○「三国名勝図會」は、【巻之七、薩摩國鹿児島郡、旧蹟】の項に、詳細な『桂庵禅師傳』を載せている。結構な長文であるけれども、気になるので全文を掲載しておく。
桂庵禅師傳
桂庵、字は玄樹、島陰と號す。本貫は防州山口村の人なり。其の俗族を詳らかにせず。童にして京師龍山(南禅寺)に往き、雙桂和尚に從ひ、内外二典の學を受く。嘉吉二年、師の齢十六にして、髪を削り、戒壇に登る。時に東山(建仁寺)惟正、慧山(東福寺)景召の諸禅師、並びに四書朱註を講ず。禅餘徃て學び、益を得ること少なからず。又詩文を能くす。應仁元年、皇朝使を明國に遣はさんとす。龍山岐陽和尚、勅命を奉じて、其の人を擇ぶ。因りて一時の才衲八十餘人を龍山に集め、試むるに大梅梅子四字の題を以てし、鳴磬一聲に詩を賦せしむ。時に師長州赤間関の永福寺に主僧として此の會に在り。磬聲に應じて詩成る。其の詩に曰く、
大梅梅子鐵團團
八十餘人下觜難
今日當機百雜碎
那邊一核與他看
衆人皆驚く。是に於いて、師其の撰に中り、明國に使す。時に年四十一歳とす。師明主憲宗に入見す。宴賚頗る渥し。居ること七年に至る。蘇杭の間に遊び、親から鉅儒に從ひて朱氏の經學を治む。尤も蔡氏が書傳に遽し、其の詩章に於いては、彼の土の文士と頡頑す。一詞章出るごとに、藝林傳へて盛唐の風ありと稱す。文明五年、歸りて使事を報ず。是時に當たり、京師兵亂にて騒擾す。是に於いて暫く跡を石州に避く。幾くもなく又た、西州に赴く。是の時、東肥の菊府、新たに學館を置き、儒學を崇ぶ。師往きて此に客たり。既にして本藩市來龍雲玉洞禅師、及び藩相數輩、師を邦君圓室公に薦む。公、廼ち厚く聘して師を招かる。十年二月、師遂に本藩に來る。始めて公に市來に謁す。明年、命あり。一寺を鹿児府に創建し、桂樹院島陰寺と號す。師をして此に住せしめらる。師此の寺に於いて新註の經を講ず。時人是を儒寺と呼ぶ。師聲名籍甚にして學徒多し。十三年夏、師又藩相伊地知周防守重貞と善し。因りて相議し、始めて大學章句を鹿児島に刊む。實に皇國新註印行の嚆矢なり。長享二年、寺を城西に遷す。今の城北射圃阪の地とす。初め其の寺海岸に枕み、善く風潮の為に壊らる。是に至りて地を改む。寺號は故の如し。十月、命を奉じて日州飫肥に適き、安國寺の席を董す。是より先、皇國の商船等、明國に往來する者、多く此の港より發す。公族人島津忠廉を遣はして其の土を鎮す。師をして簡牘を兼掌らしむ。其の後、屡往來す。弟子益進む。時に新刻の大學盛んに行はれ、板亦た漫?す。延徳四年に至りて師桂樹禅院に再刻す。明應二年、江州の佐々木永春來りて師に學ぶ。居ること四年に及び、師に辞して明國に遊ぶ。師送るに詩を以てす。永春是を明儒に示す。廣東太守廬瑀、廣東參政劉洪等、各其の韻を和し、師の徳を稱する者凡そ十有二名あり。四明進士嚴克正序す。「精内典旁通四書百家子史於書尤究心」の語あり。永春又進士洪子經に師著はす所の島陰集を示す。子經其の巻端に序す。「精内典通儒書及荘列無一一不究心」の語あり。六年、永春歸りて明人の詩文を師に示す。九年、師鈞帖を奉して、東山に主たり。尋いで龍山に轉ず。いまだ幾くならず、職を辞し、明年本藩に歸る。既にして方丈を鹿児島伊敷村に築き、名づけて東歸庵といふ。自ら退老す。永世五年六月十五日を以て、東歸庵に示寂す。壽八十二。庵地に葬る。師の著す所、家法和點、島陰漁唱、島陰文集、雑著若干巻あり。凡そ、程朱の學を皇國に傳ふは、師を以て権輿とす。初め龍山岐陽和尚、訓點の四書あり。然れども、誤り、甚だ多し。師明國より歸るの後、朱學研究の力を以て是を改正し、訓點始めて詳備す。因りて徒弟に授く。其の後、文之和尚に至りて、又修正を加ふ。世に行はるる、是を文之點と號す。此の時、文運いまだ開けず。學徒往々句讀の法、且た、新註あるを知らず。師著はす所の家法和點の如き、四書五經の新註あるを示し、朱註を解するの例を挙げて國讀の式を定む。是に於いて、學徒始めて句讀の法を知り、朱學を崇信する者多し。師の朱學に於ける其の功大なり。慶長中、藤原惺窩、明國に學ばんとして、風に遭ひて薩の山川港に至る。港の正龍寺に、師及び文之四書訓點本並びに家法和點あり。是を冩して京に歸り、己の下せる訓點として世に弘む。朱學は惺窩に至りて盛んに興る。師實に其の源を發するを見るべし。師の學を傳ふ者を月渚和尚といふ。月渚是を一翁に傳ふ。一翁是を文之和尚に授く。文之是を如竹上人に授く。
○「三国名勝図會」が記す『桂庵禅師傳』は、天保14年に刊行されている。それに対して、佐藤一斎の『桂菴玄樹禪師墓碑銘』の成立は前年の天保13年である。上記の『桂庵禅師傳』と佐藤一斎の墓碑銘を比較すると、共通する表現が多々見られる。だから、共通する資料に拠ったか、どちらかが参考にしたことは間違いない。
○この点については、東英寿著「桂庵と伊地知季安『漢学起源』」の中に、「伊地知季安と佐藤一斎 ー桂庵禅師墓碑銘に着目してー 」と言う論文があって、詳細に記述している。それに拠ると、「桂菴玄樹禪師墓碑銘」・「三国名勝図會」ともに、伊地知季安の「漢学起源」を元に書かれたものであるらしいことが分かる。
○佐藤一斎には、桂庵禅師に関する史料が一切無かったのであるから、伊地知季安の「漢学起源」を元に桂庵禅師墓碑銘を作成したわけである。だから「漢学起源」と桂庵禅師墓碑銘を比較することで、佐藤一斎がどのように材料を咀嚼して、桂庵禅師墓碑銘を作成したかが分かる。非常に興味ある問題である。
○当時、伊地知季安と薩摩藩記録所との間には、すさまじい葛藤が存在していたらしい。東英寿著「桂庵と伊地知季安『漢学起源』」に拠れば、伊地知季安は天保十三年(1842年)に、記録所によって、全著作を没収された。その記録所によって、天保十四年(1843年)に発刊されたのが「三国名勝図會」である。佐藤一斎の『桂庵禅師墓碑銘』の記録には、「天保十三年歳次壬寅七月下澣 昌平學教官佐藤担撰」とあるから、相当凄まじい葛藤の中で、桂庵禅師墓碑銘は建立されたことがよく分かる。
○2008年7月13日の桂庵禅師没後五百年祭に参加して、、東英寿著「桂庵と伊地知季安『漢学起源』」をいただいた。それに拠って多くの事を知ることが出来たし、それに基づいて文面もだいぶん改めることが出来た。感謝したい。
|