シューマン「ゲノフェーファ」論
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写真)を会場にして開催されていた、ボン市立博物館のシューマン生誕200年記念の展示「ロベルト・シューマン」を雨のなか見に行った。(ちょうどこの短いドイツ滞在の到着の日、無事にボンの宿に着いたと自宅に電話すると、日本の旧知の恩師から自宅にシューマンの「ゲノフェーファ」のことで電話があったとわかり、すぐに電話をかけた。奇しくもシューマンの生誕200年の年にシューマン夫妻の墓所のある土地に、遠い極東から飛んで降り立った私に、そんな話が舞い込むとは不思議なものだと思った。)
話は展示にもどる。この展示の中で、そのシューマンのオペラ「ゲノフェーファ」のことが結構、取り上げられていた。ゲノフェーファのお話は、ベルギーの伝説「ブラバントのジュヌヴィエーヴのお話(Histoire de Genevieve de Brabant)」に遡る。昔の本の挿絵のような小さな絵にそんな、フランス語の題名が出ていた。シューマンが直接、参考にしたのは、ティークとヘッベルの書いたドイツ語のもので、そこから自ら台本も構成した。
エドゥアルド・ハンスリック(1825〜1904)は「オペラ作曲家としてのロベルト・シューマン」(1877年)という論評において、「ゲノフェーファ」初演のことを取り上げている。この論評全文も展示室にあった。ワーグナーを批判し、ブラームスらの絶対音楽派を支持したことで知られるハンスリックだが、この論評においては、ワーグナーの「タンホイザー」に見られるような劇場作品の作曲家としての並外れた才能を評価する一方、シューマンはそういった類の作品の作曲には適した作曲家ではないと明言している。しかし、このハンスリックの評をもってシューマン唯一のオペラ「ゲノフェーファ」の価値が決められるわけではない。見定めるのは、作品に今日対峙する我々である。
この論評の中でハンスリックは興味深い指摘をしている。少し抜粋してみると下記のような内容だ。
・計画されたオペラ題材の一山から、シューマンは上演にはもっとも非実際的なものを選んだのであった。「ゲノフェーファ」である。
・ドイツ・ロマン主義の全4要素がこの題材には入っている。
1.ドイツ中世の本質
2.キリスト教の敬虔さ
3.神秘的な奇跡
4.民謡を思わせるもの
・シューマンの内的な表現、主観的な情感は、登場人物のキャラクターを際立たせるのではなく、すべて同じシューマンの主観のプリズムによって色づけされている。
しかし、同時にハンスリックはシューマンの「タンホイザー」への感想を明記していて、それが興味深い。すなわち、「シューマンはその音楽を、たびたび、下賤だ、低俗だ、と感じたが、劇的なものの扱いをあたたかく褒めた。ちょうどこの2年後(1848年夏)にシューマンは<ゲノフェーファ>を完成させたのである。」と。このシューマンの発言から、シューマンの「ゲノフェーファ」の試みは、「タンホイザー」とは目指すところの違うものであったことは明らかである。その当時「タンホイザー」において誉めそやされたことは、シューマンの狙いではなかったから、シューマンの「ゲノフェーファ」にそういった特徴がないのはむしろ当然のことである。我々は、シューマンの本意のメッセージを「ゲノフェーファ」に読み取らなければならない。つまり、シューマンに言わせたならば、音楽が低俗にならない、ドイツ・ロマン派の舞台芸術作品を創ったのである。ドイツ・ロマン主義の舞台化、というべきところだろう。
ハンスリックはこの論評の最後に、シューマンについて「天才的な音の詩人ではあり得ても、舞台に関しては、書く術を持っていなかった」と結論づけている。しかし、現代からみれば、このときの「舞台」とは何なのか、そこを考える必要があろう。ワーグナーと同列でないから、酷評されて終わったのでは浮かばれない。その違いにこそ意義があったのである。
その魅力を理解するには、もうすこしズームアウトして広い視野でオペラ史、音楽史を概観する必要があるだろう。シューマンは、ドイツ・ロマン派の作曲家である。ベルカントでもない、ヴェリズモでもない、そしてワーグナーともかけ離れているこの舞台劇作品、すなわちオペラ「ゲノフェーファ」がこうして残されたことは、なんと貴重なことであることか。
「ゲノフェーファ」を15年くらい前にラジオで聞いたことがある。サヴァリッシュ指揮の外国の公演かCDだった。最近では、2008年にスイスのチューリヒ歌劇場でアーノンクール指揮、クセイ演出で上演されて、DVDも出ているようだ。日本での舞台化初演は2011年2月4日、東京室内歌劇場による公演(新国立劇場中劇場)と聞いている。あさってだ!!! |
