さて、どうするかな。
他人関せずの言葉を使っていくしかないわなー。
少年はまだ「不可逆」の地点を1度も通過していないのではないか、と感じる。
ん? そうか。不可逆の地点を通過していない者のことを、少年と認識しているのか。
可逆。自の認識、他の認識、世の認識、形成の途上。遡及と組み換えの可能性。
環境・・・というより、彼を包んでいる周縁者の認識の環がそっくり変わるような事態があれば、彼の認識も大幅に組み換わる。いったん退行する期間を要するかもしれないが。少年は自身を「絶対の従者」と確信しているので、変容に向けて上位者から導かれることに抵抗しない(※上位者の選り好みはする。しかし自分を預けられる上位者が必ずどこかに居ると確信している)。認識が変容すれば、他との関わり合いにおいて自身がどう構えるか(あるいは「構えない」か)、対人の感覚というものが大きく変容する可能性も高いのではないか。ないか。途上であるということの可能性。
・・・といったあたりか。
あくまでも可能性で、必ず変わるかはわからん。与えられる風景が変わり対人の認識が変わることで、これまでとは別の道の可能性を開くだろう、というだけで、社会・世間にとって都合よく変わるかは、なおわからん。そんなもん当たり前のことで、それでよい。
ただ、自分の言葉を聞いて対話を結んでくれる、自分の顔色を見て気遣ってくれる、自分のためにあれこれ動き回ってくれる、そのような他人を欠いたうえで形成された三つの認識の内側に少年が居るのならば、死ぬまでその自分を励まし律し続けていくことは彼には苦しいことだろう、私は倫理なき精神じたいを闇であるとは思わない(思えない)が、他なる人から絶たれた精神が死ぬまで自分をひとりで支えていかなければならない苦しさには夜を感じ取る、ひとりの人にそこから脱する可能性が残されているなら、採択されてほしい。
あくまでその余波としてだが、彼の対人のありようが他にとっても平和的に変容する可能性はある・・・少年の更生の可能性とは、そういう「可能性のその先にある可能性」にすぎない、と私は思う。少年法の精神に在る賭けとはそういう賭けであって(というより、そのような賭けであるべきで)、だからこそ私はそれを支持する。
本来は、その可能性を採るかどうかの決定権は、少年自身にある。のだけれども。
その可能性の是非を彼はまだ知らない、また彼は自身の生を先導されることに己の尊厳の毀損をまだ感じ取らない、と私は思っているので、自分のこの認識を前提条件に、「少年の間は自身の変容(更生)の可能性とその是非を彼自身に判定させず、『上』から一方的に与えて善い」、と私は思っている。
これがパターナリズムであることは百も承知。
早熟な人(認識における「不可逆」地点を幼年で通過した人)にとっては、殺したいくらい憎い想念だろうね、これは。
成年者は、ほぼ「不可逆」。いったん確立してしまった自・他・世の認識を組み換えることは至難。三つの認識が互いの位置取りを組み上げて固定し、一つに多少の変化が起きても残り二つが馴染んだ認識の構図へと補正を掛けてしまうんで。
また成年者は、自分はすでに「絶対の従者」から脱したと確信しているので、自分と異なる『上位者』によって自身が導かれることを内心において拒否する。
成年者って、もうそれだけで自己中で頑なでろくでもない者だと私は思う。ろくでもないが、それでよい。
例外の人、例外の状況はある。それは在ってもよいし、無くてもよい。
あー長かったな。やっとここまで来たか。
私がどうにかして表に出したかった言葉はこれ。
少年はまだ「不可逆」の地点を1度も通過していない
成年者は、ほぼ「不可逆」
レイプ礼賛の小説やマンガを、自らのモラルができあがっていない青少年に与えることは、避けたほうがいいのではないか
この文章に肯いてよいか否定するべきか、私は決めかねた。
少年の精神は発達途上だという認識に、私は信を置いている。性において知識不足だ・情動の制御が不十分だ、ということを「発達途上」とわざわざ呼んでいるのではない。認識の枠組みの形成途上だということ。
性における知識不足は、妊娠・感染のリスクを正しく知らないために自身と相手を不本意に(というよりまったく無邪気に)害う可能性があるだろう。情動の制御の未熟さは、ヤッていいと認知した相手に対して性とその周縁で暴力を引き起こす可能性はあるだろう。ただし、性においての知識不足・情動の制御の不十分さが、嫌だと拒絶する相手を物のように犯して動じない精神の根にあるとは、私は思わない。そのような精神があるなら、それはまったく別のところに根を置くだろう。
往来で女性とすれ違いざま「あーヤリテーッ!」と叫ぶ高校生を見たとき、私はとっさに「バカがとおーるー」と思ったが、常識やモラルに欠けるとは感じなかった。
あの少年は『女』を人格を有する精神体と見てない。ポスターかなんかに叫んでるのと一緒ですわな。で、そのへんは少年に限った話ではない。少女が他人に「キモい」の「ウザい」の直弾で放言するのも似たもんだと思う。
それをモラルが無いと呼ぶんじゃないのかと問われれば、まあそーかもしれないが、私にとっちゃもっと手前の話だ。モラルなんてそんな集に属する話ではない。個人の目ん玉に何が映っているかという話だ。人は海老や蟹を痛覚を有する生命体と視ていない、みたいな話だ。視ていなくとも、あれを情けに欠けるとは一般的には言わん。私は生け簀で動くズワイガニを見て遠慮なく言う、「わーウマソーッ!」。あんな感じだろう。蟹と女性を一緒にしているんじゃなくて、言っている奴の言っている瞬間の精神に違いが無いという話ね。
少年を黙らせる手はある。「往来でそんな恥ずかしいこと言うもんじゃない」「女性にそんな下劣なことを言うものではない」と締め上げる。前者よりは後者の方が女性を女性として尊重しているように聞こえる。しかし「禁止」としての刷り込みにはなるだろうが、眼の前に居る相手はいったい何者であるかという眼差し、どのような相手も自分と等しく恥も痛みも怒りも備えた人であるとしたらという制御、を、少年に獲得させはしない。
少年に限った話ではなく、そいつを獲得した大人だってそう多くはない、と私は思う。私はまだですわ。
「発達」「境界」「段階的な自立と権利の解放」あたりの思考フレームをかなり信頼している私でも、男が女の性を、女が男の性を、自分のそれと同等に尊重して捉えられる年齢帯が発達のどこかで必ず備わっていて、どの人にもそれが自然に訪れる・・・とは思わないんだな。
性犯罪の加害者の大多数が成年であること、成年の近親者による性的虐待の暗数がどれだけあるかということを考えると、そのような意味での性の「適齢期」があるのか、私はだいぶ疑問だ。
もし「適齢期」というものがあるなら、それは、自と他の間を密着させずに、ある種の疎遠さを置いた観察によって相手(人格)を視図ろうとする、そのような「間」を少年が覚える時期だろうと思う。なんでそれが適齢期なのかというと、仕入れた情報のアレコレで妄想がパンパンに膨らんでたとしてもせつなく触れないから。たまに「ヤリテーッ!」くらいは叫ぶかもしれんけど。
少年期に、男が女をモノ扱いでヤりまくる創作に触れまくることで、女をモノのように視る認識が形成されるのかどうか、正直 私にもわからない。ただ、そこに描かれている・騙られている内容よりも、それへのメタの認識がどうあるかの方が重要ではないか、という感はする。で、まえーに書いたコレ、
つる。つれづれ。ずらずら。#2
(3)「女性を対象にした凌辱表現じたいが差別表現であり、差別の構造を強化している」
女性への性暴力を肯定するような表現じたいが女性への差別意識無しには生まれないとして問題とする意見。表現行為、表現が流通すること、表現の流通が(暗黙の通念としてでも)社会的に是認されていることが女性に対する有形無形の社会的な差別を固定し、ことに性暴力への公正な処罰と改善を阻む一要因であるという問題認識。女性一般、とくに被害経験を持つ当事者に対する(精神的な)加害行為であるという論もあり。
この論点は最も重要、さらに誤っていない、と私は思っている。
表現内容の猥褻性・暴力性以上に、その流通のありようが暴力的になることに私は同意する。この点については、「創作だとわかって読んでいる、現実にはなんの影響もない」という享受者の弁明は意味がない。享受者が現実と虚構の区別が付いていることは前提、享受者が現実に事を起こすことはまず無いということも認めたうえで、「現実にはなんの影響もない」と言い切ることは、私には嘘だ。
一方で、こうも思う。
眼の前に居る相手はいったい何者であるかという眼差し、どのような相手も自分と等しく恥も痛みも怒りも備えた人であるとしたらという制御、を、少年に獲得させはしない。
そもそもこの感覚を早く獲得する人こそ稀だ、と私は思う。
そうして、そこに至る幾つかのルートのひとつに、自と他と世界の認識を組み上げるただなかで異性とのただならぬ性を通過する道なりがあったのではないか、と思ったりする。不可逆の地点を通過するその前、「少年時代」に。
異性にまつわるなんらかの五感(身体)の記憶と言葉の記憶とその他のあらゆる記憶とが十分に馴染んで醗酵するような年齢に達したとき、あるいはそれは三十代、四十代といった年齢かもしれないが・・・その可能性が開くかもしれない、などと思う。
過去形なのは、いまのこの国で十代でそんな豊かな性を通過できる人っていないんやろな、と思うからさ。
私は少年時代の記憶がたいへん乏しい。身体のほうも、言葉のほうも。それを悲しくも寂しくも思わないが、その時代の記憶がもっと豊かだったなら現在の私の対人感覚はどれほどの厚みで茂っていただろう、という「if」を、きっと死ぬまで持ち続けるだろう。
過激な性表現を規制することそれひとつを切り出して、妥当かどうかと論じることに、私はあまり意義を見いだせない。
少年たちはそもそも滅多に触れることができない。それはお上に禁じれらているからではなく、自身が育ちゆく過程に芽生えるすべての人への畏れによって、うかうかと触れることはしない。そのうえ、視ることは罪悪であるとされたうえで、視ることもできなくなるのか。
視ることができないこと、が、決定的に問題なのではない。その施策に確かな思想も含まれていることは理解しているつもりだ。それでも、私には「ああそれはダメだ」と思える。行き詰った環をさらに行き詰りへとまたひとつ廻すのか。そんなような感じなんだ。
創作する愉しみは、たった自分ひとり、自分ひとりよがりの環をコツコツと創りあげるところにある。創作の素晴らしさは、自分ひとりの環が、なぜだろうか、私を無視し続けてきた世界の環との結び目を得てしまう、その不思議さにある。その時がいつ来るか、どのような創作を通して来るかなど、誰にもわからん。
創作を規制してはならない。創作する者ならば、いっさいに先んじて言ってよい当たり前のことだと、私は思うのだが。