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2010年3月4日

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<付録>昭和の巨大隕石の落下目撃、過疎地での珍しい自然現象やヘビの驚異的な能力、UFO目撃、ホタル大の発光飛行物体、異色生物・動物の目撃や捕獲

約50年前の私は定時性夜間高校に通学していたので、体育の時間は夕方の運動場でした。
いつものように運動場に出て担任が来るまでぶらぶらしている時、西の空に明るく光る星を見つけたつもりでしたが、その光が少し下がり気味になりながらどんどん大きく見えるようになり、それがやがて斜め上に見えた頃には真っ赤に焼けて光る塊が黒い煙を勢いよくなびかせながら猛烈な勢いで私たちの方向に近づきながらも下がり続け、やがて目の前を横切って西方向の瀬戸内海に向かって落下して行きました。

そんな巨大隕石の落下を目撃しているのに・・・その当時は単なる自然現象程度にしか思っていなかったので長い年月すっかり忘れていましたが(世間で騒がれた様子も無いことから)、それが昭和の「志度隕石」だったと知ったのは・・・私が過疎地で暮らすようになってからのことです。

そんな香川県の人間が阿波の山中で暮らし始めて満9年になり9月が来れば満10年になります。
その私の地所・境界線の隣に「船戸」神社があって、その大昔は「船の港」だったと言う伝説がありますが、私が思うには山の上の港だから神代の時代の宇宙船の港、神が降り立つ港だったのではと思いを巡らしています。

そこで見た・・・二度と見れることが出来ないような非常に珍しいことや摩訶不思議な現象・異次元現象を紹介すると・・・

先ず最初に見たのが「二重の虹」でしたが、それも山間に浮かび上がったこじんまりとした小さな虹でした。
上側の虹がハッキリしていてその直ぐ下にぼやけた感じで二重になっていて、その二重の虹の下の半楕円形の景色もわずかに霞んでボケた風景に映っていました。

次にソ連の人工衛星が地球に落下する間際は肉眼でも見えるくらい地球に近いのか・・・その人工衛星(スプートニク)らしき物体が夕日に反射されて光っていたので見えたのですが、その物体が水平に移動する軌道を長い時間ハッキリと見えました。
その後にソ連の人工衛星が落下したニュースを知りました。

ラグビーボールと同じ形と大きさの黒いUFOが山肌すれすれに飛来し、その後も飛行を続けるのをしばらく目撃できました。
そのUFOを見る直前のことですが・・・小型のジェット推進音が近づいてくるので不思議に思い(自宅裏の)ヒノキ林の隙間から上空を見たときにちょうど小さな黒い物体が通り過ぎるところでした。  だから高度はヒノキ林の真上ぐらいだから15メートルから20メートル程度です。
その黒い物体・UFOが見え隠れする方向に目線で追いかけると直ぐ下の見晴らしのよい広い畑の真上に出たので視界が広がったのですが(今度は推進音が消えて)無音で滑空していました。 しかもその先には高圧送電線の鉄塔が立っていますが、その鉄塔から垂れ下がっている送電線とその下に生い茂る立ち木の僅かな間をすべるように潜り抜け、しかもその先に立ちはだかる山肌を避けながら飛行して前方の山間・谷間に入り見えなくなりました。

その1年後あたりにまた同じ近くの場所でしたが、今度は馬鹿でかい推進音(急降下爆撃音に近い音)が聞こえてきたかと思うとそのままの勢いで突撃態勢のように現われたのが・・・色合いや形が古臭い戦闘機・ゼロ戦に近いが、ゼロ戦よりも胴体が細長い単発プロペラ飛行機でした。
民間や自衛隊の飛行機とは見た目に古臭くて違うし、その飛行先の山頂を越えれば河川敷に降り立つハングライダーが飛び交っているのに、その山頂すれすれに突撃・爆撃態勢で低空飛行を続けて飛び去りるような常識はずれの無茶は出来ません。

異色の動物としては・・・
昼間でしかも目の前で光に輝くような金色の毛並みをした大タヌキが突然現われたこともあります。
・・・野生のタヌキは泥色をしていて小柄で痩せて細長いのに金色の毛で丸々とした大タヌキでした。
金色と言えば、ハムスターに見間違えるような金色の毛並みのネズミが自宅の(ゴミ置き場の)罠(チャン)に挟まれて死んでいました。
・・・珍しいとは思いながらも自宅に捕獲したタヌキがいたので餌としてやりました。
ネズミと言えば、粘着剤つきのネズミ捕りに生まれたての2匹のネズミと同時に、同じく黒っぽくて体毛は少なく鼻先・口先がとがった3・4cmほどの小型生物・・・たぶんモグラの生まれたて?・・・が捕まって死んでいました。

庭先に放置していた廃品のポリ洗面器に雨水が貯まって真冬の寒さで凍りついていたのですが、その洗面器が邪魔になったので取り壊すと、その中に蛙のお玉じゃくしが5匹ほど動いていました。
真冬のお玉じゃくしを見て不思議にも思えましたが、関心が薄かったので近くの草むらに捨てました。

地表の温度が下がっていない冬の昼間に・・・小粒に固まった雪の結晶(雹)が急に降り出して一気に1cm位積もりました。
そのあと直ぐに天気になり、その日差しがきつく感じるくらい気温が暖かくなりはじめました。
そうすると積もっていた雪が急速に溶けだして湯煙のように蒸気が立ち昇り、我が家周辺の雑木林や植林しているヒノキ林からもどんどん湯気が立ち昇り視界が5mくらいになり周辺全体が日差しに輝いた真っ白な明るい濃霧に包まれました。
その霧の中から空を見るとかすかに晴天の青さがにじんだように見えていました。
その霧に囲まれているときに・・・この霧が晴れたときに別世界になっているのではと・・・マジに思わせるような現象でした。
・・・小雪が降って濃霧になって晴れるまでの時間は30分くらいでしたが・・・よほどの気候や温度などの条件がそろわなければ二度と見られないでしょう・・・

昨年の秋(2009年)のことですが・・・4ヶ月の間にホタルのように光って飛ぶ生物・物体を夜中に6回見ました・・・夜中の立ち小便に出て・・・
川も流れていない山の上に季節外れのホタルが居る筈も無く、ましてクリスマスの飾りに使うツリー球に劣らないような光を放ち続けるホタルが居る筈も有りません。
最初の2回は(庭先の土手下)同じ場所で同じ光景でしたが、ホタルのように点滅をしないで光ったままゆっくりと流れるようにやや水平に5メートルほど飛んで生い茂る雑草の中で光が消えました。
3回目は飛び立つ場所は同じでしたが、今度はスピードがやや速く土手の上に浮かびあがってそのままに私の横を横切り、そのままの高さで雑草が生い茂る土手で止まって消えました。
4回目は夜中のパチンコ帰りでしたが、自宅より50メートル離れた車置き場の直ぐ横の山の斜面から光りながら飛び出してきて、今度はゆっくりした感覚で点滅を繰り返しながら車の上を通り抜けて下の竹薮(神社の上側)に消えました。
5回目は自宅横のヒノキ林の中で止まったまましばらく点滅を繰り返していました。
6回目は立小便している足元でいきなり光りだしてそのまま光り続けていたので、一旦その場を離れ直ぐ近くの野外テーブルの上に常時置いているライトを持って来た時はすでに消えていて、その場を照らしてみたが生物物体らしきものは何一つ見えませんでした。

坂出の知人が家族で山へ遊びに来たときに散歩がてら山野草を探していましたら、その知人が声を上げたので近くに行くと40・50センチの細長い褐色がかったヘビが大きなガマカエルの頭をくわえて飲み込み中でしたが、ヘビの胴体と頭が親指大ですがガマカエルの太さはヘビの頭の3倍以上もありましたから、どうやって飲み込むのかしばらく見ていましたがそれ以上進行することもなかったのであきらめて現場を離れました。

それと似たことがあったのが・・・裏庭のヒノキ林を網で囲ってその中に鶏を放し飼いにしていますが、元気の無い鶏をゲージに入れていたらヘビ・青大将が侵入してその鶏の頭と首を飲み込んでいたが、やはり大きな胴体部分で飲み込みが止まっていました。 そこでとっさにヘビを叩いて吐き出させたのですが・・・あとで思ったのですが、あのままに放置していれば全部を飲み込んで青大将が幻の「ツチノコ」みたいになっていたのではと・・・残念に思っています。

そして昨年(2009年)の夏場でしたが・・・60〜70cmの青大将が張り巡らしている網囲いを抜け出るのを遠目で見たので、穴でも開いているのかと現場に行くと何処にも穴が開いている様でもないので不思議に思っていました。
その数日後にその網目(1cm角)に首を突っ込んで抜け出せなくなっている青大将(胴回り4cm)が宙ぶらりんで引っかかっていました。
と言うのも、頭や胴回りを網目に合わせて細めて出入りできても、その時は鶏の卵を飲み込んでお腹が卵形に膨れていたから網目をすり抜けられなかったのです。
そしてヘビの皮は木登りが出来るようにウロコ状になっていますから網目に引っかかってもバックできないのです。
そこで今度はそのままにほっといてどうなるのか見届ける事にしました。
数日間は生きていましたが、それでも飲み込んだ卵が消化できなかったので逃げ出すことが出来ずに死にました。
それもそのままに放置していると夏場だけに直ぐに腐って、背骨に少し先が丸まった細くて短い骨格が所々連なったのと殻のままの卵とが一緒に地面に転がっていました。

これらの事を照明する証拠・映像はいっさいありませんが事実です。
・・・色んなことが数々起こるだけに前もって証拠写真などで記録に残したいという気持ちを持っていれば・・・これらを見る事は出来なかったと思っていますから・・・自然体だから起こる(見せてくれる)摩訶不思議なことに巡り会えるだけで十分に思っています。

そんな私ですが・・・もう一つ確信を持って(本家・本元)取り組んで実践していることがありますので紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/utyu21 「山田耕栄・あるがまま・ファバラ・完全真理・常温核融合」

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「19」牛乳ビンから紙パック牛乳へ、そしてアクアラング潜水とビデオが普及した時代

牛乳販売拡大は自由競争と思っていたら・・・米屋のときと同じように既存店から値段を下げて顧客を横取りしていると言われだしましたが、もうやりだしているからには仕方がないと思い、そんな陰口をあまり気にしないようにして、また過激に動かないで現状維持程度でかまわないと思っていたら・・・紙パック牛乳が新発売されたことから、それをメーカーから紹介されたスーパーに卸すことになり新たな商戦が生まれたのでそれに力を入れることにしました。

ちょうどその頃に「クストーのアクアラング」(圧縮空気ボンベを背負っての潜水道具)が発売されだしたので直ぐに飛びつき、その当時は指導者も教本も無い時でしたが、耳抜きさえすれば何とかなったので後は経験を積むだけでした。
その潜水の多くが昼間よりも海の獲物の寝込みを狙う・・・危険な「夜間潜水」が主流でした。
・・・この話は・・・8ミリフイルム水中カメラ、そしてビデオカメラ、そしてビデオ撮影とつながりますが・・・詳しくは次の機会にします。

パック牛乳の発売当初は・・・紙の臭いがする、牛乳はビン入りでなければと不評でしたが、私は軽くて割れない便利な紙パックに移行することを確信していたので、メーカーの支援を受けてスーパーでの特売に特売を重ねて店長からも期待されるようにもなり、やがてその紙パック牛乳の特売が目玉的存在になりました。

また長期航海の大型貨物船にも販路が広がり、また運動会でも売り出し、なにかと売り上げが増加しましたが、その分宅配が減っていくことにもなりました。 それでも競合店から文句が出ないだけにすっきりした気分で牛乳屋を続けていましたが、今度はスーパーにかかりつけになっている時間が長くなったことから家内の仕事が増えて文句が出るようになったのです。

しかも趣味で始めていたビデオ撮影が面白くなり業務用のカメラや編集機材をどんどん購入してプロカメラマンになっていたこともあって、その牛乳販売を親戚の甥に譲って本腰でビデオ業界に乗り出しました。
だから米屋と牛乳屋とビデオ撮影を同時にやっていた時代があったのです。

そして今では・・・自由気ままな過疎地での年金独り暮らしが9年目になります。
そんな私だから・・・昭和の時代を面白おかしくすごしてその時代を堪能してきたとも・・・言えます。

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「18」夜間高校時代の男女交際

当時の時代背景から言えば・・・悪ガキ・不良・愚連隊は悪い、そしてテストの成績よりも学生らしい勤勉「真面目」さが求められているような風潮(処女・童貞が言われる時代)でしたから・・・欠席気味の悪ガキ生徒以外の殆どの生徒は(男女とも)真面目・控え目でしたから、男女混合のホークダンスで手をつなぐことにも何かしら消極的でした。
だから、そんなに美人でなくても積極性が見える女生徒がマドンナ・あこがれの存在でした。

そこで・・・いつの世にもあることですが・・・同級生の友達に一級下の女生徒に交際申し込みの手紙を渡してくれるように頼まれて、その女生徒にさりげなく手渡しました。
そのラブレター作戦が成功しなかったのでその友達はあきらめたようです・・・ ところが一年後には私とその女生徒が会話することが多くなり、やがて下校時(夜間)に彼女の家まで送る関係になりました。

それでも私の性格が小心者でしたから会話が中心で手を握ったこともありません。
その小心者・引っ込み性格の原因にあるのが・・・私の右顔面麻痺と視力が片眼で少し斜視気味なことが潜在意識にあったからです。
それを正直に打ち明けたことから気まずい雰囲気が伝わり始め、やがて些細なことで言い合うようになり、それで彼女が怒って口も聞かない間柄になって終わりました。

その関係が終わった後・・・彼女と同じクラスの女生徒にアプローチされましたが・・・また失敗するのが不安で無視し続けました。
だから・・・結婚している家内にも未だに内緒にしていますが(斜視は社会人になるときに修正していますから目立ちません)・・・娘には話しているのでそのことはもう知っているかもしれません。

そこで付け加えますが・・・小中学校の運動会やマラソンなどで大きな怪我をしても、保健室に行って申告しなければ手当ても見過ごされる時代でした。 そして傷口に黴菌が入って大きく腫れていても余程でなければ親は平気な顔をしています(男児は特に)。
それは・・・腫れた部分から膿が出れば・・・やがて自然治癒することを親は知っているからです・・・たとえ病院に行っても、腫れた部分をメスで切って膿を出し、そして消毒して包帯を巻くのが治療でしたから・・・貴重品で高価だった抗生物質が投与されることはありませんでした。
だから、その傷跡が(ハゲとして)相当年数残ることもあります・・・だから大人になっても傷口が薄っすら残っていることもあります。

また風邪をこじらせて肺炎になってから親が慌てるような時代でした。
・・・今の時代とはかけ離れていたのです・・・それだけに抵抗力や治癒回復力があって今のご老体が元気なのです。

そんな時代背景ですから・・・医術の進歩で斜視を修正できることになっていても親は知りませんから(全ての親をさしたものではありません)(それと手術や入院費で高額ですから)私から勇気を出して自己申告しなければ親から見過ごされるのです。
だから私と同じ年代の男性が未だに斜視のままで、それを気にして目線をそらす人とご縁があったのが此れまでに4人います。 内二人は地元香川県ですが後の二人は見知らぬ県外の過疎地へ来て身近に巡り合った大事な人でした。

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「17」昭和のオートバイと厳格な交通取り締まり、自転車にエンジンを横付けしたバイクの登場

オートバイの免許を取得できる年齢に達したときに近所の漬物の製造販売をしている主人のオートバイで練習したことがありましたが、その頃のオートバイは大型で軍隊が使用しているのと同じ格好でしたから、乗り降りするときにバランスを崩して横倒しになると持ち上げるのに相当な力が必要でした。
そんなオートバイの練習を漬物屋さんの主人が付き添ってくれて広場でしていたのですが、私の片眼だけの視力では受験できないことが分かって断念しました。

その後片眼の視力でも受験できるようになったのは食品問屋に就職していたときでした。
早速社長にお願いして一日間の休暇をもらい受験したら一発で合格しました。
それからはその会社のオートバイ(山口・ベニー号・125cc)で大型の冷凍食品ボックスにいっぱい詰め込んで各学校の調理・給食室まで配達することが多くなりました。

その冷凍食品を配達しての帰り、傾斜がきつい長い山越えの坂道を登るときは(当時はエンジン出力が弱いオートバイでしたから)坂にさしかかる前に加速してなければスピードが急速に落ちることから誰もが加速して走ります。
それを知っている白バイが目立たない場所に隠れて、猛スピードーで走る獲物を追いかけて違反切符を切って成績を上げる、その獲物に私がなったこともあります。

その頃の交通取り締まりといえば・・・踏切の近くで潜むようにして見張り、停止位置の白線近くに正確に一旦停止して、オートバイなら片足が一旦地面に付かなければ違反になるという厳しい取締りでした。
だから方向指示器・ウインカーを忘れていたり、交差点や踏切の一旦停止の白線をタイヤが少し越えて止まっただけでも違反になり、しかも簡易裁判所に出頭して罰金が言い渡されるという仕組みでした。

その会社を退職してからは米の配達に125ccのオートバイを使用していましたが、55cc以下のオートバイが製造販売されるようになったのですが、今のカブ・スタイルではなくて、洗面器のようなカバーの付いたエンジンの回転動力にゴム製コマが付いていて、そのゴムコマを自転車の後輪タイヤの側面に押し付けただけの自転車型オートバイが大きな音を立てて走っていました。
・・・今で言えば草刈機のエンジンを自転車につけて走っているような物でした・・・

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「16」生き残っている小売店舗やスーパーストアーなどで紙パック製品(牛乳・飲料)の販売が始まりました。

食品問屋に就職して50ヶ月目に父親が胃がんの再発であの世に旅立ったので、急きょ自営業「配給所」を引き継ぐことになりましたが、もうその頃にはヤミ米が必要なくなり、米あまり現象が起きるようになっていました。
それでも「配給制度」は維持されていましたから、しばらくは「配給通帳」が発行されていました。

米屋の跡を継ぎ、そして何度かのお見合いの後今の妻と結婚したのですが・・・結婚前の交際期間中の二回目のデートがオートバイに相乗りして妻の実家から離れた海岸で投げ釣りをするという・・・デートでした。
当時の自家乗用車は金持ち・お偉いさん・お坊ちゃんの象徴でした・・・車一台で水田一反が買える時代でした。

その当時の配給所は統制・規制があるだけに販路拡大に動けば組合の会合で相手業者に睨まれていましたから、そこまでして商売を広げる気持ちが失せてたので、目新しい新規の商売を兼業にすればよいと思っていたら運良く「牛乳販売店」をやらないかとM牛乳営業マンが訪ねて来ました。 どうやら高松の米屋さんが牛乳販売をはじめて成功したので「柳の木の下のドジョウ」として二番目に目を付けられたようです。

しかし各家庭を一軒一軒回って顧客獲得の営業をするのは苦手でしたから自信が無かったのですが、顧客獲得の営業は新聞販売員のような制度があって、ベテランの拡売員が定期的に来てくれると言うので不安ながらも思い切って開業しましたが、屋根いっぱいの大きな看板が何故か恥ずかしかったのを覚えています。 メーカーから派遣された拡売員のお陰でどうにかやっていけるだけの顧客が付き、月初めの早朝から各家庭に牛乳配達をするようになりました。

しかしその時は自動車免許を持っていなかったのと、妻が近回りを自転車で配達していたこともあって妻が先に免許取得し中古の軽四を購入しました。
そして次に私が講習所に通いながらオートバイで配達していました。 そして時々無免許運転して配達することもしていましたが、運悪く特別警戒中の警官に止められましたが、車の中に牛乳を積んでいたので免許証を掲示する事無く・・・牛乳配達ですか、ご苦労さんと声をかけてくれただけでそのまま運転することが出来ました。
・・・その無免許運転の経験から一発で免許を取得できました。

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