半可通日記

今日のための今日を生きるのではなく、明日のための今日を生きよう。

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[日韓交流の歴史] その一

【日韓歴史共通教材】
先史から現代まで
歴史教育研究会(日本)
歴史教科書研究会(韓国)

明石書店
2007

「刊行にあたって」には、「歴史を正しく理解しなければ」「歴史の真実を正しく認識しなければ」「正しく理解する」と、「正しい」が三回も出てくる。

裏カバーの写真は、「16世紀末の朝鮮侵略で日本に連行された陶工李参平を称える碑(佐賀県有田)」である。

「陶祖李参平碑」は、有田繁栄の礎を築いた功績を称えて建立されたのだが、この本では「朝鮮侵略」を深く反省するよすがとなっているようだ。

いや、「交流の歴史」とは「侵略の歴史」を意味するのかも知れない。

それに、歴史用語として、「壬申丁酉倭乱」「文禄慶長の役」「朝鮮出兵」「朝鮮征伐」!を使用せず、「朝鮮侵略」なのにも、疑問がある。

「(ソ連)大祖国戦争」「中国人民抗日戦争」などと同様、「正しい」価値観が最初から盛り込まれているからだ。

ちなみに、手元の日本史メルマガには、「663年:白村江の戦い−敗北した倭は、『古代における朝鮮出兵』を終了させた。」とある。

さらに、図版にはなぜか「東海」「日本海」「独島」の表示がない。

「先史時代の文化と交流」の章では、60万年前に朝鮮半島では人々が活動を開始したのに、日本列島ではようやく3万年前頃に活動開始した、とある。

日本は、遅れてるのだ。

「BC 1500年頃、古朝鮮成立」。

日本の学者は、「古朝鮮」を認めているのか。

さすがに「半万年の歴史」とは書いてないが、しかし、「古朝鮮」がいかなる国家だったのか、説明は一切ない。

「第二章 三国・加耶の政治情勢と倭との交流」では、いきなり「BC 194 衛満が古朝鮮の王となる」と始まる。

「檀君神話」はどこへ行ったのか。「箕子朝鮮」も記載がない。

漢の「楽浪郡」はちゃんと載っていて、一安心。

広開土王は「倭を撃退」している。

「任那日本府」はもちろん存在しないが、少なくとも、「新羅に倭が侵入した」のは、事実のようだ。

「百済は倭の勢力を引き入れて」とあるのは、倭ではなく、百済の主体性を示したものであろう。

有名な「七支刀」の記述は、「様々な学説がある」と逃げを打っている。

倭と百済の、どちらが服属し、どちらが宗主国だったのかは、決められなかったらしい。

時は流れて、「東北アジア世界の再編成」の章では、高麗が賞賛される。

「高麗人は中国が天下の中心と考えていたのではなく、高麗が中国とは別の独自の天下の中心と考えていた。今日、これを多元的天下観と称している。」

つまり、単なる属国ではなかったのだ。

「(高麗は)宋が建国されるとすぐ事大関係を結んだ」が、「高麗は積極的な外交を展開し、宋との事大関係を断絶」と、独自性が強調される。

しかし、その後の高麗は、なぜか金と事大関係に入ったのだった。

発展した高麗に比べ、「日本では、摂関政治になっても消極的な外交姿勢を続けた。」

「10〜12世紀の日本と高麗の関係」では、相変わらず「日本は、その後周辺国に対して一層消極的な外交姿勢をとった」。

「高麗は、日本に国交の樹立を求める使者を何度も派遣したが、日本はこれを受け入れなかった。」

以下、「多元的天下観」を持つ文化国家、高麗を理解できない、日本の頑なな姿勢が延々と説明される。

いよいよ、「モンゴルの侵略と高麗・日本」の章である。

図版「モンゴル帝国の最大版図」には、高麗が含まれていない。

なぜなら、「高麗は -- 講和を結び、モンゴルと事大(朝貢冊封)関係を樹立した」から、「高麗はモンゴル領に編入されずに国家を維持することができた。」

これが、「多元的天下観」の発露なのか。

しかし、「モンゴルは、--- 高麗の内政に干渉した。」ので、「高麗の国家威信は失墜した。」のだ。

「高麗の忠烈王がフビライに、日本侵攻を進言した。」という記事はない。

代わりに、「モンゴルへの協力を拒否する宰相」の項がある。

「(日本は)驕慢で道理がわからないものたちなのだ。」

そして、「高麗が元の強要によって日本『遠征』に動員されたにもかかわらず、日本は高麗を元と同じ侵略国と考えるようになった。」

こうして「(日本では)特に高麗を『夷狄』とする見方が広がった。」

この「夷狄」の説明で、「エスノセントリズム(自民族中心主義)」が登場するのには驚く。

この【日韓歴史共通教材】と銘打たれた本自体が、「韓民族中心主義」の歴史観に裏打ちされているのに、である。

次に、「明中心の国際秩序と日本・朝鮮」の章。

明には、朝鮮・日本・琉球が朝貢した。つまり、みな一緒の立場だったのだ。

「中国と朝貢冊封関係を結んだといっても中国の属国になったのではなく、独立した国家を維持するだけでなく、内政や外交に干渉を受けるわけでもなかった。」

と、なにやら言い訳がましい解説がある。

前半のクライマックス、「第7章 16世紀末の日本の朝鮮侵略とその影響」。

「日本軍は戦況が不利になると明に和議を申し出た。明軍も碧蹄館の戦闘で敗れた後、自国の利害を優先して終戦を急ぎ、和議交渉が始まった。最も大きな被害を被った朝鮮は和議に反対する立場だったが、交渉からは除外された。」「明・日双方は互いに自国に有利な立場で和議交渉をしようとした。」

この解説、時代は違うが、朝鮮半島の争奪戦であった、日清戦争・日露戦争・朝鮮戦争にそっくり。

いつも朝鮮は「交渉からは除外された」のだ。

「戦争の影響」の項では、「丁卯胡乱・丙子胡乱」の図面がある。

こうなると、やはり「壬申・丁酉倭乱」が出てこないのが不思議になってくる。

「朝鮮は、一時は明の弱体化と満州族の隆盛という情勢を考えて、慎重な中立外交を展開したが、結局は明との親善関係を維持して満州族が建てた後金(後の清)を排斥した。」

これも「歴史は繰り返す」で、日清戦争・日露戦争の間、「慎重な中立外交を展開した」朝鮮を連想させる。

「第8章 通信使外交の展開」には、金正浩の「大東與地全図」が登場する。

この朝鮮全図には、「独島」は描かれておらず、形態が実物と違う「対馬島」が朝鮮領になっているので有名である。

現代の韓国人が、「対馬島は韓国の領土」と主張する、一大根拠である。

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