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先生への手紙 #1

先生にぜひともお会いしたいと思いを強めたのは5月頃からです。
先生に、伝えたいことがあるのです。
しかし一足飛びにお話できないので、まず3月からのことを順々に書きます。
 
3月11日午後、異常に長い揺れに、震源地は遠いが規模は阪神大震災より大きいと私は直感しました。阪神大震災のときの身体感覚を、まだ忘れていなかったのですね。速報で宮城県沖が震源と知ったときには、嘘やろ、と口に出ました。東北沖の地震をこの地ではっきり体感するなど、想定外どころか「想像外」だった。
その後、どのような映像を見たかは、先生とさほど変わらないでしょうから、割愛します。
 
私の耳に焼き付いたのは、11日夜のニュースでアナウンサーが発した「沿岸部のいくつかの町が壊滅」という言葉です。嘘やろ、と口に出ました。「甚大な被害」を意味する比喩だと思った。現地の映像はまだ届いていなかった。
その後数日の間に、文字通りの意味だとわかり、私はネットで沿岸部の町の現地情報を漁り初めました。探して読まずにはいられなかった。ネット上の安否情報を検索サービスに登録する作業にもボランティア参加しました。これも、被災した町の行政機能が一部復旧したと知るまでは「突き動かされて」という状態だった。
人の死、というより、町の死、ということへの衝撃だったと思います。

誰もが必ず死ぬのであるし、見ず知らずの他人が遠方で大勢死んでも、それは私の痛みではありません。しかし、人の生き場所が共同体として再起不能だという事態に対して、私はかなりの痛みを感じるらしいのです。
何故だかわかりません。私は共同体というものをただ毛嫌う性質だと思っていたし、今でもそう思っている。それなのに、見ず知らずの土地の先行きをやたらに気に掛け、何かできることはないかと動き回っている。今、とあるNPOのかたに、現地に行けない代わりにこちらで事務作業の手伝いをできないかと打診中ですが、この動きも私には稀の中の稀です。
 
阪神大震災のときは違っていた。あのときも痛ましい映像は繰り返し見ていたし、なにより物流がストップして職場は連日混乱の渦で、今回の震災よりずっと身近に感じ続けてしかるべき事態だったのに、はるかに他人事でした。
それとも、たんに、あのときは若かったということでしょうか。
 
歳をとると変わるのでしょうか。
歳をとったというよりも、毎日のいちいちが土地と共同体とそう簡単には切り離せないという毎日を繰り返して、このようになったのでしょうか。
 
いや、ここまで書いてわかったように思います。
私は、毎日のいちいちの繰り返しを、自分ひとりで、どこかの殺風景な河原に、石を積み上げてはただ壊す繰り返しのようなものとして見ているつもりでした。
おそらく違うのでしょう。私が毎日やっていることは、誰やかやとしち面倒くさくつながりながら、あれやこれやを与えたり取られたりもらったりくすねたりして、自分もまだ知らないそれなりの何かを積み上げている、そういうふうに書いた方がずっと本当に近いと感じているのかもしれません。
そして、二つの風景を別ち意思をもって後者をたぐり寄せる力は、私には無いのです。私にはそんな才能はないし、努力もしていない。ならば力のみなもとは、私の外にあるのでしょう。そのあたりまでは、私は腹のどこかで了解しているのかもしれません。
 
私は「それなりの何か」を得ることに拘りません。得られずに死ぬことを、私自身の不幸せとは感じないのです。
けれども、私の娘のことを思えば、河原で石を積んで壊すしかない土地に生きるよりは、「それなりの何か」を得る力を保った土地に生きたほうが良いと感じます。もし、娘が彼女自身の意に反して後者の土地から引き剥がされるようなことがあれば、私は痛みを感じるでしょう。まして、天災ではなく人災としてそれが目の前で起こったなら、強い怒りを感じるでしょう。
 
東北の海沿いの町、そうして書くまでもないことですが、福島の原発周辺の町に私が想いを馳せて止まないのは、このあたりに根があると感じます。
 
 
 
先生に伝えたいこと、とは。
覚えていらっしゃいますか。先生は若かった私に文庫本を一冊手渡してくださったことがあります。ガルブレイスの「ゆたかな社会」です。
先生がそのとき、「ゆたかさ、とは何だろうか」と訊ねるように独り言のように仰った言葉の調子を、私は今でも忘れていません。本の内容はあらかた忘れましたけれども。

「ゆたかさ、とは何だろうか」という言葉は、たえず私の宿題なのです。

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先生への手紙 序

先生、ご無沙汰しております。
毎年 年賀状をいただくたび、今年こそ先生とお会いしたい、お電話しようか、と胸をあたためながら、しかし何をお話することができようかと恥ずかしくなり、そのままとなっていました。
 
私は、私の姿と、仕事と、ふだんの立ち振る舞いとを知っている人の前では、自ら言葉にしてみたいと本当に願っていることを話すことができません。相手が家族であっても友人であっても同じです。
私が話すことは、というより、そういうことを伝えたいと熱を込めて話す私のありようは、十中八九、相手を強く不安にさせるか混乱させると思い続けているからです。
 
先生の前では、あるいは違うかもしれません。
しかしやはり、なんの準備もなくただお会いして、なにかまとまったことを一つでもお話できる自信がありません。
 
それで、まず、先生の顔を思い浮かべて、私がいま言葉にしてみたいと本当に願っていることをなにもかも洗いざらい、書いてみようと思い立ちました。
書いているうちに、まとまりがつくかはわかりません。
書いたのちに、先生にこの場所をお見せできるかも、今はわかりません。
 
余談ですが。
私は5年前にこの場所で、たいへん長い物語を一遍書きあげて、一度もお会いしたことも電話したこともないかた達に読んでいただいて、感想まで聴かせてもらうという幸せを得ました。その物語を自分の娘に知らせるかどうしようか、いまだに迷っています。知らせるとしても、私が書いたとまで知らせるかどうかは、なおのこと迷います。
いま娘は、私にとって、もっとも気どりのないありがたい友人になりつつありますが、創作の文章で彼女に対してさえこうなのですから、先生にこの場所をお見せするかどうかについては、さらに迷うでしょう。
 
それでも、できるかぎりお見せしたい、と思います。
 
いつか先生から同人の文集を数冊いただいた、あの中に、私が知っている先生の姿と、お仕事と、ふだんの立ち振る舞いからはまるで想像しなかった別れの掌編を読んだときに、私はとても嬉しかったのです。
人は自分のこころのなかに、周りの誰にもやすやすと了解されない風景を持ってもよいのだということを知り、ほとんどの人はそれをありのまま表に出すことをためらうのだから無理に出さなくてよいのだと思い、そこにこそ授業ではまったく教わらなかった愉しみとしての文章創作があるらしいと感じました。そうして、先生はそれを、先生という以上に先達として、個人としての私に開示してくださったことが嬉しかったのです。じんわりと。
 
 
私はこの場所では、自分の現実の年齢、性別、出身地、現在地、職業などを語っていません。今後も語らないつもりでいます。
先生にここをお見せするとしても、先生が偶然ここを見つけてああこれは君だなとお分かりになったとしても、どこの誰と言わないでおいてくださると、ありがたいです。

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つる。つれづれ。ずらずら。#16

書く気霧散中。越年無理。メモのみで仕舞う。
 


 
表現の自由
 
今回の件は < 議論として臨むなら > 私には、「他なる権利(※基本的人権)との調整=公共の福祉」の問題でしかない。権利の調整のありかたをめぐる議論であるから、調整の相手側の権利の内実と調整のありかたと再審のシステムを順々に問う。
しかし「表現の自由」そのものを容易に制限されてよい下位の権利と位置づけている論には、私は徹底して抗らう。
 


 
障害者の精神と権利
 
少年の「精神」を庇護するという名目で、彼の自己決定権を制限する社会システムを正当とするならば、その理路は、知的障害者・発達障害者・精神障害者の権利の制限を正当とすることを忘れてはならない。
今回の件は、無視し続けられてきた女性の権利の回復をめぐる議論でもあり、私は女性の権利の回復を阻みたいわけではないので、議論の解体を招きかねないこの論を挟むことはしなかった。だが、彼らを視野に入れたとき、今回の件は「健常者」の「健全」をめぐる争い、彼らが「予め・完全に・除外されている」権利闘争であることは間違いないと思っている。
 


 
表現とインターネット
 
行政が商業の流通を法令で制限するならば、次に、個人のネットワークを媒介した情報の拡散の制限を考えないはずがない。
 
思うところはあるが、今回は止める。
 


 
セクシュアル・マジョリティ/マイノリティ
 
そこに至る幾つかのルートのひとつに、自と他と世界の認識を組み上げるただなかで異性とのただならぬ性を通過する道なりがあったのではないか、と思ったりする。

書いた1時間後くらいに脳内ツッコミが入った。性愛の対象が異性でない人もいる。性愛を持たない人もいる。「予め・完全に・構想から除外されている」か。
自分という個人を起点にして書くとき、自分の領界に欠けている人達を文章のうえでだけ掬いあげて文章を仕上げる真似はしない。ろくでもない。「除外されている」まま書いてよい。ただ、まだ、彼らが私の領界に入ってこない、私は彼ら彼女らと「出会った」ことが無い、ということは、残念。
感受性激しくズレてる男と女が、相手を悦ばせたがったり、悦ばせてほしがったり、なんでそんな無理をするんやろ。無理するところが人間らしいと想いもするが。terra incognitae.
同性同士はそのへんだいぶ違うのやろか、とか、少なくとも互いが互いの感受・享受の感覚をまったく理解できんという状況は生じにくいのだろうか、とか、身体の性がそうだとして ならば 精神の性はどのように往くのだろうか、とか。terra incognitae.
 
いつか、私は、未知なる人と出会える。
 


 
穢れと性と病
 
私にはたしかに、性を汚いものとして遠ざけたい欲があった。どこで変わったろうか。
生身の肉体はいまだに好きでない。が、汚いとは思わなくなったのは、二十代のあのあたりか。
 
動くことままならない若くない病人に幾人か、触れざるをえない状況が来た。病人をありのまま言えば、病人とは、醜い。汚れる。臭い。そいつのいちばん見たくないところを見、触れたくないところを触らなければならない。その繰り返しだった。あれだな。
そのうち慣れた。あの後、私の性への潔癖ぶりはだいぶ和らいだ。わかった。人の体は当たり前にこういうふうになっている。そうして知った。病人は、そういう「私」を異物と見做すこの世界に反抗するように、わざと動くことを拒んだり風呂を拒んだり部屋を換気することを拒んだりする。そうであるのに、なぜだか聖なる場・公けの場には、自ら風呂に入り歯を磨き髪を梳り服を整え、自分にできる精いっぱいの「清」をもって赴こうとする。
穢れとは何か、いまだ 私にはよくわからないが、この身に必ず在る汚穢をめぐって 俗 と 聖 が 何を司ろうとしているかは、わかるように思う。
 
性の秘匿と病の秘匿、性への嫌悪と病への嫌悪、は、ごく近い。
 


 
ずれ甲斐のある仕舞いが付いた。
 
2010年に、ありがとうありがとう。みなさま、よいお年を。

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つる。つれづれ。ずらずら。#15

さて、どうするかな。
他人関せずの言葉を使っていくしかないわなー。
 
少年はまだ「不可逆」の地点を1度も通過していないのではないか、と感じる。
ん? そうか。不可逆の地点を通過していない者のことを、少年と認識しているのか。
 
可逆。自の認識、他の認識、世の認識、形成の途上。遡及と組み換えの可能性。
環境・・・というより、彼を包んでいる周縁者の認識の環がそっくり変わるような事態があれば、彼の認識も大幅に組み換わる。いったん退行する期間を要するかもしれないが。少年は自身を「絶対の従者」と確信しているので、変容に向けて上位者から導かれることに抵抗しない(※上位者の選り好みはする。しかし自分を預けられる上位者が必ずどこかに居ると確信している)。認識が変容すれば、他との関わり合いにおいて自身がどう構えるか(あるいは「構えない」か)、対人の感覚というものが大きく変容する可能性も高いのではないか。ないか。途上であるということの可能性。
・・・といったあたりか。
 
あくまでも可能性で、必ず変わるかはわからん。与えられる風景が変わり対人の認識が変わることで、これまでとは別の道の可能性を開くだろう、というだけで、社会・世間にとって都合よく変わるかは、なおわからん。そんなもん当たり前のことで、それでよい。
ただ、自分の言葉を聞いて対話を結んでくれる、自分の顔色を見て気遣ってくれる、自分のためにあれこれ動き回ってくれる、そのような他人を欠いたうえで形成された三つの認識の内側に少年が居るのならば、死ぬまでその自分を励まし律し続けていくことは彼には苦しいことだろう、私は倫理なき精神じたいを闇であるとは思わない(思えない)が、他なる人から絶たれた精神が死ぬまで自分をひとりで支えていかなければならない苦しさには夜を感じ取る、ひとりの人にそこから脱する可能性が残されているなら、採択されてほしい。
あくまでその余波としてだが、彼の対人のありようが他にとっても平和的に変容する可能性はある・・・少年の更生の可能性とは、そういう「可能性のその先にある可能性」にすぎない、と私は思う。少年法の精神に在る賭けとはそういう賭けであって(というより、そのような賭けであるべきで)、だからこそ私はそれを支持する。
 
本来は、その可能性を採るかどうかの決定権は、少年自身にある。のだけれども。
その可能性の是非を彼はまだ知らない、また彼は自身の生を先導されることに己の尊厳の毀損をまだ感じ取らない、と私は思っているので、自分のこの認識を前提条件に、「少年の間は自身の変容(更生)の可能性とその是非を彼自身に判定させず、『上』から一方的に与えて善い」、と私は思っている。
 
これがパターナリズムであることは百も承知。
早熟な人(認識における「不可逆」地点を幼年で通過した人)にとっては、殺したいくらい憎い想念だろうね、これは。
 


 
成年者は、ほぼ「不可逆」。いったん確立してしまった自・他・世の認識を組み換えることは至難。三つの認識が互いの位置取りを組み上げて固定し、一つに多少の変化が起きても残り二つが馴染んだ認識の構図へと補正を掛けてしまうんで。

また成年者は、自分はすでに「絶対の従者」から脱したと確信しているので、自分と異なる『上位者』によって自身が導かれることを内心において拒否する。
 
成年者って、もうそれだけで自己中で頑なでろくでもない者だと私は思う。ろくでもないが、それでよい。
例外の人、例外の状況はある。それは在ってもよいし、無くてもよい。
 


 
あー長かったな。やっとここまで来たか。
私がどうにかして表に出したかった言葉はこれ。
 
少年はまだ「不可逆」の地点を1度も通過していない
成年者は、ほぼ「不可逆」

阿檀さんからトラックバックをもらったとき、これはすぐには返事できへんな、と思った。
レイプ礼賛の小説やマンガを、自らのモラルができあがっていない青少年に与えることは、避けたほうがいいのではないか
この文章に肯いてよいか否定するべきか、私は決めかねた。
 


 
少年の精神は発達途上だという認識に、私は信を置いている。性において知識不足だ・情動の制御が不十分だ、ということを「発達途上」とわざわざ呼んでいるのではない。認識の枠組みの形成途上だということ。
性における知識不足は、妊娠・感染のリスクを正しく知らないために自身と相手を不本意に(というよりまったく無邪気に)害う可能性があるだろう。情動の制御の未熟さは、ヤッていいと認知した相手に対して性とその周縁で暴力を引き起こす可能性はあるだろう。ただし、性においての知識不足・情動の制御の不十分さが、嫌だと拒絶する相手を物のように犯して動じない精神の根にあるとは、私は思わない。そのような精神があるなら、それはまったく別のところに根を置くだろう。
 
往来で女性とすれ違いざま「あーヤリテーッ!」と叫ぶ高校生を見たとき、私はとっさに「バカがとおーるー」と思ったが、常識やモラルに欠けるとは感じなかった。
あの少年は『女』を人格を有する精神体と見てない。ポスターかなんかに叫んでるのと一緒ですわな。で、そのへんは少年に限った話ではない。少女が他人に「キモい」の「ウザい」の直弾で放言するのも似たもんだと思う。
それをモラルが無いと呼ぶんじゃないのかと問われれば、まあそーかもしれないが、私にとっちゃもっと手前の話だ。モラルなんてそんな集に属する話ではない。個人の目ん玉に何が映っているかという話だ。人は海老や蟹を痛覚を有する生命体と視ていない、みたいな話だ。視ていなくとも、あれを情けに欠けるとは一般的には言わん。私は生け簀で動くズワイガニを見て遠慮なく言う、「わーウマソーッ!」。あんな感じだろう。蟹と女性を一緒にしているんじゃなくて、言っている奴の言っている瞬間の精神に違いが無いという話ね。
 
少年を黙らせる手はある。「往来でそんな恥ずかしいこと言うもんじゃない」「女性にそんな下劣なことを言うものではない」と締め上げる。前者よりは後者の方が女性を女性として尊重しているように聞こえる。しかし「禁止」としての刷り込みにはなるだろうが、眼の前に居る相手はいったい何者であるかという眼差し、どのような相手も自分と等しく恥も痛みも怒りも備えた人であるとしたらという制御、を、少年に獲得させはしない。
少年に限った話ではなく、そいつを獲得した大人だってそう多くはない、と私は思う。私はまだですわ。
 
「発達」「境界」「段階的な自立と権利の解放」あたりの思考フレームをかなり信頼している私でも、男が女の性を、女が男の性を、自分のそれと同等に尊重して捉えられる年齢帯が発達のどこかで必ず備わっていて、どの人にもそれが自然に訪れる・・・とは思わないんだな。
性犯罪の加害者の大多数が成年であること、成年の近親者による性的虐待の暗数がどれだけあるかということを考えると、そのような意味での性の「適齢期」があるのか、私はだいぶ疑問だ。
 
もし「適齢期」というものがあるなら、それは、自と他の間を密着させずに、ある種の疎遠さを置いた観察によって相手(人格)を視図ろうとする、そのような「間」を少年が覚える時期だろうと思う。なんでそれが適齢期なのかというと、仕入れた情報のアレコレで妄想がパンパンに膨らんでたとしてもせつなく触れないから。たまに「ヤリテーッ!」くらいは叫ぶかもしれんけど。
 


 
少年期に、男が女をモノ扱いでヤりまくる創作に触れまくることで、女をモノのように視る認識が形成されるのかどうか、正直 私にもわからない。ただ、そこに描かれている・騙られている内容よりも、それへのメタの認識がどうあるかの方が重要ではないか、という感はする。で、まえーに書いたコレ、
 
つる。つれづれ。ずらずら。#2
(3)「女性を対象にした凌辱表現じたいが差別表現であり、差別の構造を強化している」
女性への性暴力を肯定するような表現じたいが女性への差別意識無しには生まれないとして問題とする意見。表現行為、表現が流通すること、表現の流通が(暗黙の通念としてでも)社会的に是認されていることが女性に対する有形無形の社会的な差別を固定し、ことに性暴力への公正な処罰と改善を阻む一要因であるという問題認識。女性一般、とくに被害経験を持つ当事者に対する(精神的な)加害行為であるという論もあり。
 
この論点は最も重要、さらに誤っていない、と私は思っている。
表現内容の猥褻性・暴力性以上に、その流通のありようが暴力的になることに私は同意する。この点については、「創作だとわかって読んでいる、現実にはなんの影響もない」という享受者の弁明は意味がない。享受者が現実と虚構の区別が付いていることは前提、享受者が現実に事を起こすことはまず無いということも認めたうえで、「現実にはなんの影響もない」と言い切ることは、私には嘘だ。
 
一方で、こうも思う。
眼の前に居る相手はいったい何者であるかという眼差し、どのような相手も自分と等しく恥も痛みも怒りも備えた人であるとしたらという制御、を、少年に獲得させはしない。
そもそもこの感覚を早く獲得する人こそ稀だ、と私は思う。
そうして、そこに至る幾つかのルートのひとつに、自と他と世界の認識を組み上げるただなかで異性とのただならぬ性を通過する道なりがあったのではないか、と思ったりする。不可逆の地点を通過するその前、「少年時代」に。
異性にまつわるなんらかの五感(身体)の記憶と言葉の記憶とその他のあらゆる記憶とが十分に馴染んで醗酵するような年齢に達したとき、あるいはそれは三十代、四十代といった年齢かもしれないが・・・その可能性が開くかもしれない、などと思う。
過去形なのは、いまのこの国で十代でそんな豊かな性を通過できる人っていないんやろな、と思うからさ。
私は少年時代の記憶がたいへん乏しい。身体のほうも、言葉のほうも。それを悲しくも寂しくも思わないが、その時代の記憶がもっと豊かだったなら現在の私の対人感覚はどれほどの厚みで茂っていただろう、という「if」を、きっと死ぬまで持ち続けるだろう。

過激な性表現を規制することそれひとつを切り出して、妥当かどうかと論じることに、私はあまり意義を見いだせない。
少年たちはそもそも滅多に触れることができない。それはお上に禁じれらているからではなく、自身が育ちゆく過程に芽生えるすべての人への畏れによって、うかうかと触れることはしない。そのうえ、視ることは罪悪であるとされたうえで、視ることもできなくなるのか。
視ることができないこと、が、決定的に問題なのではない。その施策に確かな思想も含まれていることは理解しているつもりだ。それでも、私には「ああそれはダメだ」と思える。行き詰った環をさらに行き詰りへとまたひとつ廻すのか。そんなような感じなんだ。
 


 
創作する愉しみは、たった自分ひとり、自分ひとりよがりの環をコツコツと創りあげるところにある。創作の素晴らしさは、自分ひとりの環が、なぜだろうか、私を無視し続けてきた世界の環との結び目を得てしまう、その不思議さにある。その時がいつ来るか、どのような創作を通して来るかなど、誰にもわからん。
創作を規制してはならない。創作する者ならば、いっさいに先んじて言ってよい当たり前のことだと、私は思うのだが。

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つる。つれづれ。ずらずら。#14

前記事は字数制限に引っ掛かって妙なところで終わってしまった。上限5000字で困ったのはこれで2度目か。字数せめて倍にならないかしら。
 
人が十全の責任を負えるのは幾つからか、私には本当にわからない、と書いたのは、本音でもあるし嘘でもある。幾つから?なんて訊かれても私は確信をもって答えられない、という点で本音、誰もが答えられないはずだという確信を持っている点で「私には」とわざわざ断り入れている点が嘘。
 
前記事の冒頭で紹介した映画もそうだが、未成年者が人を殺す事件は衝撃だ。単にびっくりするというのではなく、その事実を知った人の精神に癒えない疵を穿つ、というような。精神分析上どうこうは私にはわからないが、社会で・世間で合意されていた「責任を負う/負わない境界線」をたった一つの事件が動かしてしまうほどの衝撃だということは、わかる。神戸連続児童殺傷事件以降、少年法の適用年齢を引き下げよという論は繰り返し出ている。イギリスではジェームス・バルガー事件がある(加害者は十歳の少年だが、法務省の許可で実名と顔写真が公開され、成年者と同等に刑事事件として裁かれ刑務所に服役した)。
 
自己決定権(もちろん基本中の基本の基本的人権)の制限が解除される年齢は、ひとつではない。たとえば日本での「家族」「性」「経済」をめぐる権利でいえば、自分の意思で養子縁組ができるのは14歳、婚姻を結べるのは女性は16歳(親権者の承認が要る)、借金できるのは20歳からだ。ちょっと変わりどころでは、信教に基づき輸血を拒否した者が未成年者だった場合、医療者が本人の意思を認めるのは15歳以上から、となっている(合同委員会の2008年素案)。未成年者における権利と責任の設定は段階的であるし、私もそれが正当であり妥当だと思う。
そのうえで。殺人行為に対する責任の問い方については、その行為が「重大であるから」境界の設定が引き下げられてよいのではなく、その行為が公的にも私人間でもいかなる場でも明白に「禁止」されており、禁止の規程が完璧に繰り返し繰り返されているから、つまり、「子供でもやってはいけないと理解することが容易で、さらに、この規定が一生覆されることはないから」、引き下げることは可能だ、と私は思う。ただし、引き下げることが可能であっても、加害者の処罰より更生の可能性に掛ける少年法の「精神」を、私は支持する。
 
私は、「子供は【個人】としては容赦ない生き物だ」、という感覚を持っている。社会に出るまでは、集の威力を恃むだけのスキルもネットワークもほとんど保持していないから、そういう意味では無力だと思うが、(※逆にいえばいわゆる「大人」の力の源というのは集の威力に他ならない)、それを除けば、発達していくにつれ個人に根差した欲求と欲望を大人と同等に保持している、と私は思っている。
で、そいじゃ実際のところどうすんの、というとき、私が確認し判断の拠り所にしたいのは、人の「発達」を対象にした科学的(計測的)な見解と、発達の段階に立ち会い続けてきた専門職のかたがたの集合的な知恵と、経験者(すべての人が一度は「少年」だった)の本音の証言の集積と、・・・、あたり、なんだよな。むろん、これだけの証言がそんな簡単に揃うわけもなく、検証され分析され現実に応用され、というのははるか先だろうけれども。けれども、少なくとも、「その事実を知った人の精神に癒えない疵を穿つ、というような衝撃」の後に、そこを見ることも診ることも看ることもできない精神が「祭壇」を「信仰」を繰り返し強化していく、そんなような運動の中に、私は入りたくない。 


 
出産後 同日退院する母親を集めて、医師が今後の注意事項など話す場を見学させてもらったことがある。もうだいぶ昔だが。いまだに忘れられない。
 
巨漢の丸顔の四十歳くらいの「これは子供が懐きそうだな」という風格の小児科医で、子供は体温高いんで一枚着せたいところを一枚脱がせてちょうどいいの、爺ちゃん婆ちゃんの世代はむやみに着せたがるからねえ、一枚着せられたら中に着てる一枚を抜いときなさい、着せてくれた服を脱がしてわざわざ喧嘩せんでいいから、みたいな、共働き家庭が多く爺婆が孫の面倒あたりまえにみているに県民事情に即したウラ技をぺらぺら喋る。・・・この先生、パドの造形に入ったかもな。体型とノリがまんまやんけ。
で、彼が続けて言うには、赤ん坊が泣きだしたら上のお子さんがお母さんにむやみに懐いてきた、ってときは赤ん坊は放っておいていいんです、5分10分放っておいても赤ん坊はどってことない、上の子のほうが気持ちってものがあるのでそっちをかまってあげるんですよ、と。なるほどなーと思っていると、彼は冗談の尾ひれのように、かるーく続けて言った。赤ん坊の事故死の原因で一番多いのは、上の子です。表には出てこないけどね。
しめくくりの話は、「そんなこと言う裁量があなたにあるのか。いや上も認めてるんだよな。へー」と私が驚くことを言った。お母さん達もうどうにもしんどくてダメだとなったら赤ん坊連れてこの病院に来なさい、どっちも病気じゃなくてもべつにいいのいいの、病室だけどね、子供と離れて一晩ぐっすり寝てけばいいんです、それでずいぶん違うもんです、預け先が病院なんだから子供のほうは心配ないでしょ? だと。
 
あのときは、あっけに取られているうちに彼と別れてしまった。しまった。もう一度彼に会えるなら、あの授業のあと、私は彼に頭を下げて握手をお願いしたい。
なんというかな。現場でケースワークを積み上げた専門職の凄みといったもの、組織の強さを活かしながら個人の裁量を最大限働かせる器のありかたといったもの。歳を取るほどに、見事だと思う。
 
ただし。彼が母達に伝えたこと約束したことを、全ての小児科医院で実現できれば(要は「標準システム」として確立させれば)問題は解決するのか、母親は自分の責任を全うすることができ、年上の子供達は(あるかどうか定かでないが)負うた責任に苦しまずに済むのか・・・といえば、私は、それは無理だ、と思う。全ての小児科医で実現することは現実的には難しいから、ではなく、システムとなったその時点で彼が話したことの意味合いが変質してしまう。
固定観念に対しての逆説、一般的な建て前に対しての個別的な本音、本来のルールに対しての例外的な抜け道といったものが確かにあることを隠さずに教えてくれることは、人をほっとさせ、物質面以上に精神面で人を支えてくれる。だが、正に対しての副、補、脱といったものは、副、補、脱だからこそ働くという性があって・・・難しい。
 

 
そもそも性愛を対象にしていたはずの話が、虐待だの殺人だのの話題にまで飛んでいるのは、私のなかでそれらが断絶していないから、だろうが、なんで断絶していないのかは自分でもよくわからん。なんでやろ。
べつに「性愛とは一種の暴力みたいなもの」とか思っているわけではないわのよ。暴力とイコールだったとしても、そこに引っ掛けて虐待だの殺人だのを連想しているわけではない。たぶん。「やむにやまれぬもの」としての性、あるいは虐、あるいは殺、ということだろうと思うのだが。その「やむにやまれぬもの」が集によってタブーとされ個の意識において「無かったこと」にされていく・・・で、その後はどうなるんじゃろ、という。
 

 
以前、光市の母子殺害事件の被告を対象にした記事を読んで、私は自分用にこのメモを付けた。
刑罰,量刑, *永い宿題 『反省とは、罪を認めるとは、こうした悪あがきを散々やって、その極北でようやく可能になること』同感/しかし制度が「その時」を前提に構築されるべきとも思えない。私には、他者の内心への過干渉のほうが疎ましい。
私とあなたとの関係性のなかに、第三者が裁定人として入り、人倫という普遍の価値にもとづいて「反省」「悔悛」といった内心の動きを当然のこととして求めることじたいを、私は否定する。そのような必要はないと言っているのではなく、そのように断罪(裁定)することを許されている人間は存在しない、という想念において否定する。その延長として、司法制度がそんなものを前提に構築されるべきとは思わない。
ならば奪われた者、犯された者、殺された者の尊厳はどうなると問われれば、身も蓋もなく、ヤったほうが反省も悔悛もしないなら、変節した因果応報の観念に照らせば、「踏みにじられたままだ」と思う。
ここでいう変節した因果応報の「応報」は懲罰ではなく、贖罪のこと。社会が懲罰のシステムを保持することは正当かつ妥当だが、贖罪のシステムを公然と保持することには反対する。社会制度として懲罰の代用に贖罪を促すような言説にも同意しない。リンク先の元記事にはすまんですがね。
善悪を定める社会ならば、懲罰というルールは要る。懲罰なしの規程(禁止の文言)だけで善悪を別つことは不可能。で、懲罰と贖罪とを取って変えてはならない。私は死刑に反対だが、死刑が被告の反省の機会を奪うからではない。どのような人も、社会から、公然と、「死ね」と拒絶されてはならない。
なお、宗教者が普遍の価値にもとづいて「反省」「悔悛」といった内心の動きを求めることは、理解できる。また、その言葉に導かれて当人が反省なり悔悛なりすることは、否定しない。自分が得た縁を契機に改心することは当人の勝手であるし、宗教における「改心」は贖罪ではなく自己救済なので。(その目的がたった一人の人間の自己救済だからこそ、宗教者は相手が誰であっても、改心することを強要も強迫もしない)。
 
ここまで、間違いなく私の信条だと思いつつ書いて、もっと上に書いたこの文章を思い出す。
加害者の処罰より更生の可能性に掛ける少年法の「精神」を、私は支持する。
少年なら更生に掛けるが、成人なら「内心に干渉するな」って、おもくそ矛盾しとるやんけ。歳で別けるとしても、そいじゃどこまでが「少年」やねん。
 
「少年」と「成年」の境界ね。十八から二十五あたりのどこかあたり、個人差はある、という感覚だな。成年者と少年とで私の思うところが逆転するのは、少年は発達途上だと思っているから・・・人格形成の途上だから、と言ったほうがまだよいか・・・少年の人格を見くびっているつもりはないんだが・・・途上か。
未熟という言葉に置き換わるとどうだろう。「未熟」か。「成熟」に対置する「未熟」、ふだん私は、未熟という言葉にはそこから脱するべきという否定的な価値づけを、成熟という言葉には望ましい域に達したという肯定的な価値づけを込めて書き現すけれども、この件(少年の更生の可能性)については、「成熟」というものをある種のハンデ(否定的な価値づけ)と捉えている・・・うーん。
 
あかん、他人に通じる言葉のなかに、私にとってのこの件のど真ん中を言い当ててているものが無い。
さて、どうするかな。

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