よっしー本店

ブログ名を再度変更しました。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全120ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

父親の独り言

 今年になって長男がアルバイト先の量販店に正式採用されることになり、この春から親元を離れ他県へと旅立っていきました。次男坊も大学で福祉を学ぼうと他県へ旅立っていきました。一時に二人とも出て行く結果になり、多少さびしさを禁じえませんが、こちらは夫婦二人で案外仲良くやっているので、安心して頑張ってほしいと思います。
 
 それにしても、私たちの世代は子どもたちに何を残そうとしているのか、それを考えると暗い気持ちでいっぱいになります。なによりも、福島でおきた原発事故、それについて真実が隠されてきたこと、そしてもっぱら内部被爆によって数多くの人々が犠牲を強いられるであろうこと、もちろんそのなかには私たちも息子たちも入るのでありますが、子どもたちの生きる道さえ閉ざそうとする私たち親の世代の無責任さに呆然となります。いったい何が欠けていたのでしょうか。
 
 「頑張れ、日本!」の合言葉がガレキの国内拡散=被害の拡大・情報の隠蔽へとキャンペーンとして使われ、国民の素朴でありたいという志向を逆手に取ったような国策が通用するのを見るにつけ、これからは「素朴」とか「素直」というのが美徳とはかぎらないと思ってしまいます。
 
 私たちが子どもや孫たちにそれを求めるのは、間違っていると思うのです。それは教育ではなく、管理や統制の類ではないかと思います。教育というのは上意下達のためにあるのではなく、能力の向上により自他ともに幸福追求の選択肢が増えることを目的とするものだ思います。つまり、単に「素朴」や「素直」であることよりも、自分は「自分の意見を主張することができる」とか「自分の誤りに気づいたときは主張を修正することができる」という自己肯定感や自己信頼感に裏付けられた合意形成の力であると考えています。せめて子どもや孫たちの世代には、行き過ぎない限りにおいて自己防衛の力も兼ね備え、自らの力で信頼できる社会を築けるようになってほしいと思うからです。
 
 残念ながら、私にはそういう能力はあまり育ちませんでした。せめて可能な限り、人に優しくなれればと思います。それなら、能力よりも努力しだいで可能な気がします。人に優しく、人間に優しく‥‥老後の目標です。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

4年目を迎える裁判員制度だが‥‥

 裁判員制度の当初の目的は何だったのだろう。日弁連は司法に市民感覚を取り入れるためであると言っているが、法律にはそうは書いていない。裁判員法には、第1条にこう書いてある。


 第1条 この法律は、国民のなかから選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法(昭和二十二年法律第五十九号)及び刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)の特則その他の必要な事項を定めるものとする。


 つまり、もともとは「司法に対する国民の理解とその信頼の向上に資する」からという理由で制定された法律であって、理解が足りないのは国民のほうであり、国民は司法を信頼せねばならないという考え方が基本になっている、要するにあべこべなのだ。はたして、これはほうっておいていいことだろうか。
 
 大きな間違いほど周囲には分かりにくいという。最初から大きな誤りがあるなどとは思ってもみないから、ついつい周囲の視線は小さな間違いやどうでもよいことに向けられがちなのだろう。そして、理屈はあべこべでも語呂合わせさえそれらしくできていたなら、キャッチコピーに慣らされた現代の日本人には案外するりと納得されてしまうものだ。
 
 ここで問題なのは、これをあべこべのままに見過ごしておくと、「主権在民」という現憲法を支える理念のひとつが大きく後退しかねないということだ。まして、この法律では裁判員等が裁判所に出向くことを「出頭」と言っているのだから、この国家と国民との位置関係を確認したい気になるのは私だけではあるまい。
 
 さて、国民の抱く疑問などには、国は可能なかぎり丁寧な対応が求められると私は思っている。それが、いかに初歩的な疑問、マイナーな疑問であっても、合理的・効果的な手段で疑問に答えていく必要がある。最近、マスメディアは国民の一部の意見に対して、コメンテイターがさも呆れ顔でまともに受け答えしない傾向があるが、よくないと思う。少なくとも、国の機関にはそういう対応はあってはならない。それが、国家と主権者国民との基本的な位置関係であり、国民の「知る権利」の根拠のひとつである。
 
 裁判員法が定めているのは、国民の理解と信頼が足りないから裁判員として刑事裁判に関わってもらおうという荒っぽい発想だが、そもそも国民の理解と信頼が充分でなかったかどうかさえ、私たちには分からないままであった。そして、ここが曖昧である以上、課題が克服されたかどうかを知るすべはなく、裁判員制度という国民に厳しい役務の提供を求めるこの制度は、エンドレスで続くことになりはしないか。また、この制度を推し進めてきた最高裁が違憲立法審査権を併せ持つという、見過ごすことのできない大きな矛盾があり、検察審査会同様、司法に対する新たな不信を招いていることは皮肉といえば皮肉だが、両者には同根の問題が宿っていそうな気がする。

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0)

東京地検特捜部の組織的犯行

      八木啓代氏のぶろぐに興味深い記事が紹介されている。雑誌「世界」に掲載されたフリージャー     ナリスト江川紹子氏による次の文章だ。
五月十七日の取り調べは、約五時間にわたって行われている。その中で、田代検事は四回席を外して上司に報告に赴き、上司と思われる人からの電話も一度受けている。最初の報告は、取り調べが始まって一時間半後。「(石川氏は)全面否定はしませんよと、(上司に)ちょっと伝えてくる」と言って取調室を出た。三時間半を過ぎた頃にかかってきた電話には、調書を作成中である旨報告している。
 調書の下書きができ、石川氏に確認させている聞に、この下書きを上司に届け、小沢氏への政治資金収支報告書に関する報告と小沢氏の了承について盛り込むよう、指示を受けている。取り調べを終了する前にも、了承を得るために、席を外した。
(世界5月号「裁かれるべきは検察か」江川紹子)
 
折りしも、本日は小沢一郎氏の裁判が結審する日である。森ゆう子議員は日本外国特派員協会に要請文を提出し、協力を求めている。以下がその文章である。(引用はじめ)


議会制民主主義の危機 「小沢裁判の違法性について」

 東京第五検察審査会の「起訴議決」による「小沢裁判」が明日4月26日、判決を迎える。

一昨日我々は、別紙のとおり、衆参両院議長に対して「検察審査会の実態調査を目的とする法務委員会秘密会の開催について」の要請を行った。2日間で集まった136名の国会議員の署名を添付したところである。

 密室で行われた11人のくじで選ばれた国民による「起訴議決」の違法性については、別紙要請文に述べたとおりであるが、その審査の資料は東京地検特捜部が作成した「捜査報告書」である。昨日発売された週刊誌「週刊朝日」に、その一部が暴露されたが、検察は証拠がなくて小沢氏を起訴出来なかったにも関わらず、犯罪事実が確定されたと記載している。これは、捜査当局による「有印公文書偽造」であり、明らかに犯罪である。

 一人の政治家を有罪にするために、密室で、しかもいわば法律には素人の審査員を「起訴議決」に導くために、ねつ造された報告書が提出されたことが判明した以上、この裁判はただちに取りやめるべきであり、「捜査報告書」のねつ造に関わった関係者は厳正な処分を受けるべきである。またこれは組織的でなければ行い得ないことである。そうであるとすれば、日本国憲法に規定された正当な選挙で選ばれた国民の代表であり、国権の最高機関の一員である国会議員、しかも、そのような謀略がなければ総理大臣になったであろう人物を、捜査当局が不当に弾圧できることになり、これは、我が国の民主主義の根幹を揺るがすものである。

 日本のマスメディアは、このような事実を正しく報道しないばかりでなく、メディアスクラムによってその謀略に加担してきた。

 私は、真実を国民や世界に知らせるために、日本外国人特派員協会会員各位のご協力を切にお願いするものである。

      2012年4月25日

        前文部科学副大臣参議院議員 森ゆうこ


(以上、引用終わり)
 
 八木啓代氏らの告発状(佐久間達哉元特捜部長、大鶴基成元次席、木村匡良元主任検事、斎藤隆博特捜副部長、吉田正喜元副部長を偽計業務妨害、田代政弘検事を偽証、堺徹特捜部長、斎藤隆博特捜副部長を犯人隠避として告発)もあり、いよいよ裁判の行方が注目される。
 
 
 

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

ジャズ・メッセンジャーズ物語 その4

 1964年の5月の演奏を最後に、ウェイン・ショーターはジャズメッセンジャーズを離れ、同年7月にはマイルス・デイビスのバンドに加入します。そして、すぐに録音されたのが「マイルス・イン・ベルリン」で、なかにはこのアルバムをしてマイルスのベスト・アルバムに挙げる人もいるほどのスリリングなライブ・セッションとなりました。
 
 一方、ジャズ・メッセンジャーズのほうは、ウェインの後任としてジョン・ギルモアが加入しました。シダー・ウォルトンの後任にジョン・ヒックスが、一足先にやめていたフレディ・ハバードの後任にはリー・モーガンがカムバックしました。そして、196411月、Limelightレーベルに“‘S Make It”を残したのを最後に、カーティス・フラーも去り、19616月から続いた3管体制もひとまず終わりをなします。
 
テナー・サックスのジョン・ギルモアがアルト奏者のゲイリー・バーツに代わったりしましたが、この当時のジャズメッセンジャーズにとってもっとも衝撃的な出来事は、1966年1月、ブレイキーとそれ以外の当事無名であった4人の若者とがカリフォルニアのヘルモサ・ビーチにある「ライトハウス・クラブ」でおこなったライブ・パフォーマンスでしょう。アルバム「バターコーン・レディ」(ライムライト・レーベル)に参加したジャズ・メッセンジャーズのメンバーは、チャック・マンジョーネ(tp)、フランク・ミッチェル(ts)、キース・ジャレット(p)、レジー・ジョンソン(b)、そしてアート・ブレイキー(ds)。当事、キース・ジャレットは21歳。残念ながら、キース・ジャレットはこの1回のレコーディングだけで、ジャズ・メッセンジャーズを離れ、以後、チャールス・ロイドのバンド(「フォレストフラワー」などに参加)を経て、1970年にマイルス・デイビスのバンドに参加。いっぽう、ジャズ・メッセンジャーズは以後、メンバーが定着しない時期がしばらく続きます。

閉じる コメント(3)

閉じる トラックバック(0)

やっぱり何か納得のいかない裁判員制度

 4月14日のNHK総合テレビで朝やっていた「週間ニュース深読み」という番組で、裁判員制度について3年後の見直し時期にあたるということで、ラサール石井氏をはじめ3人の聞き手が推進側の学者さんとNHK解説員、それに制度改善派の市民運動家にツッコミを入れるという結構みどころのある番組をやっていました。
 
 国民にとっては、いつの間にか決まった印象が強いが、①この制度を導入するにあたって国民の側から要望があったのかという問いに対して、それは特になかったけれども、②三権のうち立法府・行政府には市民参加がシステムとして導入されているのに司法だけにそれがないというのはおかしいし、③国民にも一部参加してもらうことによって司法に関しても責任ある社会を実現していくという趣旨で設けられていると説明していました。
 また、④裁判員体験者の多くの人たちが「体験してためになった」と応えているということを強調していました。
 
 
 これらのことについて、私は次のように考えます。
 ①国民から要望もないのに、憲法に定めのない新たな義務を課したことに関して。 これは司法制度改革審議会の様子をマスメディアが積極的に報道してこなかったことも問題でありますが、マスメディアが申し合わせたように報道してこなかったと感じられるのは、むしろ法務省や最高裁が情報を積極的に提供しなかったためではないでしょうか。こんな憲法に疑義を生じるような制度改革について、国民に土壇場まで内容を知らせずにいて、国民にばかり「責任ある態度」を求めるというのは、どうなんでしょうね。国民主権というのをつまみ食いするような姿勢には納得ができません。
 
 ②は、司法に国民が参加できなかったのは、裁判所が無謬性を主張してきたからで、それは今でも変わっていないと思います。③のように、国民に主権者としての責任を持たせるなどと主権者を見下ろした見方をしているようでは、改革自体が抜本的に進むということは期待できません。
 つまり、私が言いたいのは、司法のどこが弱点なのかを具体的にしないと国民参加で司法の何が改善されたかが明らかにならないということです。改善すべきところに国民参加の余地を検討するというスタンスでのぞまないと、国民に大きな負担を背負わせる以上、はじめに負担ありきでは、納得できないでしょう。
 素人の私が思うに、日本の刑事司法の弱点のひとつとして、冤罪を生みやすいシステムと再審制度の立ち遅れがあると思います。まず、そこに風穴を開けるような国民参加であれば、国民の要望もあるわけです。裁判員のような人間の基本的人権と直接対峙せざるを得ないような役割を担わせるのは苦役そのもので、それを職業として自ら選択した職業裁判官といっしょくたにするのは乱暴といわざるを得ません。そもそも、「意に沿わない苦役」かどうかの判断を本人でなく裁判所が下すという、この傲慢さがある限り裁判所に基本的人権の理解を求めるのは無理と思いませんか。
 
 ④はどのようなアンケートをとったのか明らかにする必要がありますが、それはさておき、裁判員の人生にどう反映されるかというような、司法制度改革と直接には関係のない統計に最高裁がこだわる理由は、裁判員制度の目的が司法のシステムを変えるのではなく、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」(裁判員法第1条)ことにあるためで、いうなれば裁判所側の要望のみが目的化されています。
 
 裁判員制度導入時の背景について、「規制緩和及び競争政策に関する強化されたイニシアチブ」が発端であるといわれておりますが、そういう情報を国民の前に明らかにしないと、裁判員制度について狐につままれたような印象がぬぐえないと思います。
 
 最後に、裁判員をされた経験をより効果的に生かすうえで、裁判員経験者に対するアンケートの内容を充分工夫されたものにする必要があります。せっかくご苦労なさったのに、その経験が司法制度に反映されなかったら、大きな損失です。
 何度もいいますが、職業裁判官が職業選択の自由に基づいてその仕事を選ばれたように、凡ての国民はほかの職業を持っておりそれぞれ責任がありますし、個別の事情もあるはずです。そういう人間関係を引き裂くような重圧を伴う制度は、いくら裁判所が考慮していくといったところでおのずと限界がありますから、当初の目的を達したならば、できるだけ速やかに制度を終結していただかねばなりません。ところが、今の制度では設置目的が非常に曖昧であるために、いわばエンドレスの義務と重圧を国民に強いる結果になっています。これでも「主権者の責任」とおっしゃるのでしょうか。結果だけ負わされる人々のことを「主権者」というのでしょうか。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全120ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.

人気度

ヘルプ

Yahoo Image

検索 検索

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

  今日 全体
訪問者 1 35439
ブログリンク 0 24
コメント 0 976
トラックバック 0 39

開設日: 2008/1/29(火)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.