モンモのコラムワールド

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タンクレディ、第一次十字軍の若き英雄

         今なおヨーロッパ人は、・・
      信義に厚くそれでいて若々しい、永遠の若者を想い起こす
                                                     (塩野七海)
                                       イメージ 1
                                          (塩野七生 『十字軍物語1』 新潮社)
 第一次十字軍によって作られた十字軍国家は、東地中海に面して北からアンティオキア公領、トリポリ伯領、イェルサレム王領、そしてアンティオキア公領の東に隣接するエデッサ伯領からなっている。
 
法王ウルバンの提唱で始まった十字軍。ヨーロッパの諸公がビザンチン帝国を経由し、陸路イェルサレムを目指し途中エデッサ、アンティオキアを攻略しながら南下をつづけ、わずか3年で1099年7月15日、念願のイェルサレムを解放したのだった。
 
 その支配を確立しようと、地中海に面した諸都市を制覇していくが、最後に残ったトリポリを1105年、その周辺地域を平定し、1109年に攻略は完成して、十字軍国家の成立を見る。
 
【諸侯たち】
 
これらを成し遂げた主な諸公は次のような人々であった。
指揮系統の一元化は、最後まで図られなかった軍である。
 
・人望はなかった。5万の軍勢を擁するトゥールーズ伯のレーモン・ド・サン・ジル(54歳)。
他の諸公と対立ばかりして、戦略眼にも欠けるこの人は、しかし最後に、アンティオキア公領とイェルサレムの間にあるトリポリを1105年に攻略し、63歳で死ぬ。トリポリ伯領は、息子ベルトランとその子ポンスへと引き継がれる。
 
・自然に総大将と目されることになるドイツ北西部のロレーヌ公のゴドフロア・ド・ブイヨン(36歳)と弟二人ユースタスとボードワンA(30代)、そしてもう一人の従兄のボードワンBたちが率いる騎兵1万、歩兵3万。
          *ボードワンは二人出てきて紛らわしいので、ゴドフロアの弟をA、従兄をBと書いた。
 
 十字軍が初めに攻略した要地エデッサをボードワンAが統治、1099年イェルサレム解放後、ゴドフロアがイェルサレムの実質的な初代の王となる。本人は最後まで王ではなく「キリストの墓所の守り人」と自らを呼んだ。この時39歳、そして1100年7月に亡くなる。

・南イタリアノルマン一族で、自分たちの広大で豊かな国が欲しかったブーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラ(47歳)と甥のタンクレディ(22歳)率いる精鋭の騎兵1万、歩兵2万。
 
 ボエモンドは、1098年にアンティオキア公領の統治者となる。この時49歳。このボエモンドに従って十字軍に参加したのが甥のタンクレディである。この時彼は22歳にしか過ぎなかった。
 
合計10万を超えるが、実際には5万程度とされた軍勢である。
 
【ガリラヤの雄】
 
 エデッサ攻略の前、アンティオキア公領に属するキリキア地方をタンクレディは、ボードワンAと共に平定し、犠牲なしにタルソスを占拠する。
 アンティオキア戦では補給を目的に西方の海港獲得、ボエモンドの指示で、アンティオキアをボエモンドにとられて、機嫌を悪くして先にイェルサレムに向けて出発したサン・ジルのお目付け役。
 
 イェルサレム解放戦では、攻城用木材を調達したり、その戦の主力を担う。解放後、自分の兵24騎の寡兵で、ガリラヤ平定に乗り出す。ガリラヤ湖畔のティベリアスをこの一帯の首都とし城塞都市化をはかるのである。
 
ティベリアスは、イェルサレムの防壁となる。西にはアッコンハイファの港へとつながり、東へはイスラムに対する最前線となる。城塞化したティベリアスは、87年後サラディンが、攻略を諦めたほどの砦となるのである。
 
 ガリラヤ制覇中彼は、イスラムの住民主体の町ならイェルサレム王国に属すること、年貢金は支払うことを条件に、逃げた住民の帰還を認め、カトリック以外のキリスト教徒も、王国の一員として住み続けることを認めた。
 
24騎という寡兵を逆手にとったこの戦略は成功する。
いかに堅固な防壁を作っても、住民の協力がなければ「防壁」にならない
ガリラヤ地方を一年で制覇し、この地方統治の公爵に任じられる。この時タンクレディ24歳。
 
【東へ西へ】
 
 1100年7月十字軍の中心、イェルサレムの「キリストの墓所の守り人」ゴドフロアが死ぬ。
エデッサの弟ボードワンAは、従兄のボードワンBにエデッサを託し、イェルサレムに入りボードワン1世となる。
 
 アンティオキアのボエモンドが、小アジア内陸へ攻略行の最中、スルタン・ダ二シメンドに捕まり、黒海近くの二クサルへ連れて行かれる。
タンクレディは、ボードワン1世の要請で、ガリラヤからアンティオキアの統治へ赴く。
 
そして、ボエモンドが帰ってくると、今度は、エデッサのボードワンBがイスラムの捕虜になり、タンクレディはその間、1107年にボードワンBが戻るまで、エデッサの統治の代行者となる。まだそれでも29歳。
 
【イェルサレムの盾として】
 
 しかし、西欧からの軍隊も、続いた戦いによって兵力は減少した。
ボエモンドは、タンクレディをアンティオキア公領の執政に任じ、ヨーロッパに戻って再度の十字軍を要請するが、ビザンチン帝国との、「アンティオキア公領を帝国配下」とする条約に署名したことで評価を下げ、失意のうちに61歳で1111年に亡くなる。
 
 タンクレディは、ビザンチンのこの条約を持って訪れた使節を、一笑に付して追い返したものの、彼は近づいた死期を悟り、最後に十字軍国家のため次のような4つの手を打つ。
 
・ボエモンドの捕囚仲間であったリカルドの息子、騎士ルッジェロを、ボエモンドの息子が来るまで、アンティオキア摂政に任じる。
・ルッジェロとエデッサ伯のボードワンBの娘と結婚させる。
・ボエモンドが連れてきた、タンクレディの妻セシリアを、自分の死後トリポリ伯領のポンスと再婚させる。
・ルッジェロの妹マリアと、ボードワンBとイスラムに捕えられてその後ガリラヤにいた、騎士ジョスラン・ド・コートネーを結婚させる。
 
 こうして、イェルサレム王国に、縁戚によるネットをかぶせ、自分の死後、アンティオキア、エデッサ、トリポリの領国の安泰が機能するように図った。イェルサレムのボードワンには、その後6年間、そのおかげで北を心配することなくエジプトとの戦いに専念することができた、最高の贈り物となったのである。
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 こうしてタンクレディは、十字軍に参加して約15年の波乱万丈の生涯を、1112年12月、36歳の若さで閉じたのである。
 
 とかく活動的で、キリキア地方を制覇した時などは、ボードワンとともに「チンピラ」とまでいわれた。
ビザンチン帝国皇帝の意地悪には徹底的に反発し、サン・ジルと反目し、ボエモンドやボードワン一世にいいように使われ、自らの領国を持つことはなかった。
自分が制覇したガリラヤですら、ボードワン1世にていよく追い払われる始末だ。
 
しかし、そんな彼も、人生の最期に十字軍国家の北に人の「縁戚ネット」をかぶせ、深謀遠慮を見せて死ぬ。
 
あ〜あ、と思う。彼の年齢を遥かに超えてしまったのに、彼が残した「歴史」に遠く及ばない。
 オペラで、見た人もいるかも知れないが、ヨーロッパでタンクレディは、「若さ」の象徴として根強い人気を保っているという。
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【出典】塩野七海 『十字軍物語 1』 新潮社 2010年

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