私は、今年2012年にフェルメールは「真珠の耳飾りの少女」しか見に行かないと思います。
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「だから、何?」って言われそうですが、私は今年2012年に見に行くフェルメールは「真珠の耳飾りの少女」(青いターバンの少女)だけになると思います。 今年2012年には、現在開催中の展覧会で Bunkamuraザ・ミュージアムで2011年12月23日〜2012年3月14日の会期(2011年6月25日〜2011年10月25日 京都市美術館、2011年10月27日〜2011年12月12日 宮城県美術館)で、 手紙を読む青衣の女(1663-1664年頃。アムステルダム国立美術館蔵) 手紙を書く女(1665年頃。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵) 手紙を書く女と召使い(1670年頃。アイルランド・ナショナル・ギャラリー蔵) が展示されています(「フェルメールからのラブレター展」 http://vermeer-message.com/ \1,500。大和ハウス工業、特別協賛)。 このうち、「手紙を読む青衣の女」は、修復後の世界初出展。アムステルダム国立博物館は、現在改修と公開に関して、なかなか厳しい状況が続いている様なので(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A0%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8 参照)、そんな事情もあっての「世界初出展」なのでしょう。 案内リーフレットだと、 この記事の画像は、カーソルを合わせてクリックすると、別ウィンドウで大きく表示されます。
別ヴァージョンの表紙もあり、
もしかしたら、出品3作品分のヴァージョンがあり、「手紙を読む青衣の女」ヴァージョンもあるのかも知れません。 また、国立西洋美術館では2012年6月13日〜2012年9月17日の会期で「ベルリン国立美術館展」が開催され、その中でフェルメールの 「真珠の首飾りの少女」(1662-1665年) が展示されるそうです(http://www.berlin2012.jp/ \1,500。2012年10月9日〜2012年12月2日 九州国立博物館。TBS、読売新聞社、協賛)。 このリーフレットは、A2版で私のスキャナーには大き過ぎますので、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」部分だけを。 国立西洋美術館は東京の上野にありますが、同じく東京の上野にある東京都美術館(この他、上野にある美術館には、国立東京博物館や東京芸術大学美術館なんかがあります)で、「マウリッツハイス美術館展」が開かれ、そこでフェルメールの 「真珠の耳飾りの少女」(1665年頃) が展示されます(http://www.asahi.com/mauritshuis2012/ 。フジテレビジョン、朝日新聞社、協賛)。上野に同じ時期にフェルメールの「真珠の首飾りの少女」「真珠の耳飾りの少女」の2点が展示されるってのも、不思議な気がしないじゃない。 今の日本、特に東京って、修復などの技術は遅れた地であるにしても、市民への美術品展示って展では、なかなか希有な都市になってる気がします(ニューヨークの方が、その点でも先を行ってるのかも知れないけど)。 東日本大震災後の各国の協力の一環て面もあるのかも知れません。 でもって、東京にとって、そんなフェルメール(現存している作品数が、多く見積もっても37品でしかありません)の年(昨年2011年もフェルメールの「地理学者」がBunkamuraザ・ミュージアムで展示されていました)のうち、私は「真珠の首飾りの少女」だけしか見に行かないだろう、って事。これは、現時点での私の価値判断。 勿論、私の時間もお金も余裕があるのであれば、「行っておいて損は無い」ものだろうとは思います。けれど、そんなに余裕は無い。すると、私の中では、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されていおるフェルメール展は、現時点で再評価してみると、松井冬子展@横浜美術館の直ぐ下辺りに位置してしまう状況。その上には、私のリストで7〜8つほど(まだ会期が始まっていないもんもあるので、2012年2月1日時点では4つ)の展覧会がありますので、恐らく、見に行く事は無いでしょう。残念な気もしないではありませんが、だからと言って、優先順位を上げる積もりも無い。 その事を、将来の私に対して宣しておくのが、この記事の目的です。まあ、こんな記事を書いている間に、私の記憶には否応なく刻みつけられる事でしょうけど。それでも、後から振り返って、「何で行っておかなかったんだろう?」とか「知らずに済ませてしまった」とかって思う(綺麗さっぱり忘れてしまうと、そういう事が起きる)のは、避けたいと思った、て事。 私がフェルメールの絵で、現在「見ておきたい」と考える絵は、2つです。一つは「真珠の耳飾りの少女」、もう一つは「デルフトの眺望」。それに追加すれば「小路」。では、その2〜3品と他の絵が、どう違うか? 「デルフトの眺望」、「小路」は、風景画。フェルメールの風景画は、この2点しかありません。当時、この当時、風景画はまだ他の分野(物語絵など)より下に見られる傾向があったとも聞きます。そんな中、特に「デルフトの眺望」は、決して少なくない労力を、フェルメールの故郷、そして生涯のほとんどを過ごしたデルフトの朝の風景に費やし、書き込んでいる。何か、フェルメールの内面からの欲求を感じます。まあ、この絵は、プルーストの「失われた時を求めて」での言及で更に有名になちゃってる面も大きいのですが。 そして、「真珠の耳飾りの少女」(青いターバンの少女)。この絵は、フェルメールの他の肖像画=人物画とは、全く異なる点があります。それは、人物の周囲に一切のものが置かれず、無地になっている事。その事によって、一瞬の光景を切り取った様な感じを与え、人物そのものに焦点が合う事になります。 「真珠の耳飾りの少女」以外では、背景や周囲に色々なものが描かれ、それが人物の置かれた環境、条件、局面を説明する事になります。それは、絵の中に状況を閉じ籠めたものとなり、必然的に絵を見るものに、絵の中の時間をゆっくりと流れた日常の一コマと感じさせる事になります。ゆっりと流れている時間を感じさせる。 そして、周囲や背景に描かれたものが時代を色濃く映し込んでいるが為に、風俗画として、当時の生活が判る、なんて面もあります。けれど…そんな物語性が、私には面倒くさい点もある。肖像画=人物画は、当時の富裕な商人の注文が依頼して書かれた絵であり、宮廷画家の絵とは異なりますが、やはり、その尾っぽは引きずっている。色んな象徴をちりばめ、状況を勘案して見てやる絵…てのが、私には面倒くさい。それだけです。だから、今年2012年、フェルメールの絵は「真珠の耳飾りの少女」以外、見に行かない、って決めたのです(時間や金銭に余裕があれば、行く可能性、まだあるけどw)。 勿論、そんな時間の流れが心地よい、って人もいるでしょう。それはそれで構わない。私だって、そういう気分になる(ある)時はある。私は万人に適用出来る美の基準なんてものがあるとは思っていません。それは、「芸術分野に関しては」、「いつでも」成り立つ様な基準の存在も信じていない、って事でもあります。そもそも、芸術は「美」を求めるものである、とも考えていない。だから、美術品をランク付けしようとも思いません(自分の中では、しっかりとランク付けしちゃうけどw)し、他の人からの評価も、どうでもいい事。他の人の評価で楽しいのは、自分と異なった価値をそこに見出している場合だけ、って事は多いものです。自分と同じ感じ方だったら、「わざわざ今更」って思うだけだし(小林秀雄とか美術評論家が私から、この評価を受けずに済まされているのは、私より年長だから、って面が大きい。先に私が見て同じ様に感じていたら、やはり「わざわざ今更」になっちまう可能性が高い)、貶している評価は、何も読む価値が無い場合が多い。だから、実は、この記事自体も「他人様」が読んで、何かを得る事の出来る様なもんじゃない道理。単に、将来の私と現在の私との対話が成り立つか、否か、って云う、あやうい可能性に賭けて、書いてるに過ぎないもの。 私は、状況を一瞬に閉じ籠めた様な、純度の高い作品が好き、って面があるのかも知れません。この好みは、私が音楽の、歌詞付きの曲を聞く際にはあらわです。色んな感情が実際には存在するものですが、そんな中、ある場面、ある刹那に現れる純度の高い感情で貫徹したものが好き。現実は、色んな感情が現れるものであって、その曲が終われば、また別の感情、別の曲が流れて来る事になる訳ですが、その曲の間は、一貫したもので貫いて欲しい、なんて思っていて、それが私の好き嫌い。 かつて、小椋佳が「飛べない蝙蝠」のシリーズの最も有名な一曲の最後に、曲の出来たときから30年近く経って漢文調の、回顧をしての感慨を付けた事がありますが、私は「要らない事」だったと感じています。そんなものは、聞いていれば、各人の方で感じるもの。敢えて、歌詞の中に付加する必要は感じません。まあ、別の曲なんだ、と思って聞けばいい事かも知れませんが。 フェルメールの絵は写実主義ではあります。そして、ホキ美術館の中にもフェルメールへのオマージュの様に書かれた絵ってあります。そうしたものは見に行ってるのに、フェルメールご本尊は見に行かないのか?って訊かれそうですが、ホキ美術館は、そんな絵ばかりではありません。フェルメールへのオマージュ、なんてものは、作家さんにとってはそうでも、私はいささか軽蔑の念も覚えながら見ているのです。わざわざヨーロッパ調の古色の調度品で周りを囲んで、今の日本で描く事の意味を問いたい。フェルメールは懐古趣味で書いたのでないからこそ、そこに当時の風俗が宿っているのですから。 「真珠の耳飾りの少女」を見て、それで更にフェルメールを見たい、と思う様だったら、そこから私のフェルメールへの旅を始める事にしましょう。もともと、この世の全ての作品を見る事が出来る訳ではないのです。自分の中での欲求と物語、自分の中での成長と共に出会ったときしか、まともな鑑賞は出来ないものだ、と、私は当初から諦めています。絵を見るより、アイドルのVやAVを見る方がよほど強く感情を動かされる事もあるのだ、と考えていますから。また、そんな「見る」事からの感動が全てでもないでしょう。耳からの感動もあれば、物語やドキュメンタリーの様なものからの感動もある。そんな中、私は今回、敢えて上の様な決定(その局面での決断)をしたに過ぎません。 他の人が他の決定をしても、それは、その人の決定。まあ、私が小学生の親だったら、子供が嫌がっても敢えて連れて行ったかも知れません(たとえ、自分が大した興味は無くとも)が、そんな存在も私には、いませんから。よくお金持ちの親の中に「子供の頃から本物を見る目を養わせたい」とか要って、高価な時計や宝飾類を周りに置く親がいます(そうやって育ったドラ息子、ドラ娘は、数多く見ました。子育ての失敗でしょう)が、そんな事をするくらいなら、こうした展覧会に数多く連れ出した方がマシ、って思います。 それにしても「見に行かない」事で弁明書のごとく記事を残しておかなければならない気にさせる画家って…難儀な事(笑)。そう言えば、今年2012年の東京では、確かレオナルド・ダ・ヴィンチの世界初公開なんてのもあった様な…。
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