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青春:挑戦(20)

大泉製麻 山川 勉 様
 
光洋産業、大森一道社長とともに合弁企業設立の準備を着々と進めています。一昨日電報で依頼しました通りインドネシア側合弁相手企業の設立(株式会社設立)のため資本金振込金額500万ルピア、 設立に関わる法務手続きその他で200万ルピア、ジャカルタ政府関係役人への協力金50万ルピア その他雑費50万ルピア、 合計800万ルピア(米ドル2万ドル)を東京銀行ジャカルタ支店口座へ至急送金して下さい。
 
合弁企業決定後は直ちに企業名の口座を開設します。大森社長より当面の設立準備に関する会計事務を托されましたので宜しくご指導下さい。
 
 
大森社長はインドネシア側合弁相手企業としてジャカルタ政府軽工業局推薦の退職役員スデロ氏、エンドロ氏並びに国営麻袋会社で原料栽培担当役員であったウィヨノ氏の3名を選任したいと考えています。
 
過日ワニー氏と社長に同席して上記3名とホテルで個別に面談しました。スデロ氏は中部ジャワ、スラカルタ(別名ソロ)市在住の旧家の出で英語とオランダ語を話し温厚な気風を漂わせていました。
 
合弁企業が何処に建設されても中部ジャワを拠点に原料麻栽培に関する借地交渉や栽培管理業務をやりたいと申していました。
 
 
エンドロ氏は東部ジャワ、スラバヤ市に在住している気力溢れんばかりの精悍な人で工場は東部ジャワに建設する以外他の候補地はないと云うほどの自信家でした。工場建設時は建設材料の手配、日本からの建設資材や機械類の輸入手続き全般の業務、工場操業後は麻袋の販売にも腕を振るいたいと大層なアピール振りでした。
 
ウィヨノ氏は長年国営麻袋工場に在籍していた人で、既に60歳近い高齢ですが原料麻ローゼラの栽培一筋に勤めてきた農耕技術者らしく農耕技術者の指導と農耕管理にお役に立ちたいと云っていました。
 
 
3名の履歴と写真を送付しましたのでご検討の上年明け早々にもご決定下さいます様お願いします。猶合弁企業の現地側、合弁相手企業については上記3名を役員にして社名を PT. ムリア(高貴なという意味)としたいと考えています。
 
この件も含めご決定頂くことと、合弁企業名のご決定にもこの社名を合わせた社名を付けることがインドネシア政府の関係者に好感を持たせることになリます。当方では「コーヨームリヤ」という社名を推薦します。
 
12月26日には大森社長が横浜に帰られ12月27日に大阪で三社長に現地報告をすると云っております。
 
年末でご多忙とは存じますがよろしくお手配下さい。なお前便でご報告しました通り私はジャカルタのワニー氏の事務所を借りて会社設立事務手続きをしています。
 
明和貿易にはしばらく立ち寄れませんから電話、テレックス、電報等での連絡は「Dr ワニー診療所」宛にお送り下さい。年内の業務連絡はこの連絡書で終わりとします。
 
 
今年は本当にお世話になり有難うございました。来年も一層頑張る覚悟でおりますので宜しくご指導ご鞭撻下さいますようお願い申し上げます。
 
昭和39年12月25日
        小松耕作
 

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青春:挑戦(19)

耕作が横浜の光洋産業社長、大森一道氏をジャカルタ空港に迎えたのは12月になって間のない頃だった。
 
大森社長は太平洋戦争当時、軍に所属していてインドネシアで資材調達の仕事をしていた経験を在阪のジュート紡績会社三社のトップから高く評価されて、インドネシアでの合弁会社の社長に就くことになったのだ。
 
大森社長にはインドネシアで活躍していた時代から親しくしていた友人にドクター・ ワニーという日本人医師がいた。その医師は戦後もジャカルタに残り開業医をしている傍ら、日本の大手製薬会社のジャカルタにおける相談役でもあった。彼はインドネシア政府の要人とも話の出来る人的コネクションをもっていた。
 
耕作がホテルのカウンターで大森社長のチェックイン手続きを代行していた時、ワニー氏が大森社長の背後から声をかけて近づいて来た。
 
大森社長が後を振り向いて、やあ、ワニーさん、久し振りですという挨拶を聞いて、耕作は初めてワニー氏を知った。二人はどちらも60近い年恰好に見えた。
 
共に精悍な顔立ちで、周りを気にすることなく大声で話をしていた。それはお互いの家族のことからはじまって、話は次第に20年も遡り、古いジャカルタの思い出話へと尽きることがなかった。
 
耕作は頃合を見計らって、ワニー氏に自己紹介をするきっかけをつくり、二人の話のなかに割って入った。
 
大森社長は二人をロビーに待たせたまま、荷物を部屋に運び入れると、直ぐにまたロビーに引き返してきた。今回のプロジェクトについて大森社長は一時も早くその概略を二人に話したい様子であった。
 
「ワニーさん、少し早いが夕食をとりながら話しましょうか」
大森社長はワニーさんの肩を抱くようにして食堂へ向かった。耕作も二人の後へ続いた。
 
 
余すところ年内の3週間でインドネシア国内の合弁相手企業を急ぎ設立させ、年明け早々には現地役員3名を決めて日本側企業との合弁会社設立申請書の提出まで進めたいというのが大森社長の今回のインドネシア出張目的だった。
 
ワニー氏の話ではジャカルタ政府の担当部局は産業省軽工業局でここのスギリ軽工業局長と面談できる手はずまで済ましていると説明した。
 
耕作は、明日からワニー氏の事務所に移り、申請書作成にとりかかることとなった。ワニー氏によると、合弁相手のインドネシア側企業の設立と役員の人選については、軽工業局の退職役人の中から取り立てて欲しいと非公式に打診されている由。
 
もちろん合弁に必要なインドネシア側投資資金は日本側からの貸付金を充てるという、いわば「おんぶに抱っこ方式」による合弁企業設立だった。
 
 
「小松さんはお若いがいろいろ外地で経験を積まれているとお聞きしています」
大森社長は神戸で大泉専務から耕作の話をきいてきたのであろう。当面の課題を全部ワニー氏に話おえた大森社長は改めて耕作に向かって話題を変えてこられた。
 
 
耕作はワニー氏への説明を兼ねて、明和貿易に入社してからの2年間について、特にインドネシアに入ってからの8ヶ月の見聞について詳しく話をした。
 
耕作の話を聞いていたワニー氏は、耕作がホテルスタッフとのやりとりやレストランでの食事の注文の取次ぎなど、てきぱきとした手際のよさを認めたのか、小松君なら大森社長の手助けが立派に出来るよ、とお褒め頂いた。大森社長も満足げな表情だった。
 

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青春:挑戦(18)

5月にジャワ中部及び東部を2回に分けて出張しその後大泉製麻からの追加調査指示がありインドネシア中央政府の投資奨励部局等の情報収集にかなりの時間を使った。
 
7月に入り当面の仕事もひと段落ついたので耕作は在住外国人語学研修所に再び通い始めた。
 
5月初めにジョクジャに出張した時にワシナへのみやげとして買って帰った伝統的なバティック衣裳をワシナに着させたところなぜか本人は浮かぬ素振りだった。
 
                       (ジャワの伝統衣裳をつけたワシナ) 
イメージ 1 
             
中部ジャワでは今でも婦人の礼服は大体伝統的な衣裳をつけているのに首都ジャカルタでは西洋風な衣裳が主流となってきている。
 
  マナディマナ ジャントン ハティサヤ 
ジャントン ハティノナ アダディ カンポン バルー
 
私の好きな あの人は どこへ行ってしまったのかしら
貴女の好きなあの人を 新しい町で見かけたよ
 
チャチャマリチャ チャチャマリチャ アダディ カンポン バルー
 
                  ノーナ マニス シアパヤン プーニャ
 
                  可愛いあの娘は誰のもの
                  可愛いあの娘は誰のもの
 
                  ヤサ サーヤン ゲー ヤンゲー
 
 
最近ワシナが奇妙な歌を歌い始めた。歌そのものは日本でも耳にしたことのある「可愛いあの娘は誰のもの」という軽妙な節回しの曲なのだが、この歌がインドネシアの民謡であったと知ったのはワシナがインドネシア語で歌っているのを聞いた時だった。
 
 
奇妙と思えたのはその歌詞が何かワシナと耕作との関係に意味ありげに聞こえたからだ。
 
5月から9月にかけて2回の長期出張をして、その前後も調査業務に没頭していたためワシナに気をくばることを怠っていた。
 
どうもその辺のことを民謡にことよせて不満を表しているのかと思っていた。
 
カリマンタンからジャカルタへ帰ってからも明和貿易のスタッフ、スギヤントがほぼ一日おきに我が家に顔を見せ、一緒に夕食をとりながら三人でよもやま話をして夕刻のひとときをすごしていた。
 
ワシナが楽しそうにしているのはスギヤントが家に来ている時だけで彼が帰ると寂しそうに無口になるのに気がついた。しばらくすると「マナディマナ ジャントン ハティサヤ」の歌がワシナの口から聞こえてくるのだ。
 
スギヤントとワシナが話している言葉は、ワシナがマレー語(インドネシア語)しか話せないから、早口で話していても耕作には殆ど内容が分かっていた。
 
最近の耕作はジャカルタにある、在住外国人語学研修所で本格的にインドネシア語を学びはじめてからは、むしろ教養の低いワシナの話すインドネシア語の限界が分かるほどに耕作のインドネシア語は熟達していた。
 
「私の好きなあの人は何処に行ってしまったのかしら」という歌詞は耕作のことではなく、スギヤントを想いながら歌っているのではないか、いや!そんなことはない、と否定する頭の中で霞のようにわきでてくる不安と疑惑の思いが耕作を捉え始めていた。
 
嫉妬というほどワシナへの執着心はなかったが、何か二人に小さな秘密をつくられたのではないかという疎外感に気がめいるのであった。
 
 
 
乾季が終わりに近づいたのか幾日かおきに、日が落ちると黒い雲が空を覆うようになってきた。そういうある日のこと、耕作は大泉製麻から、いよいよインドネシア進出の計画が固まったとの連絡を受けた。
 
在阪のジュート紡績会社三社と横浜にある光洋産業との四社共同事業としてインドネシアで麻袋を製造し現地で販売するという計画だった。時期は1年後に工場建設を始めることに決まった。
 
建設地の決定と、インドネシア政府の合弁企業設立の許可を得るための現地合弁相手の選択を早急に決めたいとの連絡だった。いよいよ耕作にとってジャワでの本格的な仕事が始まることになった。
 

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青春:挑戦(11)

大泉製麻(株)原料係長 山川 勉 様
 
一昨日東部ジャワ州の都市スラバヤとその周辺の地域の調査と見学を終えてジャカルタへ戻ってまいりました。
 
5月初めの中部ジャワへの出張には自動車を使いましたが今回は飛行機を利用しました。ジャカルタの空港を飛び立ち東へ30分ほど経つと飛行機は中部ジャワの山脈地帯を越え、眼下には東部ジャワの大平野、穀倉地帯が広がってきます。
 
中部ジャワの古都スラカルタ(別名ソロ)の山間を源として北のジャワ海に注ぐ大河ブンガワンソロと、東部ジャワの南海岸近くを源とし東西に紆余曲折しながら300キロ以上の距離を北へ流れるブランタス河の二本の大河が扇を広げたように北側のジャワ海に流れています。
 
この二本の大河に挟まれた広大な平野が扇状に北に向かって広がっておりジャワ島最大の肥沃な水田地帯となっています。
 
ジャカルタを飛び立って約1時間の飛行でスラバヤのジュアンダ空港に着きました。
 
 
空港には丸中商事スラバヤ支店の酒口さんが迎えに来て下さいました。私の調査に協力するようにと大阪本社から連絡を受けておられたようです。
 
酒口さんは日本から肥料を輸入してジャワ島東部を販売のテリトリーとしておられる関係から東部ジャワの農業関係の事情に詳しい方でした。私の調べたいことも大半は酒口さんが大体の事情をご存知でした。
 
午後に酒口さんにご同道願い東部ジャワ州政府の農業局に局長を訪ね、「東部ジャワ国営農業統合企業」(PPN ジャティム V )の設立の意味と現時点における評価を聞きました。
 
局長の説明は、輸出商品として砂糖の増産を計りたいが砂糖は準備期間を入れると、収穫まで16ヶ月と期間が長いうえに肥料、農薬など栽培費用が嵩み、また栽培管理が難しく一般の農民が個人で栽培するには不適であること。
 
砂糖きび栽培会社なら16ヶ月の安定的な借地契約をしてくれて、栽培農業労働の需要もでてくるから村落に現金収入が生じてくる。村落との契約が確実に執行されるには国営企業が最適であること。
 
PPN ジャティム V」 設立後3年目となる今年は借地面積も拡大しており輸出増大の一翼を果たしている。また国内の経済発展にともない穀物輸送の増大も顕著になってきた。穀物輸送の増大は麻袋の国内需要の増大となり、麻袋の輸入が増えていること。
 
麻袋の国内生産増大も図らねばならず現存の国営麻袋工場の生産拡大のため原料ローゼラを東部ジャワにおいても栽培を広げる計画であること、という東部ジャワ州の経済政策の説明をしてくれました。
 
丸中商事のスラバヤ支店事務所に戻り東部ジャワの地図を広げて酒口さんから先ほどの局長の説明の補足を聞かせて頂きました。
 
人口密度の高いジャワ島の中でも特に東部ジャワは経済発展が遅れているうえに北側の対岸に横たわっているマドゥラ島からの貧民の流入も多く、民生安定のためにも東部ジャワの開発が重要視されてきたとのことです。
 
しかし国営企業の拡大は役人と周辺関係者の利権増大の温床にもなっており、大は国際石油会社シェルと共同経営をしているプルタミナ石油公社、小は農民の耕作地の貸借契約にまで頭を突っ込んでピンはねをねらう村長まで、この国は社会の隅々まで賄賂と汚職まがいの手段を弄しないと事が運ばない、というのが現在のこの地の実体であるようです。
 
東部ジャワ州政府の農業局長の「PPN ジャティム V」に関する成功例としての説明は表向きの話で、実体は借地用の財政支出がかさみお役所仕事の限界が見えはめてきた、という見解を酒口さんはしておられました。
 
生産効率の低い農作業は個人規模では成り立つが会社組織で給料を支払って作業をさせるものではないのではないかとも言っておられました。東部ジャワでローゼラ麻原料を栽培する場合の参考になる話だと思いました。
 
以上、とりとめのないものとなりましたが取り急ぎスラバヤ出張の報告といたします。
 
昭和39年5月26日
小松耕作

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青春:挑戦(10)

大泉製麻(株)原料係長 山川 勉 様
 
5月の初め、3泊4日の日程で明和貿易のスタッフと中部ジャワへ出張しチレボン、プルオケルト、ジョクジャ地域を見学いたしました。
 
帰路バンドンの農科大学を訪問しインドネシアに於ける黄麻原料、ローゼラ麻栽培の実情について情報を得てきました。また、大泉製麻のインドネシア麻袋工場発足の時必要になると考え、同校の若い卒業生の中から日本企業への就職斡旋を打診しましたところ、2〜3人の候補者の氏名と連絡先について情報を頂きました。
 
そのことは時期が参りましたら詳しくご報告いたします。少し気になる情報としましては同大学の図書室でローゼラに関する政府の政策が一件、目にとまりました。
 
それは1961年4月26日付けの「東部ジャワ国営農業統合企業設立」に関する法令です。丁度3年前に発令された法令ですが東部ジャワにある八つの砂糖きび栽培会社と「PT パブリック・カルン・ロセラ」という麻袋工場を合体させて、国営農業統合企業とし企業の名称を「PPN ジャティム V 」とする、という内容です。
 
複数の民間企業を一つの国営企業に統合するというこの法令が発令された背景と、その後の3年間にこの国営企業がどのようになってきたのか調査する必要があろうかと思います。
 
しかし、ジャワにきてまだ日の浅い私には具体的な調査方法の伝手がありません。明和貿易のジャカルタ支店も中部ジャワには多少の手がかりはありますが東部ジャワには足がかりがないと云っています。
 
東部ジャワ州の州政府はスラバヤにあります。この都市はジャカルタに次ぐインドネシア第二の都市でありジャワ島屈指の商業都市であります。
 
日本の商社のうち何社かはこの地、スラバヤに支店を出していると思われますので、この調査に協力頂ける商社が大泉製麻の取引先商社の中にあればご紹介ください、ご一報があり次第直ぐにもスラバヤに出かけるつもりでおります。
 
 
尚上記古都ジョクジャはインドネシアにおける日本の京都にも似た、この国の伝統を生活の中に受け継いでいる都市です。バティック染も有名ですがデザインも染料も余りに伝統的過ぎて面白味がないと思い別の産地ペカロガン製のワヤンクリッ(影絵芝居)をデザインにしたバティックをお届けします。壁飾りにでも用いて頂ければ幸甚です。
 
 
 
昭和39年5月11日
   小松耕作

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