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 2000年頃書いたものだが不詳 2017年加筆


 「大きく見せる」ということ

 山中で、熊などの強力な攻撃力を持った大型動物に遭遇するとき、人は驚き、怯えるが、相手の方も相当に驚き、怖い思いをしているのを理解できるだろうか?

 こちらが、「脅して撃退してやろう」と、不用意な浅知恵を働かせ、攻撃動作を示すことで相手を怒らせ、攻撃本能に火がついて不幸な結果を招くことがある。

 熊や猪などによる人間殺傷事件の多くが、無用に相手を怒らせることによって起きている点では、巷の犬と事情は同じである。

 動物は恐怖に駆られ、怒り狂って襲うのである。もちろん、猟師が失敗した手負い獣や子連れ熊など、極大化したストレスを抱えた危険な連中は、遭遇の前から怒り狂っていると思わねばならない。

 だが、怖がらせないよう怒らせないよう、落ちついて配慮しながら、こちらの存在を優しく静かに相手に知らせることで、ほとんどの場合、ニアミスによる不幸を防止することができると私は思っているし、実際にそうであった。

 私は、これまでの30年近い国内の山歩きのなかで、羆や月の輪熊など大型獣に遭遇した件数は十数回にのぼる。それらのうち10m以内と思われるニアミスも数回ある。

 北海道、十勝山系のホロカメットク・富良野岳の稜線では、岩尾根を超えたところで、目の前に突然、巨大な羆が現れ、逃げる場所もなかったが、牛ほどの大きさの黒光りした羆は、穏やかに私を見つめ、悠然と音もなく笹原に消えていった。

 不思議に恐怖心はなく、金色に光り輝く黒毛の美しさばかりが印象に残った。(ヒグマは老齢化すると「金熊」と呼ばれる美しい漆黒の毛並みに変わる個体がいる。)
 このときは数百メートル手前から、バケツをひっくり返したような大きさの真新しい糞塊が散乱していたので多少の覚悟もあった。

 裏木曽の奥三界山付近で遭遇した月の輪熊は、私が小用中に目の前の藪から突然、脱兎のように飛び出し、すさまじい勢いで坂を転がり下って視界から消えた。
 私は呆然とするばかりで、肝心なものをしまうことも忘れてしまった。信越の鳥甲山でも、中アの空木岳でも似たような経験があった。月の輪熊を身近に見るときは、いつもこうだ。

 私は熊など大型動物の存在を知覚すると、できるかぎり優しい声で「オーイオーイ」と呼びかけ、話し続ける。絶対に相手を怒らせるようなことを言ってはならない。

 動物だってテレパシーが通じる。
「お元気ですか、結構なお日和で、いやーハンサムでんな」
 なんて、あたりさわりのないことを静かに話し続けるのである。

 話が途切れないうちは動物も警戒しない。向こうも好奇心があり、何が話しているのか確かめたいのである。
 これで、ときに数mまで接近することもあるが、不慮の事故が起きたことは一度もない。離れるときも話し続ける。たいてい相手はポカンとしている。この方法は私の秘伝として、読者にお教えしたい。過去に、有明山や深南部などで経験を重ねた。

 幸いにして、これまで私は熊や猪から攻撃を受けた経験はない。しかし、紀州大峰山地、前鬼口付近の林道で、突然、熊に遭遇したとき、立ち上がって、「ガー」というすさまじい大声で威嚇されたことがある。

 このときも、逃げ出して何事もなかった。声で威嚇されたのは、他に会津六十里越付近など3回ほどで、これは、いつも突然なので心臓によくない。

 国内、数千回を超える山歩きの経験を持つ宮崎日出一さんは、熊に襲われた刹那、必死に逃げ出して無事だったことを山行記録に書いている。この人の数千にのぼる記録は日誌のように正確で、その表現に嘘や誇張はない。

 手元に報告が残っていないのでうろ覚えだが、確か、中央アルプスの経ヶ岳付近の木曽側の支稜だったはずである。
 宮崎さんは比類なきベテラン登山者で、好んで人の歩かぬ藪を選んで歩く。ニアミスにおける多くの場合、音や匂いの気配で双方とも気づいて遭遇を避けようとするものだが、熊が子連れであって、子に気を取られて周りに注意が行き届かない場合や、地形的に気配が遮断され直前まで気づかない場合、不幸な突然の遭遇となる。

 このときは天候と地形が悪かったようだ。濃い霧によって視界と音の伝播が閉ざされ、複雑な地形の稜線で突然の出会いとなった。
 熊は怒って立ち上がり、両手を高く上げて宮崎さんを威圧しようとした。大きさは子牛ほどもあったと書いていたから、200キロ近い大物だっただろう。恐怖で身が竦んでしまって動けない。

 次に熊は立ちすくむ宮崎さんに近寄り、再び立ち上がって前足でフックパンチを見舞おうとした。その刹那、笹藪に飛び込み、神業に近い藪こぎの実力を最大限に発揮して必死に逃げた。

 熊が追ってきたかどうかは覚えていない。余談だが、宮崎さんは、この事件以降、それまで「あんなものシロートのやることだ」と軽蔑していた鈴をつけて山を歩くことになった。

【2017年追記、大峰千日回峰修行中の塩沼亮潤も山中で大きな熊に襲われた。歩いてると、後ろでドンドンという森を揺するような足音が聞こえる。振り向くと大熊だった。逃げたが逃げ切れないと思い立ち向かった。杖を投げると熊は驚いて上に逃げた。

 世界最高のクライマー、鉄人、山野井靖史が奥多摩で熊に襲われたニュースを聞いたときはショックだった。子連れ熊に遭遇し、顔を70針、体を20針縫う重傷を負った。
 通い慣れたハイキングコースでのランニングで、突然遭遇のもたらした悲劇だった。】

 アイヌの熊狩りの記録を見ると、立ち上がって両手を高くあげた瞬間が最大の隙だという。この瞬間、勇敢なアイヌは刃物をもって懐に飛びこみ、心臓を深く正確にえぐり抜く。マタギの記録にも全く同じことが記されているから、これは普遍的な事実なのだろう。

 熊は攻撃の際、どうして立ち上がるのか? ほとんどの動物は、無用な争いを避けるために、争いの前に実力の序列を見極めようとする。序列は同じ種類の動物なら大きさによって定まるわけだから、本能的に少しでも大きく見せようとするのである。

 熊が立ち上がらず、いきなり噛みついたという報告を聞くことも多いから、たぶん、立ち上がるときは、いくぶんか攻撃に余裕のあるときではないだろうか。まずは脅して見せて、「おまえが逃げよ」という意志表示をするのではないだろうか。

 それでも逃げないとき、やむをえず攻撃するのだろうと私は考える。大きく見せるのは、無益な殺傷を避けるための知恵なのではあるまいか。

 猫のサカリシーズンによく見かける猫同士の争いも、毛を逆立てて自分を少しでも大きく見せようとするのが分かる。攻撃の直前、前足を大きく伸ばして立ち上がろうとするのも熊に似ている。

 犬については、飼い犬しか見たことがないのでよく知らないが、睨み合って大声で吠えあうだけで、後ろ足で立って大きく見せるなど見たことも聞いたこともない。どうも、尻尾の勢いが気勢の強さに関係ありそうだ。気勢を競い合って、尻尾が垂れたら負けという風ではないだろうか。

 ガチョウのケンカでは、羽を広げて首を伸ばし、明らかに大きく見せている。水鳥一般にその傾向がありそうだ。牛や鹿などの仲間が、不便とも思える大きな角をもっているのも、外敵や、仲間内の競争者に対して少しでも大きく見せることに意義があるのかもしれない。

 さて、人ではどうであろう。

 人間同士の争いでも、自信のない、怯えのある者同士のケンカを見るとき、相手を脅して萎縮させるため、少しでも自分を大きく見せるのに必死になっているのが看て取れることがある。

 以前、駅の付近で、ある酔っぱらいが通りすがりの女性に絡んだとき、女性の彼氏とおぼしき男がそれを制止しようとすると、酔っぱらいが背を伸び上がって彼氏を睨みつけているのを見て笑ったことを思い出した。

 まあ、その程度のワルなら特に危険はないと思い、成りゆきに任せた。本当に危険なのは、カッコをつけない猪のような直情型である。

 ヤクザが外車や国産大型車に乗って偉そうに見せるのも、無用な争いを避けるための知恵なのだろう。
 大きな車に乗ってヤクザらしくしていれば、争いを仕掛ける連中も少ない。連中はケンカになって実力が露呈することをひどく恐れている。

 怖がられなくなったヤクザは、もはやヤクザでない。この世界は「怖がらせてナンボ」である。だから、なめられるような小さな車には乗らない。

 最近の程度の低いワルガキどもが必要もないのに、やたらデカイ車に乗って他人を威圧したがるのも、自分を実力以上に大きく見せたがる小人の哀れな脅しの類だろう。

 普通に生きていることが怖いのかと気の毒になってしまう。こちらも、狭い山道やスーパーの駐車場で、無用にデカい車は大迷惑だ。日本には、日本に適したサイズというものがある。長く乗っていれば、いやでも思い知ることになる。背伸びして、「大きく見せる」無理の副作用は決して小さくない。

 「なめられたくない」連中の大型志向は、おそらく、弱者・小者を軽蔑しながら生きてきた習慣からなのであろう。自分の実力が矮小であることを思い知らされているのだろう。だが、それを認める勇気もない。本当に自分に自信のある実力者は「能ある鷹は爪を隠す」なのである。決して、必要以上に自分を大きく見せることなどしない。

 ワルガキ連も、また必要もないのに33ナンバー車に乗って、狭い道や駐車場で他人に迷惑をかけながら得意になっている普通の市民も、学校のランク作りと、その対極としてのオチコボレ製造工場と化した、人間の尊厳を踏みにじるような序列化に堕落した公的教育を受けずにすむなら、あのように愚かしい優越感を持たずにすむのにと私は思う。差別されなければ、誰が差別しようとするものか。

 だが、「小さくて何が悪い!」と、どうして言えないのだろう。

 重ねて言う。本当の実力者は、決して自分を大きく見せようとはしない。いつでも自分の真実の身長を正確に計っている。無理して背伸びすることが、いつか手ひどい副作用を生むことに気づいているからである。

 私は96〜98年、2年半ほど名古屋のツバメタクシー(中村区の中央交通)の運転手を稼業とし、実に様々の客を乗せ、世間には多くの生活があることを知った。

 客には大企業経営者や芸能人などの著名人も多かった。その経験から、世間でいうところの「成功者」に共通する特徴を見いだそうとするなら、いずれも私生活が実に質素で、先祖祭祀を非常に大切にしている点をあげることができる。

 私はスピリチュアリストだが一方で完全無神論者であって、いっさいの宗教を否定している。だが、これらの「成功者」たちの生活態度は、例外なく、驚くほど宗教的で禁欲的であった。

 たとえば、有名なパチンコチェーン店のオーナーのK氏は、毎朝、立派な屋敷の四方に1升ウン万円もする銘酒(天狗大吟醸)を念入りにふりかける。
 屋敷神に捧げているのである。家族そろった毎朝の祭祀にも時間をかけていた。逆に、私用に使う車はありふれた7ナンバーの中型車で、祭祀以外の無駄なことには金をかけようとしないし、金持ちに見られないよう気を遣っている。

 別の某会社経営者は、質素を通り越してドケチ一代のモデルになりそうな生活をしていた。
 自分の豪華な屋敷にタクシーを呼んで、支払いはいつも名古屋市が高度障害者に支給している限度額810円の無料タクシーチケットを利用した。
 限度額オーバー分について、この人には障害のカケラも見あたらないのに堂々と障害者割引を要求し、必ず数十円の釣り銭も正確に受け取った。これはこれで、半端でない金銭への思想と執念を感じたものだ。

 わが地方出身者には、先日、おそらく大勢の人々から怨嗟を受け、呪われながら死んだ横井秀樹という日本を代表するドケチ成金がいるのだが、この地方にはミニ横井が大勢いることを知った。この人物の目を見張るような絢爛豪華な屋敷内には立派な社が祀ってあった。

 成功者たちは立派な家に住むが、おしなべて生活は質素である。いつまでも若き日の苦労を忘れない。先祖や神仏への感謝を決して疎かにしない。高級車を乗り回して贅沢な浪費をすることに快感を覚えるような人々に、本当の意味での成功者はいない。
 苦労時代を忘れ、大衆を見下したその瞬間から転落破滅への道を転がり落ちることを彼らはよく知っているのである。

 だが、苦労を知らないその子供達の世代は違う。他人よりランクの高い生活があたりまえと思っている。
 だから、苦労人による歯止め、つまり自分をセーブしてくれていた後見人が消えた瞬間から、自分が築き上げたものでない有形無形の財産が、あたかも天から与えられた特権であるかのように、自分の天性の容姿であるかのように錯覚し、己が最初から一般大衆と異なる選ばれたエリートであると勘違いし、それにふさわしいと自分で定めた生活様式をつくりあげる。

 それは自分にふさわしい地位の、水準を満足させるものでなければならない。そして、同じ様な幻想を抱いた仲間と、閉ざされた社会を共有し、結果、厳しい現実の法則から目を背けるようになる。実力さえ金で購えるかのような空想の世界に棲むことになる。

 「選ばれたる者」の共同幻想の世界である。つまり、本当の実力もない者が、資産に頼って外見だけを「大きく見せる」ようになる。

 こうして、先祖が汗と血によって築き上げた資産は、やがて巷間に霧散し消えてゆく。
 こんな流転が生々しく繰り返される様を、私はタクシーのたくさんの乗客の背後に見ることができた。
 ろくな用もないのにタクシーに乗りたがる人、煌びやかに飾っていても猜疑心に包まれた虚ろな表情。数え切れないほどの不幸な人相を見、相応の不愉快な思いもした。

 また、こうした運命を辿って、白川公園のテントに落ち着いた人を私は知っている。もう少し具体的に書きたいが、プライバシーに触れることなので、抽象的な表現にとどめねばならないのが残念だ。

 「大きく見せる」ということ。本来の実力以上に自分を大きく見せたがるということは、実は「怖い」からに他ならない。
自分の実力では対処できないかもしれない恐怖があるからなのだ。圧迫され、心臓が破裂しそうになるほど怖い。そして、なんとか圧迫する相手を威圧し、その場を誤魔化したいのである。だからMさんも大熊に張り倒される寸前で逃げることができた。大きく見せようとしている相手は、実は大した相手ではない。

 人は自分の人生に拠りどころを求める。人生に救いがほしい。この世の誰かに愛されたい。誰にも愛されないなら、せめて他人に対して優越感を感じ続けていたい。自分は価値のある大きい人間だ、せめてそう思いたい。小さな貧しい自分を見つめることなど堪えられない。

だから、大きく見せたい。「嗚呼、自分の人生は大きくあってほしい」私もまた、妄想に悶え苦しむ。
 自分を冷静に客観的に見ることのできる醒めた実力のある人は、こんな幻想にしがみつこうとしない。人の一生は、自分の本当の背丈を見つめることのできる実力を磨くための時間なのかもしれない。

 自分の背丈が見える人にとって、人の一生は、どれほど大きく見積もっても、立って半畳、寝て一畳ほどの大きさしかないことをはっきりと見ることができる。

 それは、死刑囚でも、浮浪者でも、エリートサラリーマンでも、大学教授でも、大臣でも、天皇でも、勲章をもらっても、前科をもらっても、百万人を救っても、百万人を殺しても、決して変わることのない厳然たる真実である。

それなのに、人々はさまざまの虚構に怯え、自分より価値の高い人、低い人がいるものと錯覚し、強いコンプレックスをもつ。宮殿や議事堂や教壇に立つ人々が、薄汚れた服を着た人々より価値の高い集団だと錯覚する。

 ひるがえって人間集団を考えてみよう。

 人の集団がこの世に成立した頃、ただの野猿の群から、生産・貯蔵・分配を会得するほどの社会性を獲得した頃、マルクス・エンゲルスが指摘したように、出来の良い人々と、やや遅れた人々の二つの階級に分かれた。それらの互いに矛盾を孕んだ階級の存在が、やがて国家を成立させた。ここでは、くどくど述べない。問題は、本来あるはずのない人の外に、人の上に、それらを支配する「国家」という虚構が成立したときから始まったのである。

 「立って半畳、寝て一畳」の真実しかない人間に、それよりも価値の高そうな幻想が芽生え、エライ人が生まれ、バカタレが生まれ、良いものと悪いものが生まれた。だが、それらは所詮、虚構であって真実ではない。嘘の価値観を固定するためには、それにふさわしい偶像の成立が必要であった。

 国家の成立によって大きな利益を受ける集団が生まれた。そして、その利権を確保するために、末永い嘘、虚構を成立させねばならなくなった。
「国家は、民衆の手の届かぬ凄いものだ」という嘘である。「だから国家に逆らってはならない」という嘘である。

 虚構を持続するために、「普通の人」にはできない、圧倒するスゴイ能力を見せねばならなかった。そして、その必要が、地球上のすべての大型文明に共通する偶像・巨大遺跡を生み出すことになった。

 なんでもいい、「スゲーもんがある」という驚きと、未知への恐怖が、国家という虚構を信頼させ、大衆を隷属させたのである。人は人だけに拠って生きているのが真実なのに、偶像は、人の外に人を拠らしめるものがあるという錯覚を呼び起こさせた。

人々は、人に頼らず、偶像に頼るようになった。人の愛でなく、国家の権威にすがるようになった。

 偶像によってトクをする階級が成立した頃、その利益を守り続けるために、永久に偶像の再生産が始まった。これが、歴史上の偉業の正体であり、今日の核兵器や原子力発電所の本質である。

 これらは、国家という虚構を、大きく、民衆の手に届かぬものに見せることに貢献し、大衆を国家権力に隷属させる力になるものでなければならなかった。そう、「大きく見せるのである」

 軍隊・皇室・学歴社会・巨大プロジェクト、超高性能の産業機械など、これらは、国家の虚構を支える、つまらぬ錯覚にすぎない。本当は、こんなものは生きてゆくのに必要不可欠なものではない。

人の一生は、どんなに無理な背伸びをしようと、「立って半畳、寝て一畳」以上のものでは絶対にないのである。こうした虚構は、人生にに不幸をもたらし、人間社会に究極の不幸をもたらす。そして、その不幸の華こそアウツビッシュに他ならなかったし、スターリンやミノシェビッチに受け継がれていたのである。

 自らの背丈を見よ! 背丈の家に住め! 背丈の食事をせよ! われわれが生きている真の理由が、断じて国家から生み出されたものでなく、それは人の愛からであることが分かるなら、どうして、この世に不幸という概念が成立するだろう。

【2017年追記= 私は修験道の研究と、千日回峰の意味を調べていて、どのような理由で、これほど無謀で凄まじい行が千年以上も続けられているのか考えた。

 満行した行者たちは、一様に口を揃えて言う。

 「修行で得られたもの、修行がもたらした意味はない、ただ人への感謝が自分を支えていてくれる現実に気づいた」
 と言っている。

 私は本当に命を賭した堂入四無行に、京都の善男善女市民が駆けつけて、これ以上ないほどの心配顔で行者を見つめているのを見て気づいたのだ。

 この行者の姿を見て心配し、感動し、連帯しようとしてきた京都人の心こそ、千年の京都を真に支えてきたものの正体であると。
 それは背伸びでも、大きく見せる虚構でもない。この行者の姿を見て、人々は自分の住む京都を大切にし、後生に受け継がせねばならないと決意しているのであると。

 思えば、我々の若き時代。命がけで死地に向かう勇者がいた。
 小西政継・植村直己をはじめ、無数の若者が厳冬の山や谷川岳の岩壁に散っていった。

 彼らも社会に何も利益をもたらさないように思われたが、私は決してそうでないことに気づいた。

 彼らが常人のなしえない勇気を示すことで、我々は奮い立ち、新しい困難に立ち向かうことができたのだと。

 このことは本稿がとりあげた虚構性ではない。ひたむきに立ち向かう姿を見ることが、社会全体を緊張感のある利他社会に向かう力を生み出す。

 原発も戦争産業による金儲けも人類滅亡しかもたらさないが、千日回峰行者や山に向かう彼らは、健全な本当の未来を生み出そうとしているのだと。】

この記事に

蛭川風土記

蛭川風土記

 2004年記、2017年改訂追記
(室町期から続いた蛭川村も市町村合併により2005年、中津川市に編入された。地域名が変わり郵便住所も変わったが、村の中身はほとんど変わっていない。人口3000名に満たない穏やかな過疎の山村である。
 変わったことを挙げれば、イノシシやハクビシンによる獣害が桁違いに凄くなったことだろうか、)


 バラバラの村?

 (2003年)蛭川村に移住した最初の頃、第一印象は、美しい村だが、どこか変わってるという印象だった。どこが変わっているのか?

 例えば、気づきにくいことだが、一般的な日本の田舎集落は寺社を中心に数軒から数十軒の民家が集まっていて、その周囲に畑・水田地帯があることが多い。しかし、蛭川村には一部の例外を除いて、そうした集合的集落が少なく、民家がてんでバラバラに離れて存在している印象だ。

 バラバラに住んでいると、犯罪や天災などで近所同士の助け合いが得にくくなると心配になるが、逆にそうした心配の少ない地域なのかもしれない。

 役場から安弘見神社の周辺にかけて、小規模な商店街を含んだメインストリートがあるだけで、他は北海道の農村風景に似た分散型の集落が多い。メインストリートに、どこにでもあるはずの寺院がないのも奇妙だ。

 これらは幕末の廃仏毀釈、寺院破壊に関係しているように思える。寺院があれば集落の核となり、コミニュティが成立し人は寄り添って生活するようになる。それを打ち壊した当地では、集合集落の理由がなくなったのかもしれない。

【2017年註加=蛭川を含む岐阜県東濃地方の住民は、京都・滋賀・福井方面から移住してきた「秦氏」と呼ばれる朝鮮系渡来人の子孫であることは、スラッとした体型や一所懸命思想、文化の共通点から明らかである。
 騎馬民俗を持った人々では、牛よりも馬と共に生活する文化があった。今でも馬の文化は春祭りなどで花馬のイベントとして残されている。
 思想宗教は、仏教ではなく神道を尊び、西日本に典型的な、仏教寺院を中核とした密集した共同体社会を形成する習慣はない。
 江戸期に強要された「五人組」の影も薄い。中国から渡来した弥生人の子孫と思われる関西の集落では、菩提寺を中心に数戸〜数十戸の檀家が強固な共同体を形成して集落を作っているケースが多いが、騎馬民俗系の子孫は、一戸一戸がバラバラに城を主張するような特異な集落形態になることが多い。
 これが、その地域が弥生人系か騎馬民族系かを判定する有力な根拠となる。】


 特筆すべき村の景観上の特徴としては、特産である花崗岩の石切場が多く、至る所に花崗岩の露頭があって特異な風景を形作っている。観光地、恵那峡あたりは中国桂林に似た奇岩怪石が印象的で、独特の雰囲気を醸している。

 大正時代、京都の石材業者がこの露頭に目をつけ、全国に売りさばくようになった。この村の花崗岩は全国でも指折りの高品質とされる。

 鍾洞と呼ばれる花崗岩にぽっかりと空いた穴のなかには、すばらしい紫水晶・煙水晶・トパーズなどの宝石がびっしりとついている。
 岩自体も「蛭川石」と称される高品質の墓石材料として全国に名が知れた。

 この結果、多くの露頭が切り出され、何か不自然な景観が残った。

 さらに、山慣れた私の目からは、蛭川村景観のバックボーンをなす山々、わけても笠置山と岩山の景観に特異性を感じる。
 山全体が妙にのっぺりしていて、尾根と谷の区別ができにくい。独立性の強い山容なのだが、大きな沢の浸食が見あたらず、尾根の切れ込みが不明瞭なのだ。

 おそらく山肌の透水性が高いため、沢への集水力が小さいのだろうと思う。だから、恵那山や木曾山地と明らかに異なる山容で、奇妙さを感じるのである。

 これは太古の世界で海の底に大噴火が起きて溶岩が流れ出して巨大な花崗岩の層が成立し、その比重が他の岩より軽いため、数億年もかけて徐々に地上に浮上してきた成因によるものだろう。

 こうした景観が他の山村とは微妙に異なる雰囲気を醸し出していて、「ちょっと違う」という印象につながっている。
 石灰岩地帯とは対照的な特徴を持った花崗岩地帯の代表的景観といってよい。

 だが、総合的印象を言うなら、古い民家と水田のバランスが「農村景観日本一」になったことのある近くの岩村町と似てとても美しい。

 紅葉の季節や村全体が 霧に包まれたりすると幻想的な景観となる。ホタルのシーズンになると、村中の水田に青白いネオンが点滅して素晴らしいの一語に尽きる。これを見て、「蛭川 に来てよかった」と、しみじみと感じた。

 廃仏毀釈

 この村は歴史的にも強い特異性がある。
 先史時代の遺跡は少なく、歴史伝承も南北朝以降のものが多い。「蛭川」の地名が最初に登場するのは太閤検地で、この頃、すでに小規模な村ができていたらしい。
 もっとも過去帳など古い伝承は、廃仏毀釈の際に焼かれたものが多いので、正確なところは分からない。

 江戸時代、この地域は今の中津川市に居城のあった苗木藩遠山家の領地だった。そして明治維新の際、全国でもっとも激しい廃仏毀釈が行われた地域でもあった。

 藩内のすべての仏教寺院・本尊・仏具・過去帳・石地蔵の類に至るまで叩き壊され焼かれた。その後、大正期までに再建された寺院が数箇所にすぎなかったことで徹底ぶりが分かる。

 この事件は、それ以降の村の運命を大きく左右するものとなった。以来、村の宗教は仏教を離れ神道に傾いたまま戻らない。現在に至るまで、村人口の9割が神国教という希なほどローカル性の強い神道教団に帰依している。だから冠婚葬祭も、すべて神道方式で仏様の出番はない。

 どうして、これほど激しい廃仏毀釈が実行されたのか、とても興味深い。
 全国で、これほど激烈な廃仏毀釈が行われた地域は、他に薩摩藩、伊勢神宮周辺、石川県白峰地方、房総地方などが知られている程度である。

 苗木藩遠山氏は縁戚の木曾代官山村氏とならんで室町期からの領主で、江戸期を通じても異動のなかった希有な例である。これは藩政が非常に安定性の高いものだったことを示している。

 この藩では上意下達システムが整備され、藩命によって村民は軍隊のように行動しなければならなかった。
 そこには江戸幕府による街道維持の強い意志が働いている。

 藩内に中山道という要衝を抱えており、参勤 交代などの国事が多く、「助郷」として、いつでも戦争状態のような緊張を強いられた地域だったことにより領民は希なほど訓練されていた。

 島崎藤村が幕末の故郷を記録した歴史小説「夜明け前」に登場する青山半蔵のモデルは実父の島崎正樹だが、青山の名は苗木藩家老にして国学指導者だった青山胤道からとったと言われる。
 正樹もまた、平田国学の熱狂的信者であったため、故郷、馬籠の寺に火をつけて死ぬまで座敷牢に幽閉されてしまった。

 胤道は平田国学の創始者、平田篤胤から名をもらうほどの高弟で、廃仏毀釈を藩命として下達した彼の指導によって、苗木藩一帯で激しい仏教破壊が実行されたのである。反対勢力の乏しい統制のとれた藩政であったため、それは遅滞なく徹底的に実施された。

 (廃仏毀釈とは、本居宣長の弟子を称する国学の平田派が「政権を武家から天皇に返せ」と提唱し、武家政権の思想的支柱であった仏教を廃し、日本古来の伝統的神道思想に立ち戻るれと呼びかける過程での仏教破壊運動である。
 ちょうど今日のイスラム原理主義を思い浮かべればよい。これは明治維新を実現した勢力の思想的バックボーンとなり、さらに新政府の思想的根幹をなし、天皇専制国家の樹立から傲慢で無謀な国家主義、東アジア侵略へとつながっていった)

 蛭川村にあっては、胤道の同志であった奥田正道の指導によって、やはり徹底した神道教育が実行された。
 彼は仏教を壊しただけでなく、蛭川最初の寺小屋、 後に小学校の創始者であり、今日、村民の宗教的支柱である神国教の創始者ともなっていて、以来、恵まれた環境とは言い難い山村ながら蛭川村の教育水準は低くない。

 私は、これほど徹底した仏教排斥の事実の背後に、江戸期を通じた宗教支配、隣組などの制度から仏教寺院に対する反感が蓄積していたのだろうと推理していたが、実際には、それを伺わせる資料を発見できず、激しさは苗木藩の施政実行力が強力だったことによると結論せざるをえなかった。

 (江戸期、尾張藩による留山制度により、住民の山林利用が著しく圧迫され反感が募っていた。その怨みの蓄積が寺院破壊へのモチベーションになった可能性は排除できない。このことが「夜明け前」にも示唆されている)
 苗木藩は廃仏毀釈を最後の施政とした後、藩政返還によって消滅した。遠山家最後の藩主に殉死する家臣を出したほど藩体制は最後まで強固であった。
 
 杵振祭

 村民の9割が神道、それも超ローカル(ここだけの宗教団体という意味で)な神国教信者という全国でも希な「変わった村」にあって有形文化財はほとんど残されていないが、もっとも変わっていて面白い無形文化財がある。それは、村社、安広見神社の祭礼「杵振り祭」である。

 田植え前、4月頃に村社で行われる祭礼は、全国の祭り好きをうならせるほど独特の個性がある。これは豊作をもたらす田の神を山から呼び出す修験道の祭礼「花祭り」の発展形と思われ、実際、祭りの主役は花である。

 村の若者が役場から神社までのメインストリートを踊りながら練り歩くのだが、その踊りの振り付けがとてもユニークだ。若者達は花のように美しいチェック 模様の大きな笠を被り、派手な黄色い衣装に身を包み、手に手に杵を持って振りながら整列して踊り歩く。こんな個性豊かな祭礼を見ることは珍しい。

 もっとも 現在の形が完成したのは大正期ということで、本来の姿がどうだったのか知りたいところだ。
 全体の印象が、とても華やかで美しい。神社では巫女少女たちによる神楽が奉納され、行進の最後にも地元少女の楽隊が続き、花を満載した「花馬」がトリを引き締める。

 この花馬はアラブやサラブレッドのような外来馬ではなく、日本古来の小型の木曽馬であるが、これも1700年前に、朝鮮を経由してモンゴル馬を連れてきたものだろうと推理している。
 蛭川では祭りのためだけに、わざわざ数頭が飼育され続けている。

 霊として故郷に戻ってきた先祖達を喜ばせ、その力を借りて田に豊饒をもたらす典型的な花祭り儀礼とも言えるが、振り付けの質がとても高く見物客を飽きさせないのである。相当に実力のある振付師がいたのだろう。

 私は正月のドンド焼きの写真を撮影すると多数のオーブ(人魂と言われる)が写ることを知っている。おそらく、杵振り祭の行進には、夥しい先祖の霊達が見 物に来ていることだろう。蛭川村の豊かさは、こうした祭礼によって霊達を喜ばせることで、霊達の郷土愛を借りて保たれていると思っている。

 行進に先だって厄男によって御輿が神社に奉納されるが、私が感じたのは、そのすべてが明らかに旧約聖書に記されたユダヤ式祭祀を踏襲しているいうことだ。御輿が本殿に奉納されるスタイル、本殿の造作、御輿の形状までユダヤ人が見たら、びっくりして懐かしむであろう。

 【2017年註加=この祭りの起源を調べていたところ、目の玉が飛び出すほど驚いた史実を見いだすことになった。
 私が1990年頃に書いた「京丸山」に出てくる京丸部落の起源として、南朝方親王(宗良の第二子)であった尹良(コレナガ?)が浪合で自害し、その首を祀って守護したというものだが、それが、そっくり杵振祭の起源として記されていた。
 京丸の伝説との違いは、祀った場所だけで、京丸では尾根伝いの高塚山、蛭川では和田に同じ地名の社が残されている。
 この南朝伝説は、南朝の影響下にあった東濃から下伊那、三河にかけて広く流布されたものらしい。ナベブタの家紋を使う遠山氏の所領内であった。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/28514960.html  】

 
 【ユダヤと神道の関係について】
 知られているように、日本神道のマークは三角形を組み合わせたユダヤ教と同じ「ダビデの星」(六茫星)である。

 神道祭祀の多くが旧約聖書に記された方法 に酷似し、2700年前、アッシリアにて忽然と消えた「ユダヤ失われた十部族」がシルクロードを経て東方に移動し、旧約聖書を伝播したことは確実であろう。

 3〜7世紀に朝鮮半島の百済王国が唐・新羅連合軍に滅ぼされ難民が大量に渡来した。当時の国家戦争の敗者民族は皆殺しが宿命だったからだ。その主役は秦氏であり、彼らのうちから天皇家が成立したと考えられる。

 秦氏は秦の始皇帝の子孫を称した氏族で、出自はシルクロード弓月国であった。今日でも、この地域のキルギスタン・タジキスタンなどでは旧約聖書を踏襲するユダヤ式祭祀が色濃く残っている。また民族的にも日本人に極めて近いと言われる。

 始皇帝「政」も、その風貌が中央アジア系であったとの伝承がある。秦氏の宗教は三位一体の鳥居を持つ神道で、八幡(ヤハウェ・ハタ)・稲荷 (インリ→ナザレの王イエス意味する)など後の神道信仰の拠点となった。

 彼らはシルクロードを伝播した旧約聖書・ユダヤ教と新訳聖書・ネストリウス派キリ スト教の影響を強く受けていた。東方キリスト教派には新旧聖書の混在が見られるのが普通であった。これが中国において道教の一部に取り込まれ、日本に輸入されると修験道や神道になったと思われる。

 聖徳太子は仏教伝来の始祖と位置づけられているが、その母、推古天皇には明確な百済名が残っている。太子の幼名「厩戸御子」は景教の「救世主が厩に誕生する」伝承が含まれている可能性が強い。伝来当初の仏教は、習合神道であり、修験道や景教も含まれていたと思われる。

 日本神道の様式はユダヤ教に酷似している。御輿はほぼ旧約聖書の記載指示通りであり、幕屋や神主の衣装も同じ、それが奉納されるときジグザグに動き時間をかける のも、かつて御輿の原型となった「契約の箱」が20年毎に移動した名残を示すものであろう。これは伊勢神宮の遷宮とも共通である。

 また、古代神道の伝統をもっとも忠実に残すと言われる諏訪神社の祭礼には、「モリヤの神に捧げるイサク」の儀礼まで驚くほど忠実に再現されている。御柱の儀式もユダヤ式である。

 教徒で「ユダヤ神社」と称される八坂神社は、ヘブライ語で「ヤーサカ」から来たもので、それはヤハウェへの畏れ、「神よ!」という感嘆を意味している。
 当地、美濃国においては、古代から八坂神社が非常に多く、とりわけ可児市〜八百津町〜白川町、旧苗木藩内に多い。

 八坂神社は八幡社との共通点も多く、祭りのかけ声に使われる「ワッショイ」という言葉は、ヘブライ語で「さあ、戦うぞ!」という意味である。
 もちろん、わが杵振祭の安弘見神社も、元は牛頭社といったが、これは八坂神社を意味する変形であって、ユダヤ神社と呼ばれても不思議ではない。

杉原千畝を出した隣村、八百津町は極めて不便な高原地帯で、高野山のような地形。隠里の条件を備えている。この地の 伝承を調査することで、ユダヤとの関連が発見できるかもしれない。


 5月の大雪? なんじゃもんじゃ

 5月頃、笠置山登山道や神国教門前など、村のあちこちで、まるで大雪の積もったような、見事な白い花が咲く木を見ることができる。ちょっと変わった蛭川にふさわしい珍しい姿で、学名「ひとつばたご」(一つ葉タゴ)、通称「なんじゃもんじゃ」という奇妙な名がついている。

 「なんじゃもんじゃ」の由来は、江戸時代に江戸の青山六道(神宮外苑)に移植された木が「雪の木」として有名になり、それを見た殿様が「あの木はなんじゃ」と家臣に問うと、家臣が「なんじゃもんじゃ」と答えたとか、笑い話のような伝承がある。

 モクセイ科の落葉高木で、高さは15メートル程度、幹は50センチ径程度になり、花の咲いた姿が珍しく、とても美しいのでローカルニュースに取り上げられるほど親しまれている。

 「タゴ」とは「トネリコ」(タモ)のことで、バットや道具の柄に使われる有用木だが、漢方ではアオダモの樹皮が秦皮(ジンピ)として痛風の尿酸排泄特効 薬として用いられる。ヒトツバタゴも生薬名秦皮と書かれたものがある。
 もちろん、これは天然記念物に指定された稀少木で実用に用いられることはない。

 実は、私も痛風で、秦皮のお世話になっているが、驚くほど良く効く。ところが、最近、中国が秦皮を漢方指定薬から外したので輸入が途絶えてしまった。入手できずに困っていて、この木が気になってしかたがない。

 国内では、犬山から蛭川の木曽川流域周辺に自生するほか、はるかに飛んで対馬にも自生している。東京や名古屋に生えているものは、江戸期に移植したものらしい。

 朝鮮半島から中国福建省、シルクロード周辺にも希に見られるというが、その分布に、この木の秘密が隠されているように思える。 渡り鳥により運ばれた可能性が強いと言われるが、とても特異な木なので、もしかすると、シルクロードから朝鮮・対馬を経て笠置山にたどり着いた集団が、なんらかの目印として用い たのかもしれない。

 そう、「失われたユダヤ10部族」と考えれば面白いが、残念ながら証拠がない。
なお、この花は4月末に名古屋市内で咲き始め、最も遅いのは、6月はじめ、笠置山表登山道の7合目に天然記念物として指定されたもので、大雪が積もったと見まごうもっとも美しい花を咲かせるのは数日間だ。一見の価値はある。

 村のルーツ

 これらの民俗は、この地域に東濃地方の一般的な民俗慣習から、かなり離れた独自性の強い文化が育っていることを示すものだ。村人の人相も、どちらかといえば、東濃というより北関東〜東北太平洋側の人たちの特徴があるように思えた。
 もっとも近いと思うのは群馬県人である。

 そこで、村の図書館でルーツを調べてみた。廃仏毀釈や戦災により資料が散逸消失しているため、具体的なものは少ないが、おおむね、南北朝戦争時代に、後醍醐天皇の子であった宗良親王に率いられて北朝、足利尊氏に対してゲリラ戦を仕掛けていた頃、南朝側の武士が和田川沿いに住み着いたというのが定説のようだ。

 はっきりした伝承が残されているのは一色を拓いた田口、下沢を拓いた林で、林三郎太郎という武士が上州(新田義貞の随員だったように思われる)から宗良率いる武士団の一員として居を構えたということのようだ。となると、この村の起源は室町前期に遡ることになる。

 私が住んでいるのも下沢の一角で、回りは子孫である林一族で占められている。彼らに共通する人相は、エラの張った屈強で粘り強い戦闘的性格を示すものだ。源平の子孫など中世武家集団を彷彿させ、これなら北関東武士団の面影といっても不思議ではない。

 笠置山とペトログラフ

 蛭川村にとって故郷の山は、なんといっても笠置山である。蛭川村の大部分は笠置山の山麓で、一部岩山の山麓となっている。

 海抜は1200mに満たないが、独立峰のような姿形がとても美しい。とりわけ私の住居である下沢中山の頂から見た笠置山は、まさしく、うなるほどの盆栽的絶品景観。日本中の山を1500回以上も登った私が太鼓判を押しておく。

 決して大きな山ではなく、私の家から徒歩3時間もあれば登れるのも手頃でよい。ただ、近年、山の価値のなんたるかを知らない愚かな人たちによって、山頂近くまで車道が延長され、そのため稀少な光苔が取り返しのつかないほど荒らされてしまった。

 東濃地方の多くの山が、林道拡張によって荒廃し、鹿や猪、猿などの害よりはるかに深刻な森林荒廃をもたらしている。山腹横断林道は崖崩れの起点となる。 車で入れることによって、志もなく、無知で軽薄な者も簡単に入山できるようになり、山の財産、恵みを強奪するために徘徊する条件を与えている。

 山は手軽に登れることによって荒廃をもたらし、その価値を失うのである。山を守ろうとする志の高い者には手軽さは必要ない。汗水たらして苦労して登ることこそ、山の真の価値であることを知っているからだ。

 山を真に愛する者なら、決して安易な林道開発に賛成しないだろう。役人が業者に接待を受け、その便宜を図るために計画された自然破壊構築物の数々、これらは地方の存立基盤を取り返しのつかないほど荒廃させている。

 人々を自然から引き剥がし、郷土愛を失わせているのだ。蛭川の人たちが笠置林道によって得た 恩恵より、失ったもののほうがはるかに大きいはずだ。こうした、ものの見方、考え方は、幼い頃からの自然観察と創造的関与によって身に付くものだ。子供達に、山のもたらす恵みと、その保全を考えさせていかなければ村の未来も危ういのである。

 さて、その笠置山だが、これもまた変わった山である。長年、全国の山々を歩き続けてきた私も、これほど変わった山に出逢うことは珍しい。何が?

 まず、山肌に沢の浸食が少なく、のっぺりしている姿については、すでに述べた。当地が花崗岩地帯で特異な岩盤に覆われていることもすでに述べた。

 さらに、笠置山の山腹に、高さ数メートルの大きさの奇妙な岩が無数にニョキニョキと生えているのである。こんな姿は他に例が少ない。笠置山独特の景観といってよい。
 古代宗教研究者は、こうした岩を「ドルメン」と名付けて、アミニズム(自然神信仰)の礼拝所として使われた可能性が強いとする。

【2017年註加=2008年頃より、この笠置山ドルメンがボルダリング・クライミングの対象として開発されるようになり、2010年頃にはインフラも整備されて、全国からボルダーが押しかけるようになった。
 私は2010年に凍結路で起こした事故により左肩を複雑骨折し、二度とクライミング不可能な体になってしまったので、若者たちに酒飲みメタボのおっさんでも登れるところを見せつけられなくて実に残念だ。
 まだ未開の良質の岩場がたくさんあって、私は樽岩を勧めておきたい。ボルト打ち不可のルールは安全性に極めて問題があり、撤回してもらいたい。】

 実際に、笠置山のこうしたドルメンには、「ペトログラフ」と名付けられた古代文字の刻印が存在することが明らかにされた。

 刻印の意味は、まだ完全に解析されたとは言い難いが、一部、「ヒムカ・イルガ・ギギ」などの音があるとされ、「我らに水の恵みを」とする縄文時代の雨乞 い儀式の意味があったと明らかにされた。また、盃状の加工には、明日香の酒舟石のように、なんらかの生薬調合が行われた工場か、霊的祭祀場所であった可能 性も示されている。

 私は、山頂近くの物見岩や姫栗側の刻印を見て、その具体的意味を実感することはできなかったが、山頂から、こうした遺跡群を経て直線状に南に向かう遺跡・祭祀ルートが存在することを確認した。このルートの先には遠州灘・太平洋がある。

 かつて私は大峰山地の山頂から熊野灘の日の出が、光の柱を伴って宝石のように神秘的に見えることを知った。おそらく、笠置山頂からも季節によっては海の 光が神秘的に現れる条件が存在するだろうと想像したのだ。
 古代人にとっては、見えざる神が姿を現したと感動する機会だったのではないかと感じた。そうした 場所がドルメンとして大切にされたのではないか。

 鉱物・放射能・鉱泉・陶土

 笠置山から蛭川峠を伝って山並みが続いていて、白川町赤河・黒川地区に延びている。元々、白川は白・黒・赤の色合いを持った三つの川の流域をまとめた村であった。ここも苗木藩領で、やはり廃仏毀釈が激しく行われ、今でも神道の影響が強い。

 実は、私の祖母が黒川出身で、今でも親戚が肉牛牧場を経営している。決して深い山岳地帯ではないが、標高千メートル前後の山並みが海のように連なって北アルプスに向かっている。人々は山襞の隙間に林業や牧畜で素朴な生計を立てている。

 黒川は蛭川のように花崗岩には恵まれず、蛭川衆が花崗岩産業や耕地にも恵まれて豊かだったのに比べると、遠ヶ根峠を越えた黒川一帯は貧しかった。
 しかし、戦前、この笠置山から岩山・二つ森山・寒陽気山に至る山々に国内指折りの稀少鉱物を産することが明らかにされた。

 花崗岩石切衆は、採掘のとき岩の空洞にニョキニョキ生える煙水晶やトパーズを見て驚いた。村の河原にも磨かれないトパーズがごろごろ落ちていた。石材業が成立するまで、この村が宝石の産地であることに誰も気づいていなかった。

 薬研山付近でトパーズ・サファイヤ、希にはルビーまで産出したことで寒陽気山などにも可能性が広がり黒川衆に希望を与えた。しかし、結局、遠ヶ根峠や薬研山に鉱山が拓かれたものの埋蔵量が少なく、本格的な鉱業は成立しなかった。

 しかし、国内では非常に特異な地質であることが証明され、まだ未発見の稀少鉱物埋蔵の可能性が小さくない。

 また、強い放射能を帯びた土地で、岩山一帯ではラジウム鉱泉脈が広く存在している。鉱泉こそ宝石よりもはるかに価値の高いものだった。私の家でも井戸を掘ったら 、このラジウム鉱泉が出てしまい、嬉しいやら困ったやら。

 泉質は秋田の玉川温泉に似た炭酸ラジウム泉、とても暖まる想像以上に素晴らしい鉱泉である。現在、岩寿・東山・ろうそくの三軒の温泉宿が営業しているが、泉質の素晴らしさが知れ渡れば、私の土地も含めて一大温泉郷になる可能性もあると思っている。

 ただ、強い放射能が人体に悪影響を与えないか心配している。私の土地では、新品のゴム草履が半月でベロベロ。自転車のゴムタイヤがボロボロになり、中からチューブがはみ出してきた。
 こんなことは他で聞いたことがない。かつて蛭川村のガンマ線被曝による白血病の増加を調べたことがあるが、公開された資料からは、深刻な疫学的影響を確認することはできなかった。むしろストレスの少ない長寿村であることが分かったが、妊娠2〜4ヶ月の妊婦にとって安全な地域とは言い難いと思う。

 【2017年註加=我が家の空間線量は毎時0.2〜0.3 マイクロシーベルトもある。これは蛭川全体に共通することで、花崗岩地帯の宿命である。
 花崗岩のなかの長石成分にウランやトリウムが含まれているためだ。私は放射能の自称専門家なので土壌や水のスペクトルを分析したところ、トリウム系列とウラン系列の両方のラジウムやラドンを鮮明に捉えることができた。
 井戸水もトロン鉱泉といってもよいレベルだったので、さすがに飲用は市販水を利用するようになった。
 これが健康に与える長期的影響は不明である。】


 東濃地方は全国指折りの高放射能地帯で、その原因はウランを多く含んだ花崗岩にある。蛭川から西に20キロほど離れた瑞浪市日吉地区には旧通産省が作っ たウラン採掘精錬所があるほどだ。そのウラン含有レベルは鳥取県の人形峠を越えて日本一と言われている。
 また苗木地区の空間ガンマ線量も日本一で、蛭川村 田原地区でも、ほぼ同じ水準とされる。

 この花崗岩が風化したものが日本窯業を代表する東濃陶土となり、瀬戸・多治見・瑞浪一帯のセラミック産業を支えているのである。良いものも悪いものも紙 一重である。なお、蛭川の土の大部分も陶土として利用可能である。ただし、御岳火山灰の赤土では煉瓦くらいしか焼けない。 

 蛭川村の未来

 この村は自治開闢150年という、古い単独村区の歴史があり、独自の個性を育んできた。
 しかし、お定まりだが、バブル期の「開発幻想」に取り憑かれた有力者による回収のアテのない浪費が重なった結果、財政は破綻し、浪費を主導した自治官僚の言いなりに中津川市と合併しようとしている。

 歴史的には恵那市とつながりの深い地域なので、合併相手を間違えているように思うが、中津川市のほうが財政的に余裕があるという判断のようだ。いずれ、恵那市と中津川市も合併せざるをえなくなるだろうが。

 合併されれば合理化の名の下に地域サービスは画一化し、木で鼻をくくったような血の通わない行政が展開され、村の特異な歴史、個性のうち利用価値がないと判定されるものは放棄される宿命にある。

 例えば客を呼べる杵振り祭は残されるだろうが、村の図書館や資料館は閉鎖されるだろう。採算性の薄い事業は閉鎖される。また村独自のコミニュティを成立させることも困難になる。村の個性、独自の歴史も人々の意識から遠のいてゆくだろう。

 排水浄化とホタルへの危惧

 それ以上に危惧されるのは、合併後の効率優先自治体施策により、ホタルで有名な素晴らしい水質の水域が取り返しのつかないほど荒廃する事態である。

 既存の誤った集合下水処理により殺菌剤を含んだ処理場排水が流域生態系を破壊する可能性がある。すでに当地では下水道幹線工事が完成に近づいているが、これが完成した暁には、お粗末な活性汚泥処理と殺菌剤によって河川流路の浄化能力が大幅に失われ、ホタルを育む素晴らしい水質を潰滅させるのではと強く危 惧している。

 そこには鯉や鮒は棲めるが、鮎やアマゴが棲むことはできなくなる。
 生態系に無知な官僚の設けた水質管理法では、BODや大腸菌数によっては塩素殺菌を強制している。
 これは大腸菌殺菌の名目で塩素化合物を放流することで、流域の全生態系に強い悪影響があり、流路の浄化バクテリアを死滅させ、死の水路を造るものだ。何もしなければ水路こそ最大の浄化装置なのに、殺菌することで、それが失われるのである。

 こうした愚かな施策の例をあげよう。かつて、子供達にレントゲンによる結核検診が法的に強制され続けた。これは一人の結核児童を発見することと引き換え に、数十名の被曝ガン患者を発生させるリスクが明らかであった。

 実は、現在の中高年女性の乳ガンの大部分が、児童期における結核検診被曝によると考えられるのである。ガンの潜伏期間は20〜40年、因果関係の特定が困難なことを幸い、国民にガンをもたらす強制検診が長期間続けられた。

 殺人行為ともいうべき馬鹿げた過ちが続けられた理由は、それを定めた厚生官僚と利益を得る検診会社が天下りや接待で密着同体であったこと。そして、その会社(日本検診協会)こそ、関東軍731部隊、北野司令官が設立し、エイズを拡散したミドリ十字社の子会社であったことと無関係ではない。

 また、かつて朝鮮戦争とベトナム戦争のとき、アメリカ企業は大量の火薬を製造して在庫が膨らんでいたが、戦争終結とともに、この処分に困り、多くを化学肥料と農薬に転用し、それを日本など同盟諸国に押しつけた。
 これらの戦争の直後、農林省は全国の農村に化学農業資材を多用するよう指導通達した。自然の循 環サイクルを守っていた日本農業が、朝鮮戦争後に劇的に化学肥料型荒廃農業に転じた理由はこれであった。

 ベトナム戦争後には、戦場で使われた毒ガス、ダイオキシンなどが農薬に転用され、アメリカから安価に輸入された。日本農業は、農林省の指示により劇的に 農薬依存型に転換したのである。それらがもたらしたものは、作物の救いのない品質低下と農民の健康被害激増だけであった。

 水道行政に用いる薬品も無関係ではない。科学技術の幻想に縛られ、機械と薬品を多用することが高度技術であるかのような錯覚に支配され、取り返しのつかない自然破壊に邁進し続けている本質に気づかねばならない。

 本当の科学は決して技術や機械・薬品に頼るものではない。それは自分の五感を働かせ、自然を観察し、その法則を熟知して生かすものである。
 例えば、排水の処理は自然界の浄化バクテリアを最大に生かして、排水流路すべての浄化作用を総動員するものでなければならない。現在の行政が行っていることは、決して水を浄化しようとするものではない。
 浄化を名目に、巨額の工事費用をかけ、機械と薬品を多用し、さも科学技術であるかのようなコケオドシ設備を設け、業者に金をばらまき、天下り先を確保しようとする愚劣な浪費行為にすぎない。

 EM浄化槽

 そうした真実の科学による浄化システムが、すでにEM菌やEMBC浄化システムとして数多く実践されているにもかかわらず、権威ある学者や機関は自分た ちの縄張りの外で発見されたEM菌、受賞と無縁の技術は、どれほど素晴らしいものでも無視することしかできない。

 EMは公的な検討対象から完全に黙殺され、「トンデモ技術として妄想にすぎないインチキ技術であるかのように決めつけられ、EM菌によって大腸菌が完全に死滅するにもかかわらず、そのEM菌をも殺してしまう塩素殺菌を法的に強要しているのが愚かな行政の実態なのである。

 生態系を守り最高の浄化を行えるシステムは、実は完成しており、私自身が、それを実践し日々検証している。それは莫大な金のかかる下水道による集合処理 と対局にある小規模戸別処理であり、驚くほど安くあがる簡単な設備で、集中下水道処理施設の数十倍の浄化能力を持ち、合併型浄化槽でありながら完全に飲用 水準の排水しか出さない奇跡ともいえる機能を持っている。

 だが、こうした浄化槽の性能がどれほど素晴らしいものであっても、公的な認証を得ない限り法的には決して認められない。その認証の壁は既存業者を保護するため異常に厚く高いものになっている。

 例えば、浄化槽設置主任者の資格試験の条件は、何の合理的理由もなく7年の実務経験を要求している。これは新入業者を排除する壁としての意味しかもたないのである。

 日本の行政は腐敗している。業界と役人の腐乱した関係は、天下り役人の実態を見れば誰にでも理解できる。こうした腐敗行政が、日本の根幹を崩壊に導くばかりか、かけがえのない自然生態系をも取り返しのつかないほど破壊してゆくのである。

 EM菌を用いれば、簡単な設備で排泄物や洗濯排水を飲用水準まで浄化できる。排便の悪臭は芳香にとって代わる。排水路にはEM菌が繁殖し、大腸菌を死滅させながらホタルの繁殖できる清浄水を作り出してゆく。

 畜舎の悪臭も完全に解決できる。現在、当地においても悪臭を克服した畜舎の大部分がEM菌を使用しているのだ。生ゴミは素晴らしい堆肥に変わる。堆肥ボカシの大部分がEM菌に代わったことは常識になった。これらは実証された技術でありながら、行政は無視し、従来の生態系破壊技術に固執し続けている。既存 業者の利益を守りたいからだ。
 人類の未来を救う最高のテクノロジー、EM浄化槽は違法として排除され撤去命令を受ける。我々は、こんな時代に生きている。

この記事に

蛭川村移住記

 蛭川村移住記

  これは2004年に書いたものだが、2017年に改訂して東海アマブログに掲載することにした。金なし移住を志す人に、わずかでもお役に立てれば幸いだ。

 名古屋から蛭川村へ

 名古屋市内の公団アパートに25年もいた私が、岐阜の中津川市に近い蛭川村という山村に移住したのは2003年秋のこと。9月頃から準備を始め、スズキエブリという軽バンで何十回も往復して10月末には引っ越しを完了した。

 ここは名古屋から80キロほどの僻村だが、中央線沿線で中央道ICが近いため交通利便性が好く、別荘地としても人気があった。

 私が移った場所もバブルの頃売り出された別荘地で、金融担保処分地として廉価に売り出されたのを実父が新聞で目に留め、私に声をかけてくれたのだ。

 蛭川村は全体が花崗岩の岩盤に覆われているため耐震性の高い土地で、かつては首都移転最有力候補地と言われていた。バブル最盛期は坪10万円程の温泉付 き別荘地として売り出されていたが、近年は首都移転の可能性も事実上消えて、不景気のため不動産価値も下がり、購入価格は坪1万円程度だった。
 金は実父が遺 産分けのつもりで出してくれた、といっても乗用車代金程度だ。

 実は祖母の出身地が隣村の黒川というところで、縁戚も多く、蛭川は、まんざら無縁でもない土地だった。国内有数の稀少鉱物産地で、地質勉強のため度々訪れたことがあり、気味の悪い名に似合わず、とても美しい山村だと知っていた。

 私は以前、有機溶剤を扱う仕事で腎臓を痛め、排泄が悪いため重い痛風に苦しみ、体調も最悪だった。常に軽い尿毒症に悩まされ、黒ずんだ顔をしていた。腎障害が治癒する可能性は、どんな医書にも書かれていなかった。

 幸い家族がいないので死んでも心配がなく気楽だったが、いつ深刻な発作が起きるかもしれない病状のため、まともな仕事につけないでいて、貯金も失業保険も使い果たし、金も仕事のあてもなかった。どこかの公園にテントでも張って、ホームレス生活に入ることを真剣に考えていたほどだ。

 それまで住んでいた築40年の公団アパートは、入居当初、1DK家賃が2万円程度で安く人気だったが、お定まりの天下り官僚と子会社による食い荒らしを 受けて、莫大な赤字補填のため、家賃も民間相場以上の5万円近くまで上昇し、苛酷な仕事のできない私には負担が大変で、どこか安上がりな生活拠点を探さね ばならなかった。

 若い頃から登山に親しんだ私にとって、山の近い田舎暮らしは最高の憧れだったが、古いしがらみの強い集落では近所付き合いが大変だと思っていた。移住するには気楽な別荘地がいい。だから渡りに舟のような話で、期待に胸を膨らませた。

 現地は永住家族が一組だけいる十数戸の別荘地で、標高1000mほどの岩山の山麓にあたり、ときどき熊騒動が報じられるほど深い山林に囲まれた、美しい睡蓮の咲く池の前だった。土地の日当たりも良好、環境抜群、ひと目で気に入った。

 1日6本のバス便、バス停まで20分。近い雑貨店まで徒歩40分、喫茶店まで徒歩50分。大きめの八百屋程度のスーパーまで1時間半といったところ。早い話が周囲に何もない。車か、最低バイクがないと生活が成り立たない。

(註=2017年現在、事情はさらに悪化していて、商店の大規模集約化が進んだため遠く大きくなり、車を持たない世帯が暮らす生活システムが絶望的に困難になりつつある)

 土地の一部が50坪ほどの更地になっていたが、電気を引くことから始め、生活用水確保や排水浄化など、結構大変な作業を強いられた。できるものは全部、自分でこなさなければならなかった。

 太陽光自家発電や浄化システム、メタン装置・木炭製造などに興味があったが、なにせ金がなく、100万円単位の太陽光パネルなど、とても手が出なかった。

 スーパーハウス

 家は当初、8畳のナガワ・スーパーハウス(エコノミー)新品を37万円で購入し、ブロックの上に据え付けるだけにした。
 この家はトラック一台で簡単に運 べるのが特徴だ。買って、ポンと置くだけで住める。見かけはまあまあだが、住居としての基本性能はひどいものであることを住んでみて思い知らされた。

 まず、入口と窓が同じ面にあって通風が全然考慮されていない。夏場、内陸性気候の直射日光に晒されると、まるでサウナだ。窓を開ければ無数の虫、害虫の洪水。田舎暮らしは虫との戦いなのだ。

 天井は屋根鉄板一枚なので、日差しがあると鉄板の鯛焼き気分。強い赤外輻射でとても室内にいられない。クーラーをつけても焼け石に水程度。効いてるという感じがしない。やむをえず、屋根にブロックを並べて白く塗ったコンパネを敷いたら少し楽になった。

 マイナス10度まで冷え込む蛭川の冬は凄い寒さ。暖房がなければ室温はマイナス数度になり寝られたものではない。
 冬山のテントでもこれほど寒くない。石油ストーブ1台ではとても足りず2台必要だった。夜間も消すことができなかった。

 後に天井に石膏ボードを貼り付けることで、なんとか輻射熱と寒気から、わずかに解放されたが、スーパーハウスはもう懲り懲り、アイデアは悪くないが、設計も、ナガワ営業マンも人に対する優しさ、善意が感じられない。他人には決して勧めないことにした。

(註=キットハウス組立後、物置になってしまったが、スーパーハウスの安物を居住に利用するためには、大幅な改造が必要になった。天井・床・壁面に断熱材を貼り付け、ガラス窓は2重カーテンにすることで、とりあえず住めるようになる)

 電気・ガス

 電気の引き入れも自分でやりたかったが、電気工事士の資格が必要ということで地元の電気屋に頼んだ。こちらで用意しなければならないのは電気引き入れ口に高さ5m程度の電柱を建て、メータ・ブレーカのついた配電盤を設置することである。

 作業を手伝って敷設費用は7万円、敷地内の配線は自分でやった。本当はこれも資格作業だが自家設備だから文句は出ず監査もない。トラッキングやショートを起こさないよう接続部はハンダ付けし、しっかりビニール被覆してステープルで留める。
 アマ無線の2級を保有してるから電気電子の基礎知識はあった。

 いつか太陽光自家発電を実現したい。もちろん自作設備だ。原発に頼る電力会社に支配されるのはまっぴらだ。ソーラーセルが安くなる日を心待ちにしている。

(註=2008年に1Kwの太陽光発電を導入し、600Aのバッテリーシステムを作ったが、交流変換装置が何度も壊れ、恐ろしく高いものについた。それに自作の場合、整流ダイオードで電気の補充を一方向にしておかねばならないが部品が簡単に入手できなかったりしてソーラーシステムは最大の失敗作になった)

 ガスはプロパンボンベを買えばいい。テロ対策で昔のように大型ボンベは売ってくれないが、5キロタンクが1万円程度、プロパンガスは、どこのガススタン ドでもキロ400円程度で充填してくれる。

 最近、規制が厳しくなり、昔のような安易なゴム配管が認められていないので、配ガス業者に配管を頼んでメータ契 約すると高く付く。
 私はガス湯沸かし器なども自分で配管していたが、その部品さえ容易に入手できなくなった。プロパンガスは使いにくいというのが実感だ。

 ホームセンターで売られるカセットガスは3本250円、キロ330円程度のものがあり安いが、カセットの頻繁な交換が必要で、火力も小さく現実的でない。


(註=これも2008年頃、ガス法が改悪され、事実上個人でプロパンガスを購入することが不可能にされてしまった。2016年現在、業者からだとキロ450円のガス代と基本料金。カセットならキロ340円程度なので交換と後始末の面倒を差し引いてもカセットの方が有利である。火力も増えて、結構使える水準になっている。今のところカセットと電気コンロだけで間に合っている。)

 水騒動

 複数の別荘地開発業者が地権者として入り組む土地で、この別荘地の道路権・水利権を持つのは事実上倒産状態の「コスモ開発」という胡散臭い名古屋の業 者、金融処分地を買い取って私に転売したのは「ゆーゆー」という地元の業者だった。
(ネットで調べたら、船井総研グループなど全国で9社もあった、ここの は社長一名だけ)

 彼らが利害で対立し、解決をみないうちに土地を売ったため、私は道路・水利権のない土地を買わされた形になり、コスモの社長が突然、予告もなく強制封鎖に来て、パトカーが二台来る大騒動になったことがあった。

 結局、私の強硬な抗議に、「ゆーゆー」が「コスモ開発」に道路・水利権を30万円支払う形で決着がついたが、いずれの業者の無責任さにも怒りがこみあげた。

 水道を引くにあたって、施設分担金としてコスモから50万円を要求され、蛭川村分担金と併せて80万近く支払わねばならないことになり、あまりに馬鹿馬鹿しいので、「ゆーゆー」社長の薦めで井戸を掘ることにした。

 井戸は専門業者に頼んでボーリングすると100万円単位の仕事となるが、土建・造園業者に頼めば、ユンボを使って5m程度の井戸を20万円程度で作ってくれる。ここも地元業者に約4mの浅井戸を掘ってもらい1.5トン容量ほどの良く水の出る井戸ができた。

 当然、配管は自分で施設した。システムの知識がなかったので、500リットルのポリタンクを高いところにおき、適宜ポンプで汲み上げて落差を利用して ホースで配管していたが、圧力が弱く、冬場、長いビニール管が凍結し使い物にならなかった。そこで、ホームセンターを覗いたら寺田式浅井戸ポンプというの が4万円程度で売られていたので無理して購入、2キロのポンプ圧に耐える配管を塩ビ管で作り直したら、すばらしく快調に使えるようになった。

 塩ビ配管は 切って糊付けするだけの易しい仕事だった。
 しかし、当初、出たのは泥水ばかり、汲みだしても汲みだしても泥水以外出なかった。結局、飲料水は山から汲んでこなければならなかった。濁った井戸水は洗濯や洗い物に使ったが、当然、洗濯物が薄汚れたように仕上がった。

 やがて、この泥水をガス湯沸かし器で暖めてシャワーに使ってみると、驚くほど気持ちよく暖まることに気づいた。そして、そこから十数メートルの場所に、この別荘地の使われていない温泉井戸があると知り、ようやく泥水の正体が鉱泉であることに気づいた。

 後に、友人の篤志のおかげで素敵な風呂を建設することができ、これにポンタ湯と名付けた。すぐ隣の泉源は炭酸ラジウム泉と書かれていて、有名な秋田の玉川温泉と同じ。これは本当にありがたい贈り物だった。

 湯に浸かると肌がすべすべになり実に好く暖まり湯冷めしない。悪かった体調も湯治によって徐々に快方 に向かう感じだった。黒ずんでいた皮膚が少しずつ白くなるのが分かった。きれいな水も欲しいが自家温泉も悪くない。

 泥水鉱泉も、半年もすると、やがてきれいな湧水に代わったが、要は汲み上げ量が多く地下水が底を尽くと鉱泉が湧出し、普通に使っていれば湧水井戸になる理屈が分かってコントロールできるようになった。地下水はすばらしく美味しく、クセのない美しい水である。

 なお、ポンタ湯は、友人の設備屋、青松氏の協力により、ノーリツ製灯油ボイラーを定価の半額、8万円で購入、浴槽は傷あり1万円の格安品、浴室は後で述べるプチハウス2畳を20万円、全部込みで30万円程度。業者に頼むと100万円以上の仕事になる。灯油ボイラーは燃料代が桁違いに安く安心して使える。 維持費は月千円に満たない。一年間使用して故障皆無。十分過ぎるほど満足のゆく温泉になった。

(註=当地はトリウム鉱山に近く、土壌にも大量のトリウムが含まれているため、後に分析したところ水にもトリウム系列のラジウムやトロンが含まれていた。洗濯や入浴など通常の利用には不都合がないが、飲用だけは市販水を使うことにした)

 浄化槽とEM菌
 
 山林を拓いて生活を始めるにあたって、最大の障害が排水問題である。当地は水質が素晴らしく、有名な蛍の名所、それももっとも見事な乱舞の見られる核心部に近い。排水で水質を悪化させれば蛍を駆除してしまう。

 後に知ったことだが、2002年度に排水関係法が改訂され、土地所有者の利用にあたっての排水基準値が、それまでBOD50ppmだったのが10ppm に変えられていた。これは、おおむね大規模河川の平均水質に近い。

 それまで水汚染の元凶が工場と自治体下水処理場だったことは棚上げされて、個人レベルで 浄化負担を押しつけるものになっていた。

 この値は通常浄化槽としては相当に厳しい。私も関係法に無知だったので、知識として従来のトイレ浄化槽程度で許されると思いこんでいた。

 私は、生活排水をそのまま排水溝に流すのはマズイ程度の認識しかなく、アクアリウム浄化槽を作った経験を頼りに基礎的なバクテリア分解浄化槽を作って、そこを通せば解決するものと簡単に考え、容量3立米ほどのコンクリート製浄化槽を自作することにした。合併浄化槽とトイレ単独浄化槽の違いも、よく理解していなかった。

 工事は友人の土耕一氏の協力で順調に進んだ。4立米のコンクリート箱をブロックで6分割し、最初の桝を沈殿槽、次を曝気槽、残りを砂利透過槽、最後を排水槽とした。曝気も循環も金をケチってオモチャのような装置だった。投入したタネ菌も、熱帯魚飼育タンクで培養したアクアリウム用光合成菌主体のもので、分解菌は自然発生して陶太されると気楽に考えていた。

 数ヶ月もして屎尿が蓄積すると、排水には悪臭が漂うようになった。曝気と循環が弱いため、嫌気性腐敗を起こしてしまったのだ。風呂を増設し、排水量が多 くなると事情はさらに悪化した。フタをして密閉しても、どこからか悪臭が流れてくる。蛍の川に流れ込む排水溝は悪臭のドブと化した。それは隣家のすぐ脇の側溝を流れている。

 「これはマズイ」
 びっくりして、ホームページで屎尿分解性のよいバクテリアの知識を教えてくれるよう頼むと、すぐに幾人かが「EM菌を使ってみたら」と書き送ってくれた。そこでEMボカシを数千円買って投入し攪拌したらやっと悪臭の発生は止まった。

 投入後、10日ほどしたら、突然、菊池さんという方が訪問してこられた。自衛官風の好青年でEMBC浄化システムを研究している方だった。EM菌より優れたEMBC菌を投入すれば、屎尿は完全分解し飲用水準の排水になるという。

 私は月に数万円で生活しているため金がない旨伝えたが、無償で協力してくれるとのこと。菊池さんを信じ、持参されたEMBC菌を投入し攪拌した。それから、宅急便で数回、EMBC培養液が送られてきたのを追加投入し続けた。
 しばらくして我が目を疑う奇跡が起きた。屎尿のたっぷり詰まった沈殿槽に厚い放線菌膜が張り、やがて、それが消えると、ハッカのような芳香さえする菌床 水に変わっていった。

 それを汚泥ポンプを使って循環させるうち、屎尿や紙の堆積物が消えてしまったのである。出てくる水は日々キレイになり、やがて無味無 臭、飲めるほど澄み切った水に変わった。
 約1年分蓄積した屎尿やトイレットペーパー、生ゴミのカスなど、あれほど大量にあった有機物が、どこを探しても見あたらなくなった。一体どこに消えたのか? 狐に抓まれたようだ。

 冬の寒さと凍結

 蛭川村の冬は厳しい。雪は降っても30センチ程度だが、寒気が厳しいため村中アイスバーンとなる。道路はスケートリンクのようだ。四駆であってもノーマ ルタイヤでは当地の坂を上ることさえできない。
 これまでの最低はマイナス11度だった。こうなると室温も氷点下、夜間ストーブを消しては寝られない。

 厳冬期、すべての配管は凍り付き、水が使えない日々が続いた。たいていは日中になれば溶けるが、ときには3日以上、凍結が続くこともあった。毎朝の日課 は、トイレの金隠しの氷を棒で叩き割り、ストーブで沸かした湯を流すところから始まる。こうしないとウンコが便器から溢れ出して悲惨な事態となる。

 次に室内に汲み置きしたバケツの水をタンクに入れて、おもむろに流すことになる。このとき、下水配管を10センチ以上の太管にしておかないと氷結して流れなくなる。

 貯水タンクから安上がりなビニールホースで配管していたときは凍結しても破損はなかった。しかし、後に圧力の高い井戸ポンプを使うようになると、ビニールホースがすべて破裂したため塩ビ配管に切り替えた。

 厚手のVP管を使い、厚さ数センチの保温材を巻いて丁寧に施工したつもりだったが、凍結が始まるとヒーターの入れてない部分は、すべて数十センチに渡ってナイフで切り裂いたように破裂した。

 朝方、寝ていて「ボン!」という破裂音で目覚める。破裂箇所は昼頃になって凍結が溶けないと分からない。突然、噴水のように放水が始まり、その部分の保 温材を剥がし、壊れた配管を切り取り、新しい部品に換える。
 それを何度繰り返したか分からない。ホームセンターの係員も配管材料を買いに来る私の顔を覚え てしまって恥ずかしい思いをした。

 おおむねマイナス7度が境で、それ以下では厚い保温材も役に立たない。ヒーターが入っていれば大丈夫だが、停電でもすれば破裂してしまうし電気代がバカにならない。
 結局、凍結の予想される日は水を抜く作戦で、水の溜まりそうな配管に多数の水抜き用バルブをつけた。

 だが、それでも次々に塩ビ配管の漏水が続いた。毎日のように、どこかが漏れている。凍結圧力のせいかエルボなど部品の接合部が抜けるのだ。いいかげん泣きたくなるほどだった。糊や施工が悪いのかと思ったが、そうではないと思い当たった。
 
 実は、当地に移住して以来、思い当たる不思議な現象があった。靴や草履が異常に早く損耗するのだ。新品のゴム草履が半月もたずに壊れてしまう。数年は持つはずの上等のショッキングシューズでも、こちらで使うと1ヶ月で底がベロベロ剥がれだす。しまっておいた長靴を取り出すとヒビだらけ。あげく、自転車の タイヤがボロボロに分解してチューブがはみ出してきた。こんなこと普通ではありえない。

 要するに、高分子化合物の分解がとてつもなく早いのだ。原因について思い当たることがあった。当地は国内有数の自然放射線地帯。温泉はすべてラジウム泉、空間ガンマ線量は全国トップ。また裏山が薬研山という国内唯一ルビーを産出したことのある稀少鉱物鉱山だ。近くに、旧通産省が設けた東濃ウラン採掘場 もある。

 友人の坂下栄氏から預かっているRDANというガイガー計数管でガンマ線量を測定すると名古屋市内の3倍以上あった。なお私は放射線取扱主任者資格を取得しており自称放射線専門家である。というわけで、高分子分解の秘密は放射線量にあると言いたいところだが、実は3倍程度の線量では常識的に考えて、これ ほどの分解能があるはずがない。何か未知の原因があるだろう思っているのである。

 配管が抜けたり簡単に破裂する理由も、塩ビ管や接着剤が分解していることは確実のようだ。鉄管にすればよいが、今度はねじ切りが大変で、実用的でない。まだ当分、苦労が続きそうだ。

(註=2017年現在移住後14年もかかって、おおむね凍結問題に対処できると言いたいところだが、実は未だに塩ビ管の抜け落ちが出たりしている。ほとんどの場合は、重要な場所にテープヒーターを通電し、末端蛇口でチョロだしすれば凍結被害は出ないが、何かの拍子にチョロだしを忘れてマイナス7度以下になったりすると抜け落ちが発生するのである。マイナス10度以下だとチョロだしさえ凍結してしまうので、元栓で断水して、末端蛇口を解放し、配管内の水を抜いておく必要がある。 なお、鉄管用ねじ切り道具を購入したが、とてつもなく困難で、素人が扱えるような代物ではなかった。)

プチハウス

 実父が見かねて、暖かい家を建てられないかと援助を申し出てくれた。もちろん金がないので、安い廉価住宅を自分で建てるしかない。

 以前から、とても魅力を感じていた家があった。私は見栄えの良い高級住宅には魅力を感じない。大きな家も好きでない。「大草原の小さな家」がいい。

 貴重な老木を伐採して威圧感のあるログハウスを建てる発想にも不快感があった。もう、そんな時代ではない。自分が建てるなら不要材として処分されている 間伐材、それも杉が良いと決めていた。
 以前、加子母村で、まさしく私の好みを体現したようなモデルハウスを見つけた。「プチハウス」という。

 プチハウスは加子母村、脇坂建築が製造販売している100%杉間伐材キットハウスで、1畳10万円程度の値段で注文に応じて大きさを変えられる。2×4 材羽目板に仕立て、自分で組み上げるようになっている。

 屋根はカラートタン葺き。窓がたくさんあり室内は明るい。ベランダも付けられるようになっている。 トイレや台所も増設可能。老後の夫婦隠居住まいに最適。独身者にはもったいないほどだ。

 これを購入して自分で建てることにした。値段は12畳で100万円くらいだが、当地の気候を考え、厳寒地用保温仕様で110万程度。基礎を仮設用鉄パイプとし、120万円程度で作れると考えた。

 2004年、もっとも寒い2月くらいに作業を始めた。脇坂建築から届いた建材の山を見て、一人で作業がこなせるのか不安で、気の遠くなるような気がした。

 測量士の資格もあったので、持っていた中古の旧式トランシットで位置を定め、杭を打ち、水平を決めた。ブロックを置いて鉄パイプの舞台基礎を組んでいった。

 床下が1.7mもあるのは、放射線被曝を避け、通風を良くして腐食を防止し、下から上がってくる虫や湿気を避け、床下をガラクタ置き場にする意図があった。通常の二階にすると昇降が面倒だ。結果的には大正解だった。

 こうしておけば建物の乾燥性が良いので長持ちするし、シロアリなどが入りにくい。床下は後に、倉庫兼作業場となった。

(註=寒冷地で高床式にすると、まともに寒気に晒され、まるで冷蔵庫のような家ができあがる。北海道で高床式を見かけないのは、そうすると寒さに耐えられないからである。しかし当地は池を埋め立てた場所で、地面に水が浸透してきていて、高床式にするしか腐食に耐える設計ができなかった。こんな場合は、床面などに10センチ以上の厚い断熱材を敷設しなければならない。)

 材料には番号がふってあり、簡単な図面を参照しながら順番に組み立てて行く。間伐材の羽目板は小さな丸太から製材してあるので非常に反りやすく、製材後わずか半月ほどで変形してしまう。一段ずつ反りの向きを変えて、全体でバランスが取れるように組み上げるのだ。

 乾燥が進み反りが強くなると羽目板をはめ込むのが大変な重労働となる。そうなる前に反りと格闘しながら短時間ではめ込んでコースレッドという木ねじで留めるのである。時間との勝負なのだ。脇坂建築では二人で、わずか三日で完成させるという。私はおおよその形を作るだけで十日近くもかかった。

 組立は七日くらいだが、床張り、内装、屋根や雨樋、配線など細かい作業は結構多い。一人で格闘しながら疲労困憊に陥った。それでも家の形をなしたときは、これを自分の手で作ったのかと、ひとしおの感動だった。

 完全に住める状態になるには約半月を要した。寒い時期だったが、屋根と床には野断熱材を入れ、壁は四センチ厚の杉羽目板なので、それまでのスーパーハウ スとは比べものにならない。ストーブ一台でも十分に暖まる。

 新築の杉の香り、床は節だらけだがサワラ材を張ってある。高価だが当地特産なので安く入手でき るのだ。檜と同じ強度、香りの素晴らしさに大満足。自分で建築した満足感が合わさり、とても幸福な気分に浸った。

 後に2×4材でベランダも増設し、屋根をかけて配管し、台所として利用するようになった。1本200円の板を60枚ほど使い、3万円程度でできた。プチハウスに用意されたオプションのサワラ材ベランダは40万円する。
 
 トイレ増築

 プチハウスにトイレはなく、夜間、寒いとき階段を下りて裏側の仮設トイレに行くのは苦痛で、戻ってきたら目が冴え渡って眠れない。
 面倒くさいので室内に バケツを置いて用を足すようになった。友人が来て泊まっていっても同じ苦情が出た。

 そんな事情で、足の弱い老いた母や祖母も階段やトイレの問題で連れてこ れなかった。そこで室内にトイレを増設することにした。
 構造強度の問題で内部に増設したかったが、室内が狭くなるのと臭気の問題があり、やむをえず壁を切り開いて外部に箱を設けることにした。パイプ基礎を延 長し、安い2×4材を木ネジで重ねてゆく。
 天井は明かり取りを兼ねてビニールトタン葺き。壁を切り開いてドアを設けねばならないが、それが著しく強度を落 とすことになるため、できるだけ小さくした。おかげで出入りで、さんざん頭を打ち付けるトイレができた。

 便器は設備屋の青松氏に安い傷モノを探してもらったが見つからなかった。中津川のホームセンターで4万円で売られていたものを購入。
 ついでに前から欲し かった2万円の暖房洗浄便座付きとした。内外装・配管全部込みで約9万円ほどかかった。業者に頼めば40万円くらいだろう。自作すれば、おおむね3分の1 から5分の1程度ですむ。金は家族や友人の篤志に頼った。なかなか快適なものだ。

 ホタルと熊騒動

 2004年6月末、ギター演奏の仕事をもらっていた講談師、田辺鶴英と娘の小麦とともに私の車で四国に公演に出て、帰りにプチハウスに泊めた。
 蛭川村は東海地方指折りのホタルの名所。それも、ここから数百メートルの地点にもっとも見事な核心部がある。鶴英も小麦も、生まれて一度もホタルを見たことがないという。

 夜、期待に胸を躍らせて、暗闇の山林を懐中電灯で歩いた。私は「熊が出るから気をつけろ!」と脅しのつもりで言ったが、みんな笑いながら気にもとめなかった。

 暗い森を抜けると田圃があり、ところどころに青白い電球が灯っているようだった。
 「ホタルだ!」 小麦が叫んだ。

 その神秘的な輝きの強烈さに、みんなびっくりした。まるでネオンサインだ。見渡す限りの田圃中で点滅しながら輝いている。川辺を歩いて行くと、もっと凄い場所があった。川の屈曲点で、ネオンの洪水のように光輝が乱舞し、辺りが明るくなるほどだった。

 「へー、ホタルの光、窓の雪ってウソじゃなかったんだ」
 函館生まれの鶴英も、東京育ちの小麦も、このとき生まれて初めてホタルの乱舞を見た。二人とも、その場に立ちすくんで動かなくなった。

 「もう満足しただろ、帰って飲もうや」
 と言っても全然、動く気配がない。食い入るように光の饗宴を見つめている。彼らは2時間もそこに立ち続けていた。私は、これほどの見事な場所に、観客が他にいなかったことが、とても不思議だった。

 「どうして人がいないのかな」
 家に帰ると、向かいの池の上にネオンが点滅している。そこにもホタルがいたのだ。二人ともベランダに立って、いつまでも光に見とれ続けた。

 鶴英親子は翌日帰ったが、さらに翌日、驚くようなニュースを聞いた。村のなかに熊が現れ、外出禁止令が出ていたというのだ。
 蛭川村では10年に一度ほど熊騒動があるが、今回は村の中心部に現れたので大騒ぎになったのだ。

 それも我々がホタルを見に行った当日。熊は希にみるほどの大物で、数日後に車にはねられて死んだ。1.6メートル、100キロもあったそうだ。その出現 場所を聞いて、さらに驚いた。私の家の向かいの森だったのだ。

 あのホタル見物のとき、我々のいた森のなかに彼は潜んでいた。
 後に森に入って彼の足跡を確認した。それは我が家から100mの尾根にあった。
 しばらくして、日本中で熊騒動が勃発した。私は散歩のため村内の笠置山に登るが、秋頃、この登山道で再び熊に遭遇した。

 笠置山で熊が目撃されたのは戦後初めてだった。この熊騒ぎ、全国に波及したが、何を意味するものか、まだはっきりしない。 



 2017年追記

 岐阜県恵那郡蛭川村は室町時代から続く村だったが、これを書いた翌年、2005年にとうとう中津川市と合併することになった。行政区分からは恵那市に合併するのが自然だったが、グリーンピア事業の失敗で多額の負債を抱えた恵那市に編入されることを村民が嫌ったのだと思われた。

 私の家は2003年に移住、1年間スーパーハウスに住んだ後、間伐杉のログキットを自分で組み立てた12畳の家を建てた。家関係が130万円くらい、水回り、風呂トイレなどが50万円ほどかかっている。もちろん全部自作したものだ。

 その後、2014年に放射能汚染に見舞われた千葉から友人を脱出させるため、もう一軒、間伐杉のログハウスを建てた。
 これもキット価格で100万円台のもので、メーカーは関市の親和木材だが、耐雪性能は積雪2mとかなり上である。

 建築後3年を経て、自分で整地した地盤が不等沈下を起こしてドアや窓が開かなくなったりしてジャッキアップで平行を回復するなど、かなり手入れが必要になった。
 またログに隙間ができて風が入るようになったため、隙間を埋める作業も必要になって、完成度が高い住宅とはいえない。
 基本的には堅牢な地盤を作らず沈んでしまった私の施工が悪かった。土木工事を個人でやるのは、とても困難である。

 トイレ浄化槽も新築に会わせて新しいものを製作した。以前の経験を吟味して、今度は割合完成度の高いものができたと思う。詳細はブログに掲載した。

  http://blogs.yahoo.co.jp/tokaiama/28507858.html

熊は、周辺で、相変わらず頻繁に出没が報告されている。去年、床下が熊臭い(独特の獣臭が残る)ので熊がうろついていると感じ、周囲にフェンスを張った。
 今年に入っても人家の多い高山大橋付近や蛭川中心部で熊が目撃されている。
 また散歩コースである高峰山でも熊の痕跡が増えてきた。

 アライグマやハクビシンはかなりひどい。スイカや瓜などの農産物を食い荒らされるだけでなく、鶏を飼育していた農家も大半が被害に遭っている。
私が移住してきた2003年頃は、そうした獣害対策を施している畑など見たこともなく、一体は野ウサギ天国と感じるほど鳥やウサギが多かった。

 だが2007年を境にして、逆に獣害対策を行わない畑を見かけず、野ウサギも村中から姿を消した。アライグマが補食してしまったのだろう。
 この頃からイノシシの被害も深刻になり、多くの老人たちがカボチャなどの露地栽培をやめてしまった。
 私も芋類やカボチャなど、作ったものを壊滅させられ、まるでイノシシの餌を生産しているような思いにかられる。

この記事に

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 修験道 その3  塩沼亮潤による大峰千日回峰

 比叡山延暦寺における千日回峰行は、NHKが酒井雄哉の行を密着取材したので知らぬ人も少なかろう。

 それは比叡山の獣道で7年間、1000日にわたって行う。年に100〜200日、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で30〜40 km を拝礼して歩く。

 その後、堂入四無行という9日間、飲まず食わず、横にならず、眠らず不動真言を唱え続けるという、人体の限界を完全に超えた凄まじい苦行が待っている。
 
 生き延びる可能性が五割しかないと言われる恐ろしい行を無事に超えれば、さらに京都市中を100日間、一日84Kmも歩かねばならない。

 待ちかまえた数千の信者全員の頭に降魔の数珠を当てながら歩き回り、睡眠時間は二時間ほどであるという。

 こんな内容を知っただけで恐ろしくなるのに、視聴者がさらに衝撃を受けたのは、途中で行を続けられなくなったときは自害するという厳格な掟である。

 そのための首吊り用の「死出紐」と、切腹用の短剣、死体の後始末埋葬料10万円を常時携行する。蓮華の蕾をかたどった細長い笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。

 我々がテレビ番組などを通して千日回峰行者について知りうる知識は、いつでも成功者(満行者)のものだけである。

 行に失敗して自ら命を絶った行者が、どれほどいたのか?
 彼らのその後の運命、遺体がどう扱われたのか?
 関係者は厳格に口外を許さず、知ることもできない。

 医学的常識から考えれば、この行は、栄養失調をもたらし疲労骨折をもたらすレベルであり、もし、そうなれば掟によって自決しなければならないのである。

 失敗者の情報は、どこを探しても見つからない。
 実際に、山中で急病になったり疲労骨折して自殺を強いられた行者、堂入中に急死した行者は成功者の数倍もいるに違いない。
 
 それなのに、彼らの死は、その瞬間に、それまでの行の記録とともに、存在そのものが消されてしまっている。

 我々が見ているのは、その輝かしい成功者だけであって、隠された失敗者たちの姿を知る者は叡山の極一部の関係者だけであろう。
 彼らは黙したまま決して語ろうとしない。

 叡山では叡南祖賢から釜堀浩元に至るまで戦後14名の行者が知られているが、失敗して消えた者が、どれほどいるかわからない。名前さえ分からない。
 たぶん、成功者の数倍もいるはずの彼らは千日回峰行にチャレンジした記録そのものさえ消されてしまっているのである。

 「苦行」というのは世界中にある。
 チベット仏教でも五体倒地巡礼という苦行があり、インドネシアやタイ、トルコでも信仰を示すため自分を傷つける苦行が知られているが、苛酷という意味では千日回峰行は世界のトップをゆくものである。

 元は、中国の五台山で各峰の巡礼修行から行われていたものらしい。その行を密教関係者が日本に持ち帰った。
 それは叡山を開いた最澄だったかもしれない。

 叡山千日回峰行は、平安時代に相応という修行僧によって延暦寺で始められたものだが、詳細な記録は、織田信長による延暦寺焼き討ちによって資料が失われ、不明なことが多い。

 これを行うのは叡山だけではない。吉野にある修験本宗でも行っている。


 奈良県吉野にある修験本宗総本山金峯山寺。国宝、蔵王堂で有名な役行者を開祖とする寺だが、ここの「千日回峰行」は、叡山のものより厳しいと言われる。

 もっとも叡山は堂入後の京都大回り一日84Km があるので、トータルでどちらが厳しいかという比較は無理だろう。
 どちらも人間業ではない。

 大峰千日回峰に挑んだ行者の名は、塩沼亮潤という。
 彼は、テレビで見た酒井雄哉の行に衝撃を受け、自分もやり遂げたいと小学校のときに決意したという。

 実家は、酒やギャンブルに狂って母親に暴行するような愚かな父親がいて、たまらず離婚した後も、母と祖母の三人家族で、とても口に出せないほどの貧しい生活を経験した。

 普通なら貧しさのなかでグレそうな環境だが、彼は逆に世間の誰もがなしえないほどの困難な苦行を行うと決意した。
 アルバイトをして金を貯め金峯山寺に向かった。
 それが叡山ではなかった理由は、大峰の方が、はるかに苛酷であると思えたからだという。

 4年間の小僧生活=来る日も来る日も掃除ばかりで、学問さえ教えてもらえない苦しい日々を数年間も経験させられた後、寺は資質があると判断された者に回峰行を許可する。

 大峰山、山上ヶ岳、1719mの頂上に向かって、160mの蔵王堂から48Kmの道のりを往復する。
 前夜11時半に起床、夜を徹して数百カ所で祈祷しながら歩き、山頂に着くのが午前8時半、寺に帰るのが午後3時すぎ。山中を1日48km、年間およそ120日、9年の歳月をかけ、1000日間歩き続ける。
 このとき履く地下足袋は三日しか持たない。

 人間の能力をはるかに超えた荒行中の荒行である。たとえ病や怪我、雷や嵐の日であろうと、行半ばで辞めることは許されない。
 死出の旅を意味する白装束に身を包み、迫りくるあらゆる困難に耐え、ひたむきに歩き続ける。

 道中には国立公園に指定されてるほどの未開の大森林であるがゆえに、マムシや熊やイノシシなど人に危害を加える生物も多数生息していて、深夜の回峰行に障害物として登場してくる。

 私は、東海アマブログ「修験道路の山旅」に記したように、1991年に近鉄吉野駅から大峰本峰を熊野に向かい、前鬼に降りてバスで帰宅する山旅を行ったことがある。

 このとき大峰千日回峰の全行程を経験しているはずだが、公開された動画で見た光景はまったく違っていた。
 私の知らない岩壁や獣道が行者とともに写っていた。
 どうも行者道は、私が歩いた地図上の道ではない別の獣道を利用しているように思えた。
 塩沼が行を開始したのは、ちょうど私が行った年だが、もう山が冬期閉山していたので出会うこともなかっただろう。

 大峰千日回峰は開山1300年の歴史のなかで、二人の満行者を排出した。

 最初の満行者は柳沢真悟氏で、2017年現在69歳、金峰山寺成就院住職。約40年前に行を成就している。
 塩沼が行に入ったのが1992年だから、柳沢は40歳代で円熟した指導僧だったはずで、
 塩沼の回峰行に父親のような先達として多くの指導を行ったはずだが、なぜか塩沼は柳沢について触れたがらない。

 行の回想録がたくさん公開されているが、柳沢との関わりについて黙したままだ。
 穿った見方だが、二人の関係に何か特別な軋轢があったように思える。
 
 塩沼は行489日目に100%死を覚悟しなければならないほどの体調不良に見舞われた。
 食べても、すべて下してしまい数日間で体重が10Kgも減った。意識が朦朧とし、装束も忘れて飛び出し、ついに山中で意識を失いかけた。
 人生最大の危機をどうやって生き延びて行を捨てずにすんだのか? 塩沼自身もあまりよく分からない状態だったようだ。
 
 そもそも、朝昼は副食もない小さなおにぎり二つだけで、数十日後には栄養失調から爪がボロボロに割れた。小便は血の色に染まった。
 叡山回峰行でも同じだが、栄養不足のまま、これほど苛酷な長時間の激しい歩行運動を続ければ、ほとんどの人が膝下の疲労骨折を起こす。
 歩行中、脛や橈骨がポキンと折れてしまう。

 マラソン選手、それも世界的レベルの選手が次々と疲労骨折を起こしている。高橋尚子、野口みずき、卓球の福原愛もだ。
 運動の意志に対して体がついていかない。激しい訓練に気づかぬうちに骨がやせ衰え、ある日、運動中に折れる。

 選手たちは病院に入って入院してれば治るが、回峰行者は、その瞬間、行からの脱落を悟り、自らの手で命を絶たねばならない運命を強要されているのである。

 塩沼は運動生理学の基礎知識があったようで、そうした自分の体調のために、唯一、まともな栄養の摂れる精進夕食で必死になって栄養を確保したにちがいない。
 僧に許される精進食では大豆くらいしかタンパク質やカルシウムがないので、豆腐や湯葉をたくさん食べたのだろう。

 叡山では二食しか許されないので、酒井雄哉の食事は、うどん、豆腐、ジャガイモなどであった。
 それでも連日連夜の苛酷な行に対応できるような食事内容ではない。

 行者は食事からだけ栄養を摂取しているわけではない。
 栄養学関係者が叡山の行者食から割り出したエネルギーや栄養素を計算すると、行の数分の一以下しか食事で補填できないという結論に達した。

 それでは、どこからエネルギーを補給していたのか?

 「霞を食べて生きる」
 これが昔から言われた行者の食である。

 2010年、チリのコピアポ鉱山で起きた落盤事故では、33名が69日間、坑道に閉じこめられ無事救出された。
 このとき、彼らが口にすることができたのは三日に一度の一匙のツナとクラッカー半分だけであったが全員元気だった。

 森美智代さんという鍼灸師の女性は1日青汁1杯(50キロカロリー)で16年間仕事している。栄養学では1日2000キロカロリーが必要量とされていて、彼女はその40分の1にすぎない栄養で痩せもしないで驚くほど元気である。

 インドのヨガ行者、プララドジャニ、83歳は70年間飲食物一切取らないで生きている。排泄もしていない。
 学者たちがチームを組んで調査したが、正常であることがわかった。

 こうした例を見れば、人類はどうやら食事以外の方法でも栄養を摂取できる可能性があり、千日回峰行者たちは、そうした境地に達して歩きながら「霞を食べて生きる」方法を身につけない限り、行を成功させることができないようだ。

 塩沼は死を覚悟するような食中毒(あるいは毒物中毒?)以外にも、行の大半で苛酷な障害に見舞われている。

 まずは膝に水がたまり両足が腫れ上がった。これは私も経験がある。私の場合は膝痛風から来たが、もの凄い激痛で、とてもじゃないが歩く意欲など起きない。
 一歩も歩けないはずの激痛を押して塩沼は48Kを歩いた。

 次に虫歯になり、水を飲んだだけで激痛を感じるようになった。
 塩沼自身の言葉を借りれば
「百日の行のうち、五体満足は1〜2日だけ、後は悪いか最悪かだった」

 これも医学的常識を逸脱していて、普通の人なら完全に絶対安静の入院を宣告されるレベルで苛酷な行を遂行した。
 歩きながら体を治した。

 これも私は経験がある。長丁場の山中で同じような事態に見舞われたことがあった。
 私は気功をやっていたので、痛い部分に掌から気を当てているうちに痛みが遠のき、歩き続けることができた。
 
 酒井雄哉は、イノシシに襲われ化膿した足の親指を自らの刀で切り裂き、気を失った。
 その後、意識を取り戻し、死出紐で傷口を縛り歩き続けた。

 こうなると、もう医学の世界で推し量ることなど不可能で、絶対意志の世界である。
 人の意志は科学的事実よりも上位にあると考えなければ絶対に説明がつかないのである。

 こうして凄まじい苦行を数百日も堪え忍んだ後に、誰も想像もできない恐ろしい行が待っている。

 一切の食物、水を断ち、眠らず、横にならず、9日間、堂にこもり真言を唱え続ける「四無行」である。

 「生き延びる確率は50%」
 塩沼が明言しているのは、事実、そうだったからだろう。
 途中で死亡した行者は、歴史から葬りさられることになり、どこを探しても記録が出てこない。
 
 行が始まれば、それは死神との格闘になる。

 あらゆる感覚が研ぎ澄まされ、線香の灰が折れて落ちる音さえも聞こえたという。
 三日もすれば体中から死臭が漂うという。そして瞳孔が開きっぱなしになり、意識は遠く飛んでゆく。

 介添えの僧たちは「亮潤さん、亮潤さん」と何度も激しく呼びかける。反応がないからだ。
 このとき塩沼自身は「なんで騒いでるんだろう」と不思議に思っていたという。
 そして自分の姿を体の外側から見た。

 このとき霊肉離脱が起きていた。魂が肉体の数十センチ上から自分を見下ろしていることに気づき、塩沼は「戻れ!戻れ!」と必死に肉体に戻ろうとした。

 この幽体離脱と呼ばれる現象は、交通事故や大手術などで死線を彷徨った人がよく経験する現象で、高木善之氏やビートたけしが事故のときに、そうなったと証言している。
 人は死に限りなく近寄るとき、離脱を起こすのである。

 酒井雄哉は堂入で霊肉離脱を起こし、自分の霊がアメリカの空を飛んでいることを確認したという。
 これを起こさないですむ行者はいないだろう。

9年にわたる、千日間の苛酷という表現すら甘すぎるような行を成就すると「大阿闍梨」という称号を与えられる。

 満行の大阿闍梨たちは、口をそろえるように自らの行った行について謙虚な発言しかしない。

 酒井雄哉は「千日回峰によって得られたものは何もない。ただ行を行って今の私がある」
 と静かに述べている。

 塩沼亮潤も酒井の言葉に似た感想を述べている。

 「特別なものなどない、人間は皆、平等である。この地球に生まれ、空気も水も光も与えられていることを感謝しなければならない。夜空の星の数は人間が一生かかっても数え切れないほどある。それを考えたならば、もっと心豊かに生きていかなければならない。
 目の前にいる人を大切にすること、これが人生なのだ」

 回峰行が行者たちに与えた真理は「どんなに修行しても特別な存在にはなれない。ただ、人への感謝によって自分が生かされているのが、はっきり見えるようになっただけだ」
 ということであった。

 江原裕之は、千日回峰に対して文句をつけている。

 「体の不自由な人が阿闍梨になれないというのはおかしい。彼らこそ、千日回峰と同等の苦行を毎日行っているではないか?」

 たぶん、酒井も塩沼も、同意するのではないだろうか?

 塩沼は僧とは思えぬほど明るい性格で、いつも人を笑わせている。
 塩沼は満行後、山内での約束された高い地位に見向きもせずに故郷仙台に帰り、支援者の協力を得て秋保温泉の近くに滋眼寺を創設した。

 そこには独身の塩沼目当てか、若い女性たちがたくさん集まってくる。彼女たちが塩沼を見る目は、まるで全盛期のタイガーズ、沢田健二を見るように恍惚としている。

 人に慕われるという意味で、これほど人気のある人も滅多にいないだろう。
 千日回峰は、塩沼から、すべての虚飾を剥いで生身、真実の人間性だけにしてしまったように思えるが、私には、回峰行が失敗者を消し去ってしまっている現実が、何か大きな虚構を生み出してしまっているように思えるのは杞憂だろうか?

この記事に

修験道 その2

 修験道 その2

 山伏

 修験道の行者のことを山伏と呼ぶ。本来は「山に臥せる者」という意味で、「サンガ」と呼んだらしい。

 となると、謎に包まれた山岳漂白民であった山窩(サンカ)との関係を知りたくなるが、両者には、単なる文意を超えた大きな関係があったように思える。

 それどころか、中世の山伏は、宗教よりも軍事に真価を発揮していて、日本軍事史の観点から見るなら、サンカとともに、興味の尽きない驚くべき事実が浮かびあがってくるが、ここでは、サンカを特徴付ける移動式天幕と騎馬民族のパオとの類似、またウメガイと呼ばれたサンカ式刃物が騎馬民族特有の直突式の剣であることを指摘し、サンカの生活文化が騎馬民俗の片鱗を持っていることを指摘しておきたい。

 農耕民族だったなら、その刃物は稲科植物の刈り取りに適した曲刀なのである。直刀は騎馬戦で相手を突く戦闘スタイルのために生まれた様式である。

 際だった特徴としては、山伏・木地屋・マタギが「山の尾根に住む人」であったのに対し、サンカは「山の谷筋に住む人」であって、明確な相違があることを理解する必要がある。
 マタギが東北にまで至る高所の尾根筋を活動舞台にしたことに対し、サンカは南西地方の竹類の自生する暖かい谷筋で生きてきたのである。


 宮家・和歌森の修験道研究を読まれた方でなくとも、中世の権力抗争に山伏の姿が欠かせないことを誰でも理解しておられよう。。
 義経・弁慶が、頼朝に追われて山伏として逃げのびる姿はドラマでおなじみだし、太平記に登場する後醍醐の縁者もまた山伏に身をやつした。

 天皇家の権力が形劾化してゆく過程で、それと結びついていた比叡山や高野山では、本来の仏教よりも、むしろ修験道の勢力の方が強くなってゆく。
 というのも、権力抗争が激しくなってゆくと、寺院も否応なしにそれに巻き込まれ、強力な軍事力を確保して自衛せざるをえなくなってゆくからである。

 延暦寺・平泉寺(天台宗系)や興福寺(真言宗系)には僧兵と呼ばれる強力な軍事集団が出現し、京都の権力抗争を舞台に激しい争いを演じた。
 仏教思想は、本来争いを好まないものであって、軍事力の増大には神道も含めた修験道の方が向いているのである。

 山伏は山岳地帯での激しい修行を通じて得た能力によって、中世の戦争に欠くべからざる軍事要素となった。
 戦争に加わった山伏の任務は、勝利を祈念する加持祈祷はもちろんであったが、伝令や、後に忍者と呼ばれるようになる撹乱者(乱破・素破)として専門的な役割を担うようになる。

 霧隠才蔵の伝説で知られる戸隠忍者の祖が山伏であったことには明確な証拠があり、伊賀・甲賀・根来などの忍者の祖先も熊野大峰の山伏であったらしい。
 それは、伝承された忍者のイメージが、本来は超能力的な呪術(あるいは道術といってもいい)を基本としたスタイルであったことからも窺える。

 そして注目すべきことに、サンカが、京都の乱破道宗という名の忍者の元締の差配下にあったという事実が存在していて、このことは、サンカと山伏の関係について明確な意味を与える。

 初期の山伏には、律令体制から逃亡した非騎馬民族系の隷民が多く含まれていたと考えられる。サンカにもまた、渡来人から追われた日本西南部の原住民も含まれていた可能性もある。

 騎馬民俗式の移動式天幕・ウメガイとともにサンカを特徴づける竹利用民俗については、騎馬民俗と直接結びつけられそうもない。
 それは、明かに暖かい地方、南西諸島・西日本の土着民俗といえよう。
 すなわち、サンカには弥生人の文化と騎馬民俗の文化が混在している。

 山伏の活躍した舞台は、同時に木地屋やマタギの舞台でもあった。

 木地屋は、2500年前の弥生人系渡来人のもたらしたロクロ技術に依った職人集団だから、遠くヒマラヤ山麓から伝播した人々であったように思われ、山伏との関係について示唆を与える面白そうな資料は少ない。

 だが、マタギについては、その伝承された呪法に、修験道の明確な影響が見て取れる。
マタギの集落のうちには、山伏を祖とする伝承をもつところが少なくないのである。

 マタギの生活文化は明らかに蝦夷(えみし)・縄文人の末えいを示すものである。
 しかし伊豆の「万二万三郎」伝説のなかでは木地屋の伝説が登場してくるので、山深い尾根上の長い歴史の中で、木地屋とマタギと修験が融合していったものであろう。

 山伏は全国の険しい山岳にでかけ、そこで修行することによって民衆であることを超脱し、特殊な呪術の能力者になった。
 そして、それは社会体制のうちに組こまれた権威の秩序とは異なって、権力者によって評価されることがなく、呪術によって疫病や飢餓などの災厄から民衆を救うことでその存在価値を得たのだろうと思われる。

 その思想は徹底的に現世利益的であって、密教と道教のもっとも本質的な部分を継承している。それは決して利他を本願とする大乗ではない。むしろ小乗というべきである。

 それを、ひとことでいえば「呪」ということになろう。すなわち、シャーマニズムである。呪術が重んじられ、山伏が勢力を得た大きな理由は、平安時代に中国から輸入され、道教の構成要素であった「陰陽道」の影響が大きかったにちがいない。

 10世紀末に登場した陰陽士で天文博士の安部晴明は、小角に比肩する超能力者であった。方術と呼ばれたその能力は、平安貴族に恐れられ、呪術への大きな信仰を育てた。
 現在に残る、鬼門など禁忌の思想は、この頃につくられたものである。それは「祟り」という観念から生まれたものであった。

 平安貴族は人間の超能力に恐怖し、「祟り」を恐れて死刑すら廃止してしまった。それが体制の弱体化を招き、強力な武家集団に権力を奪われる原因になった。

 修験道山伏の修行の舞台は、役の行者の修行した葛城山からはじまったと考えられよう。
 しかし、「日本霊異記」の小角の伝承のうちに、「葛城山と(吉野)金峰山との間に橋を架けた」という記述があることから、この時代には、吉野大峰にもすでに雑密修験者が存在したと思われる。

 後に、天台宗系と真言宗系の密教系修験僧が、吉野と熊野を結ぶ大峰山脈において呪法の修行に励むようになると、彼らは本来の仏教を離れて、神道に傾いた独自の宗風をつくりだし、多くの流派がひらかれるようになる。

 修験道最大の拠点となった吉野には、真言系元興寺の僧、神叡が虚空蔵菩薩の信仰をもとにして自然智宗をひらき、山上ヶ岳では、真言宗小野流の聖宝が恵印法流をおこし、熊野では天台系の僧がいくつかの流派をひらいた。

 これらの記述をはじめると無意味な羅列が続くので、興味のある方は、宮家準と和歌森太郎の修験道研究書を読んでいただきたい。
 ここでは、必要最小限のアウトラインを記述するにとどめたい。

 大峰山脈の両端である吉野と熊野には、それぞれ修験道を代表する拠点が成立した。おおざっぱにいえば、三井寺を中心に据えた熊野三山(本宮・新宮・那智)は天台系修験の拠点となり、本山派と呼ばれるようになり、吉野金峰山寺を中心に据えた大峰山は真言系修験の拠点になり、当山派と呼ばれるようになった。

 この両者は互いに対立し、宗風もかなり異なったものになった。外見上も、本山派が総髪であったのに対し、当山派は剃髪していた。したがって、この髪型で、どちらの系統かおおよその見当がつくことになる。

 この両者は、修験道の草創期から分化対立し、修験道界の二大派閥となる。徳川家康は、数十もあった修験流派をこの二つに集約して統治しようとした。明治初期に、修験道が邪教とみなされ強制的に解散させられたときも、すべての山伏は真言宗と天台宗に帰依するか、さもなくば還俗するよう迫られたのである。

 修験道の儀礼宗風も両者で異なるが、基本的に共通するものだけを簡単にとりあげてみたい。
 初期の土俗的な修験儀礼は、中世の二大派閥の対立によって琢磨され、時代とともにスマートなスタイルが完成してゆく。

 修験道が拠りどころにした教義は、天台本覚論・法華経典・華厳教・山王一実神道・両部神道などであった。それらから「修験修要秘訣」などの教義が生みだされ、山伏の修行スタイルが定められた。
 修行道場の大峰山は、密教的解釈からは曼陀羅の金剛界(吉野側)・胎蔵界(熊野側) とされ、法華思想では、葛城山を法華峰とし熊野を阿弥陀浄土とした。
 崇拝対象は、最高位の奥座に大日如来をおき、前座には不動明王あるいは金剛蔵王権現がおかれた。ときに、金剛蔵王権現は役の行者の化身として崇拝された。

 修験者は、自身が宇宙とされ、我が身に内在する大日如来を感得することが修行の最終目的であるとされる。

 これは、修験道にとってもっとも大切な基本認識で、修験とは、わが内なる仏を呼び醒ます(験ずる)ものなのである。そして、仏(同時にその権現である神も含む)が意識に現れることによって、さまざまの超能力を得ることができるようになると信ぜられた。

 山岳修行を峰入りというが、中世以降には、これに厳しい作法が要求されるようになった。
 峰入り修行は、華厳経にもとづく十種の成仏過程を経ることになる。
 すなわち、|蝋・餓鬼・C楡検Νそね紂Νタ諭Νε掘ΝЮ縞后Ν┗鏗弌Ν菩薩・仏の十界が人のおかれる姿であって、それぞれに、以下の修行が行われた。
 修験者でない普通人は、1から6までの六道を輪廻するとされ、7から10までは、先達クラスの修行である。

 ‐卸(峰入りの最初の行で、棒で新人の身体を打ち、自分のうちに大日如来を感得させる)
 懺悔(新人が、先達に自分の行ってきた罪業を告白懺悔する)
 6版蕁平型佑鯢海杷り、吊りあげて罪の重さを量る)
 た綫筺弊顔や飲水など水を断つ)
 ワ箍澄平綯粘間の後、水を汲ませ祭壇に供える)
 α衙弌平型佑匹Δ靴覗衙个鮗茲襦
 П簀(楽しい踊り)
 ┥木(護摩に使う木を取る)
 穀断(一週間の断食)
 正潅頂(護摩木を先達に渡すのだが、キリスト教の洗礼にあたる)

 注目すべきは、修験道は、人間にレッテルを貼って固定した姿で見るのではなく、もともと人間というものが地獄と仏の間をさまよう危ういものだという認識をもっていたことである。

 ついでにいえば、相撲がもともと山伏の修行であったことを知る人は非常に少ない。これは、人より一段高い天の位置にある人間の修行として想定された。ウソのような話だが、峰入りでは本当に相撲を取るのである。
 大峰では、最終段階の修行としての正潅頂を、大日山(釈迦ヶ岳の属峰)にある深仙の潅頂堂で行う。そこで大日如来の秘印と秘法を伝授され、成仏修験が完成するとされた。

 成仏には〇漏弌β┸叛仏、∨楹弌β┸搬仏、始本不二・即身即身の三種あるとされ、前二者は顕教の成仏であり最後の即身即身こそ修験道の成仏であるとし、その意味は、自らの内に大日如来が合体した状態、つまり人仏一体の状態という認識であった。
 これらの具体的内容は煩瑣にすぎるので、これくらいにしておく。

 大峰で生まれた修験道は、山伏によって全国の山岳に拡大していった。山伏はマタギと同様、大峰から津軽まで里に一度も降りることなく山上の峰を自由に往来し、戸隠や月山など険しい山を見いだすと、そこを修行の拠点にした。

 大峰以外で、修験道の一大宗派が成立した場所は、九州では彦山(宇佐)であり、これは古い両部神道の八幡信仰が土台になったものである。他には、羽黒三山(山形県の月山付近)が東北修験道の一大中心となり、ついで日光にも宗派が成立した。

 羅列すれば、戸隠・榛名・三峰(雲取)・大山(丹沢)・御岳(青梅)・立山・富士・御嶽・古峰ヶ原・秋葉・白山・金華山・岩木山(津軽)・後山(中国)・大山(山陰)・石鎚・剣山(四国)・宮地・阿蘇・霧島(九州)などが、流派の成立した行場であった。

 このとき注意しておかねばならないことは、江戸期から現代に至るまで全国の修験は真言宗派と天台宗派に系列化されてしまっているが、これは江戸初期、家康があらゆる集団を二分化させて対立させ、その上に幕府権力が仲裁的に支配するという政策をとったことによるもので、実際には、宇佐・叡山・大峰・羽黒といった巨大修験組織は後に押しつけられた系列とは無関係の独立した歴史を持っているということである。

 山伏が峰入り修行を行うとき、大峰の麓にある拠点の寺において、俗衣を脱いで法衣を身につける。
 法衣は、普通カンマン衣と呼ばれるもので、背中に不動明王の種子を表すカンマンが描かれている。これを着ることで、山伏は不動明王を感得するということである。

 これは宗派によって多少異なっていて、羽黒山伏では背中に獅子が描かれ、百獣の王の霊力を身につけるということになる。

 山伏の正装は、弁慶人形などでおなじみだが、法衣や法具にはそれぞれ意味が与えられている。
 額の頭巾は、大日如来の五つの知恵を意味する宝冠であり、頭に載せるハンガイという黒いシャッポは、子宮の中の胎児を意味し、鈴懸・袈裟は金剛界と胎蔵界の宇宙、貝の緒は山伏のヘソの緒、笈は母胎子宮、ホラ貝は大日如来の説法という具合に意味が付与されているのである。
 胎児にまつわる法具が多いのは、山伏の峰入りが受胎から誕生までを寓意するものだからである。

 山伏の修行の内容は前述したものの他に、恐ろしい断崖絶壁の上に綱で吊るして懺悔させたり、身のすくむような絶壁を通過させたり、冷水に打たれたりと、とにかく人間の恐怖心を克服させるものが多いが、ハイライトはなんといっても護摩行である。

 護摩は導入部に書いたように、ゾロアスター教・道教・密教に共通するもので、その意味にはいろいろの解釈があるが、基本的には煩悩の焼却と不動明王の感得ということになろう。
 護摩行には興味深い歴史がある。

 先頃、私が戸隠の乙妻山に登ったとき、高妻山の手前の峰で山頂の笹原が四角く切り開かれ、角に杉の小枝がさしてあるのに気づいた。
 これが峰入りの護摩行場であった。大峰の奥駆道でもときどき見かける。

 護摩に焚きこむ木には檀木・乳木・添木の三種類ある。檀木は香木のことで、本来は白檀を使うが極めて高価なので、実際には香りのある乳木を利用し、それに抹香の丸薬を投入するが、これも高価な竜涎香の代用である。

 乳木は甘い香りのする乳のある木で、カジ・ネム・桑・柏などが使用され、一本の長さが約20センチに切り揃えられ、香料が塗られる。添木は、火力の補助である。

 乳木に塗られる香料は、ショウガ科のウコンの葉と、沈丁花にシキミ樹皮を混ぜた抹香からつくられる。
 ウコンは、カレーの材料になるターメリックという黄色い色素の原料だが、実は、これは道教のシンボルカラーで、赤とともに道教に欠かせぬ色なのである。(例えば、太平道などの影響による黄布党の乱などに同盟色として使われた)
 これらの香料には幻覚陶酔性があった。

 古くは、これに麻の芽を乾燥させたものを投じた。つまり大麻である。
 今日栽培される麻は、毒成分を除いた品種だが、麻は先祖返り傾向が非常に強く、放置すれば数年で麻薬成分が復活してしまう。

 山歩きをしていると、故意か野生種かは知らぬが、谷あいの小平地などに麻の群生を見ることが多い。私はこのような麻を燃した煙を吸って、「毒性」を体験したことがある。
 私の経験では、色彩感覚が非常に鋭敏になり、時間がゆっくり流れていくような気分になった。とても心地よいものだが、陶酔というほどのものでもない。
 ただ、自己暗示にかかりやすくなるのはまちがいない。

 多用すると性格に凶暴性が現れるという。単に麻薬効果だけなら、麻薬取締法の対象にならないヒカゲシビレタケなどの菌類麻薬に及ばない。
 このような煙を吸って、行者は陶酔と法悦の境地にはいり、大日如来、すなわち宇宙と自分を一体化させるのである。

 古来、道教の漢方医療の影響を受けた修験道には、古い医薬の歴史がある。日本で普及した大衆薬には、山伏の薬が多い。
 大峰には小角直伝とされる陀羅尼助があり、その原料はキハダであって、生薬名はオウバクというが、これは吉野にあるオウバク宗萬福寺というひとつの宗派さえつくりだした。

 木曾御嶽の百草や、山陰大山の練熊もほとんど同じ薬であって、大峰の山伏がもちだしたものであろう。
 これらの薬には、はじめの頃にはケシ汁や熊の胆も含まれていたらしい。百草には明治までケシ科のコマクサが用いられたが、おかげで日本の高山からコマクサの姿が消えてしまった。

 コマクサには鎮痛効果があるが、ケシに比べれば微々たるもので、ケシ科植物にはいくらでも取締法対象外の鎮痛成分の植物があるので、興味のある方は研究されたい。
 くれぐれも、コマクサを採らないでいただきたい。今でも薬草として採集を薦めている図鑑があるのは困ったものだ。

 これらの薬は日本の代表的な大衆医薬になったが、これを行商したのは、熊撃ち猟師のマタギであった。その成分も、キハダ・熊の胆嚢・ゲンノショウコ・センブリなど山伏薬に共通のもので、マタギと山伏の関係を示唆するものである。
 今日、売薬行商の伝統をもつ富山などの地域は、また、マタギや山伏と密接な関係を持った地域であった。


 修験道の危機

 これまで修験道について説明したことは、密教的側面のわずかな一端の概説にすぎない。拙文が目的としたものは、人類史と山岳民俗の観点から見た修験道の風景を朧ろに示すことであった。

 その意味では、いまひとつ神道の側面から説明しなければならないが、実は、これは困難なのである。というのも、役の行者以来の確乎とした両部神道修験道の伝統は、明治維新によって断ち切られてしまったからである。

 本来、修験道は明治以前まで、もう少し神道の側に傾いたものであったらしい。
吉野には水分(みくまり)神社があり、農耕民族による水源地を敬う宗教儀礼として神道の原型になったと考えられる。

 私は、山伏を縄文人の宗教儀礼に深くかかわるものと考えたいが、民俗学者の一般的な解釈は柳田国男・折口信夫説を支持するものであって、以下のような素朴な稲作農耕儀礼との関連を論じている。

 大峰の山上の洞窟で冬篭修行を行った山伏は、春に石南花の花を持って里に降りてくる。
 麓の農民は、この山伏を、極めて強い霊力をもった山の神が憑いた行者として敬った。そして、山伏が花を田に投げ込むことによって山の神が田の神に変化し、秋の稲刈まで農耕を守護すると考えた。

 稲刈の後は、再び山伏が神を山に持ち帰り、今度は水源を守護する山の神としてふるまうというわけである。
 吉野水分(水源)の神は、女の子守神(その本地は毘沙門)と男の勝手神(本地は不動明王)とされ、これから金剛蔵王権現が生じたとされた。

 また、天照大神以下の神社神道の諸神についても固有の儀礼があったようだが、資料が乏しいので説明できない。これも、興味のある方は宮家準の研究書を参考にしていただきたい。

 これらの伝承をもとに考えれば、修験道の土台になった道教・密教・神道ともに弥生人・騎馬民族によって日本に持ちこまれたことも併せ、修験道は弥生人起源の宗教ということになろう。

 しかし先に述べたように、東北マタギなどの山岳民俗に現れる修験道の影響は、明らかに縄文人との積極的な関係を示唆するものであり、この両者が修験道にあってどのような関連があったのかはまだ日本史の謎であって、現段階で結論を見いだすのは困難に思える。

 私自身は、修験道は、渡来人の主流から外れ、仏教の裏街道をゆくアウトサイダー求道者によって創設され、これに加わったのが縄文人の末えいであったという仮説を提唱しておきたい。ただし、明確な証拠を得ているわけではない。
(弥生人・縄文人ともに太古の考古学上の話だと思っておられる方がいるとすれば、それは大きな誤りである。

 騎馬民族は天皇家や源氏平家を生み、武家支配階級の本流となった。例えば、歴史上の名だたる武将に、縄文人の形質を持った人物がどれほどいるだろう。家康など極小数の例外を除けば、ほとんどが騎馬民族と断言できる。

 縄文人・弥生人は町人農民などの一般大衆であって、騎馬民族との間には明確な階級分化と地域分化が続き、婚姻などで融合した例は極めて希である。その体制が事実上崩壊したのは、やっと明治維新によってなのである。

 明治以降も、地域・交通などの諸条件の制約によって、思われるほど混血していない。本格的な混血がはじまったのは交通革命の起こったこの数十年のことにすぎない。
 したがって、日本人の中の渡来人と縄文人の分化は、我々が想像する以上に大きなものがあり、例えば、明治権力の軸になった、縄文人の薩摩人と、騎馬民族の長州人の人相骨相の決定的な違いは、シーボルトやベルツでさえも気づき、すでに幕末に、日本には二つの民族があると提唱しているほどである。

 実際、日本のあらゆる文化伝統を注意深く眺めれば、そこに必ず縄文人と渡来人の違いを見いだすのであって、血液型・抗体・体毛・人相・体型・性格など生理的・精神的な形質にも、明らかな潮流が存在する事実は、最近ますます注目されているのである。)

 中世、山伏が忍者の祖となって、独自の軍事的意味をもっていたのはすでに述べた。山伏の神秘的な力は民衆に大いに恐れられ、武家はこれを大いに利用した。
 ところが、江戸時代を迎えて、社会にはじめてといっていいほどの安定がもたらされると、幕府にとってその存在は脅威になった。

 そこで家康は、脅威をもたらす可能性ある集団に対して彼一流の支配政策をとった。すなわち、将来団結によって社会不安の原因になりそうな集団は、すべて二つの集団に分化してしまったのである。

 そうすれば、それは必ず、団結よりも対立に傾くことを家康は知り抜いていた。
 まず、家康がもっとも苦しんだ一向宗の本願寺を東西の二つに分けることによって、強大な浄土真宗門徒を分割し、対立させた。これによって、真宗門徒は一門の拡大よりも東西の抗争に終始することになった。

 神道についても、天皇家と結びついた白川神祇伯家以外に幕府よりの吉田神道家を創設させた。これも、御師や木地屋などに大きな対立をもちこんだことは民俗に詳しい方ならピンとこられよう。

 他にも、二流併設の事例は多いが、修験道の場合は、以前からあった当山派と本山派の二流以外の宗派を禁じ、彦山派や羽黒派、日光派などもどちらかに加入するよう強制された。
 これによって、修験道の本流はこの二派に絞られたのである。

 余談ではあるが、この二極対立化政策は家康の政道の基本におかれ、もっとも成功したもののひとつであった。これは人間集団を支配するための普遍的な方法であって、権力者の常套手段である。

 例えば、戦後もっとも大きな大衆運動であった原水爆禁止運動がまきおこったとき、社会党と共産党の二極対立があって、共産党が「社会主義国の核兵器は、人民の利益のためのものだから正しい」と主張して運動を分裂させてしまい、それで崩壊してしまったのは滑稽な事例といえよう。

 組合運動つぶしのもっとも効果的な方法が、いつまでたっても第二組合つくりであることを思うとき、対立こそ人間支配の本質であるといえるほど、人間性の本源に迫ったメカニズムであることを理解できよう。
   
 修験道における二極支配も、幕府の狙いどおり効果を発揮し、修験道の発展は停滞し、山伏は当山派と本山派の対立に明け暮れるようになった。したがって、この時期に修験道を輝かせたのは、これら以外の地方の修験者であった。
 槍ヶ岳の播隆、御岳の覚明・普寛などがそうである。

 「神は仏の仮の姿」と考える本地垂邇説を基本においた修験道は、明治初期、「神は仏とは無関係に日本固有の絶対神である」と主張する、「平田国学派」と呼ばれた人々によって、激しい攻撃に曝されることになる。

 政治の安定した江戸中期に、武家ではないが、町人・庄屋・医家など向学心のある比較的恵まれた階層の人々の間に、体系的学問の機運が盛り上がる。
 その対象は今日と変わらぬほどに様々であり、数学などは同時期の西洋のレベルを凌ぐほどの優れた内容をもっていたことが知られている。

 明治になって、長期の鎖国にもかかわらず、非常に短期間のあいだに学問水準が西洋のレベルに追いついた理由は、江戸中期の和学ルネッサンスの蓄積があったからである。
 国文学・歴史の分野でも、古事記や日本書紀の研究志向が生まれ、新井白石らによって議論された。亨保年代に荷田春満によって、記紀を土台にして日本国家の出地を明らかにする研究が提唱された。

 荷田の研究は賀茂真淵に受け継がれ、「万葉集の精神に帰れ」とする復古国学を成立させた。弟子の塙保己一は文献学の開祖となり、国学は日本中のインテリの注目する学問的土俵となった。

 真淵の弟子となった本居宣長は、古事記の研究を集大成し「神道の復権」を主張した。その門人の平田篤胤は、江戸末期を迎えて「復古神道」を打ち出し、「世の中が乱れるのは、武家が神道をおろそかにしたせいだ。天皇に権力を返し、古代の精神に帰ることによってしか日本は救われない」と説いた。

 この説は、武家支配の圧迫に不快感を抱いていた全国の庄屋・町家のインテリ階層に熱狂的に支持され、「再び天皇の世に戻せ」とする尊皇論は、武家支配打倒イデオロギーの根幹になり、明治維新を生み出す原動力になっていった。

 薩摩・長州の人々による権力奪取劇は、維新のほんの一端であって、氷山の頂部にすぎない。その巨大な基盤は復古神道論によって形成されていったのである。ゆえに、維新の真の立役者は、実は本居宣長・平田篤胤という見方もできる。

 島崎藤村の「夜明け前」では、実父の正樹(青山半蔵)のドギュメンタリーに、その様子の一片をリアルに見ることができる。

 ただし、日本国家の原点としての純粋神道を説いた平田説は、紀記神話の虚構を素直に信じた滑稽な奇説である。
 神道をつくった日本の支配階級が朝鮮から渡来し、神話をでっちあげたという真実が明らかにされたのは、昭和初期の津田左右吉の研究が端緒であり、それが弾圧を受けずに自由に語れるようになったのは戦後のことにすぎない。

 だが、いまだに天皇家の虚構性を認めたがらない権威信仰家が大勢いて(とりわけ文部省の官僚に)、すでに証明されたこれらの事実ですら、教科書には決して載らないのである。
(教科書が事実を教えるようになれば、ほとんど狂気の、音による嫌がらせで自己満足する右翼・暴走族の迫害からも少しは軽減されるにちがいない。すくなくとも、人の上に人がおかれるというバカげた妄想から解放されるだけで、どれほど多くの人々が救われることだろう。)

 維新なった明治政府は、開国による欧米列強の圧迫に対抗してゆくために、強大な国家主義イデオロギーをつくりだす必要に迫られた。

 明治政府の中枢にいたのは大久保利通であったが、彼も平田国学の影響下にあり、国学門徒を大勢政府に雇用した。明治政府は、新国家を統一する基本理念を天皇制信仰と、それを理論的に支える神道復権に求めたのである。

 天皇の意味や存在は一般民衆にはあまり知られていなかったので、それが超越的な権威であるという教育からはじめなければならなかった。
 現在も残る稲荷や氏神神社の信仰は、このころ明治政府によって整理統合され、神社神道として権威化したのである。それも天皇信仰の基盤つくりを目的としたものであった。

 かといって、政府官僚が真実天皇を畏敬していたわけでは断じてない。明治天皇の父親の孝明天皇などは偏狭な排外主義者で、開国にあくまでも反対したので維新派にとって邪魔になり暗殺されてしまった。殺害の張本人は、後に天皇制信仰を強力に推進した山県有朋と井上聞太だったといわれる。
 天皇は、国家主義のために利用されたにすぎないのである。

 (ついでに書いておくと、天皇家は狭い婚姻関係のなかで遺伝的に劣性因子が発現しやすく、孝明も明治も凶暴な異常性格だったといわれる。手をやいた政府は、山岡鉄舟などという怪物を養育係に任じて体裁を繕わせる。

 大正天皇が生殖能力を欠いていた事実は密かに語られてきたが、皇后には当然子が生まれず、なぜか女官に子が生まれ、それが昭和天皇になった。その父が誰であるのかをフライデーやフォーカスが追求していないのは情けない。)

 明治政府は、天皇制の優越至上を宣伝し、その根拠を紀記神話による神道理論に求めた。仏教は神道よりも下におかれねばならず、神道理論につじつまが合わず、都合の悪い神仏習合の両部神道は破壊してしまわねばならなかった。
 修験道は、全国の山岳信仰である両部神道を代表していたので、平田派による弾圧によって、突如存亡の危機に瀕する。

 1868年(慶応4年)、明治政府は神仏分離を強制する布告を次々にうちだした。これに力を得た平田門徒の影響を受けた民衆は、江戸時代、幕府権力の末端役場として戸籍管理、宗門管理などに機能させられていた仏寺への反感もあいまって、激しい廃仏棄釈の嵐のなかで仏教破壊に走った。
 両部神道の権現寺は、神社か仏寺のどちらかに帰依するよう強制された。山伏も、神官か僧のどちらかか、さもなくば還俗するよう強制された。
 天台宗系本山派の熊野三山は、神社になり、真言宗系吉野金峰山寺も金峰神社に包摂された。残った勢力は、本山派は天台宗の僧に帰依し、当山派は真言宗の僧に帰依していった。

 修験道は滅亡させられたかに見えた。
 しかし、山伏を吸収した仏教各派のなかで、どうしても仏教系の宗風になじめない修験者によって再興の機運が何度も起こった。
 だが、天皇制の思想的弾圧は強化される一方であり、それらが実体上復権できるのは、太平洋戦争の敗戦によって天皇が神の座から滑り落ちる日を待たねばならなかったのである。


 修験道系の民衆宗教

 修験道の主流であった本山・当山の勢力は明治維新に邪教として弾圧され、新政府によって宗教活動を禁止された。両派の行者は密教系の僧か神社の神官に転向させられ、習合神道の宗風は絶え、国家神道がそれにとって代わった。

 しかし、弾圧の網から漏れた小さな修験道系の宗派は、伝統ある山岳信仰の講中組織(霞・檀那)を基盤として、修験の宗風になじんだ民衆に支持され、かえって独自の発展を遂げることになる。

 白山・御岳・立山などの山岳信仰は、民衆生活の数少ないリクレーションの場として大切に継承されてきた。それは、明治政府の一夜の政令によって消滅してしまうほど脆い伝統ではなかった。

 ただし、富士講のように、もともと修験道から誕生しながら、後に平田国学派に掌握されて復古神道に傾いたものも少なくなかった。

 江戸を本拠とした不二道・実行教・扶桑教・丸山教などの富士講宗派は、明治以降、国家神道の忠実なしもべとなり、仏教排斥運動の主役として荷担した。
 また、御岳教のように、弾圧を恐れて本来の修験道の教義を捨て、国家神道に迎合する変節を遂げたものもあった。

 修験道の影響を受けた神仏習合系の民衆宗教の先駆となったのは、尾張熱田で1800年前後に勃興した「如来教」である。

 熱田区旗屋町の修験道講元に生まれたキノと呼ばれた女性は、幼くして両親と死別した後に中村区鳥森町の親戚に身を寄せたが、貧苦のため尾張藩士の家に女中奉公をする。

 奉公を辞した後に結婚に破綻し帰農したキノは、47才にして突然神がかりになり、「自分に金比羅大権現が宿った」と宣言した。

キノは祈祷術に優れ、病気や不和に苦しむ人々を大いに救った。キノの名声は尾張一円に広がり、如来教と名付けた宗派を成立させ、尾張藩士まで多く入信した。このあたりの事情は、天理教の中山ミキに似ている。

 キノの死後、教団は繁栄したが、明治維新の修験道廃止令によっていったん解散する。明治9年、曹洞宗の僧によって再建され、再び活動を開始したが、その教義に神仏習合が色濃く残っていたために、政府による神道統制によって弾圧された。
 
 天理教も幕末に生まれた修験道系の新教である。教祖の中山ミキも、如来教のキノや大本教の出口ナオと同じく天保年間に神がかりし、「自分にテンリンオウが宿った」とした。

 ミキは、富裕な中山家を施しによって零落させ、極貧の生活をおくり、ミキの祈祷にすがって集まってきた人々を救った。後に、吉田神道家の配下にはいり、「天輪王明神」として幕府に公認された。

 明治維新を迎え、天皇制の正当化のために国家神道が強制されるようになると、すでに確立していた独自の神道教義の変更を迫られ、高齢のミキが18回も投獄されるなどして弾圧されたが、むしろこの時期に天理教は大発展を遂げる。

 ミキの死と前後して、天理教は弾圧を免れるために国家神道に隷属する転向を行った。やがて国家神道下の公認宗教となったが、神話についての解釈の違いを当局に追求され、不敬をちらつかされ抑圧された。

 金光教も、天理教と同時期に成立した修験道系新教である。岡山県浅口郡の百姓、川手文治郎は、中国地方に信ぜられていた金神信仰(陰陽道系の祟り神)の信者であったが、金神の魔から逃れるために本山系山伏について修行を行った。

 1859年、文治郎は神意を聞いたとして金光教を創立した。金神の祟りは心から敬うことで解消でき、禁忌は存在しなくなると説き、民衆の悩みごとの相談にのり神意を伝えた。後に、白川神祇伯家の配下に連なる。
 明治維新後、信者は政府の弾圧を恐れ、国家神道に迎合してゆくが、文治郎だけは「天皇も同じ人間」と公言してはばからなかった。だが、その没後、幹部は本来の教義を捨て、国家神道に隷属する道を選んだ。

 大本教を創始した福知山の出口ナオも、1892年、突如神がかりして「自分に金神が宿った」とした。その教義は、復古農本主義であったといわれる。

 最初、金光教の傘下にあったが後に独立し、信者の上田喜三郎が出口王仁三郎と変名し、後継教主となって大きく発展した。王仁三郎は、もともと修験者であり、優れた呪術能力(霊能)を得て病気治しに霊験を発揮し、信者の熱烈な信仰を得た。

 王仁三郎は、記紀にもとづく国家神道の枠組みに一致する教義を示したかに見えたが、実はこれは見せかけで、その真意は、天皇家を打倒して新しい政治体制を構築することが世治しだとする、当時としては仰天的で激越なものであった。

 大本教は、1921年、大正日日新聞を買収し、大きな社会的影響力をもつにいたり、政府はこれを恐れ類を見ない激しい弾圧を行った。綾部につくられた神殿は跡形なく破壊され、幹部は不敬罪で投獄された。

 後に、1935年にも、近代宗教史上最大の弾圧といわれる第二次大本教弾圧が行われ、王仁三郎が政権奪取を企てたとして大逆罪で投獄され、さらに全国の大本教施設は残らずダイナマイトで破壊され、政府は大本教の地上からの抹殺を宣言した。理由は、大本教が昭和初期の軍部独走に強硬に反対し、反戦平和を訴えたからであった。

 だが、大本教の後継である「成長の家」など多数の教団は、現在では完全に右傾化し、天皇崇拝、軍国礼賛の国家神道系宗派に堕落している。
 
 天理本道「ほんみち」は、明治以降の国家神道の圧力に屈せず、徹頭徹尾、本来の教義を貫き、国家権力と対決した偉大な宗派であった。

 同様に弾圧に屈しなかった教団としては、牧口常三郎の率いる創価学会があったが、修験道系の宗派では、「ほんみち」以外にない。

 「ほんみち」は天理教の幹部であった大西愛治郎が、1913年に、天理教の国家神道への迎合と教義の歪曲についてゆけず独立した教団である。
 この年、愛治郎は教義に行き詰まり、神がかりして「自分は生き神、甘露台である」と宣言した。中山ミキのつくった神話をもとに、天皇家の異端を追求し、それを世間に配布したために、国家権力による激しい弾圧を受けた。

 愛治郎は日中戦争の戦況が悪化するなか、信仰人生の総決算として、死を決して天皇家国家神道に真っ向から戦いを挑んだ。
 天皇制を誤りとする「書信」を全国に配布し、「ほんみち」の信者は全員検挙され、愛治郎は無期懲役・財産没収の判決を受け投獄された。だが、激しい弾圧・拷問にもかかわらず、信徒のうちに一人の転向者も出さなかった。近世、国家権力と真っ向から対決し、屈することのなかった唯一の教団であったといえよう。


 本質から見た修験道

 これまで修験道について述べてきたことは、既成宗教の歴史的範囲での概観であった。これを、もう少し広い観点で、人間の本質にたちかえって修験道の意味を考えたい。
 宗教の本質ということを考えてみたい。

 人が現実の世界でなにごとかの困難にぶつかって、現実の方法で解決が見いだせないとき、現実の外に、いいかえれば空想の世界に解決を見いだそうとし、それが形象されたものを宗教と規定すべきだと私は思う。

 人の心は、目の前に現れるできごとに様々な反応を示すが、それを基本的に3つに分けてみたい。
  ‖仂櫃棒儷謀に反応する。
 ◆‖仂櫃鯔鬼僂垢襦
  ‖仂櫃ら逃避する。

 人間の力でどうにか解決できる問題には神を必要としない。自分に関係ないことがらにも神を必要としない。しかし、自分の力ではどうにもならない困難が生じたとき、人はなにものかに頼らねばならない。

 他人の力に頼って解決する場合、そこに人間関係について一定のルールが定められねばならず、自分を抑制してそのルールに従属しなければならなくなる。いいかえれば、一人の人間から組織の人間になるとき、そこに自分を抑圧する「人間疎外」が発生する。この疎外が、宗教的精神の原点になると私は考える。

 人間性が疎外され、目の前のできごとに積極的に反応する姿勢を自分で抑圧するようになると、人は傍観を好むようになり、逃避を知るようになる。
 現実の世界に解決を見いだせない悲しみや葛藤は、空想の世界に救いを求め、逃避的精神をつくりだしてゆくにちがいない。

 これが、宗教の本質をなす部分だと私は思う。これは、つまるところ精神分裂症のメカニズムに一致するものである。
 弱い心が、現実の苦しさから逃れたいあまり、空想の世界に甘い桃源郷をつくりだす。これを、マルクスは「宗教はアヘンだ」といった。

 空想的世界の桃源郷とは、キリスト教の天国であり、仏教の極楽であり、道教の仙郷であり、人間精神の活発な想像力は、現世に救いを見いだせぬとき来世に希望を託したのである。
 そうして人々は、この世の苦痛に堪えた。

 伝統的宗教ばかりが逃避的空想の形象なのではない。
 天皇家を頂点とする権威信仰、東大を頂点とする学歴信仰、高度技術依存の科学技術信仰、官僚の権力信仰などコケオドシの数々も、人間の困難を人間以外の疎外されたなにものかにすがるという点で、立派に宗教と規定することができる。

 人は人に頼ってこそ自然なのであって、人間以外のなにかに頼りはじめれば、すなわち、それは宗教である。
 人間性に対して率直であれる、すなわち、コンプレックスをもたない自然な人間性には権威も権力も財産も必要としない。ただ自然な人間関係があればよく、そこに宗教的逃避のつけいる余地はない。

 このように考えるなら、人類の歴史は、自然な人間関係を疎外するなにものかからの逃避の歴史であって、すなわち、それこそが文明の本質であることを示唆しているように思える。

 つまり、文明と宗教は、正常な(差別のない)人間関係を疎外しなければ成立しないという意味で同じものといえるのではないか。
 もちろん、科学技術の虚構の上に構築された現代文明も、宗教の本質を免れることはできない。

 人間社会における最大の人間疎外要因は「差別」であった。差別こそ、文明の本質といえるのではないか。

 修験道にたちかえってみよう。

 修験道の本質をなすものは、行者が自身を錬磨し、超能力を身につけることで人々の苦悩を救うとする部分であろう。山伏は、スーパーマンになることをめざしたのである。

 それは、苦悩からの逃避というにはあまりに激しく、歴史的にみても、権力と結びついた権威理論というよりは、むしろ軍事集団であった場合の方が多い。すなわち、日本のあらゆる宗教を通じて、もっとも実践性の高いものであった。

 それは例えば、偶像・伽藍崇拝の側面が少なく、呪術や医薬開発などに成果をあげた道教的側面にも端的にあらわれている。
 修験道にかぎっていえば、その本質は、宗教から現実の側に数歩も踏みだしたものだといわねばならない。それは、逃避的世界の範疇を免れることはできないが、すくなくとも民衆を抑圧の構造に固定する役割を担うものではなかった。

 また、修験道が民衆のなかに果たしていた役割のなかで非常に重要だと思われる部分に、ハイキング登山案内がある。日本の登山史の大部分を修験道が占めていたのは疑いなく、近代にいたるまで、民衆登山はすなわち修験道であった。

 修験道の教義には来世救済の思想はなく、徹底的に現世利益を求めるものであって、呪術・医薬・ハイキング登山を通じて実際に民衆を救うものであった。つまるところ、修験道は宗教の体裁をもってはいても、その実体はすでに宗教を超えていたといえるのではないだろうか。

 私には、修験道集団が、中国の太平天国や黄布党の革命集団にダブって見えるのである。鎌倉幕府以来の中世に幕を下ろし、近世の扉を開いたのは織田信長であったが、戦国の世に山伏の果たした役割が、近世の幕開けにどのような意味をもっていたのかじっくり考えてみたいと思う。

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