京都より愛をこめて

京都を中心に、また少し足をのばして奈良・大阪までの思いを綴った、ぶらり歩きです。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全367ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

萱尾神社

日野誕生院から北に、三叉路を東に歩くと「萱尾神社」がある。



 クリックで大きくなります
萱尾神社は、地下鉄東西線の石田駅から東に1Km歩き、三叉路に突き当り100m行く道と、

六地蔵の駅から京阪バスに乗り、日野誕生院から北に100m、三叉路を50mほど行くと「萱の神社」である。



 クリックで大きくなります
萱野神社は、飛鳥時代の7世紀、中臣の藤原鎌足が斉明天皇の元年(655)に創建されたと言われる。

現在の本殿は、江戸時代の17世紀、後光明天皇の慶安5年(1652)に再建されたものである。



 クリックで大きくなります
本殿は、その駒札によると、

『萱尾神社は、大己貴命(おおなむちのみこと:大国主命)を祭り、日野村の産土神として崇敬を集めるとともに、法界寺の北東に位置し、江戸時代まではその鎮守社ともなっていた。

現在の本殿は、法界寺坊中、在所年寄、近在の氏子などによって慶安5年(1652)に再建されたものであり、

その後も屋根葺替や彩色等の修理が繰り返されてきたことが、当社所蔵の多数の棟札からわかる。

建物は大型の一間社流造である。極彩色が施されるなど彩色装飾が豊かで、醍醐寺清滝宮本殿(重要文化財)に相通じる雰囲気を持っている。

この本殿は建築年代がはっきりしており、さらに造営以後の修理についてもほぼ明らかで、近世日野の建築活動を知るうえで貴重である。』

                         出典:【萱尾神社本殿の駒札】より

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

方丈石へ、萱尾神社まで

日野御廟所を通り過ぎて、さらに北に歩くと三叉路に突き当る。



 クリックで大きくなります
民家の軒先を借りるように、石碑が一つ建っているのだが、日野誕生院から来ると石碑の裏側しか見えず、何のことやら分からない。



 クリックで大きくなります

クリックで大きくなります 表に回ると「鴨長明 方丈石」はここより左800米とある。そんな石碑が民家の前にさりげなく建てられているのである。



 クリックで大きくなります
そこから道を左にとり、先を急ぐと「萱尾神社」が見えてくるのである。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

日野御廟所

日野誕生院から、鴨長明が住んだ跡にある「長明方丈石」へと向かう。



 クリックで大きくなります
日野誕生院西側の細い道を北に歩いて行くと・・・



クリックで大きくなります クリックで大きくなります

途中、法界寺の東、日野誕生院の裏にあるのが「日野御廟所」である。

ここは、親鸞聖人の父・日野有範や母の吉光尼をはじめ、日野家歴代を祀る御廟所である。

中央の一段高い所に日野有範を祀る五輪の塔が安置されている。

その境内には、満開の桜が一木みられた。

閉じる コメント(2)

閉じる トラックバック(0)

日野誕生院

JR六地蔵の駅から8系統の「日野誕生院」行きの京阪バスに乗り、終点で降りると親鸞聖人の生誕地である「日野誕生院」である。



 クリックで大きくなります
親鸞聖人は、皇大后の大進・日野有範を父とし、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘・吉光女を母として、承安3年’1173)この日野の里で誕生する。

親鸞聖人は鎌倉時代前半から中期にかけての僧で、浄土真宗の礎を築いた人物である。

二度の元寇の乱では、念仏により神風を吹かし、日本の危機を救ったとされるのだが、真偽の程やいかに・・・



 クリックで大きくなります
幼名を「末若丸」と言い、9才で青蓮院にて得度し、幾多の修行をへた後に、人間の根源的な苦悩から救われる道を、阿弥陀如来の本願に見出すのである。

本願寺19代宗主、本如上人は、文化年間(1804〜)に日野氏の由緒地を調査され、聖人の父である日野有範公に因み「有範堂」を建立する。

その後、第21代宗主・明如上人の時代に、本願寺の飛地境内として「日野別堂誕生院」と改称される。

大正12年(1923)立教開宗700年の記念事業として、本堂並びに書院の建築が始まり、昭和6年(1931)には現在の本堂が完成をする。

また、平成18年(2006)には、親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として、本堂並びに書院の改修が行われた。

                         参照:【日野誕生院の説明板】より



 クリックで大きくなります
境内には、「親鸞聖人御誕生之地」の石碑が建ち、



 クリックで大きくなります
また、親鸞聖人が得度した時の、童形像があり、



 クリックで大きくなります
その横には、得度式に詠んだという

『明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』

の石碑があり、幼き日の親鸞聖人の姿を偲ぶことが出来るのである。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

親鸞聖人の産湯井と胞衣塚

日野薬師の法界寺から南に、親鸞聖人の生誕を祀る誕生院への途中、誕生院保育園の東南隅に、親鸞聖人の産湯井と胞衣塚がある。



 クリックで大きくなります
日野のこの辺りは、親鸞聖人が生れた所だといわれ、法界寺の南に、親鸞聖人が産湯を汲んだという井戸と、へその緒を祀ったという胞衣塚がある。



 クリックで大きくなります
この場所は幼稚園の中にあり、平日では幼稚園があり中に入ることは出来ないのだろうが、たまたま日曜日であり、

観光タクシーであろうか、こともなげに幼稚園の通用門を開け、お客さんを産湯井と胞衣塚まで連れていったのである。



 クリックで大きくなります
聖人が生れた時に、産湯を汲んだという井戸が残っている。

井戸の中を覗き見ることは出来ず、今も水を汲むことが出来るのか分からないが、この水で親鸞聖人の産湯が湧かされたのである。



 クリックで大きくなります
江戸時代の俳人である田上菊舎が、ここを訪ね、
『いく春も 絶ぬうぶ湯の ながれ哉』
と詠んだ句碑が建っている。

「田上菊舎(1753〜1826)は、長門国(現山口県下関市)に生れた江戸期を代表する女性俳人です。浄土真宗の僧侶となり、親鸞聖人のご旧跡をめぐりつつ、諸国行脚に明け暮れました。

晩年、宗祖の御誕生の地に堂宇が建立されるという話を聞き、この俳句と数多くの書画を書いてご報謝しました。

堂宇の完成を見ることなく、菊舎は亡くなりましたが、この句碑が建てられたのは、その後まもなくと言われています。

                         出典:【田上菊舎句碑の説明板】より

田上菊舎の有名な句に、宇治の万福寺を訪れたときに詠んだ
『山門を 出れば日本ぞ 茶摘み唄』
がある。



 クリックで大きくなります
産湯井の横には、親鸞聖人の「胞衣塚」がある。胞衣(えな)とは、生れたときの羊幕や臍の緒のことであり、それを祀っているのが胞衣塚なのである。

閉じる コメント(0)

閉じる トラックバック(0)

全367ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.

人気度

ヘルプ

Yahoo Image

  今日 全体
訪問者 7 90486
ブログリンク 0 40
コメント 0 4376
トラックバック 0 94

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

標準グループ

開設日: 2006/7/12(水)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.