置塩城、攻略せり!
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の続編です。 田川神社という神社を越えて右へ曲がるはずなんですが、いつまでたっても出てこない。 大分走ったら線路が見えてきました。 もおおおおお!「振り出しに戻る」やないか! 近所で野焼きしてて、煙に巻かれて見落としたんでした。 日も傾いて、ちょっと休んで行きたいな、と思うぐらいのどかな風景でしたが、 今日は意地でもご先祖様の首級を挙げずんばあらず!また今度な! 赤松は太平記の頃の豪族。 南北朝が並立した時代なのであるいは一人ぐらい親王殿下を取り込んだか? この塚は後醍醐天皇第三皇子護良(もりなが)親王の御子陸良親王の塚と伝えられている。 親王は観応の擾乱に赤松則祐に奉じられて弥高山城(姫路市砥堀)から 伊勢山(香寺町犬飼)まで進軍、不幸病にかかり薨去されてこの地に葬られた。 陸良親王(別名赤松宮)は正平の一統(一三五一年)の尊い犠牲である。 塚により付近の地を親王塚垣内、略して親王垣内と言ったが、 明治以後は新野に改められた。しかし土地の人は今なおシンノーと呼んでいる。 観応の擾乱とは、できたばかりの室町幕府の内輪もめで、 足利尊氏は北朝、弟の直義が南朝に着いたと考えてよいでしょう。 周りにいる西は播磨の赤松、東は近江の佐々木(道誉)等は、 あっちに着いたりこっちに着いたり訳が分かりません。 この親王を奉じた時の赤松は南朝側、で、僅か2年後には北朝側に転じます。 拠点としていました。行くべき城は、まだまだあるでえ! ・・・? 代りに山中に大きな看板・・・・・老人ホームかよ!何もこんな山中に作らんでも! 高齢化社会になったら、老人ホームこそ都心に作るべきやと私などは思うんですが。 これやったらホンマに姥捨て山やないか! どこやー!出て来ーい!ご先祖様〜! 影、長いでしょう? 日が暮れるまでに降りたらエエか。よっしゃ!待っとれ!ご先祖様! 「三丁」ここは地獄の三丁目・・・ 「四丁」段々汗が出て来たで〜。 猿並の学習能力はちゃんと持っているケンジ。 「十一丁」何でやねーーーーーん! 「茶室跡」やてえ?こんなしんどい思いして茶人が来るかあ! 二の丸跡 江戸城でもそうですが、天守閣のある本丸より、二の丸に御殿を置いて行政はそちら、 と言うお城は多いみたいです。 上の図でも分かる通り本丸は本気で戦するための施設なんでしょうね! これも城山登りを始めて感じたことです。 根っこからボコッとひっくり返っている大木も珍しくありません。 我々自身のためであります。なので行政も必死に植えているんでしょうね! 上の方、真っ白で何も見えませんが、海です。 左手の彼方には淡路島、右手には家島諸島が転々と見えるのです。 なるほど、ここにいたら播磨灘の水運は一望の下。姫路城では確か海、見えなかったハズですもんね! 当時の海の要衝、室津までは狼煙を上げて連絡すれば当時でもあっという間に通信できるでしょうし。 花見するのにちょうどいい、って感じ。ここまで花見しに来ないでしょうけどね! 代りにブルーシートがアチコチに。一時は遺物を盗掘する人も多かったようで、 「遺物を持って帰るな!」という立て札がアチコチに。 私は水を持って上ってますが、ペットボトルはホカさんと、ちゃんと持って降りてますからね! 十八丁を風の様に、とは行かないけど、登りよりははるかに早く降り、帰りました。 あのトンネルの怖い道も、日のあるうちに戻れましたよ! |
