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松川敏胤日誌に見る大山巌 〜「日本の活国宝」大山元帥〜

以下は、長南政義「史料紹介 陸軍大将松川敏胤の手帳および日誌――日露戦争前夜の参謀本部と大正期の日本陸軍――」(『國學院法政論叢』第30輯、國學院大學、2009年3月)38頁〜41頁に加筆したものである。
 
「大山侯ハ実ニ恐露病ニ侵サレタル人ナリ迚モ新事業大決断ヲ決シ得ル人ニアラス」(松川敏胤「明治三十五年 随筆」)。
 
この大山評は、明治三十五年に、参謀本部第一部長に就任した松川敏胤歩兵大佐のものである。
 
 大山巌(鹿児島県出身、元帥陸軍大将、公爵、明治三十五年当時、参謀総長)。この当時の大山は井口省吾、松川ら参謀本部の中堅層より早期開戦を迫られていた。
 明治三十五年五月十五日、参謀本部の部長会議開催の命令が出され、毎週三回会議が開催されることになった。翌十六日の会議の席上、田村怡与造参謀次長が、部長会議の目的を「本会議ニ於テ諸事ヲ決定セラレタシ」と述べ、部長会議が参謀本部の意思決定機関として機能するよう要望した(防衛省防衛研究所所蔵「参謀本部 明治三十五年五月起部長会議録」)。
 
 「明治三十五年 随筆」執筆時から一年経過した明治三十六年六月の部長会議の席上、対露開戦に慎重であった大山が、「ロシアは大国でごわすからなー」といったきりで何も言わず対露開戦に慎重な姿勢を示したとされる(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、一九三五年、二二頁)が、これを裏付ける史料が残されている。
 
 明治三十六年六月八日、満洲問題に関する各部長の意見を聴取するための部長会議が開催された。参会者は、参謀総長大山巌、参謀次長田村怡与造、総務部長井口省吾、第一部長松川、第二部長福島安正、第三部長大沢界雄、第四部長(心得)大島健一および藤室松次郎らであった。この席上大山は「諸官ノ意見ハ軍人トシテ実ニ志シスベキ意見ナレドモ今日之ヲ実際ニ行ハンコトハ頗ル困難ナリ露モ大国ナリ決シテ和ヲ講フノ結局ニ出デズ、一度開戦セバ五億六億ニ止ラズ費用ハ遂ニ我国ヲ亡スノ結果ニ陥ルコトヲ恐ル、内閣諸公ト雖モ安易ニ決心シ得ルモノニアラズ」と、開戦を迫る部長たちに向って「慰撫的ニ意見ヲ述」べた(前掲「参謀本部 明治三十五年五月起部長会議録」)。大山が退出後、井口省吾が「駄目だ、今の返事はどうぢゃ」と大声で怒鳴ったが、これに対して大島健一が「それは無理もないだろう」と述べ、おさまりのつかない井口が「イヤあんなこつちやいかん」とやり返すと、大島が「だが貴様達総長になつてわれ〱の席に出て来ても、直ちにそれは御尤も、やらうぢやないかとはいはないだろう、暫く様子を見ようぢやないか」と説き、井口もようやく納得したという(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』二二頁)。
 
 なお、大山は平生、寡黙な人物であり、一諾を重んじる人物であった。松川がこれに関して次のような証言を残している。「私は少佐時代、日清戦争の第二軍の参謀として大山元帥に従ひ、又日露戦争にも満洲軍総司令部参謀として、元帥の下に従事したから、元帥には比較的長い間御厄介になつた。日露戦争には元帥も余程御心配になつて居られたに相違ない。特に旅順の陥落が思はしく捗らなかつたのと、奉天大会戦には最も頭を痛められたのであるが、併し胸中の心配は、少しも顔にも態度にも現はされずに常に泰然自若温容悠々たるもので、私等は古今の名将であると、屡々感じた事であつた。総参謀長の児玉大将を始め、我々末輩の参謀の申す事も、元帥は一々能く聴かれ、最後に『宜しい』と言はれる。この『宜しい』は実に千鈞の重みがあつて、苟も一旦『宜しい』と言はれた以上、山が崩れやうが、海が裂けやうが、断じて変更されない。それは即ち遠謀深略の結果に外ならぬ。元帥が一旦承諾された以上、それを変更せられないのは凡人より考ふれば、事情の推移を御存知ないからかと云ふに、決して左様ではない。今は日本軍が不利であるとか、此の戦は何う、此の次は斯うと、皆知つて居られた。それで『宜しい』と決せられるには、充分の注意を払はれた結果であるから、断じて変更されない訳であつて、一諾千鈞の重き所以は即ち其処にある。平生口で何事も云はれないが、能く気が付かれて目から鼻へ通り、善悪良否を見るの明は、実に驚く計りでありました」(尾野実信『元帥公爵大山巌』大山元帥伝刊行会、一九三五年、八八八頁)。
 
 大山は満洲の戦陣で寝食を共にした満洲軍総司令部参謀田中国重も「今日にいたるまで大山元帥が如何なる人であらうかといふことは、私も疑問の一人としてをる」(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』五九頁)と評すほど、茫洋として捉え所がない人物であった。だが、松川の回想を読むと、大山はすべてを知っていながら、何も知らない風を装っていたというのが正確なところであろう。これを裏付ける挿話がある。日本軍にとって苦戦となった沙河会戦中のエピソードである。松川をはじめとする幕僚が戸外で協議談合していた。その時に、散歩から帰ってきた大山が、松川に向って「松川さん大砲の音はもう聞こえませんか、戦はすんだのですか」と話した。幕僚が戦況の推移に苦心惨憺している中で総司令官である大山が平然とした顔でこのように意外な発言をしたため、松川はこのことを一つ話にしていたそうであるが(前掲『参戦二十将星 日露大戦を語る 陸軍篇』五八頁)、ところが、これも諧謔好きの大山の芝居であった。奉天会戦十周年の記念日に、「総司令官と云ふものは、どんな心掛けで、戦をするものですか」と息子から聞かれた大山は、「知つちよても、知らん振りすることよ」と簡単に答えたそうである(前掲『元帥公爵大山巌』八一六頁)。
 
 「明治三十五年 随筆」当時は手厳しかった松川の大山評は、日露戦役を共に戦う中で変化し、大山の薨去に際し、松川は、「嗚呼終に我日本の活国宝たる此大偉人を喪へり。実に惜みても尚惜しき事なり。余は冷たき元帥を拝したる時胸一杯になり暗涙を禁する能はさりき。」と述べている(松川敏胤「詩仏耶日誌 巻十九」大正五年十二月十日)。

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