お魚と僕のまち

とある港町。潮風にさびれた街並とお魚浸けの生活日誌 (※コメント書き込みはご自由に。でも返事はしません。ごめんなさい。)

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2007年6月12日

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次郎長と美濃輪稲荷(改正追記)

 甲田屋の消息について知りたくてT氏に相談したところ、その子孫が調べたという資料をいただいた。
その資料によれば、次郎長より甲田屋を譲り受けた姉の「とり」とその旦那「安兵衛」の長男(治郎右ヱ門を世襲)に連合い無く、弟「安次郎」に継がそうと一度は養子にしたものの、安二郎は何らかの理由で明治十四年に甲田屋を飛び出して、同町の某地に単身移り住んだということになっているようだ。(安二郎は静岡で死んだ。詳細は不明。)
 後継者がいなくなったため、四代目治郎右ヱ門は明治三十九年に有度郡池田村より由太郎を養子に迎えた。
この時点で分かったことは、美濃輪稲荷の氏子発起心願人の山本治郎右ヱ門は安二郎ではなく、四代目治郎右ヱ門だったということと、甲田屋もその時点ではそのままの場所に存続していたということだ。
つまり、「安二郎が、氏子心願にあたり財を投じて米問屋の幕引きをした」という前回記述の自分の想像は見事に外れていたことになる。明治の初頭においても甲田屋は地元では真に財力をもった商家だったのだ。
 しかし、その後くる時代の波にはやはり逆らえるものではなかったようだ。由太郎の代の大正期に一発奮起の網元投資に失敗してついに甲田屋は倒産してしまったという。
 
 
 甲田屋の消息、そしてその最期の謎は解消した。そして本日、次郎長の命日にあたり、前回の説のあやまりを改正しつつ最近、会報に掲載した記事をここにかきとめておくことにする。

     *   *   *
      
 『美濃輪稲荷に残された次郎長の名』
 
 清水区美濃輪町。二十三才で無宿者になるまで青春時代を過ごした地だ。
 当時の清水港は巴川の内にあり、河口から上町に至る西岸沿いは廻船問屋が建ち並び、関西と関東の中継点として、塩や米、酒などの荷を積んだ千石船が出入りする港として栄えた。特に美濃輪の南端(現在の清水小学校付近)には幕府の米蔵があって、このあたりは米問屋と廻船宿で賑わっていた。
 次郎長の生家も甲田屋も一歩裏に出れば、そこは「小揚げ」と呼ばれ人足衆が米俵や荷を渡す威勢のいい声が聞こえてくる。心地よい浜風を存分に吸って次郎長は育った。
 
 美濃輪町には約三百年前(享保五年・1720)に遷座したと伝えられる稲荷神社がある。この神社には次郎長が幼いころ相撲を取って遊んだエピソードがあるが、もう一つ関連するものとして、神社を囲う石柵に、晩年の次郎長が、大型船時代の到来と外海港の築港の必要性を廻船問屋後継者たちに説き尽力した証が刻まれている。
 明治十三年(1880)に建造された石柵はかなり損傷もひどく、欄干に彫られた寄進者の名前も全てを読み取ることは出来ないが、当時の地元の有力者の名とともに次郎長の実名「山本長五郎」の名もしっかり確認できる。
 注目すべきは中央の石鳥居傍の参道に面して並ぶ石柵で、「静岡丸」「三保丸」「清川丸」といった後の静隆社の持ち船の名と横浜定期航路の中心的人物の一人であった「天野九右衛門(天野回漕店経営者)」の名がある。
 江戸幕府が倒れ、それまで幕府の庇護を受けてきた港も衰退の危機を迎えることになる。清水町の廻船問屋は次郎長の呼びかけのもと、自らの進退をかけて立ち上がり、お茶の輸出を切り札に外港に打って出る。明治十二年、向島に波止場を築造し、港橋が架橋された。
 もう一人、注目の人物の名が「九右衛門」の隣にある。発起心願人の中央に「山本治郎右衛門」と彫られたその名は甲田屋の主人のものである。
 明治十三年、それまで岡の八幡神社を氏神としていた美濃輪町民九十八戸が、心願して正式に美濃輪稲荷の氏子になったと清水町沿革誌に記されている。
 石柵は美濃輪町を含む旧清水町の氏子や静岡の茶商らによって建立されたものであるが、甲田屋の治郎右衛門も中心の一人として発起心願し成就した記念のものだろう。米商人として財をなした甲田屋にとって同町の稲荷神社に寄せる信仰も厚かったに違いない。
 併記された二人の商人や廻船問屋経営者たちの名を見ていると、清水港が、米や塩中心の河口港からお茶中心の外海港へと移り変わる激動の時代を垣間見る想いである。
 そして両者を取り持ち、清水港の未来と発展を見つめた「山本長五郎」の名は以外にも、出口の柱の一番最後に彫られていた。それもまた感慨深いものがある。
 
 以上の他に次郎長の関係で石柵に確認できた人物名は、生家当主の「高木三右衛門」。次郎長一家からは増川の仙右衛門こと「宮下右ヱ衛門」。当目の岩吉こと「久保山岩吉」の名があった。
 他にも当時に関わった人物の名が彫られていたかもしれないが、石柵の状態は非常に悪く、崩壊も危惧される。清水港の歴史を後世に伝えるものとして何とか保存できないものかと考える。


 
  ※ 明治三年に「三代目のおてふ」篠原けんを嫁に迎えて所帯をもち、明治十九年に波止場に船宿「末廣」を開業して移り住むまでの間、次郎長は美濃輪の住民であった。
  次郎長の伝記本「東海遊侠伝」を書いた天田五郎(後の愚庵)と出会うのは明治十七年のことだ。

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