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藤田幸久ミステリー創作の世界(背景とエピソード紹介):英国が好きな人必見

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ヘレフォードのマッパ・ムンディ

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マッパ・ムンディは、ヘレフォード大聖堂に大切に保存されている中世英国の宝物です。マッパ・ムンディとはなんでしょうか?

マッパ・ムンディ(ラテン語)は、中世ヨーロッパで製作された世界地図を表す総称で、簡単な概略のみを指した大きさ1インチ程度のものから、確認された最も巨大なものでは11フィート(3.5メートル)にわたる精巧な壁掛け図まであります。マッパ・ムンディの語源は、中世ラテン語の mappa(「布地」または「チャート」の意)と mundi(「世界の」の意)の合成語であり、英語 map の語源でもあます。中世に作成されたマッパ・ムンディのうち約1,100枚が現存しているが、このうち約900は写本で、約200が単体の地図として描かれたものです。

巨大な世界地図作成は中世において英国の得意とするところで、地図は布、壁、動物の皮に描かれました。ヘレフォードの世界地図、マッパ・ムンディのみが完全な形で残っており、世界最大の中世世界地図であると信じられています。

この大きな地図には大変詳細が描かれていますが、これらを読むことのできる人々は、博識のある世俗のエリートの言語であるノルマンディ地方のフランス語を話す人々に限られていました。マッパ・ムンディは、精神的な意味と地理的な意味で世界を解釈しています。そして聖書のイラストと古典派学問と伝説の図解が含まれています。外の世界の絵入りの説明として、この印象的な地図は教育目的も持っていました。これらは自然科学や古典的伝説を教えるのに使われ、宗教的信仰を促進するのにつかわれました。

地図上のリンカーン大聖堂が実物そっくりに描かれていることから、この地図がリンカーンで作成されたことに疑いの余地はほとんどありません。13世紀にはリンカーンは学問の中心地として知られていました。そこにある図書館には世界地図があり、年代記編纂者であり地図作成者であったウェールズのゲラルドは、1223年に死ぬまでそこに住んでいました。

地図は一枚のヴェラム革(子牛の皮)に描かれており、その大きさは160センチX130センチあり、トップに向かって先細りになっています。地図は1290年代後半に作成され、一人の製作者によって英語のゴシック字体で書かれています。

そこでヘレフォードのマッパ・ムンディを作ったのは誰だったのでしょうか?この地図はホルディンガムとラフォードのリチャードという人物の作と言われています。彼はリチャード・ド・ベロとしても知られています。

ヘレフォードのマッパ・ムンディは、別のもっと古い地図から大部分コピーされた可能性が高いです。ローマ帝国オーガスタスがマッパ・ムンディに描かれており、彼は義理の息子アグリッパに紀元1世紀のローマ帝国の領土の大きさを強調した世界地図の作成を命じたことが知られています。今は失われたアグリッパの世界地図とその後のローマ帝国の地図が、ヘレフォードの世界地図のもとになっていることはありそうなことです。もちろん中世の追加項目、イラスト、キリスト教の象徴的記号が使用されています。

地図の上が東で、右が南、下が西、左が北を表しています。マッパ・ムンディの中央にエルサレム、キリスト教世界の中心があります。大陸は、その都市や町、古典的神話(ギリシャ神話のミノタウロス(牛頭人身の怪獣)が地図に描かれている)、聖書の出来事、植物、動物(ラクダ、象、ライオンなど)、鳥(オウム、フェニックス(不死鳥)など)、人々を描くことであらわされています。地図のてっぺんには最後の審判のため座っている木リス路が描かれ、まわりを天使が取り囲んでいます。

マッパ・ムンディは、ヘレフォード大聖堂にあります。大聖堂はサクソンの時代にまで遡り、オファ王の命令で殺害された殉教王エセルバートに捧げられています。エセルバート王の壮大な金色に輝く色華やかな礼拝堂は、聖母礼拝堂近くの後方聖歌隊席にあります。ヘレフォード大聖堂にはもう一つの中世の宝物、229冊の中世の手書き写本を鎖でつないだ蔵書があります。大聖堂の最も古い最も重要な写本は、8世紀のヘレフォード福音書です。

「メディチ家の暗号」(マイケル・ホワイト著、横山啓明訳、ハヤカワ文庫)を読んでいると、マッパ・ムンディの存在が鍵になっています。マッパ・ムンディとは何か、ということに興味を覚え調べました。英国にも存在していたのが、上記に紹介したものです。ポルトガル国王アルフォンソ5世の依頼で作成されたものは、ポルトガルに送られた後行方不明になっています。その写しがヴェネチアの国立アルチャーナ図書館で公開されています。

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リトル・ジャック・ホーナー

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英国のわらべ歌に「リトル・ジャック・ホーナー」というのがあります。それは次のとおりです。

リトル・ジャック・ホーナーが隅に座って
クリスマス・パイを食べているとき
彼はパイに親指を突っ込み、中からプラムを引き出して
「私はなんていい子なのだろう」と言いました。

このわらべ歌にはそのいわれがあります。リトル・ジャック・ホーナーは、グラストンベリーの司教リチャード・ホワイティング(1461年〜1539年)の執事だったといわれています。執事には重要な仕事があります。家をうまく切り盛りし、税金を徴収し、家計を記録します。

グラストンベリーは、英国で最も規模の大きい裕福な修道院で、サマセット州に広大な土地と荘園(土地を農民に小作させて地代を徴収する)を保有していました。ローマ・カトリックから分離した後国王ヘンリー8世は1536年から1540年の間に、国務大臣トーマス・クロムウェルに命じて、英国中のすべての修道院の徹底的な解体に乗り出します。この目的は修道院の保有する金銀、土地を略奪することでした。1539年までにサマセットに残っている修道院はグラストンベリーだけになっており、それが取り壊されるのも時間の問題でした。

司教リチャード・ホワイティングは、国王に賄賂を贈って逃れようと画策し、執事リトル・ジャック・ホーナーに荘園地所の12の不動産権利証を持たせます。権利証はパイの中に隠されました(盗賊の裏をかくためにしばしば貴重品はこのような突飛な隠し方をしました)。リトル・ジャック・ホーナーは、賄賂を贈ることはよくないと考え、メルズ荘園の権利証を自ら盗んだと言われています(12の荘園の中で一番いい荘園、Plumには一番いいものという意味があります)。

残りの11の荘園は国王に差し出されましたが、それは何の役にも立ちませんでした。司教リチャード・ホワイティングは、ローマに忠誠を誓い続けているという理由で、反逆罪で告訴されます。裏切り者のリトル・ジャック・ホーナーを含む陪審員は、司教ホワイティングを有罪とし、グラストンベリー・トア(小さな岩山の頂)で絞首刑にし、その後引き裂き、四つ切の刑に処します。修道院を破壊した後、執事ホーナーはメルズ荘園に移り住みます。実際にホーナーが権利証を盗んだのか、あるいはグラストンベリーの司教を告訴するのを手伝った褒美に与えられたのかは分かっていません。しかし、メルズ荘園はホーナー一族の所有物になり、一族は20世紀になるまでそこに住んでいました。

リトル・ジャック・ホーナーのわらべ歌が最初に刊行されたのは1725年のことでした。

メルズは、サマセットで最も美しい村の一つです。この村は観光目当てに飾られた村ではなく、日常のありふれた村であることをアピールしています。藁ぶき屋根の家と石造りの家のそばに樹木が植えられており、村には小さな緑地がたくさんあります。ドーム屋根とマリオン(建物の開口部を支える垂直の材)で仕切った窓のあるチューダー朝時代の荘園邸宅が、ホーナー家の住居です。

メルズ村の近くに4つの先史時代の居住地跡があります。最も近くにあるのがワドベリー居住地跡で、メルズ川と溝と石の壁で囲まれています。そのほかにテドベリー居住地は5メートルの高さの城壁がまだ残っています。ニューベリー居住地と一部ローマ時代、一部鉄器時代の居住地跡キングスダウンがあります。

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女王エリザベス1世

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エリザベス1世の名前は、詩人、政治家、冒険家にとって黄金の時代と結び付けられています。「処女王」または「グロリアーナ」(16世紀の詩人エドマンド・スペンサーの詩「妖精の女王」に登場するエリザベス女王を擬した登場人物の名前)として知られるエリザベス1世の国民との結びつきは、彼女が実現しなかった結婚に取って代わるものだと言われています。

エリザベス時代といわれる彼女の治世は多くの理由で記憶されています。例えばスペイン無敵艦隊を打ち破ったこと・・・。また多くの偉大な人々でも記憶されています。ウィリアム・シェイクスピア、ウォルター・ローリー(探検家、軍人、エリザベスの寵臣)、フランシス・ドレイク(航海者、海賊)、フランシス・ウォールシンガム(国務大臣)、ロバート・デヴァルー(第2代エセックス伯爵、エリザベスの寵臣、後に処刑される)、ウィリアム・セシル(初代バーリー男爵、国務大臣)などの有力な人々がエリザベスを支えました。

彼女は大いなる勇気を持った女性でした。若い時に、異母姉女王メアリー1世の命でロンドン塔に幽閉されます。そして彼女の母アン・ボレインと同じように処刑されるのではないかと恐怖の中で毎日生活していました。

彼女の姉メアリーと違って、エリザベスはプロテスタントで、女王に即位したとき、「私は男性に心の窓を開くことはありません。」と宣言し、国民に信仰の自由を認めました。

彼女は若い時大変な美人でした。彼女はハシバミ色の目をし、とび色の髪をし、白い皮膚をしていました。大変人目を引く組み合わせです。しかし、年老いてからは、赤毛の鬘(かつら)、天然痘による痘痕(あばた)を隠す白塗りをした顔、虫歯で黒ずんだ歯というグロテスクな容貌をしていました。

彼女は学識があったことでも知られています。彼女は時々気まぐれでしたが、概して賢明であったと考えられています。彼女は宝石と綺麗な衣服が好きでした。彼女は物事を疑ってかかる賢明さを持っており、それにより彼女の治世に起こった数々の争いごとを中庸の道を採用し解決していきました。そうした争い事は実にたくさんありました。

1588年に彼女はスペインのパルマ公爵が無敵艦隊の侵略とは別に陸軍を率いてイングランドに侵略するのを撃退するためにティルベリーに集合した軍隊を前にして行った演説はしばしば引用されています。次の言葉で始まる演説の部分が特によく知られています。「私は弱い身体の虚弱な女であることは知っています。しかし、私はイングランド国王としての強い心と覚悟を持っています。パルマ、スペインまたはどんな大陸の国王であろうとも、私の領土に一歩でも侵略しようと考えるのならば、どんなことになるか目に物を見せてやろう。」この言葉は何世紀も後の現在も人々の心を揺さぶります。

彼女の廷臣とある意味では国中が、彼女が結婚して王位継承者を作ることを望みました。彼女に求婚しようとする者はたくさんいました。彼女の義理の兄(メアリーの夫)スペインのフィリップも求婚者の列に加わりました。エリザベスの意中の人はダドリー卿、後のレスター伯爵でしたが、彼女の忠実で優秀な大臣で、信任厚い助言者であったサー・ウィリアム・セシルがダドリーとの結婚に反対しました。

事情によって厳格に対処する必要があるときには、エリザベスは厳しくなりました。スコットランド女王メアリーが、王位簒奪の陰謀に加わっていたことが分かったときには、彼女は死刑執行命令に署名しました。メアリーは、1587年フォザリンゲイ城で処刑されました。

エリザベスは寛容なところもありました。日記作家ジョン・オーブリーが、オックスフォード伯爵の話を書いています。オックフォード伯爵が女王に対して深々とお辞儀をしたとき、彼はうっかりとおならをしてしまいました。彼はそのことに恥じて、7年間国を離れました。彼が帰ってきたとき、女王は彼を歓迎します。その時「あら、おならのことを忘れていたわ。」と言いました。

エリザベスの強さとたまに彼女の弱さを示すたくさんの話が残っています。レスター伯爵が、アイルランドのコーク州の制圧に失敗した言い訳を女王にしたとき、エリザベスは一言「ブラーニー」と言いました。ブラーニーとは、アイルランド南部、コーク州の村の名前で、15世紀に要塞として建造されたブラーニー城がある。また、同時に「ナンセンス」という意味もある。

結婚指輪に関するエリザベスのコメントは、的をついています。「結婚指輪は、軛(くびき)リングだ。(1対の牛などを首の所で連結する弓なりの器具)。」

彼女がヘンリー8世の子供であることについて「私は雌のライオンではないかもしれないけれど、ライオンの子供で、父の資質の多くを受け継いでいます。」

1566年スコットランド女王メアリーが息子ジェイムズを生んだと知らされたとき、「ああ、残念だわ。スコットランド女王は痩せてきゃしゃなのに子供をもうけた。それに対して私は子供ができない血筋だ。」と言いました。

1603年に彼女が死去したとき、国の安全は確保され、宗教上の問題はほとんどなくなりました。英国は現在では第一級の力を備えています。英国の黄金時代に君臨したエリザベスは、ヨーロッパの国々がうらやむ国の原型を作り出したのでした。

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切り裂きジャック

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19世紀の終わり近くにロンドンのイーストエンド(東部にある商工業地区)を恐怖のパニックが襲いました。連続殺人事件が起こったのです。この事件を題材にした小説が何冊か書かれており、独創的な犯人を指摘したものもあります。今日はこの事件について書きましょう。

1888年の3か月間に5人の女性が殺害され、「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」として知られる男によってその遺体に恐ろしい損傷が与えられました。殺害された女性の人数は11人だったとする見解もあります。

イーストエンドのホワイトチャペルは、19世紀後半のヴィクトリア時代のロンドンの顔の化膿したできもののような所でした。過剰人口があばら家にひしめき合って住み、街路は汚物とごみの悪臭が絶えず、唯一の生計手段は犯罪的手段でした。女性にとってそれは売春を意味していました。この惨めな生活から逃れる唯一の慰めは、数ペンスで買うことができる1瓶のジンでした。

「恐怖」は、8月31日金曜日にメアリー・アン・ニコルズ(42歳)の遺体がバックス・ロー(現在はダーウォルド・ストリート)で発見されたときに始まりました。彼女の顔には打撲の痣(あざ)ができており、喉(のど)は二度切り開かれ、ほとんど切り離されていました。彼女の腹部は数度切り開かれ、切り刻まれていました。彼女は「切り裂きジャック」の最初の犠牲者でした。

9月8日2番目の犠牲者が発見されます。彼女は47歳の売春婦アニー・チャップマンでした。彼女の遺体はハンベリー・ストリート29番地の後ろの通路で発見され、彼女の持ち物は遺体のそばに置かれていました。彼女の頭部はほとんど身体から切り離され、腹部は切り開かれ、内臓が引き出されていました。引き出された内臓は彼女の左右の肩の上に置かれていました。膣と膀胱が切り取られ持ち去られていました。

9月28日に中央通信社に「切り裂きジャック」とサインされた一通の手紙が届き、さらなる殺害を予告しました。この切り裂きジャックという名前が新聞に初めて現れたとき、大衆の想像力をひきつけ、それ以降この名前が使われることになります。ホワイトチャペル地区は大騒ぎになり、騒動が勃発します。切り裂きジャックが凶器のナイフを黒いバッグに入れて持ち歩いているといううわさが流布し、ヒステリー状態になった群衆は、黒いバッグを持った人を、誰構わず襲い掛かりました。

9月30日はぞっとするような恐ろしい日でした。切り裂きジャックは、数分のうちに2件の殺害を実行したのです。売春婦エリザベス・ストライドは、バーナー・ストリート40番地の後ろで午前1時に発見されました。遺体が発見されたとき、彼女の喉からまだ血液が流れていました。切り裂きジャックは忌まわしい行為の最中に邪魔が入ったようでした。

午前1時45分にキャサリン・エドウズ(43歳)が、エリザベス・ストライドの現場から歩いて数分のところにあるミーター・スクエァとデューク・ストリート(現在はセント・ジェームズ・パッセージとして知られている)の間の路地で発見されます。彼女の身体は切り開かれ、喉は掻き切られていました。両瞼(まぶた)、鼻の一部、右耳が切り取られていました。子宮と左腎臓は取り去られ、内臓は右肩の上に投げ捨てられていました。

警察が現場から続く血の滴りを追っていくと、近くの家のドアにたどり着きます。そこにはチョークでメッセージが書かれていました。「ユダヤ人は何もしないで非難される人間ではない。」説明のつかない理由で、首都警察署長サー・チャールズ・ワレンは、そのメッセージを消すことを命じます。こうして重要な手掛かりになったかもしれないものが消し去られたのでした。

二重殺人の恐怖がロンドン中を襲います。いろいろな噂が駆け巡ります。切り裂きジャックは、気の狂った医者だ、ポーランド人の精神障害者だ、ロシアの帝国主義支持者だ、気違いの産婆だなどが流布されました。

2通目の手紙が中央通信社に送られてきました。その中で切り裂きジャックは、警察に切り取った耳を送ると約束したが、それを実行できなかったことを詫びています。キャサリン・エドウズの左耳は完全に切り取られていなかったのです。

11月9日切り裂きジャックが再び襲います。犠牲者の中で最も若かったメアリー・ジャネット・ケリーが犠牲者でした。彼女は25歳の美しい少女でした。彼女はドーセット・ストリート(現在のデュバル・ストリート)から分岐したミラーズ・コート(袋小路)の彼女の部屋で発見されました。彼女の遺体はベッドに横たわっていました。部屋の光景はぞっとするものでした。彼女を発見した家賃収集人は、「私はこの光景に一生うなされるだろう。」と言っています。メライーの喉は切り開かれ、鼻と乳房は切り取られテーブルの上に置かれていました。彼女の内臓は額縁の上に飾られていました。身体から皮膚がはぎ取られ、内臓は取り出され、彼女の心臓はテーブルに置かれていました。

大衆の恐慌と激しい抗議の結果、警察署長サー・チャールズ・ワレンが辞任せざるを得なくなります。メアリー・ジャネット・ケリーが切り裂きジャックの最後の犠牲者でした。始まったときと同様に、恐怖の支配は突然終わりを告げます。それから100年にわたって切り裂きジャックとは誰なのかについていろいろな名前が挙げられました。最も有力な容疑者として挙げられているのは、次の5人です。しかし、真犯人は依然として不明です。

最初の男は腐敗弁護士モンタギュー・ジョン・ドゥルイットで、彼は最後の事件の直後自殺し、1888年12月31日にテムズ川に浮かんでいるのが発見されます。
次がスタンレイ博士で、息子がメアリー・ジャネット・ケリーから梅毒をうつされたのが動機と言われた。
3番目が、アメリカ人のニール・クリームで、1892年に別件で絞首刑になるとき、最後に「俺がジャック・ザ・リ・・・」と言って死んだと言われている。
4番目が、ポーランド系ユダヤ人コミンスキーで、ホワイトチャペル・ロードに住み、売春婦を憎んでいたと言われている。
最後がロシア人医師マイケル・オストログで、殺人癖があり、何度も精神病療養施設に隔離されたことがある。

これ以外にも多くの人が容疑者として挙がっています。シャーロック・ホームズの作家コナン・ドイルも犯人を推理して、犯人は外科医の知識を有しており、女装していたと述べています。

王室のメンバーも容疑者とされたこともあります。ヴィクトリア女王の孫、皇太子エドワードとアレクサンドラ皇太子妃の息子であるクラレンス公爵です。しかし、実際に事件が起こったときに、他の人と会っていたことが分かって容疑は晴れました。

真犯人は100年以上たった今でも闇の中です。写真は事件を告げる当時の新聞です。

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他人の名をかたる詐欺師

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昔から現在まで歴史には「他人の名前をかたる詐欺師」の物語がたくさん残っています。

ヘンリー7世の治世にランバート・シムネルという少年がいましたが、彼はリチャード3世によって幽閉され殺された「ロンドン塔の王子」の一人(若い方)だと主張しました。しかし、彼はヘンリー7世に反対する一派(ヨーク家の支持者)に祭り上げられたのでした。ヘンリー7世は、少年自身に罪はないとして、王家の台所での仕事を与えます。

パーキン・ウォーベックは、フランダース後にポルトガルに住み、1491年絹商人の従業員としてアイルランドに来ます。アイルランドはヨーク家支持者が多くいるところで、そこで熱狂的ヨーク家支持者から、エドワード5世の若い方の王子ヨーク公爵リチャードと名乗ることを説得されます。エドワード5世の幼い2人の王子は、ロンドン塔に幽閉され、その後消え去ります。暗殺されたものと考えられました。自分がその王子の一人リチャードだというウォーベックの主張は、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世、スコットランドのジェイムズ4世、エドワード4世の妹バーガンディのマーガレット(リチャードの叔母)、亡命中のヨーク家後援者によって支持されます。

ウォーベックの1495年のイングランド侵略は失敗に帰し、彼はスコットランドに行きます。そこで彼はスコットランドのジェームズ4世の従妹のキャサリン・ゴードンと結婚します。1497年ウォーベックはコーンウォールに上陸し、自分はリチャード4世だと名乗り、反乱軍を挙兵します。彼の軍隊はヘンリー7世の軍隊とエクセターで衝突します。しかし、ウォーベックは戦場から逃げます。彼は捕らえられ、彼の計画をすべて白状し、投獄されます。1499年国王に対する反逆罪で絞首刑に処されます。

1865年引退した軍医ジェイムズ・バリーが、ロンドンにおいて73歳で亡くなりました。彼は大変人気のある有能な軍医で、長年にわたる優れた経歴の持ち主でした。しかしバリー医師は、実際は女性だったのです。死後検死の結果「彼」は女であるだけでなく、過去に子供を産んでいたことが分かりました。

最も大胆な詐称者の一人は、トーマス・カストロとして知られていたアーサー・オートンという男でした。彼はオーストラリアのワガワガというところで肉屋を営んでいました。彼は貴族未亡人レディ・ティッチボーンが、1823年にベラ号という船で出航し行方不明になっている息子の消息を求める新聞記事を目にします。ベラ号は沈没して、サー・チャールズ・ドゥティ・ティッチボーンは溺死したと考えられていました。レディ・ティッチボーンは息子が死んだことを信じようとはせずに、当時刊行されていたすべての新聞に彼の消息を求める広告を掲載しました。

オートンはこの広告を見て、レディ・ティッチボーンに手紙を書き、自分が彼女の息子だと名乗り出ます。レディ・ティッチボーンは、彼と熱狂的な手紙の交信を始め、シドニーに住んでいる昔の使用人ボーグルという男を訪ねるように言います。オートンは、ティッチボーン家の家族の状況を慎重に調査し、この年老いた昔の使用人を簡単にだまし、彼がロジャー・ティッチボーンだと納得させます。レディ・ティッチボーンは喜んで、オートンに金を送り、彼と彼の家族がヨーロッパに来るように言います。オートンとレディ・ティッチボーンは、パリで会いましたが、レディ・ティッチボーンは、彼の容貌にかなり驚きました。彼女の息子が1852年に英国を発った時、彼は痩せており、細長の顔をしていました。しかし、戻ってきた息子は中年の大変肥った男だったのです。

しかし、可哀そうなレディは、大切な息子が帰ってきたことに興奮して、何の疑問もなく彼を息子だと受け入れます。レディ・ティッチボーンは、彼に年額1000ポンドの手当てを与えます。しかし、彼女の家族の何人かのメンバーは、簡単に騙されずに、その疑惑を口に出します。レディ・ティッチボーンは、そうした言葉に耳を貸そうとしません。

オートンは大きな誤りを犯します。強欲が彼をとらえたのです。彼は正当なティッチボーン家の財産継承者ヘンリー・ティッチボーンから財産を自分のものだと主張しだしたのです。1871年彼は大法官裁判所に宣誓供述書を提出し、裁判に持ち込んだのです。ティッチボーン家の弁護士は、オートンの生涯に関して綿密な調査を行い、彼がロンドンのワッピングで肉屋を営んでいる男の息子であることを突き止めます。裁判は188日間継続します。この手の裁判としては英国歴史上最長のものでした。オートンは大衆に人気があったものの、陪審員は彼を有罪と宣告し、同時に課される2つの7年懲役を言い渡しました。

アーサー・オートンは、1884年に釈放され、演芸場めぐりをして彼の言い分を主張して歩きました。彼のもくろみはうまくいかず、次第に落ち目になっていきます。みすぼらしい下宿屋で数年すごした後、1898年に64歳で死去しました。彼の棺桶に、誰が書いたかわからないいたずら書きがありました。「サー・ロジャー・ティッチボーン」とありました。

写真は左が英国を発った時の息子ロジャー、右がアーサー・オートンです。

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