Phnom Penhその4 プノンペンでは中華がそそる!
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【ポル・ポト・レジーム(政権)を嘆いた詩】1265 プノンペンに来てからの一週間、毎日ある程度観光していました。といっても私の場合は一か所に掛かる時間が長いので、一日に行ける場所はひとつだけです。 チョン・エク処刑場(いわゆるキリング・フィールド)とトゥールスレン収容所(暗号名S21)は、プノンペンでぜひ見ておきたかった場所でした。ここで見た物、資料を読んだ物、そして現地の友人から聞いた話を織り交ぜて、ポル・ポトの暗黒時代を小説風に仕立てて紹介したのが、前回の記事になります。 私は、旅をすることはその国の文化や人々に出会うとともに、その背景にある歴史を知ることでもあると思っています。私のブログを読んで旅の様子を窺って下さっている皆さんにも、同じように旅を感じていただければと思ってこのような暗い歴史も書いてみました。 筆力が拙いのはしょうがないとして、認識不足によって見当外れの事を書いていたら申し訳ありません。その場合はご一報くださればすぐに修正しますので。 まだまだ書き足りないディテールはたくさんあるのですが、陰鬱な話ばかりでキリがなくなるので、ポル・ポトとクメール・ルージュの事はこの辺にしておきましょう。下に少しだけ写真を載せておきます。 さて、無事にビザも取得したので、いよいよベトナムへ向けて走り出すことができます。 国境まで2日。国境を越えてさらに1日走れば、ベトナムの首都ホー・チ・ミンです。 東南アジア編もこの国にてクライマックス。果たして、自転車で無事に東南アジア縦断を果たすことができるのか?お楽しみに。。 <秘密収容所S21> トゥールスレンの元高校だった建物が収容所として使われていました。現在は博物館となって保存されています。 このガイドさんもポル・ポト時代(1975年〜1979年)を生き残った方でしょうか。熱心に解説して回られていました。 マットもないベッドに、足枷が無造作に。 収容時に撮られるプロファイル写真。悲しみも苦しみも感じられない、凡庸な表情ばかりですね。待ち受けていた運命を、まだ知らなかったのでしょうか。 教室をレンガや木板で区切って独房仕立てに。 2万人を越える収容者の内、生き残ったのはわずか7人。その7人の内のひとりがこうして絵を描き、当時の惨劇を後世に語られるよう残そうとしています。 <キリング・フィールド> かつては全国に300以上あった処刑場のひとつです。プノンペンの何西15kmのチョン・エクにあります。 中央に建てられた慰霊塔には、8000人近い人骨が納められています。 この10m四方ぐらいの穴から166体の遺体が発見されました。その全ては、頭部が切り取られていたそうです。 この木に、子供を打ちつけて殺しました。この木もクメール・ルージュの軍人も、政治家さえも明日は自分が刈り取られる身になるのではないかという恐怖に支配され、忠誠心を見せるために残酷な仕事に身を投じていたそうです。 ビデオ学習。15分ぐらい?のドキュメンタリ映像。 資料展示室は沈黙で満たされていました。普通の博物館では流し見しかしない観光客が、ここの資料は穴があくほど読みこんでいました。人間というのは、アンコールワット出土の観音菩薩像よりもこういった悲劇に関心を示すものなのでしょうか。 <プノンペンにて> 【麺!】 肩棒麺屋さん(と、勝手に呼んでいました)。お昼や夕方の腹の減ってくる時間帯に町で見かけます。スープ入りの米麺が大盛で2000リエル≒50円と、安くて美味しいのでよく呼び止めて食べていました。 中国西北部発祥にして中華全土で愛される蘭州ラーメンをまさかのプノンペンで発見。独特の香りのスープと牛肉、そして多めのパクチーが嬉しい一杯。 シェムリアップでよく食べた外来食は日本食とチーズピザでした。プノンペンでは中華料理ばかり気になります。町の雰囲気や特色によって、食べたくなる味が変わってくるものなんですね。。 【夕涼み】 夕方、川沿いには仕事帰りの夕涼みに人が集まります。トンレサップ湖からの支流とメコンの支流が交わる場所。 モノ売りさんたち。 夕方のエクササイズ。 王宮の方へ沈む夕日。 【王宮守護兵と僧】 【相棒もリフレッシュ】 プノンペンで多分唯一のプロの自転車ショップで、清掃、各部点検、潤滑、部品交換等してもらい、新品のようによみがえった相棒です。ベトナムでは時間に余裕がないので、そして自転車に長持ちしてもらいたいので、たまにはこうしてプロのメンテナンスを受けるようにしています。 【再会と再別】 オーストラリアはタスマニアで1ヶ月間同じ家で過ごしたサム(赤シャツ)とトン(白赤のシャツ)。彼らの友人も。 出会いと別れは旅人の常ですが、再会が多くなってくると旅の長さを実感してしまいますね。
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