序編、親父の父楫馬
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親父が亡くなってから、間も無く3年が経とうとしています。 いまだに心残りなのは、親父が命を賭けて経験した戦争の話を聞かなかった事です。 もっと戦争の話を聞いておけば良かった・・・、深く反省している毎日です。
親父の父楫馬は大正2年(1913年)12月30日に「こよ」との婚姻届を提出しました。 楫馬41歳、こよ20歳の結婚でした。 二人は観蔵院という香取神社の別当寺が有った所で新婚生活が始まります。 この時、楫馬は小学校の教員でオルガンが弾けたと言われ、村役場の書記、香取神社の神主、
俳句の宗匠(10年以上も前に自宅で我月社を創設し好雪庵如蘭の俳号を持っていた)までしていたと言われ、当時のマルチ人間でした。
写真は明治42年 川間尋常高等小学校が設立された時の記念写真です。 中央右にポツンと立っているのが「楫馬」です。 親父は生前、楫馬は『木間が瀬小学校』の教員だったと言っていますが、事実関係は不明です。 大正5年に川間村役場が新築された時の写真です。 右から2番目が親父の父「楫馬」 川間村役場戸籍係書記宛のはがきが残っており、村役場に勤めていました。 昭和になって、親父が役場に行った時、楫馬の息子だと判ると優遇されたそうです。 川間村で楫馬は小学生からお年寄りまで有名な人物でした。 楫馬の父則嘉は、寺子屋(関東では手習い所)を営んだり、 夜雪庵金羅3代目(4代続く)に俳句を学び、俳句の宗匠をしていました。 だから、明治時代に俳句ブームが起こると、毎月のように川間村で句会を開催していたようです。 その後を引き継いだ楫馬も川間村の名士になっていたのです。
楫馬の妹「とく」親父の養母
楫馬と「とく」の父で初代の「則嘉」
左下に見える写真は
8月8日、孫文ら日本に亡命。 吉田岩窟王事件 8月13日愛知県千種町(現在の名古屋市内)の道路上で、繭を運搬中だった男(31)が殺され財布が奪われた。14日にガラス工員2人が逮捕され、犯行を自供した。さらに2人の自供から主犯として逮捕された吉田石松は一貫して否認を続けたが、他の2人と共に強盗殺人罪で起訴された。 有罪確定後も無実を叫び続け、49年後の1963年に再審で無罪となった。 3月警察官の態度をていねいにするために警視庁が各署長に「こら」とか「おいおい」という言葉づかいをやめて、必ず「もしもし」というように訓示した。 10月、日本は満蒙5鉄道敷設権獲得し、中華民国を承認しています。 11月には、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が77歳の生涯を終えました。 |

・・・takaさんって・・・サラブレッドですか!?
2006/6/24(土) 午後 5:45 [ t くん ]
古い写真が貴重な財産です・・ね。 僕の先祖も最初は神官だったらしく後に侍から村に降りてきた時に神社を作り、その名が僕と同姓だった事を覚えていますが、今は町の名前と変っては居ますが、僕も ルーツに少し興味があります。
2006/6/25(日) 午後 0:12
ルーツ・・・。何処まで遡れるかですが、単純に考えて日本人の8割位は、天皇家に繋がっていると思います。京都に都を置いた「桓武天皇」から源氏(21流)と桓武平氏(関東武士団等)が誕生し、全国に散ったからです。そこで土地の豪族と交配し、直系以外は家臣になる事を繰り返したと思われるからです。日本の王朝(天皇家)が世界に誇る伝統を残したのもここに有ると思うのですが・・・。
2006/6/26(月) 午前 7:48
川間の絵葉書を所持していたことあります。ずいぶん前に譲ってしまったのですが。やはり学校の絵葉書だったと思います。
2006/6/30(金) 午前 1:28
残念で〜す。一度見たかったなぁ・・・。
2006/6/30(金) 午前 2:34
おはようございます。
コメントありがとうございました。
これからも宜しくお願いいたします。
2009/2/28(土) 午前 8:25 [ タンタン ]
シュースケさん。
わざわざ、お読み戴き有難うございました。
これからもお伺いさせて戴きますので、よろしく〜。
2009/2/28(土) 午前 10:30