| ドイツが「独ソ不可侵条約」を反故にして独ソ戦を展開。大リーグでは、ジョー・ディマジオが56試合連続安打。テッド・ウィリアムが打率4割6厘の記録を樹立していました。 |
この頃の日本と世界では・・・。
1月1日食塩の通帳配給制実施。
1月2日フィリピンの日本軍が、首都マニラを占領。
1月23日ラバウルへ上陸。
2月1日衣料切符制実施。
2月15日シンガポール占領。
2月21日食糧管理法を公布、国民食糧の確保と国民経済の安定を図るのが目的で7月1日より施行。
28日バタビア沖海戦。ジャワ方面の連合軍艦隊は壊滅。
3月8日ラングーン占領。
3月16日米極東軍司令官ダグラス・マッカーサーは「アイシャルリターン」の言葉を残し、オーストラリアへ脱出。
4月1日日本放送協会が南太平洋の米兵に向けて英語番組「ゼロ・アワー」の放送を開始。
アナウンサー嬢たちは米兵から東京ローズとよばれました。(戦後、アメリカの戦争犯罪人)
4月9日:バターン半島占領。
| 除隊後のこの年に親父は「久」と結婚をしました。とは言っても、ささやかな結婚式を行っただけで入籍もしませんでした。 |
今で言う同棲生活でした。
結婚式の写真が残っていないようです。
理由を親父に聞いた事が有りました。
披露宴をしたいので、船形の姉夫婦に相談したのですが断られたそうです。
それ以上は話しをしませんでしたが、たいした披露宴もせず、写真も撮らなかった可能性があります。
長女が誕生したので、急いで入籍をしました。
届出は翌年の昭和18年4月12日でした。
その後次女も生まれ、貧しいながらも幸せな日々が続きました。
「久」は千葉県松戸市下矢切に住んでいた徳次郎と妻「ます」との間に大正七年五月三十一日に誕生しました。
親父の一歳年下です。
親父が徴兵され配属された「野戦重砲第七連隊」が、市川市の国府台にあったので野外演習の時に「久」の実家に世話に成り知り合ったのです。
親父が砲兵として駐屯していた国府台は兵隊の町で、市川市や隣接の松戸市は兵隊の需要で成り立っていたのです。
親父はたった一人の姉『初枝』の人間性に疑いを持って交流は絶っていました。
そうなると病身の養母は居ますが、頼る親族の居ない状況になっていました。
除隊後は頻繁に松戸の妻の実家を頼っていたようです。
「久」の実家でも親父の過去の不幸と実姉の仕打ちを知っていたので、哀れだと思ったのかも知れません。大切なお嬢さんを親父に嫁がせてくれたのです。
川崎で親父、久、養母「とく」の三人生活が始まり、長女が誕生する事になったので親父は寮を出て一軒家を借りました。
久が嫁いでくれた事により、親父は姉『初枝』の事を忘れ充実した生活が始まりました。
引越しと言っても、町名は同じで三丁目から一丁目に変わっただけの直ぐ近くの場所でした。
親父が移り住んだ川崎市東門前町一丁目十番地は、川崎大師と現在の高速道路横羽線(産業道路)との中間辺りで、京浜急行大師線の「東門前」駅の南です。
ここから勤務先の東京自動車工業株式会社まで東へ約二キロメートル。
親父の足なら、歩いても通勤二十分位の便利な所でした。
| 終戦直後の米軍航空写真です。多摩川を渡る産業道路の大師大橋。右下の多摩川沿いの半分欠けている大きな建物が親父の働いていた「東京自動車工業株式会社(現いすゞ自動車)」親父が住んでいた東門前は写真外の左下辺りです。 |
| この頃は主婦になるのは大変な事でした。 |
| 全ての物が配給制だったので、品目別に連日店頭に一日四時間位も行列しなければならなかったのです。 |
| 2月23日、伊号一七潜水艦がロサンゼルス沖で一般艦艇攻撃用の十四インチ砲を十七弾発射し、アメリカ本土を始めて攻撃しました。日本では余り知られていませんが、アメリカでは、かなり報道されました。 |
| 4月17日、ドーリットル指揮のB25中型爆撃機の編隊16機は、米空母「ホーネット」から発進し初の日本本土空襲に・・・。(米本土攻撃の報復?) |
4月18日東京空襲が始まる。
18日正午過ぎ、B25中型爆撃機13機が東京を目標に京浜地区を爆撃、残る3機は直接西進し、名古屋、四日市、神戸などを攻撃しました。
奇襲を受けた帝都防空部隊の混乱はひどく、高射砲部隊は一機も撃墜できなかった。
ノモンハンで活躍した「九七式戦闘機」は、四月十八日に、東京、名古屋、神戸を初空襲し中国大陸に飛び去ったドゥリットル中佐の「B25」十六機を追跡して追いつく事ができず、完全にリタイアしました。
東京では、大規模な防空演習の最中だったので、爆弾が投下され、高射砲が打ち上げられても本物と気が付かない人が多かったのです。
この日は土曜日で学校の授業は昼まで。
石出巳之助君(高等科一年生、13歳)は教室の掃除を終え、友達と校門を出ると間もなく空襲警報が・・・。
巳之助君たちは急いで校舎に引き返し、教室の机の下にもぐろうと廊下を走った。
その時、B25の機銃掃射が彼等を襲い、その一弾が巳之助君の背中に命中したのです。
駆けつけた人々によって応急措置を施され、2km離れた企業の医務室に運ばれたが、午後二時に息を引き取りました。
翌日の新聞は「鬼畜の敵、校庭を掃射。学童一名死亡」と大々的に報道し、教師は月曜日に登校した児童に米軍の非道ぶりを話して聞かせたのです。石出巳之助君の墓石に刻まれた戒名「悲運銃撃善士」。
| 東京だけで39人の死者が出ましたが「損害は軽微なり」と発表され、これ以後、終戦まで130回にわたり東京空襲が続くのです。 |
5月9日金属回収令により寺院の梵鐘・仏具などの強制供出命令。
5月22日ビルマ・アキャップ飛行場に来襲した英軍機を追撃した加藤建夫(たてお)隼戦闘隊長が、激しい空中戦で敵機を撃墜した直後にベンガル湾に墜落。
5月24日名古屋対大洋戦で延長28回、野口二郎・西沢道夫両投手が完投し世界新記録を樹立。
| 五月に「国際諜報団検挙さる」の大見出しが新聞紙上を賑わせました。「ゾルゲ事件」が公表されたのです。 |
昭和十五年六月に特高警察が日本共産党の伊藤律を逮捕しました。
伊藤の供述から昭和十六年十月十五日に元朝日新聞記者で近衛内閣のブレーンだった尾崎秀実(ほつみ)と、十八日に帰国寸前のゾルゲを検挙。
ゾルゲ検挙の報に、ドイツ大使オットーやゲシュタポが日本政府に強硬抗議をしました。
しかし、昭和十九年の九月末に死刑判決を受け、十一月七日のロシア革命記念日に処刑されました。
絞首台に上る前に「ソ連共産党万歳」を叫んだと言われています。
ゾルゲは昭和八年からドイツの通信員として日本に来ていました。
逮捕されるまでの八年間、日本とドイツの最高機密をソ連に送り続けていたのです。
親父が派遣されたノモンハンの情報は、最重要事項でした。
取調べの供述から、昭和十四年六月四日付けの報告で「日本がソ連と本格的戦争に走る見込みは少ない。にもかかわらず、関東軍に独走傾向が増大しているため、大規模となる可能性がある。衝突の続発を防止する為には、毅然とした厳しい手段を用いるよう勧告する」。
又、一味のフランス特派員ビケリッチが、日本軍に招待されノモンハン付近の視察旅行をしています。
「ビケリッチが見聞した若干の重砲、貨物自動車の話しや、飛行場二、三を訪問した話しを聞いた。この事件から全面戦争へ発展しない」
「中国との戦闘が長期化し、日本全体に緊張感をもたらしている。ソ連との戦闘をドイツの支援無くしてやるかは、なんともいえない。ただし、日本の軍事力は抜本的な再軍備と再編成を必要としている。ドイツ軍用運搬部の情報では、この再編成をする為には、一年半から二年がかかる予定である。すなわち、日本に大戦争の準備が出来るのは早くて一九四一年(昭和十六年)であろう」等と適切な情報が流されていたのです。
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毎回ながらこれだけ両親の事を知っておられる事に感服します。私なんか 母はまだ健在ですがほんとに何も知らないに等しいのが恥ずかしい限りです・・・ほんとに立派です。
2006/12/11(月) 午後 11:58 [ kamesennin5151 ]
有難うございます。両親は断片的な話しかしませんでした。親父の遺品のガラクタに写真や書類が残っていたのです。書類と断片的な話をつないでいるだけ。何故書くのか?親父は地元で「悪者」にされているのです。「死人に口無し」。歴史と同じで生き残った側が勝手な事を言う可能性は高いのです。事実を残しておかないと後の世にどうなるか判りません。残しても消される可能性も有りますが・・・。
2006/12/12(火) 午前 2:24
確かに「勝てば官軍」という言葉もありますからね・・・何百人殺そうが勝てば英雄として評価され、負ければ鬼畜の如く扱われる・・・これが戦争というものの結末であり辛い現実です。真実は闇に葬られる・・・
2006/12/12(火) 午後 2:56 [ kamesennin5151 ]
大きく言えば「歴史」。一般には「噂」「風評」。極端に言えば殺人者と被害者の関係。生き残った者の話しか判らない。被害者は反論したくても出来ない。だから犯罪者天国、日本の将来が心配なのです。
2006/12/13(水) 午前 1:14