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えっと、今回はちょっと趣向が違います。
前回「ついでにしてはいけない話。」にトラックバックを頂き、大変に嬉しく思ったのですが、
まっこっとに残念ながら「?」がついてしまい、しばらく悩みましたが、僕もウルトラ半可通歴
30数年のへっぽことして、やはり一文差し上げねば、という思いに至りました。
返信欄には長いので、私信の形でここに書きます。では。
お手紙のお相手は
「平和党政策会長 木村重成のチョット言い過ぎですか?!」というブログで
タイトルは「ウルトラセブンの場合の正義と悪と戦争と」です。
http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/3760854.html
(こっから内容スタート。僕のご挨拶は返信欄に。よって略。)
まず、ウルトラシリーズ初期3部作と言われるQ、マン、セブンに共通しているのは
「物事を善悪2言論で見ること勿れ」とも言えるような視点の多様性であり、この点こそが例えば
基本的に復讐譚である「仮面ライダー」シリーズ等との大きな違いで、単純に善玉⇔悪玉、
怪獣⇔人間(側)と割り切れない点が大きな違いであると断言できます。
一つ一つ細かくエピソードを挙げていくのはしませんが「Q」ならラルゲユウス、巨大カメ、
ピーター、カネゴン、「マン」ならヒドラ、ジャミラ、ウー、ゴモラ、シーボーズ、
スカイドン、「セブン」ならペガッサ星人、ノンマルト、キングジョー(「ウルトラ警備隊が
望んでいるのは宇宙全体の平和なんだ」「そう思っているのはウルトラセブン、貴方だけよ」)
ギエロン星獣(<兵器開発というのは>血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ)等、
自らの拠って立つ正義、もしくは存在理由に疑問を感じているエピソードは枚挙に暇がありません。
そればかりか、意外に語られませんが「マン」における大スター「バルタン星人」初登場の際には、
ハヤタ隊員はバルタン星人との地球での共生の可能性すら示唆しています。
こういった世界観が醸成された理由としては、当時の円谷プロの文芸部のトップであった
金城哲夫氏が沖縄出身で、パスポートを持って上京してきた時代の方であったこと
(敗戦処理にあたって本土が沖縄をある意味見捨てた事実を肌で知っていた。当時沖縄は返還前)
ウルトラシリーズを発想するに当たって下敷きにしたであろう50年代のアメリカSFが丁度、
赤狩りやウーマン・リブへの嫌悪、恐怖、罪悪感等がないまぜになっていた頃で、いわゆる自分の
立ち位置を問い直すような風潮に合った事が挙げられると言われています。
ただ、確かにシリーズが進むにつれ、若手の裁量権が増えるに従い、次第に倫理的な息苦しさが
増大した感は否めず、どことなくほのぼのした「Q」に比べ、自己に対して懐疑的な「マン」を経て
「セブン」に至る頃には重苦しい「それでもやらなきゃ、やられるんだから!」と言わんばかりの
悲しい認識が横たわっていたのは事実であり「子供の為に」といった視点が薄れて「今自分が書き
たいこと」へシフトされていき、視聴率も低下して結局「セブン」で一旦シリーズは終了しています。
そういった作品に触れたその頃の子供は長じて、いくらアメリカが「アメリカの為の正義」を
振りかざしても「そっかなあ?でもそれはアメリカの正義でしょ?」と考えているように思っています。
それどころか「僕って…私って…」的な事ばかり言って挑戦する前から挫折するような、
オールタイム修正主義みたいな雰囲気が現代日本には蔓延しすぎているようにすら感じています。
すいません。論点がずれました。
70年代初頭だったと思いますが、大江健三郎氏が「破壊者ウルトラマン」という一文を週刊誌に
掲載し「崩れたビルの中にいる人の悲しみ」的な事を書いてましたが、正直「世界平和のためなら
人類絶滅オッケー!…悲しいけど?」とでも捉えるしかないような、全くとんちんかんなへぼPTAの
ような印象でした。怪獣とヒーローの番組を文中あちこちで間違えてたし。
僕がブログに書きたかったのは、ウルトラセブン中のあるエピソードが「封印」される段階において、
どうもあんまり健全もしくは切実と思えない「思想未満」が紛れていて、それがなんだか嫌だなあ。
ということです。
多分、これから世の中は悪くなっていくように思いますが、そんな中でもご先祖を敬い、子孫が貧乏
でも楽しく暮らせるように、例えば「ウルトラ」で培った創造力、想像力でしょぼしょぼでもいいから
しぶとく生きていきたいもんだと思います。
最後に。怪獣を殺さずに宇宙に返したり星にして子供に会えるようにしたりして、圧倒的に
優しかった(世界観に優しくする余裕があった)のは「セブン」ではなく「ウルトラマン」です。
そこだけは、すいません。よろしくお願いいたします。長文失礼しました。
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