、ここまで散弾銃の発射音が絶えることなく聞こえ続けた。もしもライフルなら、本気で流れ玉の心配をしなければならないほどであった。
 対岸の峠や戸中部落の付近からである。いったい、何千発撃てば気がすむのだろう。あれほどの玉が全部命中していたら、南アルプスの生きものが全部死んでしまう。だが、下手な鉄砲は数撃ってもあたらない。

 どんどん登ると、尾根が痩せて急登になった。このあたりからサラサラの新雪の下に恐怖のアイスバーンが出現した。簡易アイゼンでは歯がたたない。ピッケルも持参せず、怖い思いをした。

 稜線に出ると、積雪は1mほどあるようだった。大きな雪庇がでていて、吹き溜りでは腰まで埋まる場所もあった。ラッセルに苦しんだが、しばらくで山頂の平原地形に達した。ここまで、吊橋からおよそ3、4時間みればよかろう。雪上に踏跡は皆無であった。

 広大な山頂平原は、数ヘクタールはあろうか。シラビソなどの針葉樹林が密生し、見通し皆無で方向感覚が分かりにくい。帰路は自分のトレースに頼るしかない。

 樹林の中に半ば倒壊した小屋があったが、使用不能と思われた。その先に、山頂らしき切り開きがあった。だが、このときにわかに黒雲が天を覆い、心配していた風雪が舞いはじめた。これで前黒法師はあきらめ、ただちに下山することにした。途中から、非常にイヤな予感に包まれていたからである。

 やがて激しい降雪がはじまった。みるみるうちにトレースが埋まってゆく。あわてて降りようとするが、アイスバーンで何度も転倒し、雑木につかまりながら必死で降りた。
 やっとの思いで、緩くて歩きやすい山道に戻り、朝通らなかった良い道にしたがって下山すると、トタン葺の社のある伐採地を経て、石碑のそばで朝の道に合流した。そこに赤いポリ紐をつけ、無事に車にたどり着いた。

 帰路、水窪町から豊橋に出たが、この地域に珍しい積雪が始まっていた。豊橋インターから岡崎インターまで東名高速を走ったが、妖気とでもいうか、なにか異様に不安な印象を持った。

 余談だが、私は最近、トラックを運転中に突然、ある大きな橋の上で欄干を突き破って川に転落する幻想にとりつかれて怯えた。翌日、その場所にくると、車が川に転落していて、運転手は死亡したと新聞にでていた。

 この夜、この付近で、降雪によるスリップのため2台のJRバスを含めた80件の衝突事故が発生し、死者9名、負傷者100名余の大惨事になったことを知ったのは、白銀の世界となった翌朝であった。



 毛無山 1946m(90年5月26日)

 富士山の好展望台として知られる天子山地の毛無山は、全国に30座余りある毛無山の最高峰だそうである。

 東京にいたときに、このあたりの山は総ナメにしたつもりだったが、調べたら未踏で残っていた。しかし、200名山に取り上げられていなければ、わざわざ行かなかったかもしれない。

 土曜の夜、国道52号から4月に買ったばかりの4WDバンで身延町を目指した。下部温泉から湯の奥まではマシな道で、それから狭い林道になった。しかし、2・5万図の登山道の取りつきはまったく分からず、いつのまにか大きなトンネルを抜けて訳の分からぬ場所に出てしまった。

 手持ちの地図には、こんなトンネルの記載はない。ここが、どうやら朝霧高原であることが分かったのは、富士宮市の灯火が見えたからである。

 湯の奥に戻り、適当な道傍で車泊した。翌朝ゆっくりと車道を探すと、地図の位置から2Kmほど先の、右に沢が近づいた石の擁壁の上に標識があった。
 地図に記された中山尾根のコースは、廃道になっていることを後に知った。ところどころにある、中山金山の道標にしたがって登る道は、しっかりしているが急登である。

 やがて江戸時代の中山金山の、女郎屋敷跡や代官屋敷跡などの施設跡が現われる。
 隔離した場所で働かせる男たちの不満を緩衝するには、性的奴隷を置くに限る。このあたりの伝統は、第2次大戦中、従軍慰安婦として朝鮮の人々の子女を強制連行し、日本兵の慰みものにした日本人の体質に引き継がれている。このとき「処女供出」を命令した日本軍関係者は、戦後も断罪されることなく政権に復帰したのである。日本政府はいまだにこの事実を認めていない。

 女郎の多くは、朝鮮人・沖縄人子女の従軍慰安婦と同様、役に立たなくなれば真っ先に殺害されたであろう。ここと似た金山跡でしばしば見かける「女郎落とし」などという地名は、そのものズバリである。

 ここまで、奇妙なことに気がついていた。登山道のすべてに掘り返したような跡がある。よく見ると、道にある岩や石が取り除かれているのである。金山跡の広い敷地は立入禁止のロープが張られ、テント式の携帯トイレや休憩所まで設置されている。これで、誰かオエライサマのが登山するための準備であることが分かる。

 誰かといえば、おそらく「ナントカノミヤ」であろうと思われた。バカげた話である。日本人がかくも愚かであるとは。いろいろ書きたいが、ものを言う気力も失せそうだ。

 明治以前、京の貴族が地方へ行くと、土地の人間は、貴族の浸った湯をありがたがって飲んだそうだが、この人達も同じ類か。
 現代日本にも「裸の王様」の逸話が、まかり通り続けているとはアホラシの度が過ぎる。自分に自信のない者は、権威や肩書に頼るしかない。これを「虎の威を借るキツネ」という。

 登山口から1時間半ほどで、突然、富士山の巨望が飛び出す。稜線からの、雄大なすばらしい展望である。富士を狙うカメラマンは、馬鹿の一つ覚えのように三ツ峠山に集まるが、周囲にはいくらでも良いポイントがある。メダカのように群れたがる人間は、決して良いものを得られない。

 稜線の道はさらに急になるが、30分ほどでゆるい美しい尾根となる。ときどき南アルプスの眺めが良い。しばらくで毛無山の山頂に着く。登山口から2〜3時間というところだろう。富士山の眺めの良い、小広い草原である。一等三角点の測標が据付けられていた。

 ここには「天子山地の最高峰」という看板が立っているが、どう見てもその先のピークの方が数十メートルは高い。一体どういう目をしてるのかいな。
 そこで、最高峰を目指して40分ほど歩いたが、潅木と薮の、どこがどうだか訳の分からぬ山頂であった。200名山には、ここが大見岳という名で、1975mの標高であることが記されていた。

 帰路、久しぶりに登山者に出会った。やはり、中年の単独行であった。この人に、「ナントカノミヤですかね?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」といわれた。
 下部温泉の保養センターで一風呂浴びたが、瀘過された薬品臭い湯であった。湯舟から川を見ると、典型的な金鉱床の白い石英岩層が目についた。ヒマがあれば掘ってやるのだが、しかし、ヒマはない。



大無間山 2348m 静岡市井川田代より 90年7月7・8日

 大無限山も深南部の盟主として君臨し、一度は登らねばならない。これまで登っていないのが不思議なくらいだ。

 金曜の夜、大無限山をめざして、岡崎ICから東名にのって袋井ICでおり、金谷から大井川を遡って井川の田代に入り、車中で泊った。途中、千頭の町は七夕でにぎわっていた。翌朝、いまにも雨が降り出しそうな曇天を出発した。

 田代の部落から始まるはずの地図に記された登山道は見つからず、地元の人に尋ねると、部落の北のはずれの神社の鳥井から尾根を登るとのことだった。
 教えられた通り参道を登ると、数分で左手に沼津カモシカ山岳会のつけた大無限山の道標があった。

 しばらく快適な小道が続いたが、不調でメシが食えなかったので早々とバテた。しかし、そこはなんとかゴマカシながら3時間ほどで電波反射版のある小無限小屋に着いた。ここまでの道の状態は、想像していた悪路と違って、なんの不足もない良道だった。

 小無間小屋は、中部電力の巡視用施設である。登山者に便宜をはかるために開放されてはいるが、避難小屋ではない。しかし、なかなか良い小屋で、一晩を過ごしてみたい魅力がある。当然、水場はないが、雨水をためるドラム缶が置いてあり、落葉が澱み大量のボウフラが湧いているが、漉して沸かせば飲めぬこともなかろう。ボウフラは良いダシがでる。

 ここからは南アらしい原生林の尾根を行く。踏跡もヤブに覆われ探しずらい。いきなり鋸刃の急登、急降下が続くが、言われるほど危険な場所ではない。しかし、なかなか手強い尾根だ。もう小無間の頂上かと思うと、まだ先にピークが続き、バテも手伝ってイヤケがさしてくる。

 やがて雨が落ち始めた。ヒルを心配したが、なんとか無事に、小屋から2時間で小無限山の頂上に達した。
 頂上は、美しい原生林のなかの快適な小平地である。すてきなテント場だが、大無限山に至るこのコースは水を下から持ち上げるしかない。

 ここまできて、メシヌキのバテが一度にやってきた。もう大無限山まで達するには肩と足が重過ぎる。雨もひどくなり、しばらく歩いた末に引き返すことを決断した。
 小屋に戻ったのは3時半であった。まだ十分降りられる時間だが、なんとなくこの小屋に泊まってみたくなった。

 やがて、雨はものすごい土砂降りとなって小屋のトタン屋根を激しく叩いた。誰もいない薄暗い小屋でラーメンを作ると、やっと食欲が戻ってきた。

 小屋には落書帳が置いてあり、思い付いたことを書き込んだ。夕闇を迎える前、一瞬空が明るくなったので外へ出てみた。電波塔の前は開けていて周りの山が見える。やがて、数キロ先の指乎の間に、霧の薄衣を纒ったピラミッドの大無限山が姿を現わした。威厳のある見事な姿であった。私は、ここまで来れたことだけでも満足できた。

 夜、再び豪雨となった。どうやら小屋泊は正解らしい。私のツエルトではこの雨は防ぎきれなかっただろう。
 翌朝も激しい豪雨は続いた。田代に着いたときは下着までビショ濡れとなった。

 大無間山の山頂には、1993年9月に登頂した。同じルートで、田代から山頂までおよそ8時間程度かかり、山頂の測量櫓の板の上で幕営した。

 小無間山から大無間山までは緩い尾根歩きで、登山者が増え踏跡がはっきりしてきたたこともあって迷うことはないが、水を持参したほうがよい。煮炊きを避けてパンなどですませれば、水も少なくてすむ。私はウーロン茶の2Lペットボトルを2本持参し、それで不足はなかった。

 アマチュア無線の交信を楽しみながらの山旅で、山の楽しみが増えて喜んでいる。ここから、わずか1Wの出力とハンディアンテナで奈良県と交信でき驚いた。

 帰路、いつもの接岨峡温泉に行ったところ、道路や建物が激変していて、またまたびっくりさせられた。バブル経済で余った金を、無理にこのような形で消費しているのだろうが、私には、数十年後の悲惨な廃虚のイメージしか見ることができない。愚かしいばかりだ。

 鄙びて落ち着いた雰囲気の良い鉱泉だったのだが、すっかりイメージが悪くなり、入浴の意欲も失せてしまった。



熊伏山 1653m
(長野県下伊那郡南信濃村下和田より 90年8月20日) 

 「信州百名山」の著者、清水栄一さんが自著の中で遭難したと紹介した熊伏山は、日本300名山にも含まれている。

 南アルプス光岳から池口岳へ向かう稜線は、中の尾根山で黒法師岳に向かう長大な尾根を分け、兵越、青崩峠に落ちこんだ後、熊伏、観音を盛り上げて佐久間湖に消える。
南信の平岡は今でこそ過疎村だが、ところどころ、ありし日の栄華を偲ばせる建物が残り目を楽しませてくれる。かつてパルプ産業が盛んであった頃、また天竜水運華やかなりし頃、平岡は有数の花街として知られたこともあるという。

 日曜の夜は平岡から青崩峠に至る途中で車泊した。月曜の早朝、青崩峠の終点に車を止めたが、地図にある峠道のはずの小道の入口には「これは峠には行けません」という看板がかかっていた。

 2・5万図をどう読んでも、ルートはこの小道以外考えられなかった。はっきりしないまま、この道を詰めることにした。

 上部にきて、この道が青崩れガレの土留工事道で、本当のルートは左の尾根にあるらしいことが分かってきた。

 幸い工事の人達が登ってきたので聞いてみると、やはりそうだった。しかし、左のガレを強引に詰めれば熊伏山への稜線に出られるとのことだった。

 教えられたコースを行くと、しばらくして踏跡は消え、稜線まで100mほどの高さのガレ場となった。ところどころ土止柵があるので、岩ナダレの心配は少ないが、3歩登って2歩ズリ落ちるイヤな登りとなった。詰めは傾斜50度近くなった。とても立てないので、草につかまって四つんばいで進んだ。だが、やがて進退窮まる状態になり、冷や汗で背中が冷たくなった。

 万事窮したか、と思ったとき目の前にシカのフンがあるのを発見した。「シメタ!」と思った。ケモノ道なら踏み固められているだろう。案の定、そのわずかなベルトだけズリ落ちずにすんだ。ケモノ道を進むと、やがて稜線の踏み跡に達した。

 稜線には熊伏山への登山道があった。これはまた三方崩岳のような急登である。ガレで神経を使ってバテたが、やがてゆるい美しい原生林の尾根道になり、休み休みのぼっても下から2時間かからずに頂上に着いた。

 頂上は、鬼面山と同じく一等三角点であった。よい頂上だ。池口岳は鬼面山からの美しい姿と比べると、いくぶんボテッとしている。大沢渡のスカイラインが美しい。

 ここも鬼面山も、冬場の好天に登れば、向かいの小八郎鳥帽子と同じく、伊那谷の大観が得られるだろう。しかし、平岡側へ抜ける道は、ひどく荒れていた。頂上には落書ポストがあって適当なことを書いた。

 下りは青崩峠に降り立った。峠は丸太で展望台が拵えてあり、数百m先に4トントラックが止まっているのが見受けられた。どうやら、佐久間方面からの方が近そうだ。
 道はしっかりしていた。下に、小さな御堂があった。ここは秋葉街道、塩の道であり、武田信玄の史跡である。信州街道とも呼ばれる。

 下り着いた国道林道で、朝、間違えた理由が分かった。2・5万図では林道の終点から峠道が始まるが、実際の峠道は、終点より100mほど手前の、小屋の先にあった。

 入口に工事用資材が無雑作に置かれていたため、標識に気づかなかったのである。
 帰りの車中で、ズボンに黒いシミがべったりと付いているのに気付いた。血糊であった。「やられた」と呻いた。
 ヒルである。単独行でヒルにやられることは滅多にないのだが、ケモノ道を通ったせいだろう。これは完全に止血するまで3日かかった。


七面山 1982m(90年9月2日)

 9月の声を聞いて、多少とも涼しくなってくれることを期待したが、まだまだ猛暑が続きそうである。
 こんな暑さのなかでは、1000m程度の稜線では苦しい。やはり2000m欲しい。ついでに温泉とビールが欲しい。私の願いは、ささやかで可愛い。

 200名山・300名山と睨めっこした末、近くて未踏の七面山に登ろうと思い立った。しかし52号経由ではゼニがかかる。安くあげ、前記の条件を満たすには、日帰りで梅ヶ島温泉経由がよいと決定した。登りは八紘嶺だけで、あとは長いが上下の少ない尾根道だからなんとかなりそうな気がする。 

 土曜日、仕事が早く終わったので、国道1号線を静岡まで走ることにした。私はプロの運ちゃんなので、このくらいどうということはない。名古屋から静岡までおよそ4時間、梅が島温泉までは、さらに1時間程度かかる。ここに着いたのは夜の10時であった。
 登山口はすぐに見つかったが、ここから身延に抜ける林道が完成していたことは知らなかった。この道を利用すると、1時間以上も節約になるが、夜間は通行止めで、しかも朝は7時半にしか開けないそうである。これでは利用できない。だから旧道を辿ることにした。

 夜遅くまで走ると、なかなか寝つかれない。寝ついたのは12時過ぎだろうか。早朝4時前に、無遠慮な人の声で目が覚めた。大声で、「車に人が寝ている」と喋っている。「余計なお世話だ、早くあっちへ行け」と思った。

 再び目覚めたのは、今度は6時過ぎであった。とんでもない朝寝坊である。このコースで七面山を往復するには、おそらく5時前には出発しなければならないと踏んでいた。
 飛び起きて、インスタント焼きそばのエサを流し込んで出発した時刻は、6時40分を回った。

 安部峠の登山口は、梅ヶ島温泉街から5分ほど登ったところにある。よく踏まれた道で、最初は、最近では珍しく手入れの行き届いた杉林を登る。杉は、カラマツのように自然に放置してはうまく育たない。良い用材に育てるには、かなりの手入れが必要である。最近は林野庁が、現場で本当に必要な人々を削減して、不要無用のムダメシ官僚を温存しているので、植林の状態は劣悪なところが多い。

 良い杉は、強い殺菌力を持っている。昔は、酒造所で酒に雑菌が繁殖すると、杉の葉を漬込んで殺菌した。だが、こんな酒は杉の芳香成分が溶け込んでいて、悪酔いしやすい。しかし、燗をすれば大丈夫である。今の酒は、燗をつけなくとも悪酔いしない。むしろ、合成物質による慢性肝臓疾患の方が心配である。

 こんなわけで、昔の酒屋の看板は、酒林と呼ばれるクスダマのような杉の葉の玉か、杉の枝葉であった。今では酒林は都会ではみかけないし、このことを知る若者もほとんどいないだろう。

 この殺菌力を利用して、種菌を接種したキノコの原木を杉林に移して、雑菌から原木を守る方法が普及している。自然界で杉林に出るキノコは、杉の朽木に出るスギヒラタケくらいだが、栽培キノコは、杉林の中で育てられるのである。

 だが、杉のこんな性質が裏目に出て、杉林の中は腐殖が少なく、生命の温床ではない。また、動物の餌も生産せず、保水力も保土力も劣る。だから、杉林はみかけはキレイだが、生物の生活や崩壊防止に有利でないことを知っておいた方がよい。ただ、落葉が抜気式浄化槽のような役割を果たすので、良い水が出る。

 雑草すら生えないこの道を注意深く観察して歩けば、このことをよく理解できるだろう。(後日、林業者に聞いたところ、理想的な杉林には適度の下生えが必要だそうで、このような無毛地帯では土壌のバランスが悪く、杉の品質も悪いといわれた。)

 さて、1時間ほどこの道を登ると、先程の身延へ抜ける林道にでる。安部峠へは林道を歩き、八紘嶺へはすぐに左に登る道に入る。

 八紘嶺までは良い道が続くが、途中、富士見台と呼ばれる切り立ったガレの上では足元に注意しなければならない。初めて現われた、見事な富士山に見とれて転落すると、助からないかもしれない。

 尾根筋を1時間ほど歩くと、やがて左手にダケカンバ・ヒメコマツ・ブナ・カバなどの、ひどく混生した原生林が現われる。だが、右手の林は伐採後の二次林のように見受けられる。

 登山口から2時間半で、八紘嶺の頂上に着いた。頂上は広く、立派な、壊れた温度計の着いた標識が立っている。富士山や南アルプス南部の展望がよい。山伏方面には、これまでと同じ良い道がついていた。

 20分ほど休憩してから、七面山に向けて出発した。まだ9時半だが、時間的には苦しい。せめて4時前に梅ヶ島に帰り着かないと、温泉もビールもだめになってしまう。
 何を隠そう、私の山行の目的はピークハンティングではなく、実は温泉とビールなのである。山はビールのための、絶対に欠かせぬ調味料のようなものだ。というわけで、温泉に間に合うピークを目的地にすることにした。

 七面山への稜線は、いきなり足元の見えないササヤブである。だが、踏み跡はしっかりついている。8月は山中で誰とも出会わなかったが、この分では今日も貸し切りだろうか。

 笹薮の、これといって特徴のない尾根は、約200メートル下降してから、広く深い樹林の中を歩くようになる。だが、ここには尾高山や池口岳のような、動物の棲息痕は少ない。

 しばらくして、前方に気配を感じた。「熊か」と身構えたが、来たのは中年男女の4人連れであった。最近、こんな山で若者を見たためしがないが、7月以来の登山者との出会いで、嬉しかった。

 ついでにいうと、私は若い頃から、予知とテレパシーの超能力に優れているようだ。「だいじょうぶか、この人」と思うあなたは、自分自身で生きてきたことのない証拠である。

 自分以外に頼れない環境に置かれた人ならば、誰でも超能力を自覚するものである。私は、近いうちに起こる事柄がおぼろげに見えるのである。だから自分の死も、的確に予知できるだろう。

 このときも、何ものかと出会うことを予知したのは数百メートルも手前であったし、ミゾオチの奥に不快感を覚えれば、必ず悪いことが起こる。この予感で、過去何度も登山途中に引き返している。
 また、他人の腹づもりを知るのに、言葉など必要でない。

 さて、七面山への稜線は、このあたりで踏み跡も途絶えがちになるが、やがて急な登りを過ぎると、はっきりした道になる。八紘嶺から1時間半で登り着いたピークが、1964mの七面山第2三角点である。ここはシラビソの疎林で、南アルプス本峰の眺めがよく、ここから引き返しても後悔しないだけの値打がある。

 もうここまで来れば、七面山に登ったといってもウソではないが、温泉に間に合う時間で、行けるところまで行くことにした。ここからヤセた美しい、亜高山帯の樹林の尾根を縫うように行く。地図上も、七面山まで登降差はほとんどない。涼しく非常に快適である。

 約40分ほどで、急に樹林が開け、伐採跡の尾根に出る。少し行くと、希望峰と書かれた木板の打ちつけられた、小広い山頂に出た。ここからは、南アの眺めがすばらしい。山伏、笊ヶ岳、農鳥岳と、白峰山脈の全部が見えるのではあるまいか。上河内か聖だろうか、ぬきんでた風格の峰も見える。

 時間は12時を回った。私の超能力が、ビールの遠ざかるのと、何かしらの不安をを告げている。
 目の前に見える杉林の山頂が、七面山本峰に違いない。しかし、あそこまで行くと、かえってこのすばらしいイメージを壊すような予感もした。ここも十分に七面山だろう。私は、温泉とビールに引っ張られるように、引き返すことを決意した。登山口から5時間半の山頂であった。

 帰路、最近の恒例として、要所に冬用の赤標をつけながら戻った。この尾根は、冬でも危険の少ない、快適な縦走ができそうである。
 八紘嶺に戻ると、山頂はガスに巻かれ小雨が降り出した。これが雷雲だと厄介だが、幸い雷鳴は聞こえなかった。さっきの不安はこのことだったのだろう。急いでかけ下って、登山口に戻ったのが3時半である。温泉街に戻り、川向こうの梅ヶ島温泉共同浴場に行くと、日曜日だけあって超満員であった。

 幸い、温泉は4時まで営業で、無事に浸かることができたが、あまりのんびりと浸かる雰囲気ではなかった。ただ、この温泉は山あいの鉱泉かと思っていたら、なんと硫黄臭の強い火山性温泉であったのにはびっくりした。富士火山帯に属するのだろうか。そういえばフォッサマグナも近い。

 ビールは温泉街で入手できず、途中の酒屋で買って飲むことになった。1・5リットルの薄めたウーロン茶を持参したが、不足するほどの山行だったので、このビールの値打は数十万円級の銘酒を上回ったであろう。
   

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それぞれの山の物語  5 南アルプス深南部の山々 前編

 静岡県西部、いわゆる遠江(とおとうみ)の国の山々である。したがって、遠州山地と呼ぶ人もいる。この南アルプス深南部の概念をまとめるにあたって、浜松・天竜・島田の図書館で文献を探したが、少ないのに閉口した。

 余多ある旅行観光紀行で、遠州を紹介したガイドは甚だ少ない。ましてや深南部の山々を紹介した文献は皆無に等しい。これは深南部が、いまだ観光産業による汚染を受けない処女地であることを示しているのかもしれない。

 実際、現地を訪れてみると、全国のどこよりも心の平安を掻き乱すケバケバしい宣伝と無縁で、深い山と谷に包まれた、静かで素朴な、心暖まる土地であることを知ることができる。「知られていない」ということは、実にすばらしいことでもあるのだ。

 しかし、ここには大和地方ほどではないにせよ、古くからの人間生活にまつわる歴史(必ずしも権力史ばかりでない)の強い馨りが漂っている。だから、民俗学的資料は少なくなく、興味深い文献にもであうことができた。

 「深南部」という山岳範囲は便宜的な名称であるから、確定的な境界が存在しないのは奥美濃などと同じである。一般的な通念では、西を国道152号線と天竜川、東南を国道362号線と大井川、北を南アルプス主稜最南端の、光岳から青崩峠までの稜線で囲む山々というところであろう。

 そして、これらのすべてが北の光岳 (三隅岳)に向かって収斂してゆく。それゆえに、深南部の盟主は疑いもなく光岳であって、むしろ「テカリ山地」と考えた方がよいかもしれない。

 このなかの主要な山は、光岳の南尾根には、池口岳、中ノ尾根山、不動岳、丸盆岳、黒法師岳など、南東尾根には、信濃俣、大無間山と、胸のときめく超2000m級のクセモノが揃っていて、山狂いを魅了してやまないが、どれも一般的観光登山とは無縁で、一筋縄ではいかない。それでも、整備された登山道ではないにせよ、狩猟や林業用の踏跡がそこかしこにあるので、比較的登りやすいともいえる。

 しかし、深南部主稜の山々には、南アルプス本峰を凌駕するほどの豊富な原生の自然が遺されていて、日本中見渡しても、これらの山のように熊やシカの跳梁する深山はザラにあるものではない。もっともこの場合、「知られない」という要素が逆に、膨大な赤字決済を迫られる林野庁につけ入られることになり、官僚機構による、すさまじい自然収奪の暴威に曝されていることを強く喚起しておきたい。

 黒法師岳は、西に向かって、麻布山、定光寺山を起こす山稜と、南に向かって蕎麦粒山を起こし、板取山、大札山、岩岳山、京丸山を持ち上げて春野町に降りる山稜を有するが、これらの山々は居住者が多いので、山道の整備は比較的ゆき届いている。そして、それゆえに、これらの山々には深い歴史のヒダが刻まれているのである。

 大井川鉄道の井川・千頭間や、黒法師岳より南の、水窪町、春野町、川根町に下る山稜には、都会人の常識では考えられないような深山の超僻地に、多くの部落が存在している。

 例えば、水窪町には門桁があり、春野町には京丸があり、中川根町には尾呂久保がある。これは、はじめて知る者に、一種異様な感銘を与えるほどの僻村である。なぜ、これほどの僻地に部落が存在するのか、民俗学上の大きな謎を秘めているといえる。

秋葉信仰

かつて今日ほど観光旅行の習慣がなかった頃、それは決して大昔のことではなく、まだ数十年ほど前のことなのだが、人々は気分転換のレジャーをハイキングも兼ねた神仏詣に求めるのが普通だった。

 それも、できることなら山岳の清浄な空気に親しみ、古刹の霊気に刺激を求めて、富士・御岳・白山・出羽三山・大峰山などには人気が集中し、講中を組織して登り、大気分転換を愉しんで帰るのが習わしだった。

 それほどの大登山をなしとげる余裕のない人たちは、地域に必ず存在した標高1000m以下の手軽に登れる山の名刹を訪ねたもので、遠州地方では、春埜山大光寺、法多山尊永寺、それに秋葉山大権現秋葉寺と秋葉神社などが大きな人気を集めた。秋葉山には、富士や御岳と似た秋葉講まで組織され、往事は栄華を極めたようだ。

 とりわけ秋葉山が名声を集めたのは、この神社に伝わる火防信仰が、当時深刻だった火災からの救済を求める人々の心情にマッチしたからであろう。

 秋葉山に参詣する道筋は、いつしか秋葉街道と呼ばれるようになり、信州方面からは、高遠から青崩峠を越えて水窪に抜ける街道がそう呼ばれ、駿河方面からは、掛川市大池から犬居に至る街道がそう呼ばれた。

 もっともよく歩かれたのは、浜松から光明山を経て登る道で、三河方面からの姫街道と併せて関西方面からの講中で賑わったという。

 江戸期の地誌である「遠江古跡図絵」に、行基の開山した山のうち、春に開いた山を春野山とし、秋に開いた山を秋葉山としたと記されている。そこで秋葉寺は、春野町をはさんで春埜山大光寺と兄弟関係にあることがわかる。

 開山は奈良時代の養老2年(718年)で、行基が大登山霊雲院を開創したときに始まると記される。それから1世紀後の大同4年(809年)に、越後国蔵王堂から修験者三尺坊が飛来してきて、この山の守護神となり、寺号が秋葉寺と改められたとも言われる。

 もっとも、役の行者や空海と同様に、行基の開山と伝えられる古刹などいくらでもあって、今日なおそうであるように、「有名人の名前を出せば、人々がありがたがって経営が楽になる」という、単純な原理による虚名であることはまちがいなかろう。
 実際には、仏法による衆生済度を決意した無名の民衆の使命感によって、このような寺院が拓かれていったのである。

 ところで、三尺坊は無名でありながら、今日秋葉山を世間に知らしめた本尊なのである。三尺坊は実在の人物で、信州木島平(野沢温泉村)の出身で、幼い頃から出家し、やがて阿闍梨となった。そして、越後蔵王堂一二坊のうちの三尺坊の主となり、火難救済を成就すべく誓願をたてて修行し、修験者としての名声を築いた。

 どういうわけか9世紀はじめに秋葉山に飛来し、その主になったと記される。超能力者であった三尺坊は、役の行者と同様、白狐に乗って空を飛んでしまうのである。(この当時の修験道は、超能力を磨くものであったらしい。
 現代からみれば空想的な虚構であっても、必ずしもそうとばかり決めつけられない事実もあった。あまり、頭ごなしにインチキと決めつけないほうが良さそうだ)

 秋葉山に三尺坊が登場すると、たちまち火防の山としての霊験が世に知れ渡るようになり、朝廷からも庇護を受け、1711年には正一位の神階を受け、1725年には勅願所に指定されるまでになった。これはひとえに、修験道の三尺坊の霊威によるものであり、秋葉寺の信仰に基づくものであった。

 しかしこの間に、秋葉山中でいかなる故か法力およばず、武田信玄による放火も含めて数回の大火が起こっている事情は他の山と全然変わることがないのだが、それを書くのは谷保天神というものだろう。

 90年に秋葉山頂社が再建されるまで、十数年の間、山頂社は火災のため存在していなかった。これほど当てにならない火防の神があったものではないが、神社側に言わせると、焼失した社は世界の大火災の身代わりになっておられるのだそうだ。モノもいいようである。

 秋葉神社の由緒には、開殿が和銅2年(709年)と、寺よりも古いことを言っていて、元明天皇の歌に、「あなたふと 秋葉の山にまし座せる この日の本の火防ぎの神」というのが紹介されている。神体は火之迦具土大神といい、イザナギ・イザナミの子で、火を統べる神である。

 中世、両部神道(神は仏の仮の姿、つまり権現と考える思想。本地垂迹説という)の影響を受けて、「秋葉大権現」と称するようになった。永い繁栄が秋葉権現を名刹として磨きあげ、勝軍地蔵のまつられた権現には、戦勝を祈念する足利尊氏や秀吉、信玄らが競って刀剣を奉納している。

 ところが明治維新に、神道天皇制を主張する本居・平田国学の影響を受けた神道至上主義者によって廃仏棄釈・神仏分離の嵐が吹き荒れ、両部神道を代表する秋葉権現は攻撃の矢面にたたされたのである。

 秋葉権現は、太政官布告によって強制的に神社と寺に分離され、このときから神社が山頂に残って静岡県社の指定を受け秋葉神社と称するようになり、秋葉寺は尾根下杉平の三尺坊に追いやられた。

 さらに明治6年、住職の死とともに廃寺にされ、仁王像や教典類は焼却され、仏像仏具は本山である万松山下睡斉(袋井市・曹洞宗)に移管された。しかし、信徒の執拗な再建運動が実り、明治13年、再び秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)が再建されることになった。以来、秋葉山には統一された権現はなくなってしまったのである。

それでも、今日なお秋葉信仰は根強く残り、12月16日の火祭には全国の消防団が参詣におしかけ、大きな賑わいを見せるという。

 しかし、今では秋葉山から黒法師岳に至る長大な尾根にスーパー林道が敷設され、人々は汗を流して山を歩くことによってしか得られぬ感動を失い、本殿さえも、今年からみせかけばかりの味気のないコンクリート製に代わり、しらけた風が秋葉山の将来を暗示しているようにも思える。

 秋葉寺や三尺坊の宿泊所もヒト気はなく、私の目には山頂に残る巨杉も、なぜか寂しげに見えた。


 常光寺山  1439m
(磐田郡水窪町山住臼ヶ森より 89年2月17日)

 京丸山から北を見ると、樹林の合間に同じくらいの高さの山々が延々と連なっている。そのなかの、一番近い立派なピークが常光寺山である。

 池口岳、不動岳、丸盆岳、黒法師岳などの超2000m級の秘峰を起こして遠州平野に消えゆく光岳南山稜は、いまだ世に知られぬ名山をあまた隠し持っている。
 沢口山、板取山、蕎麦粒山、高塚山、竜馬ヶ岳、岩岳山、京丸山、白倉山、奈良代山、それに黒法師西稜から始まって、麻布山、竜頭山、秋葉山に至る長大な稜線上にあるこの常光寺山など、まったく数えきれないほどの高い峰と深い渓谷の立派な山々が連なっていて、しかもこれらの山々に分け入る登山者は本当に僅かで、観光臭を嫌う真の山好きにとって、実にこたえられない魅力的な山域なのである。

 しかし、これらの山々の信じられぬほどの奥地にまで、古くから人間の生活が息づいているのを知る人は少ない。
 遠州は日本でも最も温順な気候の地である。有数の険しい山岳地帯を抱えながら、これらの山々に冬の季節風も降雪も極めて少なく、それが、この山岳の奥地にまで人間を抱擁してきた理由であった。

 常光寺山のある遠州最奥の町、水窪町は、そんな都会の常識を外れた僻遠の山里ばかりから成りたっている。
 なにしろ、町の中心街に行くにすら、大型観光バスが余裕を持って通行できる道路がひとつもない。いちばん良い道路は、浜松市から天竜市を経由する国道152号線だが、これも龍山村あたりから1車線になってしまう。

 おまけに、水窪町から北は、旧秋葉街道に沿って高遠方面に抜ける国道が何十年も前から計画されているのだが、途中に青崩峠という、南アルプス特有のもろい地質帯があって、絶えまなき崩壊のために、道路接続計画はほぼ絶望的に中止されたままになっている。

 狭い林道の兵越峠が間道として利用できるが、大型車は通過不能である。つまり、水窪町は袋道のどん詰まりの町で、国道152号は、この時代にあってすら幻の分断道路のままなのである。ただ、旧国鉄飯田線が町を貫通しているので、これだけでも他の山村よりよほどマシだと地元の人達は思っている。

 ところが、この水窪町は、かつて天竜林業が盛んだった頃は、非常に大きなにぎわいを見せていた。現在の数倍の人口が、この天竜川界隈を活気づかせていたのである。

 かつて、日本の大河川の多くが重要な交通手段に利用されていた。河川水運である。今、ダムに侵食された天竜川から往時をうかがうすべもないが、明治、大正あたりまでは、天竜川には数百の運搬船が行き交い、伊奈谷と河口を結んで、流通経済の動脈となっていたという。

 小島鳥水の作品に、「天竜川」という紀行文がある。鳥水は、「日本山嶽誌」の著者、高頭式らと、南アルプスを飯田に下山して、当時、すでに衰退しつつあった天竜下りを体験した。

 やや装飾過多ではあるが、なかなか情緒にあふれた名作で、当時の河川水運の光景をまざまざと見せてくれる。一部を抜き書きしてみよう。

 「けれども、山の町から一直線に、はた目もふらず、広々とした南の国の、蜜柑が茂り、蘇鉄が丈高く生えている海岸まで、突き抜ける天竜川という道路があることを私は知っている。しかも日本アルプスで、最も美しい水の道路であり、水の敷石であることを知っている。」

 「薄っぺらの船板は、へなへなにしなって、コルクみたいに柔らかく水をいなすから、板といっても帆布製の船で、漂流するような気もされる。」

 鳥水は、変化に富んだ流れに使用される船の特性も書き残してくれている。文中にも指摘されているが、天竜川水運業を衰退させたのは、木曾谷の中央線鉄道の開業であった。

 天竜林業の隆勢は、天竜川あってのものであった。トラックのない当時は、川だけが材木の運搬手段だったのである。この点、木曽川とならんで有数の水量を誇る天竜川は、林業にとってかけがえのない味方であった。

 だが、道路と鉄道開発に伴って水運業は廃れ、都市工業の発展のために犠牲にされた形で林業や育蚕も衰退し、若者はテレビや雑誌に登場する生活様式に憧れて、次々に大都市に流出していった。

 水窪町は、20年ほど前から深刻な過疎に脅かされるようになった。住民の平均年齢は高齢化の一途をたどっている。

 「このままでゆけば、町は消滅する」
 住民の誰もが、口には出さないまでも、そんな危機感をもっているのではないか。それらの焦燥のうえに、この山域に無謀なスーパー林道が続々と建設され、太古から人間生活を支えてきてくれた原始の自然が次々に破壊されている。

 誰もが、「こんなバカなことをしなくとも」と思っていても、誰も口に出さない。「過疎救済」の大義の前に、自然保護は説得力をもちえないのである。



 2月16日の夕方、春野町気田から気田川沿いに狭い林道(県道)を門桁に向かった。途中、森山や勝坂といった辺境の部落を通る。

 石切もそうだが、どうして食っているのか不思議なほどの寂遠の山里ばかりである。
 このあたりの猿、鹿、猪の棲息密度は、確実に人間のそれを上回っているであろう。石垣の上の小さな平屋、猫額ほどの畑と急斜面の茶畑、こんな僻地でしたたかに生き抜いている人々の姿は、一種の感動をあたえずにはおかない。

 勝坂の部落には、竜頭山登山道の標識があった。だが、このコースを登ると頂上直下に秋葉スーパー林道があって、気分の良いものでないので、もはや登る人は少なかろう。
 その先に、夜間通行禁止の標識があった。落石の危険のためだと書いてある。だが、柵が設けられているわけでないので走ることにした。なるべくなら、その日のうちに門桁までたどり着きたかった。

 最初は甘く考えていたが、そのうち通行禁止の標識がダテでないのが分かってきた。狭い林道のいたるところに、人間の頭大の落石が大量に転げでていた。こうなると、落石にタイミングが合わないよう祈って突っ走るしかない。

 これは、おそらく南アルプス特有の破砕帯の露頭が出ているのであろう。南アルプスは、このような地質をもたらす天竜川〜糸魚川大地溝帯のために、本来、林道建設に向かないのである。造っても、崩落破壊される率が極めて高い。にもかかわらず、自然破壊が楽しくてしかたないように、無謀な林道建設が他地域の数倍のペースで強行され続けている。歯止めがないのである。

 門桁の部落に着いたのは、午後8時半頃だった。戸数は多かったが、明かりの点る家が少ないのは、このような山里の常である。

 部落のはずれのダムの上で車泊した。
 翌朝見た部落には、一軒の精密機械工場があった。このような流通僻地で採算を求めるのは難しい。ここは、安い労働力を求めてと考えるよりも、僻村の活性化(いやな言葉だが)のために一肌脱いだ工場と、好意的に考えるべきだろう。

 チロリン村と書かれた看板もあった。最近、このような僻村に、好んで住みつく若者が少なくないとも聞く。(もっともチロリン村では、もはや若くはあるまいが)私も、縁さえあればそうしたいと考えているが、なぜか無縁なのだ。

 門桁に自動車道路ができたのは、1959年のことであった。それは、私の通った気田川沿いの恐ろしい道で、最初の頃は、運がよければ通行できる、といった程度のものだったらしい。それまでは、営林署の森林軌道しかなかった。行政区域である水窪町への、山住峠越えの道路ができたのは、やっと1970年頃であった。

 道路のできるまで、門桁への生活物資は、一本の索道によって山住峠を越えて搬入された。土地の人達は、それを空輸作戦と呼んだという。一番近い公共交通の飯田線向市場駅に出るためには、およそ6時間も歩かねばならなかった。
 この部落の起源も、おそらく木地師の定着村であろう。水窪町の山あいの部落の大部分が、木地師の末裔といっていい。
 現在、44戸およそ100名が居住するという。だが、人口統計グラフは、確実な速度で、この部落が消滅に向かっていることを教えてくれる。もっとも、この傾向は天竜川流域の集落の全部に共通しているが。

 山住峠は標高1107mで、山住山と呼ばれ、樹齢千数百年の巨杉を境内に吃立させた立派な神社がある。山住神社という。

 この神社には、山姥の伝承がある。これは柳田国男も取り上げているので抜粋しよう。
  遠州奥山郷の久良幾山には、子生タワと名づくる岩石の地が明光寺の後ろの峰にあって、天徳年間に山姥ここに住し、三児を長養したと伝説せられる。

 竜頭峰の山の主竜築房、神之沢の山の主白髪童子、山住奥の院の常光房は、すなわちともにその山姥の子であって、今も各地の神に祭られるのみか、しばしば深山の雪の上に足跡を留め、永く住民の畏敬を繋いでいた。

 「遠江国風土記伝」には、平賀・矢部二家の先祖、勅を奉じて討伐に来たと記してはあるが、後に和談成って彼らの末裔もまた同じ神に仕えたことは、秋葉・山住の近世の歴史から、これを窺うことができるのである。

 山住は地形が明白に我々に語るごとく、本来秋葉の奥の院であった。しかるにいつの頃よりか二処の信仰は分立して、三尺坊大権現の管轄は、ついに広大なる奥山には及ばなかったのである。
 街道一帯の平地の民が、山住様に帰伏する心持は、何と本社の神職たちが説明しようとも、全く山の御犬を迎えて来て、魔障盗賊を退ける目的のほかに出なかった。(山の人生より)

 常光寺山の山頂には、山住神社の奥社が設けられている。奥の院の常光房は、常光寺山の主である。山姥の三男だというが、その正体について、柳田は狼とのかかわりをほのめかしている。山住神社は、春埜山大光寺とともに狼を御神体として祀っていて、神職の山住家には山犬絵図が伝わっている。

 山住神社のいわれは、和銅2年(709)に愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまずみ)神社から移し祭ったとされる。元は、門桁の部落に置かれていた。

 オオヤマズミノ神は山々を管理する国津神とされる。その娘がコノハナサクヤ姫で、高天原から日向に降臨した初めての神であるニニギノミコトとまぐあって海彦と山彦を産み、さらに、その孫が神武天皇ということまで知っている人は、古事記あるいは古代空想史のマニアであろう。
 家康が三方ヶ原の戦いの際、山住神社に武運長久を祈願し、信玄に敗れはしたものの一命難を逃れたのは、この社の神力のおかげなりとし、江戸時代には徳川家の手厚い庇護があった。



 門桁から狭い県道を登り詰めると、そこが山住神社で、境内の二本の巨大な杉が見事である。峠の上には茶店もあったが、この日は日曜でも閉ざされていた。

 登山道について何も知らなかったので、2・5万図の山住からの破線路を辿ることにした。

 峠の危うい急坂を降りきった部落が山住家のある河内浦(こうちうれ)で、8戸、30人余りが居住しているというが、洗濯もののかかった人間臭のある家は3軒だけだった。河内という地名は畿内で多く使われ、川中の小平地を意味し、浦は船着の入り江を意味するとされるから、この地名は、かつて上方の人間によって名付けられ、そして水運に関係していた場所であったのだろう。

 山住家当主、紀氏の家は、常光寺山山麓の小平地に築かれた、天竜界隈きっての見事な石垣の上にある。ここは代々、山住神社の神事を司ってきた旧家である。

 山住家の歴史は、守屋兵部大輔を祖とし、12世紀保元年間にまで遡ることができるという。おそらく、上方の人間であっただろう。江戸時代初期、この地方の代官であった山住大膳亮茂辰は、この山域に広大な植林を行なったことで知られる。それは、大膳が、吉野地方に旅したとき、杉の美林に感動したからだと伝えられる。

 登山口は、そこから300mほど下った右手の林道を、さらに500mほど登った臼ヶ森の部落にあるはずだった。
 未舗装の林道のどん詰まりに小さな空き地があって、右手に10戸ほどの部落があった。車は全く駐車してなく、静まりかえっている。

 朝7時頃で、エンジンの音に驚いたのか、一番下の家からおばあさんが顔を出した。おばあさんに「駐車していいですか」と尋ねると、「いいよ」とのことだった。登山道は部落のなかの道を上がればよいと教えてくれた。おばあさんは、私の姿が見えなくなるまで表に出て私を見ていた。

 部落に、生活の気配はなかった。山道も荒廃している。だが、かつて木馬道だったのだろう、緩くて幅の広い、歩きやすい道である。

 きびしい寒さのなかを登り詰めると、やがて急な尾根に出て踏跡程度になった。薮がうるさい。下から1時間半ほどで、突然、向市場駅上村部落方面からの立派な登山道に飛び出した。最新の2・5万図にも記されていない。最近、地理院の地図は、歩道についての記述が実にいいかげんになった。

 快適な道を右手にとって歩くと、雪道になり、しばらくで鳥居をくぐり、祠や立派な社もあった。常光寺奥の院である。

 この付近は、ちょっとした部落でも造れそうな、二重山稜の平原地形であった。この地域は、山稜にこうした舟窪平原地形が多いと思える。
 山頂には、カリカリのアイスバーンを踏んで、痩せた尾根をひと登りして達した。臼ヶ森から2時間半程度である。わりあい良い山頂といえる。しかし、黒法師岳に至るこの山稜の彼方は、舞い降りる雪のために霞んでいた。殖生に見るべきものはない。ヤシオとシャクナゲが目に着いた程度である。

 帰路は、山住峠方面にとった。小雪のちらつくアイスバーンの尾根を、簡易アイゼンを装着して降りていった。途中、最近では珍しく5人の中年男性登山者にであった。こんな日に登るモノズキがいるんだと、笑ってしまった。

 しばらくで山住峠からの林道に降りた。そこからテクテクと歩くと、奥三河国定公園整備地域という標識の付近に、広い遊園地が造られていた。だが、ゲートは封鎖されていた。

 山住神社には、あっけなく着いた。日曜というのに人気はない。旧歩道は、秋葉スーパー林道方面に、ツルツル滑る凍りついた道を20mほど歩いた右下にあった。

 滑落を心配したが取り越し苦労で、雪はあったが実に良く手入れされた立派な歩道だった。ほとんど駆け降りることさえでき、40分ほどで、見事な石垣の山住河内浦に降りたった。
 昼前に臼ヶ森に戻ると、私の車の先に1台の軽自動車が停まっていた。朝のおばあさんの家に人影があって、あいさつにゆくと、中年男性が出てきて、その人と1時間以上も話しこんでしまった。

 その人は、おばあさんの娘婿で、浜岡町に在住とのことだった。生まれ育ったこの部落を離れたがらないおばあさんのために、週に1度ずつ食料や日用品を届けにきていると話された。

 驚いたのは、この部落に住んでいるのは、そのおばあさんを含めて、80才を越した老婆が二人だけだという。この部落には、終末の日が忍び寄っていたのである。


 竜頭山  1352m
(磐田郡佐久間町大井字大輪より 90年3月10日)

 竜頭山には山姥の伝説があって、明光寺の裏のクラキ山(佐久間駅東の愛宕山)で、山姥が3人の子を産み、そのうちの長男の竜築坊が竜頭山の主になり、次男の白髪童子が戸口山の主になり、三男の常光坊が常光寺山の主となったことを「遠江(とおとうみ)風土記伝」が伝えている。

 山姥伝説が、遠江の民衆にとって何だったのか、それを伝える人はすでにいない。ただ、山の神が、山姥やオオヤマズミの娘の木花開耶姫のように女性であることについて、ほのかな想像をすることはできよう。

 私の思うところ、これは実に単純な理由である。自然界の2大存在は、すくなくとも日本にあっては山と海であった。儒教風土が男女の和合をもって社会の鎮めとした伝統思想(日本的体臭というべきか)を考えれば、山のイメージは荒々しい突出の陽物であって、したがってその鎮めは女性でなければならない。

 逆に、海のイメージは広く深い包容力の陰物であって、その鎮めは男性でなければならない。ゆえに、山の神に女性が多いのは、山と海からなる日本の風土が、ごく自然に醸しだしたまったくナチュラルな帰結であろうと思うのである。

 だが、今では山の神が恐妻の代名詞であったことを知る若者も少なかろう。かつて、山の民を代表した木地師達は、木工ロクロを回転させるのに妻の手助けを必要とした。だから、木地師の妻の発言力は強かった。それが、「山の神」というあだ名を生んだのではないかと私は考える。

 しかし、やがて動力を水車などで代用することが普及するにおよんで、山の神の威力も衰えたのかもしれない。もっとも、荒れ狂うと手のつけられぬ山の神も、訴訟ばやりの日本ではシラケてしまっているのではなかろうか。
 これらの民俗伝説も、日本中を金太郎飴のように平凡化し、管理に便利な組織化・統一化が図られようとする、おしとどめがたい画一化潮流のもとで激しく侵食され、風前のともし火といっていいのだろう。

 今、それらを書き留めるには、すでに遅きに失しているかもしれない。しかし、だからこそ、私はそのような伝承に惹かれ、いとおしく思い、遺さねばと焦らずにいられない。

 山住峠から秋葉山に至る稜線は、龍のうねるような長く明確な尾根である。天竜川の向かい側の、奥三河の山々からそれを望むと、ちょうど竜頭山こそがくっきりと頭をもたげた最高地点であることが分かる。龍の山と、龍の川なのである。

 かつて、山住神社が秋葉神社の奥社であった頃、この長い尾根には多くの参詣者や修験者が、山々の神気を心ゆくまで愉しんで通行したにちがいない。
 人々は、当時珍しかったはずの杉の美林に感嘆し、しばしば足をとめたかもしれない。山住や秋葉には、樹齢1000年を超す巨杉もあった。これらの杉も、室町前期の植林と伝えられる。

 山住家第23代の山住大膳は、江戸初期から、この稜線一帯に膨大な植林を行なった。「大膳亮手鑑」(たいぜんのすけ、てかがみ)によれば、吉野地方から入手した杉苗による植林本数は、実に36万本を超したと記される。

 そして、それらの見事に育った美林が、天竜林業の礎を築いた。しかし、その大部分はすでに伐採され、現在は2世代3世代目の植林地になっているものが多い。この山域は、いわば日本の植林事業の原点なのである。

 それらの針葉樹材は、江戸時代すでに大規模寺院建築に使用される大型用材が不足していたなかにあって、天竜川のおかげで運搬が容易なために人気をよび、多くは上方や江戸へ運ばれていった。

 また、今でこそダムのために面影はないが、浅瀬や瀞や激流と多彩な変化をみせていた天竜川のような河川では、通常の海船ではたちどころに座礁破損してしまうので、剛性よりも柔軟性に主眼をおいた、底が広く喫水の浅い形式の高瀬舟(角倉舟)が多く用いられた。
 良質の天竜杉は、それらの用材ともなり、天竜川の水運の主力となった。天竜杉は、天竜川と一体のものであったのである。



 前日、まだ明るいうちに浜松に着いた。ずいぶん夜が遠くなったものだ。浜松インターから天竜市を経由して天竜川沿いに152号を走ると、たいした時間もかからずに龍山村に達する。

 このあたりから伊奈谷にかけての山村では、部落が山の急斜面にへばりつくように点在していて、夜間は部落のある山がまるでクリスマスツリーのように幻想的に見える。このような集落の光景は、木地師村に特有のもので、冬期積雪の少ない一部の山間地方にしか見ることができない。木地師がこのような山地に住んだ理由は、柳田国男が「史料としての伝説」のなかで詳しく考察している。

 まだ寝るには早すぎる。することがないときは飲むしかない。最近見た静岡新聞に、龍山村の秋葉茶屋という長く休業していた村営レストランに、南アルプス二軒小屋ロッジにいた若夫婦が経営に入ったと書いてあった。懐かしい二軒小屋の管理人氏なら、どういう店か様子を見たくなった。

 国道の秋葉山入口を過ぎて数キロ走ったところに看板があった。右下に降りる旧街道をしばらく走ると、一回転するために方向感覚を狂わせるややこしい橋を渡って左にわずかでその店があった。明かりは点っていたが、すでに閉店していた。あまりに早い。どうやら、いっぱいひっかけの客層とは無縁のようだ。

 方向が定まらず、目的地に向かうのに苦労したが、秋葉茶屋の前の道は、天竜川の左岸道路になっていて、そのまましばらく走ると秋葉ダムに着いた。橋を渡った龍山村最大市街の生島の部落は、コンクリートの殺風景な建物もある。並びにあった仕出屋さんで飲んだ。

 地元の人か数人飲んでいて、竜頭山の登山口をたずねると、大輪部落からであることを親切ていねいに教えてくれた。龍山村の過疎について話をもちかけると、あまり触れたがらない様子だった。しかし、なかのひとりが、

 「33ナンバーなんかの豪勢な車に乗ろうとさえ思わなけりゃ、十分田舎で生活できるんだよな。なんてったって、メシ代が安くあがるんだから。」
 と語った。田舎暮らしは傍目で見るほど楽じゃないが、食えないというほどのものでもないという。

 「ここらあたりは、田舎でも夜の飲酒運転の取り締まりがキツイから気をつけろや。」
 という忠告を受けて、近くの駐車場で一晩を過ごした。

 翌朝、工事中の国道を走り、大輪橋で天竜川を渡ると、そこから佐久間町大輪であった。教えられた通り、立派なトイレと案内板の前を右手の川伝いに100mほど戻ると、左手のガケの上に竜頭山登山口の標識があった。

 右手は秋葉ダム水域になっているのだが、立小便をしていて真下に古い石地蔵を見つけた。それには「水没者一切の霊」と刻まれていて、ダム工事の犠牲者の碑かとも思ったが、よく考えてみると、天竜川水運の隆盛期に相当な水死者がでていたという記述を思いだして納得がいった。

 登山道は、びっくりするほどよく手入れされた立派な道である。木馬道であった。おまけに、桟木の上には幅50センチほどの擦り跡がついていて、これがバリバリの現役の木馬であることを示していた。私も数多くの木馬道を歩いてきたが、現役にでくわしたのはこれがはじめてである。感激であった。

 杉木立の木馬を緩い傾斜でトコトコと1時間半ほど歩くと、途中何本もの枝道を分けるが、かまわずにまっすぐ行けば、道は沢筋からはなれて尾根道を行くようになる。ここでやっと登山道らしい道になり、全山植林で埋め尽くされているかとも思えた竜頭山も、あたりまえの雑木林に変わった。

 上部は、山住家の植林地帯らしくて、樹齢200年以上の見事な杉林もあった。さすがに林業開闢の地だけあって、手入れが実にゆきとどいている。
 2時間半ほどで稜線に達した。そこは遊園地のように整備されていて、大アンテナ設備まである。スーパー林道が冬期閉鎖されているからいいようなものの、シーズン中なら車から500mも離れると大冒険をしているようなつもりのメデタメデタの大衆が、騒がしい場所である。といっても、私も数年前に車で訪れているのだからエラソーにと自分をわらうのであるが。

 山姥の子でもハダシで逃げだす人為的山頂の展望はないが、わずかに離れたあずま屋から、このところ通っている遠州山地の全貌を見渡すことができた。
 素晴しい天気のうえに、誰もいなくて、展望指示板のおかげで、京丸山・常光寺山・麻布山・黒法師三山・不動岳・大無間山などを指摘することもでき、見事な眺望を楽しんで飽きることがなかった。

 反対側の奥三河山地を見渡せば、ポツリと高いのが20分で登れる愛知県最高峰の茶臼山で、その右手奥のひときわ見事に吃立した白亜のピークは大川入山であろう。ここは一昨年登ったが、期待にたがわぬすばらしい山であった。その先に、恵那山から中央アルプスの尾根筋も見えた。

 頂上直下の雑木林で、キハダの樹皮を少々失敬した。整腸薬に使おうというのである。これは効くのだ。ただ、私の次に登ってきた男は、ナタを手にした私を一瞥して、挨拶も無視して横を向いて通り過ぎた。官僚機構の巨大犯罪にはおそれいるばかりで、このように些少な罪に対して鬼のように厳しい人物は大勢いるものだ。といいながら、私は後ろめたさを抑えることができなかった。

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