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公害は、特に経済成長期に、成長の代償を国民へ、しかも局地的に強くおしつけた側面が強い。
企業にも行政にも、おそらく明確な「加害」の意図、意識はなかったのかもしれないし、それぞれが、それぞれの立場で知恵を絞り、全力を尽くした結果なのかもしれない。
しかし発生した公害、それに苦しむ方々の存在は事実であり、予見はできなかったのか、何らかの規制や自己統制はできなかったのか、という問題は残る。
歴史に学び、同じ過ちを繰り返さないことをもって、将来への価値ある財産とすべきである。
<各アクター間における構造的特質>
1) 企業犯罪的公害
公害病の重症患者の多くは、不自由な生活を強いられたり、また職場を失い、たとえ補償金をもらっても健康な身体に戻るわけでもなく、ましてや、亡くなられた方々の大切な生命が補償金によって蘇るわけでもないことを、改めて企業も行政も考えるべきである。「予防原則」という言葉の意味を深く考えるべきである。
2) 企業癒着行政
公害問題は、行政にもその責任がある。企業の犯罪性と、それを容認、擁護した政府、自治体そして一部学会、有識者などの三位一体性と、無責任性が、その後の公害問題解決を、長期化させ、悲惨なものにした。また、企業と行政とのとは、戦後の高度経済成長期、地域産業開発にあたり、国・地方自治体の企業工場誘致運動の推進により、癒着関係がいっそう深まったと言える。
いったん公害問題が発生すると、企業側に立ち、公害問題の事実隠蔽、責任の回避、問題の先送りなど、しばしば住民運動と対立することになる。その結果、公害は大きな社会問題であるにもかかわらず、その後の多くの公害問題に対しても、貴重な教訓として活かされることがなかった。戦後の日本の驚異的とも言える経済成長は、公害など社会的損失を企業が負担せず、そのほとんどすべてを国民に転嫁することによりなされたと言っても過言ではない。
3) 企業城下町的体質
ある企業が、地域社会において経済的に多大な影響力をあたえる場合、また地域の公益企業である場合には行政(政府・自治体)との癒着体質以外に、地域住民の企業依存的構造がある。いわゆる「企業城下町」と言われるものである。
これらの企業の場合には、自分や家族、友人、知人などの関係者が勤務している企業であることも多い。したがって“責めない”意識が主観的に存在して客観的な事実に目をむけられないという縛りがある。
※多額の一時金、見舞金が企業から被害者やその家族へ支払われる場合、子息の雇用の約束等が見返りとして保障される場合には、かえって「よい企業」と評価される事例も存在する。
主観的な価値観が存在する場合、企業や行政の対応の仕方によっては、被害者にとってより悲惨な結果を招く。公害により何らかの発病をしても、原因不明の奇病として片づけられ、企業・行政にとって不利益な情報は、噂話でさえタブーであり、たとえ公害病とわかっても、被害者は満足な救済を受けられず、それどころか、公害病と認定されれば、いわれのない誹謗中傷により、本人はもとより家族の結婚や就職問題にまで影響するのである。
患者、被害者に対して社会的な救済の制度や、救援の世論がない場合、被害者は絶望的な孤立感の中で、沈黙するしかない。過去の公害事件では、自ら名乗り上げることなく、ふるさとを離れた被害者も少なくない。このことは補償対象となる患者の正確な「いつ」「何人」「どこに」「どの程度」を特定させることを困難なものとしている。
あわせて、多くの公害患者に共通して言えることであるが、行政側の救済制度をはじめ公害対策の整備と、国民の公害患者に対する理解と、支援、公害反対の世論がなければ、被害の実態さえ明らかにならないのである。
―それでも同じ過ちを繰り返す―
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