精一杯生きよう
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昨日、日本語教室の同僚の先生が突然お亡くなりになりました。
1月の最初の授業でお目にかかったのが、私がその先生にお会いした最後となりました。
その時、腰が痛くて階段を上るのが辛いとおっしゃって、
午後の授業は体調がすぐれないということで早退なさったのですが、
まさかそんなにご病気が深刻だとは思ってもいませんでした。
ほんの数週間前まで元気で一緒の空間にいた方が
こんなにあっけなくいなくなってしまうなんて・・・。人の命は儚いですね。
昨年のパパのお父さんの死、先週のレオとのお別れ、そして昨日の先生のことと、
身近な存在が急にいなくなるという経験が続いています。
神様がなにかメッセージを送ってくれているように思えてなりません。
明日は当たり前のようにやってくると思ってはいけない。
いつ何が起こるかわからないんだから、与えられた一日一日を精一杯生きなければ。
普段元気なときには忘れがちなこのことを、しっかり心に刻んでおこうと思います。
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わかっているのに、今日なんか思い切りダラけてました…(反省)。
もし人間の寿命が、例えばみんな一律60歳って決まっていたら、人はどんな風に生きるんだろうね、って一度トビと話したことがあります。最後の10年になった時に焦る人が多いんじゃないかなってトビは言っていました。
日本人は、平均寿命が今のところ世界一だったりするから、長生きするのが当たり前って思っちゃうかもしれないけど、私の両親なんか平均寿命なんか全然届いてなかったし、途上国と呼ばれる国では50歳前後だったりするところがいっぱいあるんですよね。だから精一杯生きないと、と今一度肝に銘じました。
2012/2/4(土) 午前 2:49
xirominさん、ずっと全力疾走していたら続きませんから、たまにダラっと過ごすことも必要だと思いますよ。私も何もする気が起きなくてダラ〜っとする日があります。頑張るときと気を抜くときの切り替えが大事ですよね。
人それぞれ出来ること出来ないことが違いますし、色々な生き方があると思いますが、生かされていることに感謝の心を持って、その日自分が出来ることをクリアしながら前に進んでいけたらいいなと思います。
2012/2/4(土) 午前 6:05
こんばんは。私も去年義母の死を経験しました。そしてToshikoさんとは全く別のことを考えました。義母は認知症で介護や介助がなければ何もできない状態でした。病院や施設でいろいろな患者さんや、入所者さんを見て、「生きる」ことの意味を考えさせられました。認知症が進んで、会話さえできない、ただ管で栄養を送られて息をしているだけ、そんな状態を見ると人間の尊厳とは何だろうと思わずにはいられませんでした。Toshikoさんのお母様もレオ君も最後まで愛する人たちに思われて、尊厳を失わずに逝くことができたのは幸せだったのでは、と思います。Toshikoさんが、日に日に前向きになる姿を2人は見守ってくれていると思います。
2012/2/6(月) 午後 10:31 [ ref*e*_sign ]
refさん、こんばんは。
お返事遅くなって申し訳ありません。義母が2週間ほど遊びに来ていたので、その間はネットから遠ざかっていました。
昨年義父が亡くなったとき、一旦は心停止してその後蘇生したのですが意識が戻ることなく、最後は体中が腫れて体液や血液が染み出してくるほどでした。もう回復の見込みはないとお医者様が判断されて人工呼吸装置をはずされました。お医者様によると義父は痛みで苦しんでいるということでしたので、それは安楽死のような措置だと思えました。
愛する人が少しでも長くそばにいて欲しいと思う反面、耐え難い痛みに苦しんでいて回復の見込みが無いのであればその苦しみから解放してあげるのも愛のひとつなんだろうかと思えなくもないです。でも私にはまだ答えが出ていません。亡くなった後、故人はもう痛い苦しい思いをしなくてもいいんだからと自らを慰めるだけです。人間の尊厳という要素が加わってくると、更に難しいですね。
2012/2/20(月) 午後 3:31
(続き)もっと若いときは死というものを意識することがなかったですが、少しずつ年をとって周りの人が旅立っていくのを見送るようになって、自分は残された時間を悔いの無いように生きたいと思うようになってきました。といってもダラダラしてる日も多いですが。。。
2012/2/20(月) 午後 3:31