お魚と僕のまち

とある港町。潮風にさびれた街並とお魚浸けの生活日誌 (※コメント書き込みはご自由に。でも返事はしません。ごめんなさい。)

乱れ過ぎ清水遊狂伝

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次郎長と美濃輪稲荷(改正追記)

 甲田屋の消息について知りたくてT氏に相談したところ、その子孫が調べたという資料をいただいた。
その資料によれば、次郎長より甲田屋を譲り受けた姉の「とり」とその旦那「安兵衛」の長男(治郎右ヱ門を世襲)に連合い無く、弟「安次郎」に継がそうと一度は養子にしたものの、安二郎は何らかの理由で明治十四年に甲田屋を飛び出して、同町の某地に単身移り住んだということになっているようだ。(安二郎は静岡で死んだ。詳細は不明。)
 後継者がいなくなったため、四代目治郎右ヱ門は明治三十九年に有度郡池田村より由太郎を養子に迎えた。
この時点で分かったことは、美濃輪稲荷の氏子発起心願人の山本治郎右ヱ門は安二郎ではなく、四代目治郎右ヱ門だったということと、甲田屋もその時点ではそのままの場所に存続していたということだ。
つまり、「安二郎が、氏子心願にあたり財を投じて米問屋の幕引きをした」という前回記述の自分の想像は見事に外れていたことになる。明治の初頭においても甲田屋は地元では真に財力をもった商家だったのだ。
 しかし、その後くる時代の波にはやはり逆らえるものではなかったようだ。由太郎の代の大正期に一発奮起の網元投資に失敗してついに甲田屋は倒産してしまったという。
 
 
 甲田屋の消息、そしてその最期の謎は解消した。そして本日、次郎長の命日にあたり、前回の説のあやまりを改正しつつ最近、会報に掲載した記事をここにかきとめておくことにする。

     *   *   *
      
 『美濃輪稲荷に残された次郎長の名』
 
 清水区美濃輪町。二十三才で無宿者になるまで青春時代を過ごした地だ。
 当時の清水港は巴川の内にあり、河口から上町に至る西岸沿いは廻船問屋が建ち並び、関西と関東の中継点として、塩や米、酒などの荷を積んだ千石船が出入りする港として栄えた。特に美濃輪の南端(現在の清水小学校付近)には幕府の米蔵があって、このあたりは米問屋と廻船宿で賑わっていた。
 次郎長の生家も甲田屋も一歩裏に出れば、そこは「小揚げ」と呼ばれ人足衆が米俵や荷を渡す威勢のいい声が聞こえてくる。心地よい浜風を存分に吸って次郎長は育った。
 
 美濃輪町には約三百年前(享保五年・1720)に遷座したと伝えられる稲荷神社がある。この神社には次郎長が幼いころ相撲を取って遊んだエピソードがあるが、もう一つ関連するものとして、神社を囲う石柵に、晩年の次郎長が、大型船時代の到来と外海港の築港の必要性を廻船問屋後継者たちに説き尽力した証が刻まれている。
 明治十三年(1880)に建造された石柵はかなり損傷もひどく、欄干に彫られた寄進者の名前も全てを読み取ることは出来ないが、当時の地元の有力者の名とともに次郎長の実名「山本長五郎」の名もしっかり確認できる。
 注目すべきは中央の石鳥居傍の参道に面して並ぶ石柵で、「静岡丸」「三保丸」「清川丸」といった後の静隆社の持ち船の名と横浜定期航路の中心的人物の一人であった「天野九右衛門(天野回漕店経営者)」の名がある。
 江戸幕府が倒れ、それまで幕府の庇護を受けてきた港も衰退の危機を迎えることになる。清水町の廻船問屋は次郎長の呼びかけのもと、自らの進退をかけて立ち上がり、お茶の輸出を切り札に外港に打って出る。明治十二年、向島に波止場を築造し、港橋が架橋された。
 もう一人、注目の人物の名が「九右衛門」の隣にある。発起心願人の中央に「山本治郎右衛門」と彫られたその名は甲田屋の主人のものである。
 明治十三年、それまで岡の八幡神社を氏神としていた美濃輪町民九十八戸が、心願して正式に美濃輪稲荷の氏子になったと清水町沿革誌に記されている。
 石柵は美濃輪町を含む旧清水町の氏子や静岡の茶商らによって建立されたものであるが、甲田屋の治郎右衛門も中心の一人として発起心願し成就した記念のものだろう。米商人として財をなした甲田屋にとって同町の稲荷神社に寄せる信仰も厚かったに違いない。
 併記された二人の商人や廻船問屋経営者たちの名を見ていると、清水港が、米や塩中心の河口港からお茶中心の外海港へと移り変わる激動の時代を垣間見る想いである。
 そして両者を取り持ち、清水港の未来と発展を見つめた「山本長五郎」の名は以外にも、出口の柱の一番最後に彫られていた。それもまた感慨深いものがある。
 
 以上の他に次郎長の関係で石柵に確認できた人物名は、生家当主の「高木三右衛門」。次郎長一家からは増川の仙右衛門こと「宮下右ヱ衛門」。当目の岩吉こと「久保山岩吉」の名があった。
 他にも当時に関わった人物の名が彫られていたかもしれないが、石柵の状態は非常に悪く、崩壊も危惧される。清水港の歴史を後世に伝えるものとして何とか保存できないものかと考える。


 
  ※ 明治三年に「三代目のおてふ」篠原けんを嫁に迎えて所帯をもち、明治十九年に波止場に船宿「末廣」を開業して移り住むまでの間、次郎長は美濃輪の住民であった。
  次郎長の伝記本「東海遊侠伝」を書いた天田五郎(後の愚庵)と出会うのは明治十七年のことだ。

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次郎長と美濃輪稲荷

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 日の出とともにシャンシャンと鳴くセミの合唱に目覚めて「お稲荷さん」に出向く。
神社の周囲を散歩しながら境内を囲む石柱に刻まれた名を見て歩くのも時々気晴らしにいい。
柱の一つに明治十三年と彫られたものがあり、この囲いはどうやら120年前に造られたものらしく、中には名が剥げ朽ち果てそうで倒壊危険な柱もある。
 
 美濃輪のお稲荷さんの縁起について「清水町沿革史」によれば、宝永年間に甲斐守となった柳沢吉保が清水の向島に進出し、現在の万世町の「巴の園」付近に甲州廻米置場(港橋袂の置場とは別)を設置した際、稲荷信仰に厚い吉保は同構内に守護神として稲荷神社を勧請する。これが後の美濃輪稲荷の基となるわけだが、数年で柳沢は失脚し残された御神体は置場を管理していた北村仁右衛門の宅地内に移されて奉納する。その仁右衛門の家僕興兵守なるものは信仰厚く勤務期満了に臨み主に請い、興兵衛の住居地である美濃輪の裁許山(現在地)に奉納し享保五年ついにここに遷座する。人々の信仰日に日に厚く、安政の大地震にて社殿が倒壊するものの万延元年には再興し維新後の明治二年には「正一位美濃輪稲荷」の神号を受ける。(以上:略)

 柳沢の甲州米置場以降、江戸への廻米が盛んになると美濃輪の南端(清水小学校付近)にも御米蔵が建てられた。清水湊は米の荷であふれ「甲田屋」をはじめとする米穀商はこうした幕府の御米の払い下げなどの恩恵を受けて活躍し財を築いていたにちがいない。美濃輪や仲町、本町などのある「浜清水」は中世のころからか、八幡神社のある「岡清水」から移り住んできた人たちによって築かれた新開地ゆえ、もともとこの土地の氏神は「下清水の八幡さん」だったのだが、商人が行きかう湊町で「甲田屋」のような地方からの参入もあったりいつしか人も移り変わり、稲荷信仰への傾倒が強まっていったのかも知れない。

 そして美濃輪町が正式に美濃輪稲荷の氏子になったのは明治十三年で、この時に神社の囲いの石柱が奉納されたのである。石柱には多くの有志の名が掘り込まれている。とても大きな意味をもったイベントであったことを思わせる。

 ところでそのころ次郎長はすでに、明治の維新の咸臨丸の事件をきっかけに、清水湊の警固役、富士の開墾、英語塾など「世のため人のため」のお方となっていた。次郎長は、明治七、八年のころから廻船問屋衆に大型船舶が出着できる外港の必要性を説いて周り清水港波止場を建設に尽力する。そして明治九年には天野九右衛門を筆頭に廻船問屋衆で静隆社を立ち上げ横浜との定期航路を開き、静岡茶の輸出の先鞭を築いた。明治十二年には波止場が完成し港橋が架橋された。そしてこの年には、南北戦争の勇将で後の米国18代大統領になったグラント将軍が開港新しい清水港に来訪している。このときも既に「清水港(みなと)の顔役」となっていた次郎長は、将軍の前で地元漁師による投網のパフォーマンスを披露した。それは、徳川の恩恵を受け栄えた巴川の内港の「米の清水湊」は維新とともに衰退し、外港の「お茶の清水港」へと時代が大きく変わっていった時期だったといえよう。

 お稲荷さんの本宮への参道入り口の石柱に、静隆社が所有した横浜との定期船「静岡丸」と「三保丸」と「静川丸」名が彫られている。おそらく初っ口のこの列にまず重要な団体や名が並んでいると思われ、静隆社関係では「天野九右衛門」の名もしっかり刻まれている。右隅は上一文字が欠けているが、次郎長の主治医というべきか、「河豚騒動」のときにも登場した入江の医者「山田章庵」のおそらく息子さんであろう「山田章斎」で、代が変わっても名士として多額を奉納したことに違いない。
注目すべきはこの列の中心である。「発起心願人」とありその中央に「山本治郎右衛門」という名がきざまれているのである。
この「山本治郎右衛門」とは「甲田屋」のことで、当主は代々この「治郎右衛門」を名乗った。幼い次郎長を養子として育てた「治郎八」は次郎長16歳のときに亡くなり、跡目を継ぐはずの次郎長は国を売るにあたり、「甲田屋」を姉夫婦に譲っているため、姉の夫「安兵衛」が「治郎右衛門」を継承した。「安兵衛」には二子あり、兄が「治郎右衛門」を継承したが、この「治郎右衛門」に子が無く、複雑な話だが弟の「安次郎」が兄の「治郎右衛門」の養子となって家督を継承した。明治十三年時の「治郎右衛門」はおそらくその「安次郎」だと思われる。
「甲田屋」の「治郎右衛門」こと「安次郎」がなにをもって筆頭の「発起心願人」となって、美濃輪の氏子入りを奨めたのか?それはもちろん解りはしないが、「安次郎」は翌年の明治十四年早々に、「甲田屋」のある住所から同町内の某所に引っ越している。
このことがやや引っかかる。もしかしたら廃業したのではないだろうか。
次郎長の後を引き継いだ姉夫婦「安兵衛」の代は幕末とはいえまだ徳川の時代で店は繁盛したが、時代が代わり恩恵を失ったことから商いは徐々に力を失っていった。家業を継承するものも途絶え店を閉めたということも考えられる。
店を閉めるにあたり、今まで恩恵を感謝の意に代え、また新しい時代の担い手にエールをおくりつつ、日ごろ信仰していた地元美濃輪の稲荷に私財を打って奉納し、同町の氏子入りを世話したというのは少々考えすぎだろうか。

維新という時代の変化を読み取って逸早く「外港の時代」を説き、先鞭をつけた次郎長。しかし、彼が「治郎八」から「甲田屋」を引き継ぎ、そのまま正業を外れることなく生きたならば、明治十三年の「山本治郎右衛門」は次郎長であった!というのも実に皮肉なことかもしれない。

実は次郎長と美濃輪のお稲荷さんを結ぶエピソードや記述というものは一切ない。
しかし、この当時、地元の社会事業家として活躍中の次郎長とそれに関係した人物の多くがこの石柱に名を連ねているのに、どうして「次郎長」本人の名がないのか?
とそればかり呟きながら毎度散策していた。
ところがある日とうとうその名を見つけることができた。

それは参拝が終え境内を出口の角にあった。おそらく締めくくりのこの石柱には「世話人」の下に「石ヶ谷利八」「黒田幸兵衛」とあり、その横面に「石野長十郎」「酒井三吉」の名に続いて本とに最後に「山本長五郎」という名が刻まれていたのだ。最後というのがまた実に意味深だ。


決して表向きには顔は出ずとも、後ろでしっかりと面倒を見る。「甲田屋」の最期、そして「安次郎」の決意を酌んで、世話人としてしっかりと後押しをした証がそこに刻まれている気がするのだ。

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次郎長と金毘羅さん(その2)

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「金毘羅信仰」は、讃岐の金刀比羅宮(ことひらぐう)すなわち金毘羅大権現を尊崇する信仰で、「金毘羅」とは,元来は仏教由来の神で,kumbhira は鰐を意味し、一種の竜神信仰として広く船舶関係者の尊崇を集めることになった。讃岐(琴平町)の金毘羅大権現は,大物主命と崇徳天皇を合祀しており,中世以降,海上安全や祈雨の神として全国に勧請された。金刀比羅,金比羅,金毘羅,琴比羅など,さまざまな表記がある(参:ウィキペディア)。

 次郎長の実父「高木三寿郎」は船持ちの船頭で、伊豆方面から薪などの燃料を運ぶ交易を主業としていた。高木家は屋号を「薪三」といい「三右衛門」を代々襲名、どんな悪天候でも船を出す豪胆さゆえ「雲不見三右衛門」と周囲から恐れられた人だった。
 船乗りの「三右衛門」が金毘羅さんを信仰していたことは十分考えられる。「三右衛門」が参拝したと想像する「金毘羅宮」が地元にある。現在それは「岡の八幡さん」の中に合祭されていた。仏教色が排された明治時代に「金刀比羅宮」と呼ばれるようになり神社に合祭されたのだが、この「岡の金毘羅さん」はもともと八幡さんの北側の小高い丘、現聖母保育園の園舎のあたりにあったと清水町沿革史に記されている。また同史は、それ以前の江戸時代初期には同所に徳川頼宣が父家康のために遊覧の地として建てた「清水御浜御殿」があったとも伝えている。

「三右衛門」の家(=次郎長生家)は美濃輪にあり、その高木家は美濃輪稲荷の氏子であったと思うところだが、美濃輪町内が美濃輪稲荷の氏子に正式になったのは、明治13年になってからのこと。「三右衛門」の住む美濃輪町の氏神はそれまで「岡の八幡さん」だった。氏神である八幡さんへの奉納の傍ら、すぐ近くに建つ海上安全の神様を手厚く信仰していたと考えるのも決して不自然ではないと思う。

 次郎長が自分の素性は父親譲りであり生き様にも影響を受けたということは、東海遊侠伝の冒頭にまずその実父のことが語られていることからもうかがえる。
そこで、船乗りでもない渡世人である次郎長がなぜ「金毘羅」なのかということを再び考えるならば、それこそ実父の影響といえるのであって、讃岐の金毘羅総本山を目指した次郎長の「金毘羅さん」へのこだわりもなんとなくこのあたりにあったのではないかと思う。

さて、次郎長ドラマもいよいよ佳境を向かえ、都田一家の吉兵衛を追分に討つ場面へと向かう。
石松の弔いとなる「追分旅籠屋の都鳥襲撃」にむかう際にも、次郎長はきっとこの「岡の金毘羅さん」に必殺祈願をしに立ち寄ったに違いないと、また勝手な想像を膨らませるのである。

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次郎長と金毘羅さん

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渡世人の次郎長は捕吏から逃げる毎日でもあったが、諸国の一家に草鞋をぬいではサイコロ賭博に明け暮れる自由気ままな旅(人生)を大いに楽しんでいたのではないだろうか?
旅先の名古屋で妻おてふを病気で亡くし、そのことが発端で穂北の久六とのイザコザにつながるわけだが、この「久六殺し」の前に次郎長は乾分数名を連れ金毘羅詣でをしている。悲しみと怒りの中にあっても直ぐに報復は目立つし危険だ、ここはひとつ身を潜めて暗殺の機会をじっくり窺がおうという意思が遊侠伝にも書かれているが、讃岐の金毘羅詣ではお伊勢詣でと並んで当事は庶民の間でも盛んであり、気分転換をかねての旅行でもあったに違いない。金毘羅大権現に久六必殺祈願をした次郎長はこの後知多半島の寒村、乙川のなわて(半田市乙川吉野町)で久六を成敗しおてふ、巾下の長兵衛の無念を晴らす。
そして翌年にはその祈願達成の奉納に森の石松を讃岐に送り出している。旅費もかさなる旅ゆえ石松一人の讃岐金毘羅への旅路。世に言う「石松・金毘羅代参」である。
 それにしても次郎長がここまで「金毘羅さん」にこだわるには別に何か理由があったのではないかと以前からちょっと引っかっかていた。それは船乗りである実の父高木三右衛門の影響があるのではないかという点から始まる。(つづ

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禅叢寺

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休日を利用し図書館へ出かける。本町を通り上町から折れて禅叢寺でクランクし岡の久能街道に上がるいつもの古道を通る途中、禅叢寺の山門に「本日はお釈迦様のご命日」とあり9時より読経が始まっていた。目的の途中ではあったが、この寺に関係して、友人に「宿題」をだされていたこともあり、その答えを授かろうと、ありがたいお経を聞きながら御住職を待った。

今日は20度を越す2月半ばにしては暖かい陽気であり空気も乾燥していることから、待つ間にも喉が渇いてきたため水道はどこかなと見渡したところ墓地への入り口に井戸を見つけた。
おそらくこの井戸が話しに聞く「禅叢寺の元井戸」だろう。
禅叢寺の門前をクランクして上がらずそのまま北へまっすぐ細い道を行くとHM田小の裏手に「チャンチャン井戸」と呼ばれる廃井戸がある。この井戸がある辺りも元は禅叢寺の敷地だったらしいが、ここを結んだ線には「岡」から染み込んだ同じ水脈があり、大昔から「清澄な水」が湧き出る場所であった。やがてこの泉井の周りに聚楽が形成され何時しか郷土の名もそこから発生した云われている。

禅叢寺には次郎長に関するエピソードも多い。

幼少のころの次郎長は美濃輪の甲田屋の養子で裕福な環境にあったが手の付けられない「ちょんびー」でこの禅叢寺の寺子屋に預けられている。この寺子屋においてもその悪ぶりは健在で、飴玉をちらつかせて門下の僧侶をたらしこんでは掌握し悪事をかさねた。菊の花への水番がかんだりいとくれば花を全て摘んでしまう、池の金魚が欲しいとくれば早弁してその空箱に盗んだ金魚をしのばせ平然としている。ついにそれがバレてこの寺子屋も追い出される結果となった。



時に文久元年1月15日、禅叢寺とは目と鼻の先の上町にアジトを構える次郎長のもとに、石松の憎き仇の都田吉兵衛が追分まで迫り旅籠屋で宴を開いているという情報が入った。

次郎長「吉兵衛がぁ、俺が死んでるって言ったってよう!俺はこの通りビンビンだ。飛んで火に入る冬の虫ったぁこいつのこんだぁ!野郎ども仕度しろい!!」

小政「親分、道具ぁこないだの"河豚騒動"ん時に章庵先生が、預かると言って持ってかれたままで...。」

章庵は次郎長が懇意にしていたいわば主治医。次郎長の統率能力を早くから見抜き、正道への方向転換を願う一人でもあった。幼少のころから目上の誰の言うことも聞かない次郎長だったがこの章庵には頭が上がらない。

次郎長「けっ!先生かい(ぽりぽり)...。まぁかえってええか!今日は八幡さんの例祭だ。参拝の人通りも多い中そんなもんちらつかせたら物騒に思われる。いつもの寺(禅叢寺)の竹やぶ行って槍に良さそうな竹ぶった切ってくりゃぁそんで充分ら!」

相撲常「相手は刀もってますぜ。竹槍なんかで大丈夫すかい?」

次郎長「俺も若けーころ、千鳥足で玉川楼の柳のあたりを歩いていて奇襲に遭い痛てぇ目にあったことがある。それ以来俺は一滴も飲まねぇことにしてる。酒をくらった奴等にまともに剣は握れはしねぇさ」

大政「ガッテン!(親分本たぁ下戸なだけだったり...)あっ!おいいいか、竹槍を10本ばかこさえておけ!」

次郎長「よーしっ! 政、音(小政)、常、秀、清吉、信太郎、出入りの前に先ざぁ「岡」の金毘羅さんに必殺の祈願だ!ついて来い!!」

そして次郎長一家は追分の血煙にて見事石松の敵討ちを果たし、吉兵衛と伊賀蔵の腕を遠州に眠る石松の墓前に添えた。なお、吉兵衛と伊賀蔵の亡骸は入江浜に捨てられたという話ではあるが、次郎長一家の墓地ともいえる向島の壮士墓には咸臨丸の戦没者の墓碑以外に無縁仏が二基あるという。墓碑建立法要葬儀の日付が文久二年壬戌(みずのえいぬ)三月十五日である。「死ねば仏。仏に敵味方はない」この二つの墓石が何を物語っているか未だになぞである。

   ***

禅叢寺の門前に「うきしずみ してこそ ひとになる」次郎長さんの言葉を飾っていました。
友人からの宿題とはこの「次郎長の言葉」の真贋の鑑定。
「解らぬことは兎に角実地へ」が基本動作であるから供養を終えた和尚にこの言葉について尋ねた。
次郎長本人が晩年に言ったと「伝わる」言葉なのだそうだ。

二十歳そこそこで渡世人になり、人を殺めて国を売り東海の裏街道を歩くこと三十年。博打の旅も楽しかったが、愛する女房二人を亡くし、可愛い乾分とも悲しい別れもしてきた。維新とともに伏谷如水に見出され山岡鉄舟の知遇を得て、やっと世のため人のために人肌脱いじゃう親分になり、ようやく暗闇から明るみに出たと思いきや博徒一斉狩込にて再び過去の罪を問われ投獄された。この時次郎長はすでに高齢ではあったが、決して暴れるまねはしなかった。過去の所業を認めすべてを受け入れようとする「ひと」としての自然の姿がそこにあったのかもしれない。養子だった天田五郎(のちの愚庵)の東海遊侠伝の発刊や鉄舟の口添えも手伝ったかもしれないが時の県令関口隆吉によって釈放され再び明るみに出れたのも、次郎長がすでに人格人望が整っていたからであろう。
確かに次郎長は普通の人にはあり得ない波乱万丈の人生を送ってきた。晩年、末廣に訪れる若き海兵に武勇伝を披露しては「楽しい人生だった」と語っていたと云う。

地元に伝わる次郎長の生涯とは全く別の世界で「次郎長」は一人歩きし始め全国に名高い「大親分」になった。講談や浪曲それに続いた映画の世界である。
軍国主義の時代にはその度胸をたたえられヒーローとして扱われた。
暴力団問題が表面化すると今度は悪者扱いに。
そして、上も下も右も左もない次郎長の「ひと」としての生き様をこんにちは評価されるようになってきて再びスポットライトを浴びようとしている。

これもまた時代の「うきしずみ」なのであろう。

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開設日: 2005/10/26(水)


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