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大口をたたくねずみ男、捕えて吐かせりゃ小心者。
「みーんなあっしがやりました。つい出来心で・・・。あっ、でも部長は接待費ちょろまかしてますし、課長は業者からリベートもらってますし、ケイコちゃんは会社のトイレットペーパーを自宅に持ち帰ってますし、ヨウコちゃんは会社で出す、お客さん用の高いお茶と、自分とこからもってきた安いお茶と交換してました。他にも・・・・」
黙らせろ!
密教系の天台宗や真言宗、さらには修験道の厳しい修行などを行っていると、突如不可思議な幻想世界が見えてくるそうであります。
禅などにおける座禅修行中にも、このような「魔境」と呼ばれる世界が現れるそうであります。
人によっては、お釈迦さまや、阿弥陀如来、観世音菩薩が目の前に現れ、
汝は特に選ばれし者。人の世の救世主たれ!
なーんて言われるらしいです。
この他、宇宙霊(?)なるものとの渾然一体化した恍惚感を味わったり、自分に特別な才能がついたように思うとかするそうであります。
これは既に釈迦の時代にも知られた現象であり、釈迦自身もその修行中に絶世の美女(実際は悪魔の娘)に、これでもか、これでもかという究極の手管をして誘惑されております。
あっしなど煩悩の権化のような男だと、簡単に魂を取られるでしょうねえ。
で、さらに「あのさ、あっしの知ってる店で働かない?絶対にNO1になれるって。あんたらなら月収三百万も夢じゃないって」などと言うかもしれない。
悪魔の娘をたぶらかすなんて、おめー、いっそ悪魔よりワルだな!
などと、悪魔に感心される。
いや、照れるなー。
と、しかしそこは釈迦です。
「サタンよ退け!」
なんてねー。あれ・・・?これって、イエスでしたっけ?
かつて、アメリカの心理学者が、自ら禅修行しこのような体験に到達するも、LSDを用いた時の体験と極めてよく似ていることから、「lSDで悟りが開ける!」という「インスタント禅」(?)なるものも流行したそうであります。
結果は、ただの麻薬中毒患者を増やしただけだったとか。
天理教の教祖たる女性もこのような特異体験をして開祖者となっておりますし、こういう体験に基づいて宗教を始めた方も少なくありません。
無論、その気になれば誰にだって生じる体験らしいですが、これをして宗教を起こすというのは、さらに強いカリスマ性、パラノイア(狂信)的な行動力も必要とされるようです。(最近は膨大な金もいるみたいです。お布施で賄えるみたいですが・・・)
それがない、ごく平凡な、いっそ良心的な方々は自称「霊能者」なんてーのになるらしい。
罪のない「恋占い」なんかで生計を立てる人もいるんでしょう。
しかし、この魔境において悪魔と契約を交わしますと、
「うーん、お宅は風水的に呪われてますねえ。鬼門の方向にトイレがある。しかし、ご安心を。この、ありがたい、ねずみ真理教のお札を張っておけば大丈夫!」
なーんて、クソ高いお札や壺、印鑑なんかを売りつけたりもします。
さて「幽霊の正体見たり」というのは、つまり我々人間の心理現象に対する深い洞察ともいうことができると思います。「疑心暗鬼」という言葉も同じで、要はそういうものは我々自身が作り出したものではないか、ということであります。
先の「魔境」とされる、人によっては「崇高な宗教的体験」もまた、実は我々の頭の中、つまり脳の中に生じていることであります。最新の脳科学は、脳内における麻薬のような化学物質が影響を与えることを突き止めております。無論、中には、
私の体験は霊能体験であって、科学を超越したものだ
と言う方もいるでしょう。
しかし、ここで議論したってはじまりません。というか、そもそも理解しえないことを議論したって意味がないでしょう。
「神は存在する」というクリスチャンの方に、難くせ付けたって、平行線をたどるだけです。
こういう方々の世界観は「彼らが言うところの神」が存在することを前提としたものなのですから、「神は存在しない」ということを、こちらが証明しない限り無理です。
霊(霊魂)の場合も同じでしょう。
ただし、あえて言えば、
我々自身の感覚、自覚はあまり信用できたものではない
ということが大事だと思います。
心理学でいう「錯覚、錯視」という現象は、我々の知覚というものが、当てにならないものだということを示しております。フロイトは我々が行う無意識の心理作用を説明しております。
「見ているようで、見ていない」し、逆に「見ていないようで、見ている」ということもあります。
記憶というものも、これがまたいい加減なもので、無意識に他人のものを自分のものとしたり、作ったり作り変えてしまったりすることもあるらしいです。
「お前がやったんだろ。早く吐いて楽になっちまえや!」
なんて言われたら、どこかのアホウのごとく、適当な作り話をして同僚を慌てさせるでしょう。
他人の過去を巧妙に作るのは、確かにおもしろいですし。
「ここだけの話だけどさー。実は・・・・」(嫌な野郎ですねえ)
はっきり言って、自身の不可思議な体験なんかをあんまり鵜呑みにしない方がいいようです。
当然のことながら、他人のそういうものなんか、もっと信用しない方がいい。
デカルトは「我思う。ゆえに我あり」と言いましたが、もしその時、デカルトが死んでいて、霊だったらどーなのか?主体的な意思を持った霊が自問したって、肉体的には存在しえないはずでしょう。
(※生きている者と霊では存在する次元が異なる、と言えばそれまでですが・・・)
逆に、この見方、認識の方法を変えることもできます。
「お盆に祖先の霊が帰ってくる」、「亡くなったあの人が草葉の陰で喜んでおります」、「守護霊や先祖の霊が守ってくれる」という場合です。
この立場は、先の「幽霊の正体見たり」といった否定的立場ではなく、むしろ肯定の立場であります。ただし、全面的な「霊存在の肯定論」とも言い難いような気がします。
むしろ、
そうあって欲しいという、我々自身の期待や願望
ではないかと思います。
実際に「在る」という立場と「在って欲しいという願望」は微妙に違います。
カール・ブッセの「山の彼方の空遠く、幸あると人の言う」という詩ではありませんが、「幸福」というものは「ある」とみな思うのですが、それは簡単に手に入るものとは思っていない。
民俗学者、柳田国男の説いた祖先観は、死者は「先祖の霊」として近くの山などにとどまり、子孫の行く末を見守っている、というものでありました。
これは「民俗学」という学問を超え、むしろ柳田個人の願望だと思われます。
して、その願望はあくまで柳田を筆頭に、彼の思想に共感する人々に、時間を超えて共有されるものでしょう。さらに言えば、「先祖として子孫の行く末を見守る」というのは、
= 実際にそうである、というよりも、そう思う人々の内にこそ在るもの =
のではないかと思われます。
死して、実際にそうなっているかどうかを誰も知り得ません。
残念ながら「実際にそうなっていたよ」と柳田の霊が出てきて、教えてくれたわけでもありません。
しかし、別にかまわないと思います。
そもそも、そういう思いは生きている者にこそ共有されているイメージで十分ではないのか、と。
「ご先祖様が我々を見守っていてくれるのだよ」
と思っていればいいじゃないですか。
実際にそうではないとしても
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冗談じゃないよ。霊が存在しないなんてなったら、占いやってる我々の商売が成り立たないじゃないか。
そーなんですよ。前世占いも否定されちゃ、こちとら商売あがったりだ。
言えてる。あのねー、うちの神社はおみくじと祈願で成り立ってるんですからねー。
悪霊はおります。こんなこという、ねずみ男こそ悪霊です!それも、かなり悪質です。あたしが退散させます。ただし、悪質だけに料金は高いです。
あのねえ、あのねずみ男はねえ、踏み絵を踏んじまった転びバテレンでねえ。悪魔が乗り移っているんですよ。ああいうにはねえ、いっそ相手にしない方が賢明ですよ。シカトしましょうよ。
− シカトされ、無視されてもヨタ話 −
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