近衛天皇安楽寿院南陵
| 近鉄京都線(地下鉄烏丸線)の竹田駅で降り、西口を出て少し南に歩くと右手の方向に、こじんまりとした森の中に多宝搭が見えてくる。ここが近衛天皇の安楽寿院南陵である。 |
| 多宝搭とは、一層を方形に、二層を円形とした二重搭であり、寺院建築における仏塔の一つである。日本各地の寺院には多々見受けることが出来るのだが、陵墓の建造物としての多宝塔は珍しく陵墓建造物としては日本最古のものである。 |
| ここに祀られている近衛天皇は第76代の天皇で、承治元年(1142)から久寿2年(1155)の在位で、生母の藤原得子(なりこ)、院号を美福門院といい絶世の美女だったようで、鳥羽上皇の寵愛を一身に受けていたところから、その子を2才という歳で即位をさせたのが近衛天皇であるのだが、そもそも病弱でわずか17才という若さで崩御されたのである。 |
| その天皇を祀っているのが、この陵であり若くして愛した子供を失った親の嘆きは今も昔も同じであろうか、陵墓には珍しい多宝搭を建てて冥福を祈っている。 |
| この近衛天皇の崩御を巡って次ぎの天皇の擁立をめぐり、崇徳上皇と後白河天皇とが対立し「保元の乱」(平安時代の1156年)が勃発するのである。 |
| 保元の乱は天皇側が勝利して終わるのであるが、子が親を甥が叔父を斬るという骨肉あい争う戦であった。この戦で平清盛や源義朝などが台頭し、武士時代の幕あけが始まるのである。 |
| 崇徳上皇も讃岐に流され不遇のうちにかの地で崩御することになる。この乱の3年後には、この時共に戦った平清盛と源義朝が争う「平治の乱」が起こり、平家にあらずんば人にあらずと驕った平氏が政権を握り、やがて鎌倉幕府へと武士の時代が始まるのであるが、この時には誰もそんなことは思いもしなかったであろう。歴史は後から思うとそうなって行く必然のようなものが感じられるのである。 |
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結構、こじんまりしたところですね〜。
柵の中には入れなかったんでしょうか・・・。
2007/11/1(木) 午前 11:06
歴史は必然と偶然の産物ですね。そこが面白いところです。
近衛天皇は、白河・鳥羽・崇徳の人間模様のはざまで、どういう心境だったのでしょうね。
2007/11/1(木) 午後 6:51 [ suburiking ]
崇徳上皇は讃岐に流され、その後天狗になった言い伝えが残ってますよね。
人間の念の恐ろしさは、昔も今も変わらないのでしょうか。。。(笑)by嫁
2007/11/1(木) 午後 7:19
向日葵さん>>天皇の陵墓で管轄は宮内庁ですので流石に柵の中にははいれませんでした。(笑)
2007/11/1(木) 午後 10:18
スブリキングさん>>歴史の必然と偶然は紙一重のようにおもわれますが、後日歴史を振り返ってみると、必然に見えますが、当事者は一生懸命なんでしょうね。
2007/11/1(木) 午後 10:21
嫁さん>>崇徳上皇さんは讃岐で亡くなりなっはったんですが、讃岐の何処に流されていらっしゃたんでしょうか。今でも讃岐の何処かの地に上皇さんの怨念が残っているのやもしれません。
というとドロドロしますが、そんな地には必ず供養搭が建っています。
2007/11/1(木) 午後 10:26
はい。確か以前そんなことを耳にしたような・・・
流れ着いた坂出市にお寺さんか、供養塔があるはずですよ。
何年も行ってませんが、坂出市も本州からの入り口なのに、町は(特に駅前商店街)閑散としています。これも上皇さんの怨念ですかね〜(笑)マサカ・・・ by嫁
2007/11/2(金) 午後 6:21