Mooovingな日々

キートン復活!もう20年ぶりになるの?

旅行記

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旅先での出来事と写真を徐々に載せていきたいと思います。
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タバスコ工場〜MSY 09-10(25)

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これはこの日の朝食。ホットブレックファストを無料で出してくれるサービスはとてもありがたい。
なぜかワッフルメーカーがあるといつも作ってしまう。

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この日最初に向かったのはラフィエットから車で約30分ほどのところにあるエイブリー島。ここにはホットソースといえば世界的に知られるタバスコの工場があり、工場見学が出来る。
タバスコはマキルへニー・カンパニーという会社が1868年に創立して以来ずっとタバスコソースを作り続けている。このエイブリー島は岩塩ドームの形成された島としてしられており、ここの岩塩はホットソースを作る材料の一つ。それもあってマキルヘニー家はこの島へ移り住むことになった。
他に使われる材料はレッドペッパー(赤唐辛子)と自然穀物酢のみ。以前はエイブリー島だけで栽培した赤唐辛子を材料にしていたが、現在は中南米原産のものを使用。もちろん今でも島で栽培はしているそうだ。興味深かったのはその製造過程で、まるでワインのような造り方なのに驚いた。唐辛子をすり潰して、ホワイト・オークの樽で発酵させて、約3年間熟成させるというもの。

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工場見学ツアーは無料。駐車場で車から降り立つと、ホットソースの独特な匂いを感じる。工場正面にツアー向けの入り口があるのでそちらに入るとレセプションルームになっているのでガイドが来るまで待つ。マキルヘニー・カンパニーやタバスコについて説明があり、歴史の展示の部屋へ移動。それが終わると8分間のビデオ上映がある。その後は自由行動で、ガラス張りになっている工場内部が見られる。ここではボトリングとラベル貼り、そして箱詰めの作業を見ることが出来る。工場見学記念に3種類のホットソースのミニチュアボトルを頂いた。
見学時間は30分そこそこ。

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駐車場の近くにはカントリーストアがあり、タバスコグッズや軽食などが売られている。来た記念にちょっとした買い物が楽しめる。

ちなみにこのエイブリー島にはジャングル・ガーデンという車で周れるジャングルと自然公園がある。野生の水鳥やワニなどが見られる。
私達は別の目的地に行くため、ここには立ち寄らなかった。



つづく

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ラフィエット〜MSY 09-10(24)

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ラフィエットへ向かう道中、昼食を取る。久しぶりのArby's。(音がでます)(ウィキ)ここのローストビーフ・サンドイッチはお気に入りのファストフードの一つで、BBQソースとホースラディッスソースをたくさんはさんで食べる。サイドにはカーリーフライ。昔、東京にもあったそうだが、今ならもっとウケがいいかもしれない。

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ハイウェイからの景気はこんな感じのウェットランド。アリゲーターが居ても驚かない。

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ラフィエットに到着するが、時間的に1箇所だけ立ち寄れそうだったので、ジャン・ラフィット国立歴史公園のビジターセンターへ向かう。この国立歴史公園は全部で6ユニットもあり、ここはアケーディアン文化センターと呼ばれている。ルイジアナ州のアケーディアンの歴史と文化にフォーカスした展示と映画上映がある。春と秋にはレンジャーによるバイユー・ヴァーミリオン・ボートツアーを実施している。
映画は『The Cajun Way, Echoes of Acadia』というタイトルで、上映時間が40分。以前行ったハリファックスのグラン・プレで観た映画と同じような内容。ウィキの“アカディア”に詳細があるが、1755年のフレンチ・インディアン戦争勃発をきっかけにカナダのノバスコシアに入植したフランス系住民(アカディ)に英国軍が英国に忠誠を強要し、誓わない者達を強制的にフランス本国か英国領植民地へ移送して彼らの住居を焼き払った。家族は引き離され、残った者達は虐殺されている。英国人達が北米の先住民に対して行ったようなことを同じ白人同士に対しても行ってきていた。今からみれば非人道的な行為以外何ものでもないが、当時では十字軍の行い同様に思われていたのかもしれない。それでもルイジアナまでたどり着いたアカディ達はここで新たな住まいを構え、文化を築き上げていった。これがケイジャンの祖となっている。・・・多分映画を観ると怒りが湧くかもしれない。

今夜泊まるホテルへ向かう。ニューオーリンズと同じホテルなので、同じサービスが受けられる。エドが無料ドリンクに大喜びw

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夕食は公園局のレンジャーさんに聞いたオススメレストランへ行くことに。もちろんケイジャン料理専門なのだが、ケイジャン音楽バンドのライブ演奏も聴ける。この晩は『Les Freres Michot』というバンドが出演していた。視聴はこちら。年配の人達がダンスを楽しんでいた。
さて料理なのだが、・・・実は写真を見ても思い出せず、何を頼んだのか失念してしまった。多分キャットフィッシュのグリルとアリゲーターのスタフド包みクロウフィッシュ・エトゥフェかけだと思う。それとライス・ドレッシングとコーン・マックシューという南部の定番サイドディッシュ。
フレンチクォーターにあるレストランよりも家庭料理的な味を出している。


明日はこの旅最後のラフィエット観光へ。


つづく

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フォート・ロザリー〜MSY 09-10(23)

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長くなりそうだったので、ロザリー砦については分けることにした。

ロザリー砦は1716年、ナッチェス族のテリトリーである所に建設された。ポンチャートレイン公爵夫人に敬意を表し、彼女の名前をつけることに。ここをフランス軍の拠点とし、ナッチェス族との交易場所として使用される。社会事業としてタバコのプランテーションをも確立させた。ところがフランス人とナッチェスとの間に数回の暴力事件が起き、次第に緊張感が募ってゆく。
ついに1729年の11月28日、ナッチェス族による攻撃を受けた。彼らはフランス人達が築いてきたものを皆破壊し、何百人の入植者達の命を奪った。フランス側は翌年の1730年、その報復に出てナッチェス族をこの土地から追い出した。
すっかり荒廃してしまったが、1730年代にフランスは再び砦を建て直す。それから7年戦争フレンチ・インディアン戦争を経て、1763年に締結されたパリ条約により砦を英国へ明け渡した。英国はここをパンミューア砦と名前を変える。1779年〜1798年、砦はスペインの支配下に置かれ、1798年以降は合衆国に取って代わり、「ポスト・アット・ナッチェス」あるいは「サージェント砦」と呼ばれるようになる。1804年に砦は放棄された。

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現在砦は国立公園局の管理下とされているが、目に見える部分としてはロザリー・マンションの背後にある公園だけ。石碑があり、ここにロザリー砦があったことが明記されてある。この公園からミシシッピー川を見下ろせる。

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実は1930年台にジェファーソン・デイヴィス・ディックソンJrという人物が中心となってロザリー砦を再建して一般観光客に公開しようという動きがあった。1940年に公開されたがこの事業は長く続かなかった。それはディックソンが第二次大戦で戦死したからだ。
今日唯一残されているのがビジターセンターとギフトショップとして使われていたログキャビン(写真右)で、国立公園局の管理下になる前までは教会やレストランとして使用されていた。
国立公園局はロザリー砦建設300周年記念である2016年にあわせて砦の再建計画があるという。
これはビジターセンターで得た情報。最後にもう一度訪れて展示物を見て回った。
ちなみにこのビジターセンターは広い駐車場、お手洗い、ギフトショップがあり、ミシシッピー川を見渡せる展望場所もある。イベントチケットも扱い、無料のコーヒーが置いてある。ナッチェスへ来たらまずここに立ち寄るべき。

私たちは車に乗り込み、ラフィエットへ向けて出発した。


つづく

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ロザリー・マンション〜MSY 09-10(22)

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この日の朝は他のカップルと朝食の席が一緒になった。献立はベーシックにスクランブルエッグとベーコンにフレッシュフルーツカクテル。それとブルーベリーソースのかかったクレープ。今まで泊まったB&Bの中で多分一番料理の美味いところかもしれない。
写真には撮れなかったが、ここには2匹の猫がいるらしく、えさの皿が2つ外に置いてあった。でも飼っているわけではなさそう。

次の目的地はラフィエット。でもその前にどうしても気になる場所探しとあと1軒だけ邸宅を訪れることにした。その場所探しとは、昨日訪れたグランド・ヴィレッジと関わりのあるロザリー砦だった。現在の地図を見ても「跡」という扱いですら載っていない。それで同じ名前の邸宅へまずは行ってみることにした。・・・今回の旅では砦巡りにも近いくらい行っているので、ちょっと反応してしまっただけなのだが。

少しだけ早く到着したので、邸宅の外にあるショップ(ここで邸宅見学ツアーの受付をしている)で暖を取ることにした。というのも雪が降ってきたから。カナダよりも南に来ているのに、まさか雪を見ることになるとは思いもしなかった。お店の人が言うには例年この時期には雪が降るとのことで、特に珍しいわけではないそうだ。

ガイドの話で邸宅のある場所こそ、ロザリー砦の敷地内であったことがわかる。つまり砦はもう無いということだ。砦については次回に詳しく触れるとして、この邸宅を建て始めたのが1820年、ピーター・リトルというペンシルバニア出身の男性で、ナッチェスへやってきたのが1798年。彼が17歳の時だった。彼のバックグランドというのがかなり凄くて、彼の祖父ピーター・リトル大佐はジョージ・ワシントンのかかり付けの医者で、ワシントンが亡くなった時、棺を担ぐという名誉が与えられた人物。そしてメリーランド州代表国会議員と親類。そんな若きピーターがなぜナッチェスへやってきたのかは今だ謎とされている。
ピーターは所有するルイジアナにある土地を見に行くため、ミシシッピー川を航行するフェリーボートをよく利用してした。そのフェリーボートの所有者ジェイコブ・ロウとは親友だったが、1806年に流行した黄熱はジェイコブの命を奪ってしまう。彼は死の間際に娘のエリザの面倒をピーターに託した。その当時のピーターは25歳でエリザはほんの14歳だった。彼らは名前だけの結婚をし、ピーターは彼女をボルチモアの学校へ通わせることにした。遠距離恋愛となった彼らだが、2人の愛情は離れていても強く結びついていた。数年後にエリザが戻ってきた時、彼女は教養を身につけ、すっかり洗連された女性に成長していた。ロザリー・マンションが完成したのが1823年。彼らは新しい家に移り住んだが、2人の間に子供はいなかった。しかしエリザは子供達のために養護施設の設立を手助けし、何人もの子供達を引き取った。ピーターの姪も彼の妹が亡くなった時に引き取り育てている。45年の結婚生活の末、エリザが1853年に黄熱で亡くなると、ピーターはその3年後に亡くなった。遺言を残さなかったので邸宅はオークションに掛けられる。1857年にアンドリュー・ウィルソン夫妻がロザリーを購入。彼らにも子供がいなかったが、数人の孤児を引き取った。
その後南北戦争が起こり、ロザリーは連合軍の本部となる。
ウィルソン夫妻の義理娘ファニーが1866年に結婚後、6人の子供を儲けロザリーの主人となった。
後にファニーの娘アニーがロザリーをミシシッピー州DAR協会(愛国婦人会)へ売却。彼女はそこに住みながら邸宅見学ツアーを行っていた。
現在ロザリーはDARが管理している。

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ロザリーの管理状態はとてもよく、オリジナルの家具が揃っている。何人もの人手に渡ることなく、空家状態になることもなく、南北戦争で強奪や破壊されることもなかっただけある。
ガイドさんに勧められて古いピアノを弾かせてくれた。こんな機会はなかなかないかもしれない。
ただ最初のツアーだったこともあり、全部の電気がつけられておらず、写真が全体的にブレて暗いものになってしまった。

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そしてここにもぬし猫がいた。


つづく

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グランドヴィレッジ〜MSY 09-10(21)

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ナッチェスの南の外れにグランドヴィレッジと呼ばれる、この地域に住んでいた先住民部族“ナッチェス族”が祈りや祭りの時に使っていた場所があるというので訪ねてみた。そこにはビジターセンターがあり、発掘された先住民達が使っていた道具や副葬品、資料が展示されている。
歴史的、あるいは考古学的な証拠によると、ナッチェス・トレース・パークウェイにあるエメラルド・マウンドに代わって1682年〜1729年頃に儀式を行う場所として使われてきたそうで、その後フランス人がこの地域へやってきた時、最初の頃は良好な関係であったが入植を始めた彼らとの意見の相違によって1716年と1723年に暴力沙汰が起きている。“グレート・サン”と呼ばれる酋長が亡くなってからさらに状況は悪くなった。彼の後継者はフランス人に対してより敵対的だった。
そして1729年、英国寄りの種族に促され、ナッチェス族はフランス軍駐屯のロザリー砦やプランテーションに攻撃をしかけた。(ロザリー砦については後日)何百人もの同胞が殺された報復としてフランス人はナッチェス族をこの地から追い立て、ヴィレッジを破壊した。これはナッチェス戦争とも呼ばれている。
逃げ切ったナッチェス族達はチョクトー族チェロキー族クリーク族などと一緒になり、囚われた後継者や100人(資料によって数字にばらつきがある。100〜400人)のナッチェス族達は奴隷としてカリブ海の西インド諸島へ売り払われ、この地からナッチェス族の存在は消えてしまった。後の1838年、米国政府は全ての先住民達をインディアン準州(今のオクラホマ)へ強制的移動させた。1900年代にはナッチェス族の数は20人ほどとなった。
現在ナッチェス族の子孫達はアパラチア山脈やオクラホマに住んでいる。

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19世紀初期、この土地はファーザーランド・プランテーションという名の耕地として私領されていた。
発掘作業が始まったのが1930年からで、川による侵食や黄土に埋もれていたが3つの古墳があったことを発見する。1964年に国定歴史建造物に指定された。

今日この敷地にある3つの古墳は後の考古学的証拠に基づいて同じ寸法で再建したもの。この写真のように、盛り上がった土の上に酋長の家や寺院などが建ててあったそうだ。復元された住居もある。
広々とした草原に冷たい風が吹き、誰も居ない静かな跡地をしばらく散策した。

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もう時間的に閉まっているのを知っていたが、どうしてもこの目で見てみたくてエドに頼んで行ってもらったのがこのお店、“Mammy's Cupboard”。ハイウェイ61号線を南へ行く沿線上にある。サンドイッチやパイを出すカフェで、この建物のせいか名物の一つになっている。もう行く機会はないかもしれないが、ここで一度食べてみたかった。ココナッツ・クリームパイが人気。

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一度宿へ戻ってからディナーのために再びモンマスへ。時間的にか他に客がおらず貸切状態w
本物のヒストリカルハウスのダイニングルームでの食事なんていうと少し緊張してしまうが、私たちだけだったのでちょっと優越感もあった。
前菜はポテトスープ。それから揚げパンが出される。メインは私は鴨料理を、エドはチキンを選んだ。
高級レストランの部類になるだろうが、値段は抑え目に思えた。料理は美味しかった。

さて翌日は移動日。



つづく

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