藪井竹庵

「コメントの承認後表示」なんてのは、熱さに懲りてナマスを吹くの例え同様に、頓珍漢な事だってのが判らないのかなぁ。ご常連のコメを第

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芝浜

イメージ 1 暮れになると良く演じられる落語に「芝浜(しばはま)」と云うのがある。圓朝が三題噺として、「酔漢」、「財布」、「芝浜」の題で即興で作ったとされている。この演目を落語の大根多だなどと云っている連中がいるが・・・私はそうは思わない。こんな演目を後生大事に改作したりする連中の気が知れない。どうせ碌な演目じゃないんだから、志ん生や可楽のように短くすっきりやった方が、後味がよい。こんなロクでもない演目を暮れに25分以上聴かされたら、正月は気持ちが悪くて寝込んじゃうよ。
 
 このブログにお出でになってコメントをお書き下さる方なら、この演目の内容はご存知だと思いますので、面倒臭いからあらすじは書きません。こんな三流演目のあらすじなんか、書きたくもない(^ω^)
 
 何故私が殊更にこの演目をボロ糞に云うのかって〜と・・・落語を知りもしない連中が、この演目をたいそうな演目のように云うからです。この落語の内容をよくお聴きになってみて下さい。ウソばっかりですよ。こんな二時間ドラマがあったら、誰だってボロ糞に云う筈です。
 
 先ず最初に、東京の魚河岸は築地であり芝ではない! ・・・もちろんこれは注意を喚起する為の「つかみ」であり、ジョークです。現在の東京の魚河岸がある築地は、江戸時代には浅い海でした。その場所を埋め立てて、つまり築地(つきじ)して作ったのが現在の魚河岸です。江戸時代にあった魚河岸は、日本橋と芝です。
 
 江戸北部に居住していた棒手振り(ぼてふり=長屋に居住し店舗を持っていない一心太助のような魚屋)は日本橋に買出しに行き、南部に居住していた魚屋は芝の魚河岸に買出しに行きました。ですからこの部分は問題はありません。
 
 問題は、演者によっても金額が多少違いますが、一般的には50両入った財布を魚河岸の浅瀬で拾います。50両と云うのは現代の金額に換算すると400万円です。江戸時代の物価水準は現代とは違い、一両(8万円)あれば一年間暮らせたと云われているほど、物価が安かったので、生活保護者が月に12万円も貰っている現代の感覚から云えば、50両の金額とは、五千万円以上に相当したのではないかと思われます。
 
 そう云う大金がなんで、芝の魚河岸の浅瀬に落ちていたのか? 財布に入っていた金種は噺家によっても違いますが、一分銀(二万円)とか、二分銀(金=四万円)と云う金属貨幣です。ですから、正確な重量は判りませんが少なくとも、1〜3キロくらいの重量があったはずです。つまり、それだけの重量がある財布は、海の中を流れて来る筈はありません。道路とは違って芝の浜とは魚屋しか出入りしない特殊な場所なんです。
 
 魚河岸に買出しに来る魚屋のほとんどは長屋に住む棒手振りの貧乏人ですから、五千万円もの金が入った財布を持っている訳はありません。ですから、芝の魚河岸の浅瀬に50両入りの財布が落ちているなんて事はあり得ないんです。よしんばあったとしても・・・女房が拾った金を大家さんの助言で番屋に届けているので、落とし主が現れないなんて事はないんです。
 
 それを考えたら、「鰍沢」の展開と同じで、インチキ極まりないストーリーなんですよ。でも・・・それを感じさせない語りってのがまた落語の醍醐味とも云える訳ですね。こんな演目をお涙頂戴モノみたいな人情噺風に持って行く噺家の気が知れない。バカじゃないの? そんな落語センスのないヤツはとっとと噺家を廃業したり、死んじゃって下さい。耳障りで気分が悪くなる。
 22:48 芝浜 / 三笑亭可楽
 データ・・・八代目 三笑亭可楽 明治31(1898)年1月3日〜昭和39(1964)年8月23日 享年66 前名=六代目 春風亭小柳枝 出囃子=勧進帳 本名=麹地元吉
 
 これが今年の最後の記事です。これ以上の後出し記事はありません(^ω^)
 本年は、ウチのようなどうしようないブログにおいで下さりあたたかいコメントを下さってありがとうございました。今年は暮れになって不注意から肩を負傷すると云うアクシデントがありましたが、なんとか明日の初日の出が見られそうです。
 
 まだ今年は終わってませんので、皆様もくれぐれも注意をなさって、財布を落としたり怪我をなさいませんように慎重にお過ごし下さい。そしてまた来年お会いしましょう。どうぞよいお年をお迎え下さい(^∇^)

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芝浜ほどこんなに人気のある演目もないかもしれませんね。だから今の噺家さんが良くかけているんだと思います。
東京の地理についてはあまり知らないのでこれから勉強するつもりです。落語を聴く上ではとても大事なことだと思うのでこれからいろいろと知っていきたいです。

2011/12/31(土) 午後 5:35 [ えび助 ]

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*えび助君。。
芝浜と云う演目が何故人気があるのかを考えると・・・女房のトリックの意外性にあると思います。
先代 圓楽が国立小劇場で引退宣言した時の演目がこれだし、石原都知事のような落語の事をまったく判ってないようなヤツが、談志の鼻持ちならない芝浜を絶品だと云ったりしてますが・・・何を云ってんだと私は云いたい!

テメェらは落語をぜんぜん理解していない。三木助の芝浜は、まあまあのニュートラル。圓楽や談志の芝浜なんて聴くに堪えません。三木助よりもすっきりと上手くまとめているのは、志ん生と可楽だけです。これは「子別れ」と云う演目に付いても云える事です。落語を理解できない連中は、とっとと噺家をやめて欲しいと思います。

2011/12/31(土) 午後 6:40 藪井竹庵

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確かに志ん生師匠の芝浜はすごくあっさりしていますね。まだ三木助師匠で聴いた事がないのですが談志さんのなら聴いた事があります。談志さんの芝浜はなんか臭いんですよね。どうも今の噺家さんが人情話をやると臭くなりがちです。

2011/12/31(土) 午後 6:46 [ えび助 ]

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ありゃ、今、志ん朝師匠の芝浜をブログで紹介したばかりです・・・
談志師匠のはあげたいとは思わなかったもんですし、最近、志ん朝師匠にはまっちゃったもんですから。でも、実はあっさりしてるのが好きなんです。
年が明けてからも、いろいろお教えください。よいお年を!

2011/12/31(土) 午後 7:39 [ けんぱ ]

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芝には夕市場(かし)はありましたが、朝の市場は無かったので、そもそもそこから破綻しています。
同じ、夕市場は深川のもありました。それに時間の矛盾もあります。
馬生師はそこのところを語っていましたね。
でも、まあ暮れの風景の一部なら良いのでは無いでしょうか?
志ん生師のは女将さんがいいです!断然!
今年も大変お世話になりました。来年も宜しくお願い致します。(^^)

2011/12/31(土) 午後 7:41 shobuen2

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今年は余りゆっくりできませんでしたが、楽しい時を過ごさせていただきました。
私みたいに何も知らないものには落語の解説はとても新鮮でした。
来年もよろしくお願いいたします。

2011/12/31(土) 午後 9:26 ちろ&チロの冒険

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藪師匠、
たっぷりと聞かせて戴きました。
有難う御座います。

2011/12/31(土) 午後 9:37 エキ

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こんばんは〜^-^いつも大いに学ばさせていただいております^^楽しんでおりますがいかんせん時間がなくて済みません
こちらこそ今年もお世話になりました。来年も宜しくお願いいたします^^ポチ!!

2011/12/31(土) 午後 9:59 右 近

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*えび助君。。
何でもかんでも落語をこねくり回してやろうとする人がいるんですけど、三題噺ってのはそもそも、寄席の余興で、思い付きで30分〜一時間くらいで作ってやる落語です。演目として評価できるものはその後に、多少の調整はするんですけれど、所詮は即興で作った落語なので、大幅に改編しない限り設定等には無理があるんです。

そんな演目は元々たいしたものではないので、軽い滑稽噺として演じるのが一番なんだと思います。d志の工夫なんて、s喬とたいして変わらなくて、臭いだけで、そもそものこの演目の面白さを台無しにしていると思います。名人と云われる人の語りには、臭さを感じされるものはまったくありません。臭いと思わせるのは、演目に対する理解が足りないんです。

2012/1/1(日) 午前 6:03 藪井竹庵

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*けんぱさん。。
若い頃の志ん朝の動画を持ってるので、それにしようかともふと思いましたが、加工するのが面倒臭いので、あまり知られていない可楽の音源にしました。ベスト盤はもちろん志ん生ですけどね。談志の映像も持ってますが、女房の語りが臭くてまるでなってない。この演目は大晦日の演目なんですから、聴き終わった後にすがすがしさを感じさせないようではダメです。

2012/1/1(日) 午前 6:04 藪井竹庵

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*菖蒲園さん。。
えっ? 芝は夕市だったんですかぁ?
今は電気があるから夜明け前の暗いうちに競りが始まりますが、江戸時代は明るくならないと、船を桟橋に付けるのは難しかったんでしょうね。だから明るくならないと問屋のシャッター(^^)は開かない。

日本橋と芝の魚河岸の住み分けの研究はしてないんですが・・・江戸時代の物流ってのは、馬車に拠る陸運よりも、船に拠る海運の方が市場に運ぶような大量の物流は主力だったんだと思います。日本橋の魚河岸へは主に利根川を利用した川筋を舟で運んできたのではないか? 銚子漁港から房総半島の千倉を回って江戸湾に入ってくるんじゃ時間が掛かりますからね。

芝の場合は、主に相模湾からの入荷だったと思います。可楽さんはこの演目で、房州からの船だと語ってるんですが・・・月夜でもない限り、灯台の無かった時代に真っ暗な夜間航行は危険だと思うんですけどねぇ(^ω^)

2012/1/1(日) 午前 6:05 藪井竹庵

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*ちろちゃん。。
忙しい現代では、なかなかゆっくりと落語をお聴きになる時間もないと思いますが・・・だからこそ、たまには落語でもお聴きになって生活にゆとりを持っていただきたいですね。

2012/1/1(日) 午前 6:06 藪井竹庵

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*エキやん。。
すぐに直ると思っていた右肩の打撲も、なかなか直らなくて往生しておりますが、エキさんの足同様に、早く直りたいですね(^∇^)

2012/1/1(日) 午前 6:06 藪井竹庵

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*右近さん。。
せかせか暮らしても、のそのそ暮らしても、時間は同じように流れて行きます。ゆっくりと余裕を持って暮らしたいですね。

ヤブーブログのお題で「今年の抱負」ってのがありましたが・・・私が第一感に浮かんだのは・・・「今年の豆腐」って洒落で、豆腐の記事を書く事でした〜(^ω^)

2012/1/1(日) 午前 6:07 藪井竹庵

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藪先生
あけましてお目出度うございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年も宜しくお願い致します。

芝の魚市場は夕市だったのです、江戸の川柳にも「芝の夕鯵」として沢山詠まれています。
詳しくは先生もご存知のこの方のHPを御覧になって下さい。
本等ではもっと詳しく書いた本もありますが、ネットではこちらがやはり詳しいです。芝の市場は享保の頃出来たそうです。(^^)

http://ginjo.fc2web.com/004sibahama/sibahama.htm

2012/1/1(日) 午前 6:51 shobuen2

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あけましておめでとうございます。
この記事、見逃していました。
談志家元にお怒りの藪さんですが、私は、最晩年の感情むき出しの談志演出を支持します。ただ、あの演出は、聞いた後疲れます。
三木助師匠などを聞くと、ゆったりさせられますね。

昨夜は、年をまたぐ前に「御慶」を聞いて寝ました。

よい年でありますよう。本年もよろしくお願いします。

2012/1/1(日) 午前 8:10 キャバン

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*菖蒲園さん。。
いやはや、菖蒲園さんと云う強力な味方を得て、藪のぞろっぺな思い付きの落語記事も、改編するごとに充実して行くように思えます。

八年前に私を打ちのめしたあの方の記述を引用しますが・・・

しかし、芝の雑魚場は、昼に水揚げされた小魚をその日の夕方から始まる魚河岸で取引され、「夕河岸」と呼ばれ日本橋の河岸の様に早朝からは商われなかった。
・・・と言うことは、即席話で創られたときの魚河岸=早朝という誤解で、勝五郎がどんなに寝坊して河岸に行ってもまだ問屋は閉まっていたはず、この話が実証的には成り立たないのであるが、話の構成の素晴らしさにこの事も忘れて、楽しむことになります。

勉強になりました。今年もいろんな事を教えてくださいね(^∇^)

2012/1/1(日) 午後 7:07 藪井竹庵

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*キャバンさん。。
談志は確かに凄い噺家だったに違いないんです。
でも情緒に流されずに彼が噺家としてやってきた事を考えると、終始一貫していないと思いませんか?

78歳に近かった高齢の圓生が、小さん会長の落語協会が二ツ目を数多く真打ちにするって事だけで、頭に来て落語協会から脱退して三遊協会を作ろうと思ったなんて考えられないんですよ。

どう考えたって、圓楽と談志がクーデターのシナリオを書いて、圓生を担いだとしか思えないんです。クーデターが成功しなかった理由は、三遊協会の会長を志ん朝にしようと圓生が考えていると知った談志が、当初の計画を裏切って落語協会に残留した事です。

あの時に談志が参加した三遊協会が出来ていれば、三遊協会は少なくとも新宿末広亭の興業は確保出来ていた筈です。圓楽の腹積もりでも、新宿の高座には立てると思っていたはずです。でも談志が参加していない三遊協会は、鈴本の席亭と、芸協の米丸会長の横槍で、東京の定席から締め出されてしまいました。

2012/1/1(日) 午後 7:08 藪井竹庵

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*続き。。
その後の圓生一門はご承知の通り落ち目の三度笠で、ドサ回りを余儀なくされ、あの稀代の名人圓生は失意の内に一年で亡くなりました。

つまり、圓生を殺したのは談志であり、現在の東京落語をダメにした張本人は談志だと私は思っているのです。

談志を天才だなんて云ってる連中は、落語の事なんか何も判ってないんです。談志は東京の落語界に必要な人間だったのかと云えば、まったく不必要な人間だったと思います。

30年後の人が談志と云う人間を思い出してブログに記事に書くかと云ったら・・・ノーだと私は思いますね。つまり、談志とはウチが取り上げている大師匠のレベルにはまったく達していない小者でしかないんです(^ω^)

2012/1/1(日) 午後 7:08 藪井竹庵

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芝浜を妙に芸術的な作品として「見させる」ようにしたのは三木助可愛やの安鶴の悪い一面の一つでしょう(別に安鶴のすべての業績を否定するつもりは全くありませんが)。
しかしこの演目は当然この可楽や志ん生のようにサラッとやってくれないと、胃にもたれます。
「圓生を殺したのは談志」まさにその通りですね。この件についてはいずれまた取り上げて私も書きたいと思っています。

2012/1/2(月) 午後 10:42 amenotajikaraonomikoto

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自分も「芝浜=大ネタ・人情噺」というイメージを先に叩き込まれた口なので、後年志ん生さんの「芝浜」を初めて聴いた時には、そのあっさりと、そしてすっきりとした噺の運び方に、一種の新鮮な驚きを感じたものです。
何故「芝浜」が現在「大ネタ」になったのかというと、憲坊法師さんも指摘されている通り、やはり三木助さんがこの噺を「出世作」とした上に、その三木助さんを猛烈に後押しした安藤鶴夫さんの存在が大きく影響しているのでしょう。
それに対して、志ん生さんは「大ネタ」や「人情噺」といった感覚では演じていなかったと思います。寧ろ、「飲んだくれの魚屋が財布を拾う“だけ”の噺」として演じていたのだろうし、また、「火焔太鼓」や「替り目」のように夫婦を描いた噺の一つとして演じていたのではないかとも考えています。(続く)

2012/1/3(火) 午後 4:52 [ mannennetaro2005 ]

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(続き)
ところで、3代目三木助さんの「芝浜」ですが、「深津のつば女」と呼ばれた4代目柳家つば女から教わったと言われる一方で、川戸貞吉さんが、名古屋で活躍した初代の雷門福助師から聴いた話として、この噺を黒門町から教わったという説を挙げていますが、一体どちらが本当なんでしょうか?
いずれにせよ、それまでは「一寸いい噺」だった「芝浜」が、三木助さんによって「泣かせる噺」に仕立て上げられたと見るべきでしょうね。

2012/1/3(火) 午後 5:03 [ mannennetaro2005 ]

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*けんちゃん。。
圓朝はこの演目を三題噺で作ったとされています。三題噺は寄席の余興で、数十年前の深夜のテレビでも、三つの題を織り込んで30分くらいで落語を作ると云う番組をやってましたが、あくまでもその場限りの落語であって、落語作家がよく考えて作った演目とは違います。

もちろん後に、その作品をいろいろ脚色してちゃんとした落語にする場合もありますが、一般の落語と比べたら設定や展開に無理があるんです。この作品を三題噺で作った当初の圓朝の意図はなんだったかを考えれば・・・飲んだくれの亭主が芝の浜で財布を拾ってきた。この時点で既に三つの題を織り込んでますが、それだけでは落語にならないので圓朝が考えたのは、財布を拾ったのは夢にして、だらしない亭主を立ち直らせるってアイデアを思い付いたんだと思います。

2012/1/3(火) 午後 8:40 藪井竹庵

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*続き。。
だから芝の浜の夜明けの描写とか、三年後の夫婦の会話なんて、当初の圓朝のオリジナル版は重視していないはずなので、人情噺ではなくて、「酒はよしておこう」と云うサゲに持って行く滑稽噺として作ったと想像できます。

「明ぼのや しら魚しろき こと一寸」・・・と云う芭蕉の句を語って三木助はこの演目に入った事もあったようですが、それはそれで、情景描写を重視した三木助らしい芸風なんです。しかしなんでその間違いを、安藤鶴夫(1908〜1969)や暉峻康隆(てるおかやすたか 1908〜2001)さんのような文化人が指摘しなかったのか?

私もついうっかりして、江戸時代の芝の魚市場に付いて調べてなかったのですが、江戸時代にあった魚市場はあくまでも日本橋であり、芝はそれと同格じゃないんです。芝の市場は「雑魚場(ざこば)」とも呼ばれて、当日江戸湾で漁獲された雑多な魚が夕方に売られていただけの「夕市」だったらしいんです。だから朝、芝の市場に行ったって問屋は開いてないし、荷もないんです。

2012/1/3(火) 午後 8:40 藪井竹庵

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*更に。。
「三軒長屋」の稽古をするんなら、剣術を習ってからにしなよ・・・と、志ん生は当時、本郷にあった「若竹」と云う寄席の席亭に云われたそうです。志ん生は圓喬に憧れた噺家でしたから、「ぞろっぺ」とは正反対の噺家なんです。

東横だったかの落語会で、既にプログラムに印刷されていた三木助の芝浜を、三木助が亡くなった半月後に協会会長で69歳だった志ん生が代演して芝浜を演じました。三木助の芝浜は、三木助が52歳の時の昭和29(1954)年に芸術祭賞奨励賞(奨励賞は、志ん生が「お直し」でもらった大賞よりも下のレベルの賞)を受けている三木助の演目とされていました。だから、志ん生が存命中は誰も「お直し」をやらなかったのと同様に、三木助が存命中は誰も芝浜をやらなかったんです。

研究熱心な志ん生は芝浜を演るに当って、芝の魚河岸に付いて調べた筈です。だから芝が夕市だった事を知っていたはずです。でも志ん生は三木助に敬意を払って、それを大幅に改編する事はしなかった。でも志ん生の感性として、芝浜の朝の情景を語る事はできない・・・志ん生は凄いですよね。もちろん圓生は、この演目をやらないのは当然(^ω

2012/1/3(火) 午後 8:41 藪井竹庵

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*万年さん。。
三木助の芝浜のルーツが四代目 つばめなのか黒門町なのかは難しい話ですが・・・黒門町は芝浜を持ち根多にしていないので、あの黒門町が自分が持ち根多にしていない演目を三木助に教えたのか? って事を考えると・・・つばめ説の方が有力だと思います。

2012/1/4(水) 午後 10:26 藪井竹庵

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