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VOSOT ぼそっとプロジェクト
ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

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by J.I.(ぼそっと池井多)


私は8歳までひとりっ子であった。

夕食の時間がせまってくると、母は私に訊いた。

夕ごはん、なに食べたい?

私はあまり空腹だった記憶がない。

子どもというと、
野山を走り回り、つねに腹を空かせていて、
食事の時間を楽しみにしているイメージがあるが、
私は子どものころから、今と同じように不活発で、
食はそれほど関心の対象ではなかった。

不活発ゆえに、
「このグズ!」
「ボケボケするな!」
と、しょっちゅう両親には叱咤されていた。

「グズ」「ボケボケ」が、今では
「中高年のひきこもり」
という呼称に変わっただけなのかもしれない。

夕ごはん、なに食べたい?

母の問いに、私は答えられない。

一つは、たいてい食欲を感じていなかったからであり、
もう一つは、何か答えると、
その「責任」を取らされるのを恐れていたからであった。

「グズ」
「ボケ」
と同じくらい頻繁に、
両親が私に投げかけていた言葉が、
「責任を取りなさい」
「自分の非を認めろ」
であった。

夕ご飯、……なん、でも、いい

あらぬメニューを口にすると、
それを完食しなければならないという責任を恐れ、
私は答えをぼかした。

なんでもいい、じゃわからない!
 もっとハキハキした子になりなさい。
 何が食べたいか、ハキハキ答えなさい!

ハキハキ答えろといわれても、
食べたいものが「ない」、もしくは「決められない」のだから、
しかたがない。

なので、はっきりと言う。

なんでもいい!

すると母は、

なんでもいい、じゃ、わからない!

と叫んで、私をひっぱたく。

「ひっぱたく」という行為じたい、
いまでは立派な児童虐待だが、
昭和の昔は日常茶飯事でモノの数にも入らない。

私も、いまでこそ
「親に虐待されました」
などということを言っているが、
そう言うとき、私の意識のなかでは
「ひっぱたく」
「なぐる」
「ける」
といった肉体的暴力は、
不思議と入っていないのだ。

私が虐待と呼んでいるものは、
もっと別のところにある。

ひっぱたかれた私は、泣く。

泣く私を、
すぐ泣くんだから!
といって、母はさらにひっぱたく。

私が泣くのがいやならば、
泣く原因である肉体的暴力を自ら停止すればいいのに、
母はそういう合理思考ができない。

そのわりに、英語塾をやっていた母は、
高校生のお兄さん・お姉さんがくると、

はい、ここの構文は……

などと、
ひどく合理的な解釈をしゃべっているから不思議であった。

そのうち、私が泣いていて埒が明かないので、
母の方から提案らしきものをちらつかせる。

スパゲッティ、食べたくない?

じつは、私が書いている物語は、
つねに私の原家族で起こってきた展開である。
したがって、それがスパゲッティのこともあれば、
チャーハンのこともあれば、
オムレツのこともあった。

「これは私が、
 何歳のときの何月何日に起こったことである」
と特定できないのも、そのためである。

金太郎飴のように、
断面を切ると、いつも同じ絵があらわれる。
幼いころの家の中の記憶を切ると、
いつも同じ展開が出てくるのである。

しかし、ともかく母が
スパゲッティ、食べたくない?
というときには、
いま思うに、母がスパゲッティを作りたいのであった。

あるいは、母の頭のなかに
そこまで作る料理の具体案が決まっていたのであった。

母は、ゆで上げたスパゲッティに
トマトケチャップとマヨネーズをたっぷりまぜこんだ
油ぎってギトギトしているような
進駐軍風のナポリタン・スパゲッティをよく作った。

だからそれが、
私にとっておふくろの味なのである。
つまり、
虐待の味なのである。

だから今日、料理をよくする私が
パスタをゆでるときには
ナポリターナだけは作りたくないのかもしれない。

スパゲッティ、食べたくない?

ほかに対案もない私は、ボソボソと、

……食べ……ても……いい

とつぶやく。

母はいらだって、

スペゲッティ食べたいのね?

と、たたみかけてくる。

もし、このまま今夜のメニューがスパゲッティに決まった場合、
その判断責任は母である自分にはなく、
子どもである私にある、
という前提構築の段階に入っているのである。

「わたしはべつに作りたくなかったのだけど、
 この子が食べたいというから
 しかたなく作ってやった」

という「事実」を用意し始めているのである。

さきほども述べたように、
これは、いつもいつも繰り返されてきた展開なので、
私も逆の立場から先が読めている。

つまり、ここで私が
「スパゲッティが食べたい」
と言ってしまうと、
あとでどんな形で責任を取らされるか
わかったものではないのである。

それを警戒して、
私はできるだけ自分の口から
「スパゲッティが食べたい」
と言わないようにする。



スペゲッティ食べたいのねって聞いてるの

……

スペゲッティ食べたいのね?

……うん

だったら、スパゲッティ食べたいって、
 ハキハキと言いなさい!

そこで私は、のちのち不当な責任をせおわなくていいように、
妥協点を模索する言い方をする。

スパゲッティ、……食べ……ても……いい

主体を守ろうとする
幼い私の弱々しい抵抗であった。

この抵抗がまた、母にとってはいまいましい。

食べてもいい、じゃないでしょう。

 人にスパゲッティ作らせておいて
 食べてもいい、じゃないでしょう。

 あんた、いつからそんなに偉くなったの。

 なんで、いつもいつも、
 そんなグズグズした言い方するの。

 食べたいんだったら、食べたいって
 はっきり言いなさい!


まるで

「すなおに『私が殺(や)りました』と言え!」

と自白を強要する捜査一課の鬼刑事のように
母は、幼い私にせまる。

しかし、私はとくに食べたいわけではないのである。

母がスパゲッティを作りたいのである。

いわば、この時点において
「スパゲッティを作る」は、
母にとっての短期的な自己実現なのである。

なぜ、それを私が表明しなければならないのか。

しかし、ここでふたたび母は私をひっぱたく。
暴力の恐怖におびえて、私はおずおずと、

食べ……たい……

としかたなく言う。

ここに私の屈服が始まり、
私の主体は母によって剥奪されているのだが、
私としては被害を最小限にとどめたいので、
できるだけ曖昧な表現にする。

なあに? 聞こえない!

食べ……たい……

ちゃんと
 『スパゲッティ、食べたいです!』って言いなさい。
 ほらっ、もっとハキハキと!

スパゲッティ、食べたい

スパゲッティ、食べたいです、でしょう。
 ほらっ、言いなおし!

スパゲッティ、食べたいです

声が小さい!

スパゲッティ、食べたいです!

ようし、言ったわね

声を少しトーン・ダウンさせると、
母は、ナポリタン・スパゲッティを作り始めるのであった。

新しい緊張が走る。

母はあたかも、
「腕によりをかけて」作り始めるような姿勢であった。

しかし、じっさいに母が「腕によりをかけて」いたのは、
料理そのものではない、
私の知らない、他の何かへ、であった。




・・・「スパゲッティの惨劇(2)」へつづく

この記事に

  • 痴陶人さま コメントをどうもありがとうございます。
    さすが鋭い洞察力です。前も書かせていただいたこのエピソードが、最近とみに重要に思えてきて、焼き直しで書かせていただいているのですが、痴陶人さんのおっしゃるように、私のいう虐待の本質である「主体の剥奪」のわかりやすい例であり、私の治療共同体において現在エスカレートしている戦争の争点となっている「近親姦優遇の可否」についても関連していると思われます。
    SMの言葉責めに酷似した母子の会話というものが、はたして何を意味するのかを考えてみたいです。

    チームぼそっと

    2016/3/5(土) 午前 10:47

    返信する

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