gum.

電気座敷、その破れ障子から覗くやけに着飾ったずべら坊

月が見えるよ

中百舌鳥駅と口に出すたび脳内ではモズライトを思い浮かべていた。音声は瀬川英子で発声されていて、きっといつかこの駅のことをふいに思い出すことになったならそんな馬鹿みたいな思い出し方をするのだろうなと予感して、時計を見ると正午を少しまわったところだった。なかもず。早贄の、鳥だっけ。

三年ぶり二度目、と書くと甲子園出場校の説明めいてしまうが、つまりは一度だけ出会ったことのある女性と手を振り別れて、三年ぶりに再会してもう一度別れたというだけの話だ。それだけの話だが、果たして別れよりも大切なものがあるのだろうか。とかそんなどうでもいい解釈を与える気すらおきない。

動物園と植物園と美術館の中心にある貧困と生活と暮らしが剥き出しの橋の路傍に腰掛けて二人で酒を飲んでいた。話すことなど何ひとつなかったが、何も話すことがないからこそ何だって話せるような気がした。小汚い日雇い労働風情のおっちゃんが自転車をのろのろとこぎながら私たちの目の前を通りしな唐突に停止して路傍に咲いていた花に、花よ、お前も一生懸命生きてるな、と大きな声で語りかけた。私は私の勝手な解釈で少し泣きそうになってしまい、茶化す気も教訓を引き出す気も美談に昇華する気もしなくてしばらく沈黙していたが、人には人に干渉する権利はないと思う、と彼女が静かに言ってくれたので、私はこの人のことが好きだなと思った。

新今宮駅までの長い道を歩きながら、月が見えるよ、と言って彼女は薄暮の空を指差したが、いくら探しても私には月が見つけられなかった。月が見えるよ。どこですか。そんなことをまた、春になると思い出すのだろうか。

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秋みてえに

歩道橋の上から秋雨のパノプティコン、狂ったアスペクト比の街並みの、球体生成ツールに入力されたあなただけの数値、狂ってもいいよちゃんと見ててあげる、あなたのあなた性、雨と退屈、なんかのさなぎが風に揺れている。

ジャカジャカジャンケンの曲に合わせて井森美幸のダンスを踊る。今後なんらかのオーディションに参加する機会があれば披露するにやぶさかではないけれど、練習を重ねるうちになにかが失われてゆくことを実感する。逆説的に未完成だからこそ持ち得たなにかがあって、それは本来必要のないものであるし早々に唾棄すべきものであるが、私として完成品よりもそれが魅力的に映るのはより誤読的だからである、と考えて結局一度もジャンケンをしなかった。

自己PR10000字に書かれなかった数限りないあれやこれやがあったとして、沈黙はときになにかを饒舌に語ってしまう。気がつくと無職になってから二ヶ月が経っていて、知らぬ間に金も底を尽きていて、あまつさえ食い詰めていて、あろうことか先週から仕事を始めていた。最早苛立ちは遠く悲しみは薄れ、漠然とした超越性に於いてのみ一抹の期待を浮かべるだけで、本も読まず、ものを考えるということもせず、優しく殺してください、すごくすごく優しく、それはもう優しく、と祈るように踊っていた。ちっとも狂うことなんて出来なかったが、安易な自己憐憫だけは赦さなかった。だってこれは、罰であるべきだから。

会いたい人が何人かいて会わなければならない人は一人もいない。私たちは出会った人の中から任意で取捨しているに過ぎないのに、まるで秋みてえに生きながらノスタルジーに葬られ、動物の兄弟のようにただ折り重なって触れあって眠ることができればいいのにね。もしもあなたとジャンケンをすることがあれば私は迷わずチョキを出します。それはもう、鋭利で狂ったやつを。

などと意味不明な供述を繰り返しており、警察は余罪があるものとして捜査を続けております。

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まず、私事であるが七月いっぱいで失職することが確定した。
まあそんなことはどうでもよくて今回は書評である。しばらく活字から遠ざかり、みんな死ねばいいのになあ、と腐敗していたのだからはっきりいって鈍磨している。なので先に言っておくがこれから紹介する二冊の小説はみなさん、是非実際に読んでほしい。というかもうここから先の文章は読まなくていいからとにかく読んだ方がよい。早く鋭く貫かれてほしい。
そして関係者各位へ、更新が遅れたことをここに深くお詫び申し上げます。ごめんなさい。


○『鮨・きゅうり夫人』深城巧祐 文学結社 猫

■ごぜんぜうなユーモアと不条理

テレビを点けると毎日、なにかしら凄惨な殺人事件や不運な交通事故などが垂れ流されていて、そのたびに私たちはどこか遠い世界の見も知らぬ他者に起こった悲劇に救われる。ああ、自分ではなくて良かった、と安堵する。

しかし裏返せば通り魔に刺し殺されたのがあなたでもおかしくはなかったし、津波に流されたのが私でもおかしくはなかった。たまたま私もあなたも生きているけれど、どうやら世界には塵ひとつ理由が見当たらない。無常だなあ。無常。でもそんなことを考えていたらクライアントの信用を失うので、あんまり考えないことが生きる秘訣らしかった。

小平がある朝目覚めると、辺りがまったく不条理なものになっていた。世界はそもそも不条理なのに? 違う。いや違わないというか、私たちが生きる社会は不条理を排除するように設計されたものだ。あなた達の日常は、予測可能であまりに出来事に欠けているはずだ。なにも起こらないのだ。意味と理由の蓄積が社会なのだ。だってあなたは決して幸福ではないにしても、絶望もしていないじゃないか。私たちは本来、剥き出しの世界において、人を殺すのにいちいち理由を必要としないが、社会的には人殺しにもなにがしかの理由というものが必要だ。日常的な、あまりに日常的な社会の中で時折、理由なき暴力や差別や死を通して垣間見る世界に私たちは戦慄する。そのようにして冒頭から小平の生活、暮らしに剥き出しの世界そのものが顕現する。それもユニークでごぜんぜうな。

■風刺という包装の中身

「甲虫においては工業製品の如く画一的で、まるで違いが分からない。どれもみな、同じ表情をしている。」

読み進めるとたちまち示唆的な一文が登場する。が、真に引くべきはここではない。例えば「虫を調理するときの描写がいいんよね」とか「明治から昭和にかけての文学まで振り戻して新たに始めようとする試みじゃね?」とか「鋳型に流された鉄のように、社会によって規定される我々、その馬鹿馬鹿しさを皮肉たっぷりに云々」というような語り方も出来うるだろうが、作品はそれを拒否している。徹底して理由が語られぬまま小平はただ不条理に身をまかせてゆく。

「太陽照りつく八月初旬の午後、店のカウンター上部に据え付けられたテレビがエラーでサヨナラ負けを喫した高校球児共の涙を映す。」

何気ない一文にふと立ち止まってしまう。それは夏のあまりにありふれた一日に過ぎなかった。高校球児共の涙と共に何かが絶対的に違っている日常が白昼夢のようにさえ思える。高校球児共は虫そのものであり、夏と共にしか生きることのできない儚さがあり、喪失に対する寂寥がある。そしてあやふやだった日常の戸羽口から、今まさに思考が始まらんとする契機ともなる一文であり、世界が剥き出しになっているだけで、基本的にはなにも起こらない。日常が続く。

現実世界における非日常ではなく、非現実世界における日常。彼方と此方。それを認識しているのは小平だけだ。思えば我々も、自宅と会社との往復に、ディスプレイ越しのコミュニケーションに、コンビニの乱立、ネットショッピングの普及、人と接することなく生きてゆける便利な便利なこの社会に、なにも起こらない日常の連続に、時折ふと、リアリティを喪ってしまう。そうして非現実的な虚構にむしろ仮託すべきリアリティを感じ、救われる。この転倒の中で小平は尚も抗わない。不条理に蹂躙され続ける。非現実世界に順応しようと試みる。そして来し方を振り返ってみる。何のことはない、彼方も此方も虫や高校球児共と同じように大して変わりはなかった。くだらない現実から脱却することなどそうそう出来ぬという絶望を、静かに受け入れた。

■言葉の用法と用量

例えば言葉とはつまるところ、不条理を受け入れ、定着させ、沁み込ませる装置であると定義してみたくなる。何故なら我々の人生はあらゆる悲しみや痛みや別れや断絶を通過することなく成立し得ないはずで、その時言葉がなければ我々は何によって救われるだろう。また、もしもあなたがそのような火急なる現実の前で絶句するとき、その沈黙こそが言葉であるとも言ってみたい。世界の露出、その言葉以前の不条理を受け入れることが言葉のひとつの役目である。だからこそ世界は不条理である、ということが救いになるのである。


『猫木国学は穿った虎』
http://nekoki.jugem.jp/





○『菌』山本清風 文学結社 猫

■「山本清風の影響…?どうですかね。エヴァンゲリオンの影響は確かに受けましたけど(キリッ」


そのように隠匿してしまうほど影響を受けている。ともかく真似た。著作権におおらかな時代であったのと、氏がめっちゃいい人だったので事なきを得た。未だ血の吹き出す傷口を晒しておこう。

さて、語弊を恐れずいえば手垢の付いたテーマである。

青年が見えざる何かと葛藤し、煩悶し、他者を傷つけ、誰にも理解されないと嘯き、結句、あらゆるものを喪失してゆく。引き返せないところまで堕ちてゆく。何かを喪失したとき初めてそれがかつて自分の所有だったことに気付く。その痛みを通過せずに認識は成立しない。言葉も同様で、書かれた瞬間、発せられた瞬間に、それは自身の所有物ですらなくなる。書き手は常に物語を創出し、同時に手離している。しかし『菌』には喪失が描かれない。姉の喪失は決定的だったろうか。否、初めから自己の所有ではないと気づいただけだ。言い換えれば喪失の喪失。それは不在だ。

■不在の所在

何処にも居場所がなかった。金もなかった。自室ですら常に大家に脅かされ、そしてそこは"外"のようなものだった。何処にも居場所がないので何処にも留まらない。閑に堕ちてゆくこともできず、また騒々しい思考が始まる。立ち止まるために歩き続ける。

メンタルという言葉は、自身の精神すらも対象化せんとする試みだ。フォームの改善という行為は、自身の肉体すらも論理によって制御せんとする試みだ。自意識とは自己の中の他者の視線であり、そこには自意識を意識する更なる自意識、メタ自意識というものがあり、私はそれが苦しい。現代人は皆さま苦しんでいらっしゃる。全編に渡り一人称の思弁で書かれているが、これは著者の作品全般に云えることだが、時折人称が"ブレ"る。私、俺、僕。単に混乱の表現ではない。私が思考していることを意識してしまうのが俺は嫌でありその「俺は嫌だ」と意識してしまうことが僕は苦しい。人称が定まらぬとき、一体何が自己を強制するのか。考えてみるとそもそも私自身が不在だった。これ以上筋を追うのは止そう。

■ラノベとエロゲー意外に残されていた文学

手垢の付いていない真に新しいテーマなどあるはずがない。エヴァンゲリオンは破壊的創造であったと思う。あらゆる枠組みをぶち壊し、新しいものを造り上げた。「菌」を読んで真っ先に浮かんだのは「まごころを君に」と「まどか☆マギカ」だった。まどか☆マギカはエヴァンゲリオンに対する解答でしかなかったが、限りなく満点に近い解答だったように思う。過去の作品をリソースとした新たな解釈。MAD。もはやアニメーションや漫画やゲームやインターネットを日常から切り離すことなどアンリアルでしかなく、それらにしか見るべきものがないというのは事実だ。"素材"という概念によって共有されるイメージの配列・組合せで、空隙を浮き彫りにする。言葉と同じことではないか。文学はまず、今まで排除してきたそれら一切を直視することから始めなければならない。

■我々は誤読することしかできない

埴谷がプルーストを引き合いに出してこう言っている。日本には思索性がない。桜がはらりと散ったとは書くがその桜の花弁の落下の仕方、散らずに残った花弁の落ちそうで落ちないしがみついて耐えている感じ、そういう細部が書かれていない。だから日本の小説はだめだ。

つまり描写とはなんぞや。目で見たもの或いは想像したものを過不足なく書く。言葉の定義上「過不足なく書く」ということは不可能だけれども、そこに向かって書くという行為は、目で見たものの外面をなぞり、大きさや形を伝えるには向くのだろうが、書いてしまうことによって書かれていないものがあるような気がする。

例えばミスをした時にどう謝るか。
いいわけをしてみる。するといいわけをするなと怒られるので、いいわけはしません、と前置きしてみる。するとそれ自体がいいわけになる。だからただごめんなさいと言ってみる。すると今度は謝意が感じられないと捉えられる。じゃあもういいやと開き直って沈黙する。沈黙すらもメタメッセージになる。不思議である。

だからそもそも言葉は届かない。或いは届きすぎる。それでも尚も諦めないか、端から諦めているか。つまり過不足なく書く必要は全くないのだし、言葉によって言葉以前を書くなんぞというフレーズのもと書かれた作品は結果として言葉の限界を提示してきただけであって、そもそも何かを伝えようとすることはなんておこがましいのだろう。伝えるというのは意思の共有を目的としておらず、意思の強要や強制を目的としているはずだ。しかし言葉が或る正しさをもって伝わるということは絶対にないはずで、読み手は誤読することしかできない。小説や言葉自体に価値はなく、どう読むかということが価値を形成する。書かれない、或いは書き漏らす、ということによってメタ的に伝わる作用。桜がはらりと散った。ふむ、描写なぞ必要なかったのである。私なんぞはその投擲された試みが美しい放物線を描き遥まで飛んでゆくのをただ、唖然と眺めていた。

『山本清風のリハビログ』
http://ameblo.jp/rehabilog/


■二作品を読んで

悲壮を真面目に書く。というのがどうやら一般に云う文学というものらしいのだけれど、二作品とも不真面目に書かれていたのでとっても面白かった。こと文学において面白いとか楽しいは蔑ろにされているけれど、私は二番目かひょっとすると一番目くらいに重要だと思う。だって十年前の芥川賞作家の名前が言えるかい? 今どこでなにをしているか言えるかい? 言えないだろう? つまりそういうことなんだよ。いつだって文学は中心にない。二作品とも絶賛発売中である。

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まるで時流に棹さすように書き出せば、インターネット上に寂しいと呟くあなたの孤独は、そう呟いた瞬間にきっと誰かに届いてしまうのだろうが、それは癒されたふりをして尚も、誰にも認められず、理解されず、身じろぎもせずただじっと蹲っている決して届くことのない言葉としてあなたの裡に澱となっているのであり、そこから目を逸らし決して見つめない、という姿勢の根幹には、繋がることによってのみ現出する距離の遠さ、その遠近によって規定される世界の中でしか息をすることの出来ない貧しい、あまりに幼稚で
あまりに貧しい言葉が無限に増殖しているはずで、それはもう誰にも止められない大きな流れなのであった。

生きる意味は何か、という問に対して、生きることには何の意味もない、という解答は誤りであって、なぜなら生きる意味は何かという問そのものが成立しないからである。

「どうして君は僕を見つめるんだい?」
「だって私はあなたを見つめているんだもの」

世界とは、世界である。生きることとは、生きることである。別れとは、別れである。ゴダール的な断言命題は、世界のある構造を尚も見つめ続ける絶えざる不断の態度であり、その態度によってしか始めることが出来ないのではないだろうか。

繋がることに迫られている。疑うべきだろう。刺し違えてでも殺してやる、血の吹き出すようにあなたの中で渦巻いていた怒りも、きっと誰かに届いてしまうように呟かれた途端、あなたの心は軽くなり、あなたは癒されたふりをして、また性懲りもなく痛みたがるのだろう。鬼の首を捕ったように主張される正統性も、言葉尻だけを捉えた揚げ足とりも、妬み嫉み僻みに満ちたあなたよりステージが高いとあなたが仮定した仮想敵に対する執拗で陰湿な攻撃も、見るべきものはひとつもない。

もう、あなたは馬鹿馬鹿しさにしか救われない。アニメーションのキャラクターに歌わせたポップスの構造的馬鹿馬鹿しさにしか、そこらにいそうな顔面の女子を寄せ集めたアイドルグループの商法の馬鹿馬鹿しさにしか、どうでもよいネタをいつまでもいつまでもいぢくり倒すその連帯の馬鹿馬鹿しさにしか。

馬鹿馬鹿しいというエクスキューズがなければ直視出来ない貧しさによって、今日もあなたは半笑いのまま馬鹿馬鹿しい、と呟く。寂しいと呟く。死ねと呟く。それは癒されたふりをして尚も、誰にも認められず、理解されず、身じろぎもせずただじっと蹲っている決して届くことのない言葉からの遁走であったが、あなたは何処にも行けないのだった。

あなたは静かに絶望しているべきなのだ。

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茨城をエアロガが襲ったまさにその瞬間、私は思いの外ごろごろしていた。

深更に降りだした雨が屋根を強くドラムンベースしているのを寝床で聴きながら、天気予報の云うには、ちょっとただごとではない大雨、とのことで、永くなるのだろうか、と明けてみればどこ吹く風、申し訳程度に出涸らしみたいな雨がぱらと降ったぎり、なんとも不全な感じで、ナイフを突き刺したくなるような厚い鈍色の雲が張りだし、黒々としたアスファルトが生々しさを残して、ただ風だけは中型犬をもってゆく強度で吹き続けている。風よ、なぜ吹くの。

そんなことよりコーヒーメーカーのいいやつはかなりいいのだという。廉価なものよりも高価なものの方がかなりいいのだという。というようなことをごろごろしながらグーグル先生に教えていただいて、ほっすぃー、コーヒーメーカーのいいやつほっすぃー、ともんどりうって財布を見ると一五〇〇円くらいしかない。一瞬で忘れ去って、スタバ行こ、と思い古井由吉を引っ掴んで外へ出ると、排水溝に桜の花弁がみっちり詰まっている。しかし五百円硬貨が財布にある時の安心感は異常である。

札幌駅の正面の歩道を母親が幼女の手を引き歩いている。ほら札幌駅だよ大きいね、と母親が幼女に語りかけると、幼女はひとこと「かわいい」と言った。かわいいってなんだよ。札幌駅見てかわいいって言う感性なんなの。と一人乱心していると、その日一番の強風が吹き付け、幼女の被っていたファンシーなキャラクターがプリントされた帽子を吹き飛ばした。そこらにいる衆愚は一様にその帽子を阿呆みたな顔で見ている。私はビーックビックビックビックカメラ、と呟いてヨドバシカメラに吸い込まれた。

ヨドバシカメラで色々のコーヒーメーカーを見る。ごろごろしながらほっすぃー、ともんどりうっていた私も、店を出る頃にはすっかり真顔で「欲しい」と言ってしまうまでになっていた。しかし良いものは高価なものであって、高価なものは高価であるので、硬貨では買えないのであって、つまり五百円硬貨は安心するから好きだけれど、要するに無理という段に至った。

店を出ると風はまた一段と強さを増したようだった。帽子を吹き飛ばされた幼女は何を思ったろうか、と考えながら歩く。どうしてわたしが。不条理を感じただろうか。ねえ、風はなぜ吹くの。そう母親に訊いただろうか。

気圧の差を是正するために風は吹く。つまり吹き止むために風は吹く。我々は立ち止まるために歩き、満たされるために欲望し、欲望するために欠乏を欲望する。スタバでコーヒーを飲み、古書店で退屈な小説を一冊購めた帰路、凄まじい向かい風で一向前に進まぬので私は機転を利かせ逆方向へ歩き出す。そうすると向かい風は追い風となってぐんぐん進むが、果たして家には帰れないのであり、家に帰るために歩いていたはずなのにまた札幌駅に戻って来てしまった。私とあなたの間にも風が吹いていますね。改めて見ると札幌駅はめっちゃかわいい。

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