生と死

生と死のはざまを思索する

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古い日記帳

記録は残る記憶は消える、とはいうものの、記録にはないが自分の人生の中でどうしても消えない記憶はかなりのものがある。あるものはトラウマとなって、いつまでも心の底にこびりつき幾度となく夢にまで出てきてうなされるものもある。
 
記録帳の方はどうかというと、といっても日記帳など書いたこともないのだが、若い頃に大学ノートにあれこれと思いつくままに書き残したメモが2冊だけある。
 
 
 
私は先の太平洋戦争の末期、昭和19年の夏に日本の主要都市が空襲に脅かされていた頃に但馬の山奥へ学徒疎開をしたままそこに居ついてしまった。
 
山に囲まれた谷底のような土地で上を仰いでも狭い空しか見えず、子どもの頃に過ごした広い都会の空を思い出し悶々とした10代のころの記録ノートがその1冊だ。
 
当時は哲学者、串田孫一の本を読んでいたらしい。多分本の中から抜粋したのであろう、こんな一文をノートに書き残している。
 
Poems are made by fools like me, But only God can make a tree
 
私は50幾年か前にこの文をどのように解釈していたのだろうか、と考えてみた。
 
多分己の境遇をはかなみ、落ち葉のようにただ朽ち果てていく自分の行く末を見つめながら人と自然とを比べていたのかも知れない。
 
人はつまるところ、何を生み出せるというのだろうか。雑草の一本も創り出せないではないか、と当時の私は自己嫌悪に陥っていたのかもしれない。
 
 
私にとって、学徒疎開が人生の最初の岐路だったとすれば、第二の岐路はこのあとにやってきた。記録にはないのだが、わたしには鮮明に当時の記憶が蘇ってくる。
 
但馬の鉱山会社で働いていたその環境、まわりの人的環境が私に人生の選択肢を示してくれたのだ。
 
 
串田孫一先生に楯突くつもりはないのだが、山登りのお好きな先生は自然の雄大な姿を敬虔な心で見つめておられたのであろうが、Poems は山をも動かす力を秘めているのではなかろうかと今にして思うのである。
 
 
 
私は当時の記憶をたどりながら、小説「青春」の第1章(山の別館)を書いた。
 
記録は残る、記憶は消える、というのは私の寿命が尽きたときの話である。常々周囲に言っていることなのだが、墓石に戒名など刻み残す必要はない、駒のご隠居が何を考えて生きていたのかを記録にのこしておきたいだけなのだ。
 
読書ノートの終わりに「学んだあと、足らざるを知る」と書いてあった。
その気持ちは今も変わらない。

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青春:挑戦(20)

大泉製麻 山川 勉 様
 
光洋産業、大森一道社長とともに合弁企業設立の準備を着々と進めています。一昨日電報で依頼しました通りインドネシア側合弁相手企業の設立(株式会社設立)のため資本金振込金額500万ルピア、 設立に関わる法務手続きその他で200万ルピア、ジャカルタ政府関係役人への協力金50万ルピア その他雑費50万ルピア、 合計800万ルピア(米ドル2万ドル)を東京銀行ジャカルタ支店口座へ至急送金して下さい。
 
合弁企業決定後は直ちに企業名の口座を開設します。大森社長より当面の設立準備に関する会計事務を托されましたので宜しくご指導下さい。
 
 
大森社長はインドネシア側合弁相手企業としてジャカルタ政府軽工業局推薦の退職役員スデロ氏、エンドロ氏並びに国営麻袋会社で原料栽培担当役員であったウィヨノ氏の3名を選任したいと考えています。
 
過日ワニー氏と社長に同席して上記3名とホテルで個別に面談しました。スデロ氏は中部ジャワ、スラカルタ(別名ソロ)市在住の旧家の出で英語とオランダ語を話し温厚な気風を漂わせていました。
 
合弁企業が何処に建設されても中部ジャワを拠点に原料麻栽培に関する借地交渉や栽培管理業務をやりたいと申していました。
 
 
エンドロ氏は東部ジャワ、スラバヤ市に在住している気力溢れんばかりの精悍な人で工場は東部ジャワに建設する以外他の候補地はないと云うほどの自信家でした。工場建設時は建設材料の手配、日本からの建設資材や機械類の輸入手続き全般の業務、工場操業後は麻袋の販売にも腕を振るいたいと大層なアピール振りでした。
 
ウィヨノ氏は長年国営麻袋工場に在籍していた人で、既に60歳近い高齢ですが原料麻ローゼラの栽培一筋に勤めてきた農耕技術者らしく農耕技術者の指導と農耕管理にお役に立ちたいと云っていました。
 
 
3名の履歴と写真を送付しましたのでご検討の上年明け早々にもご決定下さいます様お願いします。猶合弁企業の現地側、合弁相手企業については上記3名を役員にして社名を PT. ムリア(高貴なという意味)としたいと考えています。
 
この件も含めご決定頂くことと、合弁企業名のご決定にもこの社名を合わせた社名を付けることがインドネシア政府の関係者に好感を持たせることになリます。当方では「コーヨームリヤ」という社名を推薦します。
 
12月26日には大森社長が横浜に帰られ12月27日に大阪で三社長に現地報告をすると云っております。
 
年末でご多忙とは存じますがよろしくお手配下さい。なお前便でご報告しました通り私はジャカルタのワニー氏の事務所を借りて会社設立事務手続きをしています。
 
明和貿易にはしばらく立ち寄れませんから電話、テレックス、電報等での連絡は「Dr ワニー診療所」宛にお送り下さい。年内の業務連絡はこの連絡書で終わりとします。
 
 
今年は本当にお世話になり有難うございました。来年も一層頑張る覚悟でおりますので宜しくご指導ご鞭撻下さいますようお願い申し上げます。
 
昭和39年12月25日
        小松耕作
 

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青春:挑戦(19)

耕作が横浜の光洋産業社長、大森一道氏をジャカルタ空港に迎えたのは12月になって間のない頃だった。
 
大森社長は太平洋戦争当時、軍に所属していてインドネシアで資材調達の仕事をしていた経験を在阪のジュート紡績会社三社のトップから高く評価されて、インドネシアでの合弁会社の社長に就くことになったのだ。
 
大森社長にはインドネシアで活躍していた時代から親しくしていた友人にドクター・ ワニーという日本人医師がいた。その医師は戦後もジャカルタに残り開業医をしている傍ら、日本の大手製薬会社のジャカルタにおける相談役でもあった。彼はインドネシア政府の要人とも話の出来る人的コネクションをもっていた。
 
耕作がホテルのカウンターで大森社長のチェックイン手続きを代行していた時、ワニー氏が大森社長の背後から声をかけて近づいて来た。
 
大森社長が後を振り向いて、やあ、ワニーさん、久し振りですという挨拶を聞いて、耕作は初めてワニー氏を知った。二人はどちらも60近い年恰好に見えた。
 
共に精悍な顔立ちで、周りを気にすることなく大声で話をしていた。それはお互いの家族のことからはじまって、話は次第に20年も遡り、古いジャカルタの思い出話へと尽きることがなかった。
 
耕作は頃合を見計らって、ワニー氏に自己紹介をするきっかけをつくり、二人の話のなかに割って入った。
 
大森社長は二人をロビーに待たせたまま、荷物を部屋に運び入れると、直ぐにまたロビーに引き返してきた。今回のプロジェクトについて大森社長は一時も早くその概略を二人に話したい様子であった。
 
「ワニーさん、少し早いが夕食をとりながら話しましょうか」
大森社長はワニーさんの肩を抱くようにして食堂へ向かった。耕作も二人の後へ続いた。
 
 
余すところ年内の3週間でインドネシア国内の合弁相手企業を急ぎ設立させ、年明け早々には現地役員3名を決めて日本側企業との合弁会社設立申請書の提出まで進めたいというのが大森社長の今回のインドネシア出張目的だった。
 
ワニー氏の話ではジャカルタ政府の担当部局は産業省軽工業局でここのスギリ軽工業局長と面談できる手はずまで済ましていると説明した。
 
耕作は、明日からワニー氏の事務所に移り、申請書作成にとりかかることとなった。ワニー氏によると、合弁相手のインドネシア側企業の設立と役員の人選については、軽工業局の退職役人の中から取り立てて欲しいと非公式に打診されている由。
 
もちろん合弁に必要なインドネシア側投資資金は日本側からの貸付金を充てるという、いわば「おんぶに抱っこ方式」による合弁企業設立だった。
 
 
「小松さんはお若いがいろいろ外地で経験を積まれているとお聞きしています」
大森社長は神戸で大泉専務から耕作の話をきいてきたのであろう。当面の課題を全部ワニー氏に話おえた大森社長は改めて耕作に向かって話題を変えてこられた。
 
 
耕作はワニー氏への説明を兼ねて、明和貿易に入社してからの2年間について、特にインドネシアに入ってからの8ヶ月の見聞について詳しく話をした。
 
耕作の話を聞いていたワニー氏は、耕作がホテルスタッフとのやりとりやレストランでの食事の注文の取次ぎなど、てきぱきとした手際のよさを認めたのか、小松君なら大森社長の手助けが立派に出来るよ、とお褒め頂いた。大森社長も満足げな表情だった。
 

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青春:挑戦(18)

5月にジャワ中部及び東部を2回に分けて出張しその後大泉製麻からの追加調査指示がありインドネシア中央政府の投資奨励部局等の情報収集にかなりの時間を使った。
 
7月に入り当面の仕事もひと段落ついたので耕作は在住外国人語学研修所に再び通い始めた。
 
5月初めにジョクジャに出張した時にワシナへのみやげとして買って帰った伝統的なバティック衣裳をワシナに着させたところなぜか本人は浮かぬ素振りだった。
 
                       (ジャワの伝統衣裳をつけたワシナ) 
イメージ 1 
             
中部ジャワでは今でも婦人の礼服は大体伝統的な衣裳をつけているのに首都ジャカルタでは西洋風な衣裳が主流となってきている。
 
  マナディマナ ジャントン ハティサヤ 
ジャントン ハティノナ アダディ カンポン バルー
 
私の好きな あの人は どこへ行ってしまったのかしら
貴女の好きなあの人を 新しい町で見かけたよ
 
チャチャマリチャ チャチャマリチャ アダディ カンポン バルー
 
                  ノーナ マニス シアパヤン プーニャ
 
                  可愛いあの娘は誰のもの
                  可愛いあの娘は誰のもの
 
                  ヤサ サーヤン ゲー ヤンゲー
 
 
最近ワシナが奇妙な歌を歌い始めた。歌そのものは日本でも耳にしたことのある「可愛いあの娘は誰のもの」という軽妙な節回しの曲なのだが、この歌がインドネシアの民謡であったと知ったのはワシナがインドネシア語で歌っているのを聞いた時だった。
 
 
奇妙と思えたのはその歌詞が何かワシナと耕作との関係に意味ありげに聞こえたからだ。
 
5月から9月にかけて2回の長期出張をして、その前後も調査業務に没頭していたためワシナに気をくばることを怠っていた。
 
どうもその辺のことを民謡にことよせて不満を表しているのかと思っていた。
 
カリマンタンからジャカルタへ帰ってからも明和貿易のスタッフ、スギヤントがほぼ一日おきに我が家に顔を見せ、一緒に夕食をとりながら三人でよもやま話をして夕刻のひとときをすごしていた。
 
ワシナが楽しそうにしているのはスギヤントが家に来ている時だけで彼が帰ると寂しそうに無口になるのに気がついた。しばらくすると「マナディマナ ジャントン ハティサヤ」の歌がワシナの口から聞こえてくるのだ。
 
スギヤントとワシナが話している言葉は、ワシナがマレー語(インドネシア語)しか話せないから、早口で話していても耕作には殆ど内容が分かっていた。
 
最近の耕作はジャカルタにある、在住外国人語学研修所で本格的にインドネシア語を学びはじめてからは、むしろ教養の低いワシナの話すインドネシア語の限界が分かるほどに耕作のインドネシア語は熟達していた。
 
「私の好きなあの人は何処に行ってしまったのかしら」という歌詞は耕作のことではなく、スギヤントを想いながら歌っているのではないか、いや!そんなことはない、と否定する頭の中で霞のようにわきでてくる不安と疑惑の思いが耕作を捉え始めていた。
 
嫉妬というほどワシナへの執着心はなかったが、何か二人に小さな秘密をつくられたのではないかという疎外感に気がめいるのであった。
 
 
 
乾季が終わりに近づいたのか幾日かおきに、日が落ちると黒い雲が空を覆うようになってきた。そういうある日のこと、耕作は大泉製麻から、いよいよインドネシア進出の計画が固まったとの連絡を受けた。
 
在阪のジュート紡績会社三社と横浜にある光洋産業との四社共同事業としてインドネシアで麻袋を製造し現地で販売するという計画だった。時期は1年後に工場建設を始めることに決まった。
 
建設地の決定と、インドネシア政府の合弁企業設立の許可を得るための現地合弁相手の選択を早急に決めたいとの連絡だった。いよいよ耕作にとってジャワでの本格的な仕事が始まることになった。
 

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先日手、指し直し

夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る、という歌詞の歌があった。
 
町外れの里山の麓でこのところよく聞こえる鶯の鳴き方がどうにか一人前になってきたようだがまだ少しぎこちなさが残っている。
 
 
 
夏が近づくと、行き止まり長屋の入り口あたりで縁台将棋をはじめるのが通例だが、今年は駒のご隠居が姿をお見せにならないからかもうひとつ盛り上がりに欠ける。
 
誰か長屋の連中がご隠居さんのご機嫌を害ったという話もない。こりゃひとつご機嫌伺いに行かにゃなるめえ、と中住いの王、ご隠居さんの好物、明石の丁稚羊羹を手に提げてやってきた。
 
 
 
 
玄関の戸がやたらに重い。2〜3回、がたびしとやってどうにか体が通る隙間ができた。
 
「えぇ、ご隠居さんはおいででごぜえやすか?」
 
いつもは耳ざといおばばさまがお見えになるのに返事がない。だんだん声を大きくして呼んでみると、意外と元気そうなご隠居さんの声が返ってきた。
 
「その声は、中住まいの、だな。ばあさまはいねえんだ、あがってきてくれ」
 
中住まいの王、声のする方へ、といっても広い家ではない。ちっぽけな平屋建てだが、裏庭が広い。
 
ご隠居さんはどこに、と裏庭のほうへ目をやると、大きな楠木の木陰にござを敷いて独り盃を傾けていなさる。
 
「こりゃどうも、ご隠居さん風流なもんでごぜえやすねえ。ところで、おばばさまはどちらへ?」
 
「うん?あぁ、あいつは娘のところへ行きやがった。もう1ヶ月も前からじゃ」
 
「それは、その、ご隠居さん、家出なさったってことですかい?」
「世間じゃそういうかもしれねえな」
 
「ご隠居さんのところがそうじゃ、十字の飛車も筋違いの角も、串刺しの香車なんて毎日のように喧嘩しているのも当然でごぜえやすな」
 
「おいおい、中住まいの、連中と一緒にされるのは片腹痛いというもんだ。連中のなんてえのは、一晩、床を共にすりゃケロリ・ケロケロだろう?おれんところはそうはいかねえ」
 
「わかっておりやす、ご隠居さん。おんなじことをくどくど、ぐだぐだ、一発ガツンと食らわすと、ぎゃあぎゃあ、わめき散らすし、ありゃまるで気違いだわ、とおっしゃりたい」
 
 
 
 
「おいおい、黙って聴いていりゃあおめえ、他人の女房だと思ってひでえことを言うじゃねえか、ええ!」
 
「あぁ、いや、こりゃとんだ失礼を。いぇね、その本意はでごぜえやすが、それ、ご隠居さんがお得意の先日手のようなものだと申し上げたかったんで・・へえ」
 
「なんだと、先日手だと? それじゃあおめえ、先手・後手を入れ替わって指し直しをしろということかい?」
 
「へえ、その通りでごぜえやす。おばばさまにもう一度、将棋盤の前にお座りいただき、ご隠居さんはまたわれわれと一緒に縁台将棋の仲間に加わっていただきたいと、こう思いやして、へえ、ご隠居さんの好物もお持ちしたわけでごぜえやす、へえ」

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