私的な考古学

丹沢山麓で考古学を学ぶ学生諸君との対話

若葉マークの学部長業

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実際に体験することになろうとは予想もしていませんでしたが、この4月から文学部長業をやっています。仮に「学部長体験イベント」などがあったとすれば、そしてそれに参加したとすれば、まず全力で拒否していたはずだと思います。

他大学の場合はどうか知りませんが、連日文字通りの雑務の山と対峙しなければなりません。4月と5月は週6日勤務(朝9時過ぎから夕方9時前後まで)でしたし、翌日曜日もイベント続きで休日とは無縁でした。そうやって雑務をこなし山をなんとか乗り越えたかと思えば、ただちに次の仕事が舞い込んできて、息をつく間がありません。

きっと世の中間管理職とはこういうことを指すのでしょうね。こなしていらっしゃる方々は本当に偉いと思います。

私と同世代の友人の多くも行政機関であったり会社組織であったりと、職種はさまざまですが、同じような中間管理職に就いていますので、そういう役回りが巡ってきたことを、それはそれで“良し”としなければならないのかもしれません。

しかし私の場合は考古学研究に邁進することでこの立場に居るはずだとの思いが強いものですから、研究に割く時間が取れない状態が日常化するという事態はけっこう深刻です。若葉マークゆえの焦燥感かと思うことにして、当面は辛抱するつもりですが、こうした日常が「痛い」のも確かです。

もちろん昨年度は学部長補佐でしたから、学部長業がいかに大変なのかについては充分に予想はついていたはずですし、広い部屋が与えられたことは喜ぶべきだと確かに思います。それにいつ電話が掛かってくるかわからないので、ゼミは学部長室でこなすことが多くなりました。これまでの倉庫かと思えるような狭偎研究室でのゼミに比べると、はるかに広いし椅子も心地よいし、ということで授業環境の変化を喜んでいるゼミ生もいるかもしれません。

明日も(正確には今日も)朝から打ち合わせと会議三昧で、開放されるのは夜の9時以降であることが目に見えています。

確かに外形上は優雅な立場だと思われるでしょうね。しかし実際に体験してみて思うのですが、世の評価と実態とは絶対に整合しないし、その不整合を目下体現している一人が私であるに違いないと踏んでもいます。まったく参りました。1日も早く、少なくともこの若葉マークモードからは気持ちのうえで卒業したいと切に願う昨今です。

なお写真は記事の内容とは無関係な、とある瀬戸内地方の大型前方後円墳くびれ部の状況です。ここまで遺りがよいと、築造時の様子がなんなく再現されることになります。こうした現地調査に飢えている昨今だといったほうが、より正確だと思います。

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2014年度の卒業式

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翌日から調査出張を入れていたため、記事のアップが前後してしまいました。3月24日には本年度の文学研究科の学位授与式があり、S本君に博士(文学)が、H君に修士(文学)の学位が授与されました。おめでとう。

また、翌25日には学部の卒業式がありました。現学部長からよく見ておくように、と言われ、私も初めて体育館で開催された本番の卒業式に参列しました。4年前には震災の影響もあって、入学式をおこなえなかった学年ですので、他学部の同級生と一同に会する機会は卒業式だけという状態で、気の毒に思います。スケールの大きさを実感するには良い機会かと思いました。

その後の証書授与は、例年どおり14号館で挙行しました。私が学年の担任でもあったことから、23名の卒業生に証書を授与させていただきました。皆さん、卒業おめでとう。

謝恩会では、例年どおり「考古学エレジー」を歌わせていただきました。この歌を私に教えてくれた吉留さんも今は亡く、私自身も歳を食ってしまったことに、少しばかりの“悲哀感”と諦観を込めて、です。

そして私自身も4月からは、考古学専攻を半ば卒業したかのような状況になります。研究室はそのままですが、廊下の斜め向こうにもうひとつの執務室があり、当面はそこの住人となることに。学部全体の世話焼き役を命ぜられました。卒業生や修了生諸君と同様に、私にとっても節目となりそうです。

そんなこともあって、無理矢理、徳之島出張に向かったというわけですが、予想外の収穫だったものですから、気持ちは若返っています。雑務に埋没せずに今回のテーマは絶対にモノにしてやる!と意気込んでもいます。

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徳之島の旅

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先週の木曜日の午後から4日間の旅程を組んで鹿児島県徳之島に来ています。伊仙町教委の新里亮人さんにカムイヤキの窯址と灰原出土の資料を見せていただくことが目的でした。

幸い27日には目下調査中の面縄貝塚を見学させていただくこともできました。岩陰に4個体のゴホウラが転がっていたのにはさすがに驚かされました。縄文時代にはここまで貝殻を運んできていたのですね。付近には近世の崖葬墓もあって、予想以上の収穫でした。

カムイヤキ窯址の各群もご案内いただき、11世紀末に始まる本格的な南方向け須恵器生産の拠点をこの眼で確かめることができました。新里さんの分類A群とB群のそれぞれの大壺のサンプルも表採・持ち帰りをお許しいただき、灰原から適当なサイズのものをピックアップさせていただきました。

昨日28日には、一日貝製品の実測をさせていただき、途中、昼食がてら隣町の天城町教委の具志堅さんを二人で訪れ、中里遺跡や塔原遺跡の資料を見学。多数の石斧や砥石と判断しても差し支えない石皿に見入っていました。凄い遺跡です。

そして晩には新里さんの声かけで考古学・埋蔵文化財保護行政関係者との呑み会。5時間にわたって語らいました。新里さんをはじめ、皆さんに心から感謝です。

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表題は東北大学で来週開催される空間史学研究会の国際シンポジウムです。奈良女の小路田さんつながりでお知り合いになった日本思想史の佐藤弘夫先生の紹介により、私もこのシンポジウムに出席して話をさせていただくことになりました。

私の報告内容は、といえば、業界筋でもっぱらオカルト考古学扱いされている、たとえば坐東朝西の空間設計の話や、黄泉国は山中だ、といった趣旨のものですが、他のお二方は海外からのご参加。どのようなシンポジウムになるのか、非常に楽しみです。

プログラムの概要は下記のとおりです。

空間史学研究会 第4回シンポジウム 冥界の深度と意匠――死後世界のコスモロジーとその諸相をめぐって

Depth and Design of the Otherworld: Studies on Cosmologies and Other Aspects After Death

主催:空間史学研究会
共催:東北大学大学院文学研究科、東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻空間文化史学分野

開催趣旨:死後の世界とは一体どのようなものであろうか。古今東西において、人々はこの不可視の世界を多彩に想像し続けてきた。仏が居住する清浄な「浄土」、地下の泉を語源の一つとする「黄泉」、永遠の安息が得られる「天国」などはその適例であろう。宗教や思想、組織や集団、時代や地域の別により、じつに多くの死後世界が生み出され、語り継がれてきたのである。
 興味深いことに、各様の死後世界は、地上や地下などさまざまな「深度」に具体的な空間として定位され、しばしば事々物々の「意匠」を纏ってきた。では、これらの空間は、どのようなコスモロジーや制度に接続し、「深度」と「意匠」が選択されたのであろうか。
 本国際シンポジウムでは、死後の世界に刻み込まれた社会と文化の記憶を、古今東西の具体的な空間の諸相をもとに解きほぐしてみたい。

講演題目・講師:
1.仏教伝来以前の他界観とランドスケープ
 ――日本列島初期水稲農耕民社会と巨大前方後円墳の場合
  北條芳隆(東海大学・考古学)
2.新彊の舎利埋納と空間
  冉万里(ラン ワンリ)(西北大学・考古学)
3.リビア・サプラタ遺跡の墓廟とフェニキア=カルタゴ人の死後世界
  Benedetta Bessi(ベネデッタ ベッシ)(ローマ・ジョン・カボット大学・考古学)

コメント
  佐藤弘夫[東北大学・日本思想史]
  長岡龍作[東北大学・東洋日本美術史]
  芳賀京子[東北大学・西洋美術史]
通訳
  芳賀満 [東北大学・考古学]
司会
  野村俊一[東北大学・日本建築史]

開催日時:3月19日(水) 13:00
開催場所:東北大学 川内南キャンパス文学部第一教室(文教大教室)

・本シンポジウムは平成26年度東北大学大学院文学研究科長裁量経費に基づいています。
・終了後、18:00より懇親会を開催予定です(文系食堂内ルポー)
・ 通訳あり

私が今回のシンポジウムにお誘いを受けて、強く惹かれたことのひとつが、考古学では使わない語彙が軽妙に駆使されていることです。「冥界の深度」とか「意匠」とかの表現を、考古学ではなかなか使えませんし、思いつきません。さすが美術史や建築史畑の方々だな、と感心させられますし、今度使ってみようかな、とも考えはじめています。そして強い印象を抱いたふたつめがポスターのデザインと色味です。語彙といい、デザインのセンスといい、どちらも、とても素敵ですし、垢抜けしていて羨ましいですね。

ちなみにポスターの背景上段の写真は、奈良県唐古・鍵遺跡から撮影した春分の日の出です。龍王山520mピークからの日の出となるのです。ようするにこの遺跡から数百年間にわたって見つづけられた春分・秋分の日の出の情景が、のちに大和東南部古墳群の中心軸線を規定することになったと考えられるのです。暦の起点は冬至の日の出で、三輪山が指標だったでしょうが、春分と秋分は暦の中間点ですから、中心軸線にはふさわしかったのでしょう。

東の山が選ばれる理由は、こういうところにあったのだ、と確信させられたときに撮影したものです。

このシンポジウムでのプレゼンが、私にとって今年度最後の発表になります。とはいえ今週末には茨城県のひたちなか市での市民向け講演会ですので、気が抜けません。そうはいっても、どちらも最近考え始めたテーマに直結した内容ですから、楽しませていただいていることには代わりありませんし、お呼びいただいて光栄です。

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季節の変わり目に

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田舎の母が「この季節は嫌いだ」と常々口にしています。もう23年も前になりますが、弟が死んだのが3月5日でしたから、看病の末にその甲斐もなく身内を亡くした悲しみが、梅が咲くこの季節を嫌いにさせたのだと思います。

再び、なぜか弟の死んだ日のことが思いおこされます。あの時はちょうど徳島で前期古墳の測量調査をおこなっていて、地権者さんのお宅から電話だと呼び出しがあり、出てみれば妻の声で、弟の死を知らされました。学生も居たので夕方までは現場を止めるわけにもいかず、妻は一足先に東京に向かい、私は仕事を終えてから東京に、そして長野に、と…。

不思議です。吉留秀敏さんが亡くなられたのも3月5日でした。2年前のことです。そして昨日、再び九州から訃報が届いて驚かされました。田中良之先生が亡くなられたとのこと。お二人とも少し早すぎませんか。

大分県上ノ原横穴墓群の発掘調査のさいに、吉留秀敏さんのお宅でご一緒したのが最初でしたよね。当時は医学部解剖学講座の助手というお立場で、「お前の師匠である近藤義郎先生の若かりし頃と同じ身分たい!」とおっしゃられたことをよく覚えています。

確かにあのときは横穴墓内の埋葬骨の観察にお越しでしたから、さすが骨の専門家なんだと感心しながら脇で見ていました。魚料理もお好きでしたから、吉留邸の居候だった私は、数日間滞在なさった田中先生に煮魚のコツを教えられました。そんなことも思い出されます。

その後は偶然のいたずらでしょうか。私自身も3年間でしたが医学部第1解剖学講座の助手を経験することになりました。もちろん、田中先生とのあまりの落差に幾分恥ずかしい思いをしています。私の場合は、比較するならむしろ師匠側でしょうか。医学部の仕事などとは無縁の考古学だけでしたから。

15年前に、当時はまだ若かった3人で本を書くことになり、その事前の打ち合わせで九州にお邪魔したさいにも、励ましてくださいました。まだ充分に応えられていませんのに、残念です。

明日は日帰りで博多に出向きます。きっと吉留さんのときの悲しさを思い出しながら、となるでしょうね。母の言うように私もまた、この季節が嫌いになりそうです。

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