指名バトン☆

ミカン3丁目様から指名していただきました!!
 
――――――――――――――ルール―――――――――――――
・バトンを回したらその人に伝えること
・五日以内に回すこと
・五日以内に書かれてなければ罰ゲームあり
・回した人はその人がちゃんとルールを守れているかチェックすること
――――――――――――――――――――――――――――――
問1、名前は?
 ゆっこ
 
問2、バトンを回す人を5人決めてください。
 t​y​o​n​s​u​k​e​さん、yuku65さん、miuさん、テナさん、あいこさんです!!
 
問3、上記の人とはどんなきっかけで知り合った?
 yahooブログ☆
 
問4、上記の中で一番に知り合った人は?
 ・・・・・。皆さんすみません!!忘れてしまいました(;一_一)
 
問5、五人のいいところを書いてください
 コメントしてくれて、よく遊びに来てくれるところ!!
 
問6、五人を色に例えると?
t​y​o​n​s​u​k​e​様、yuku65様、miu様tyot​y​o​n​s​u​k​e​様、yuku65様、miu様、テナ様、あいこt​y​yo​n​s​u​k​e​さん→銀色
yuku65さん→オレンジ
miuさん→ピンク
テナさん→紫
あいこさん→水色
 
 
問7、罰ゲームを決めてください
・・・・・。じゃあ、ミカンさんと同じく謝罪文で!!!!
 
問8、その五人との共通点は?
 歴史好き??漫画とかアニメとか好き??
でもやっぱり、五人五色☆
 
問9、五人は自分の事をどう思っている?
 お友達!?
 
問10、五人と喧嘩した事ある?
 ないよ〜
 
問11、五人の設定口調は?
 よくわかんない・・・・。

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る・せる・くるというカフェでお昼ご飯を最近食べました!!
 
ちょっと優雅な気持ちになりました☆

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邪馬台国、九州にあり!

1.はじめに
 
今回私は「邪馬台国九州説」について研究しました。
邪馬台国の位置については、古い時代には『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきました。 江戸時代になると、新井白石や本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表するようになりました。さらに明治時代に入って論争が始まり、現在に至るも多数の説が提唱されています。これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれており、もともとは学者間の論争でしたが、『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平作・講談社・1967年)によって、邪馬台国論争は「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及し、様々な解釈がなされてきました。邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいますが、学界の主流は「畿内説」「九州説」との二説に大きく分かれています。ただし九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説があり、邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっています。今回はこの九州説と畿内説に焦点をあて、五つの項目に分けて九州説が有力だということを考えていこうと思います。
 
2.歴史書に見る邪馬台国
 
1)邪馬台国までの道のり
はじめに『「魏志」倭人伝』による帯方郡治から倭の三十国(特に邪馬台国)までの旅路について考えます。『「魏志」倭人伝』とは中国の正史「三国志」中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称です。江戸時代の漢学者の中で「三国志」という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられました。正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」です。全文で1988(または2008)文字からなっており、著者陳寿の死後正史の扱いを受けています。著者は西晋の陳寿で、三世紀末(280年〜290年間)に書かれました。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされていますが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としています。内容は古い日本の階級、奴隷制度、農耕生活、養蚕機械、いれずみなど社会生活や風俗物産のことについて記述したもので、三世紀の日本を知る唯一の手がかりとなる文書のことです。帯方郡から倭の国(特に邪馬台国)までは、まず朝鮮半島を海岸沿いに航行し韓人の国々の領海を通過した後、しばらく南に千里余り航行し対馬国に到着します。そこから南へ千里余り航行し一大国に到着し、また千里余り移動すると末廬(松浦)へ、そこから東南へ五百里移動すると伊都国(糸島)へ到着します。伊都国には初め王がいましたが、みな邪馬台国に服属しています。帯方郡の使者が倭国との間を往来するときにはここを目的地としていました。この伊都国から東南に陸路で百里移動すると奴国があり、また東へ陸路で百里余り移動すると不弥国に到着します。不弥国は現在の北九州の宇美地方にあったとされています。ここから南へ航海を二十日したら投馬国に到着します。この国は邪馬台国の南にあるとされています。そこから南へ航海十日、歩行で一ヶ月移動すると邪馬台国に到着します。この旅の足取りをみると奴国、不弥国までは九州内ということが判断できます。そこで問題となるのが投馬国の位置です。現在も邪馬台国の南にあったということしか分かっておらず、「畿内説」か「九州説」か、判断する重要なポイントの一つとなっています。ここで帯方郡からの旅の日数と移動距離から邪馬台国の位置を推測していこうと思います。帯方郡から邪馬台国まで一万二千里と『「魏志」倭人伝』には記載されています。福岡県内に比定される伊都国までですでに一万五千里使っていることから、残り千五百里では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされることがわかります。また、「水行二十日陸行一月」という記載については、帯方郡からの距離を一万二千里と併記した、狗奴国との戦乱を避けて陸行したとも考えられます。また、江戸時代の朝鮮通信使のように、接待をしながらゆっくりと進んだといった説がある一方で、『「後漢書」倭伝』に「水行二十日陸行一日」とある事からも、誤記という説もあります。「畿内説」をとれば、「南水行二十日」、「南水行十日陸行一月」の記載もこれだれの日数がかかる場所を九州域内と定めるのには無理があると考えられます。しかし、「九州説」をとれば実際に進んだ日数ではなく、旅にかかった総日数だと考えることもできます。
 
2)九州地方に残る卑弥呼伝説
日本の正史「日本書紀」は720年に完成しました。そのおよそ五百年前に、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国皇帝(魏の明帝)によって倭王に認定されたことを『「魏志」倭人伝』が書き記しています。日本書紀は、この女王卑弥呼を第十四代仲哀天皇の皇后である神功皇后のことだと書いています。神功皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の英雄であり、知らない人などいないと言っても過言ではありませんデでした。しかし最近は語られることもほとんどなくなりました。神功皇后伝説(=卑弥呼伝説)は、古事記・日本書紀によって創作された物語です。それによると、熊襲征伐のため筑紫に来た仲哀天皇が、香椎宮で急死すると、皇后は妊娠中でありながら、武内宿禰とともに朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させ、帰国後に宇美で応神天皇を産みました。その後、大和に帰り、応神天皇が即位する西暦270年まで摂政を行い、百歳で死亡します。これが「記紀」の記す神功皇后のあらましです。「記紀」が神功皇后物語を創作しなければならなかった最大の理由は、邪馬台国の女王「卑弥呼」が、中国皇帝によって倭王に認定されたことを魏志倭人伝が書き記すために、大和王朝の列島支配の正統性を書き綴らなければならない「記紀」の編纂意図からして、卑弥呼は大和の女王だとする必要があったからです。そして北部九州の各地には、八世紀になってもなお、数多くの女王「卑弥呼」伝説が語り継がれており、これを糊塗す手段としても、是が非でも神功皇后物語を創作しなければならなかった。しかし「記紀」が民衆に読まれることなどありえない当時にあって、見事に神功皇后伝説としての塗り変えに成功する背景には、宇佐八幡宮の720年以降の動向があります。宇佐八幡宮は女王「卑弥呼」の墓所です。卑弥呼が神功皇后でないことを最もよく知る宇佐八幡宮が、卑弥呼を神功皇后に置き換える「記紀」を肯定しています。このことによって、大和から遠く離れた宇佐八幡宮が、一時は伊勢神宮をもしのぐ勢いで全国四万社以上といわれる八幡宮を従え、まさに国家宗教の様相を帯びることになりました。宇佐八幡宮に卑弥呼が祭られていつことから「九州説」が有力だと私は考えます。
 
3)邪馬台国の概要
『「魏志」倭人伝』は「ヤマタイコク」を「邪馬台(臺)国」と書いておらず、「邪馬壱(壹)国」と書き、「山一国」か「山居国」あるいは「山入国」の意味で使っています。このことは女王の所在地を示しています。女王卑弥呼は「日の巫女」として、太陽に近い山岳に住み、高地性集落を形成し、周辺諸国を宗教的に支配しました。縄文時代一万年の時間が育んだ山岳信仰と、稲作伝播の道程、古代中国・朝鮮との関係を考えれば、「邪馬台国」の位置は九州だと考えられます。また、日本列島で本格的に稲作が行われるようになったのが、今からおよそ2300年前と云われ、それ以前の、およそ一万年を縄文時代と云います。縄文時代の人々の生活は、狩猟・魚撈・採集が主であり、山への依存度は特に大きいものでした。天候が許す限り(日の神に祈りながら)人々は山に入り、動物を追い、木の実を採集し、沢に入って魚を捕っていました。 高い山はその形成過程から奇形をなす事が多く、また、その地形的要因が作り出す色々な光の模様は神秘的な風景を描いて見せました。そして毎年おびただしい数のサケ・マスが、山を目指して遡上して行く様を、縄文人は神の仕業として眺めてきた。そうした山のいくつかは、縄文時代一万年という膨大な時間の中で、「神々が住む山」として人々に崇拝され、崇められるようになりました。北部九州の最高峰である英彦山は古くは「日子山と書いていました。玄海灘洋上からも見える怪奇な姿のこの山は、楽天地をめざし船出した渡来人の眼には、「東海の三神山」に写ったに違いありません。 「邪馬台国」の「邪馬」は「山」のことであり、女王「卑弥呼」は、玄界灘から見える北部九州で最も高いこの山にあって、「日の巫女」として人々の信仰を集めたとかんがえられます。『「魏志」倭人伝』に云う「女王之所都」です。
 
4)邪馬台国連合とヤマト政権
「畿内説」をとれば、すでに三世紀前半には近畿から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになります。一方「九州説」をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東北で形成され、九州の邪馬台国連合と統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷したものということになります。初期の前方後円墳が大和地方を中心に分布していることや、中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していることも、邪馬台国の勢力が大きいものとなり、中国地方を支配しつつ畿内へ移動し、それと同時に邪馬台国の有力者たちも東へ移った為だと私は考えます。また、「畿内説」の弱点としてあげられるのは倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土するということや、『「魏志」倭人伝』の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国には全く触れられておらず、近畿圏まで含む記述とみなすのは不自然だということがあげられます。また、『「魏志」倭人伝』を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読むこともできます。逆に「九州説」の弱点としてあげられるのは奴国二万余戸、投馬国五万余戸、邪馬台国七万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいことです。
 
3.おわりに
 帯方郡から倭の国までの行程や「邪馬台国」は「山一国」などの意味で使われており、女王「卑弥呼」の所在地を示しているということ。また九州内には「卑弥呼」を祭った寺や神社が数多くあり、北部九州の最高峰である英彦山には、女王「卑弥呼」がいて「日の巫女」として人々に進行を集めていたと考えられていること。このため「卑弥呼」は高地性集落に住んでいて国を支配していたと考えられていること。また倭国の産物としてあげられる鉄や絹は主に北九州から出土されることから「九州説」が有力だと考えました。
 最後に作家からみた邪馬台国について、自分自身、漫画が好きなので調べてみました。かの有名な「火の鳥 黎明編」(1967年・手塚治虫)は邪馬台国を舞台としており、邪馬台国は九州にある倭の大国だったが卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族によって滅ぼされたという話です。「ナムジ」(19891991年・安彦良和)は、ナムジ(おおむなむち)、すなわち大国王)を主人公にした作品で、邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲を敵対する話です。ほかにも、「雷火」などたくさんの漫画やアニメが邪馬台国「九州説」を基に作られています。
今回「邪馬台国、九州にあり!」をテーマに邪馬台国の「九州説」というのを研究してみました。実際「畿内説」と「九州説」は研究者や考古学者の間でも意見が分かれていて、どちらの説にも有力な情報・不利な情報、たくさんありました。私は九州の人間なので「九州説」を信じたいです。しかし、調べていくうちに「畿内説」のほうが有力なのではないかと考えることもありました。また、機会があれば「畿内説」の立場に立って邪馬台国「畿内説」も考えてみたいです。

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城島後楽園遊園地!!

学校の新入生歓迎オリエンテーションで、城島後楽園遊園地に行って来ました!!
 
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玖珠のサービスエリアにて☆
 
ポルシェがズラッと・・・・みんなでドライブの途中でしょうか〜(*´∀`)
 
かっこいいですね〜!!
 
¼̿¿.JPG
 
日曜日は曇りで、気温も22度前後・・・暑くもなく、寒くもなく、ちょうどよい気候でした!!
 
有名な遊園地に比べて、人も少なく、一番人気のジュピターでも、最高20分待ちくらい・・・・。
 
ジュピターは、奥に見えるジェットコースターです!!
ちなみに、すべて木製です(;・∀・)
 
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ポセイドン・・・・ずぶ濡れですよ・・・・。
日曜日は、水に濡れては寒いということで、屋根付きの方に乗りました!!
 
¼̿¿.JPG
 
例のジュピター!!
6万本の米松で組み上げた壮大な美しさを誇る、日本初の木製コースター!!
 
だって、このご時世に木造でジェットコースター造ろうなんて誰が考えますか!!??
 
木造なので、振動がかなり激しくて、頭ガンガンします・・・・。
 
¼̿¿.JPG
 
そこまで大きなコースターというわけではないです!!
 
城島は本当に山の中にあり、たくさんの自然を感じることができます!!
ジェットコースターも木造ですし・・・・
ちなみに、ジュピターとは木星のことで、「木星」と「木製」をかけているそうです(*´∀`)

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土方副長を偲んで・・・・

 
Hijikatatoshizo.jpg
 
たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
 
旧暦にして、今日は土方副長の命日です・・・・。
ちなにみ、私の曾祖母の命日が明日・・・・。
 
土方歳三副長は、皆さんもご存じの通り、新撰組の副長です☆
 
誕生日は、旧暦の1835年5月5日・・・・。
 
1835年と言ったら・・・水野忠邦が老中になった翌年!!
177年前のことです!!
 
そして命日は旧暦1869年5月11日・・・・・。
 
新政府軍の箱館総攻撃が開始され、新選組隊士島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため、土方さんは籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。
 
新政府軍艦朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機会を逃すな!」と大喝!!
 
土方さんは一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執っていました。
 
その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、側近が急いで駆けつけた時にはもう絶命していたといいます。
 
敵の流れ弾に当たったと言われていますが。。。。。。
なかには、降伏に頑強に反対する土方を除くために味方の手によって暗殺されたとする説もあるそうです!!
 
土方さんの遺体がどこに安置されているのか、未だにわかっていません・・・・。
 
 
 
上。前年文久三年の8.18の政変及び、同月二十三、四日の両日、三条縄手近辺で、尊攘派志士らを追捕に向かった時に使用した鉢金(額部分に金の入った鉢巻き)を、佐藤家に送ったときの添え状である。
 


一 はちかね 壱ツ
右者八月十八日御所
非常、并廿三日三条なわ手
のたゝかひに相用ひ候間、此
はちかねハ佐藤兄江御送り
奉申上候。

土方歳三
子四月十二日
佐藤尊兄
 

一 はちかね 一つ
右は八月十八日御所非常、ならびに廿三日三条なわ手のたたかいに相用い候間、このはちかねは佐藤兄へ御送り申し上げ奉り候。
土方歳三
子四月十二日
佐藤尊兄
 
達筆すぎて、なんて書いてあるかわかりません・・・・・。
名前が辛うじて読むことができます!!
 
今までに「土方歳三」若しくは、「新撰組」を題材にした作品がたくさんあります!!
その中でも、私が一番おすすめしたい作品は司馬遼太郎先生の「燃えよ剣」と「新撰組血風録」です☆
 
どちらの作品も何度も映像化されていますね!!
 
土方さんの役をした俳優さんで一番しっくりきたのは、大河ドラマ「新撰組!」の山本耕史さんです(*^。^*)
山本さんは、時代劇がよく似合いますよね〜
 
印象的だった土方さんは・・・ビートたけしです!!
「御法度」という1999年の映画です!!
 
最近のでは、NHKで再放送されている「新撰組血風録」(2011)の永井大さんもかっこいいですよね!!
 
毎回思うことなのですが・・・・・
日本人って歴史の中で、負けた相手の方に肩入れしてしまうことが多くはないでしょうか!?
 
真田幸村しかり、旧幕府軍しかり、織田信長しかり・・・・・。
 
家康がいたから、今の日本があるといっても過言ではないでしょうね〜
子供たちが寺子屋に行って勉学に励む!!
日本の慣習の一つでもある七五三などの年中行事!!
徳川政権が確立したからこそ、戦国のように大きな戦はなくなり、歌舞伎などの伝統もはったつしていきました。
 
そして、私が思うことがもう一つ・・・・・。
新撰組は芹沢局長がいたからここもで有名になることができたのではないか!?
ということです・・・・
 
最後にもう一つ・・・・
 
¼̿¿.JPG
 
今日は父と母の結婚20周年でした!!
金婚式まで頑張ってほしいですね!!
 

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