乞う!期待「新築中の『俣野観音堂』」
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国道1号線、藤沢バイパスの出口、東側に「鉄砲宿」、西側に「住友家別荘」があります。 西側は「鎌倉古道上道」が今も昔の面影を残しています。 昨日報告したように「辛夷」が、雪割草が、カタクリが咲く「素晴らしい」田舎です。 勿論、横浜野菜の農家や植木屋さんが数多く並んでいます。 5月になれば「筍街道」になります。 地番は「俣野」です。 (俣野田園風景) 俣野近辺には歴史も豊富の残されています。 近松門左衛門「当流小栗判官」の素材になった「照手姫」伝説はこの地の女性でした。 俣野から西に向えば東海道です。 厚木ICを降りた車の裏街道として交通量も多いのです。 俣野は「街道の交差する野原」の意味かも知れません。 (俣野鎌倉古道の面影) 鎌倉古道と海老名(国府があった)の交差点に今も残されているのが「俣野観音堂」です。 平安時代末期「俣野五郎景久」豪族が出現します。 俣野一族の頭領として活躍します。 伸長6尺2分の大男で、いかり肩の無骨漢であったようです(曾我物語り屏風に敵役で出現します) 相撲をとらせれば天下一と呼ばれていました。 (俣野観音堂は建て替え中) 石橋山で「頼朝を囲む武士団の宴会」が開催されます。 席上の余興で相撲が取られます。 俣野五郎は、二十一番勝ち続けます。 「もう誰も相手はいないのか!」 けしかけると「河津三郎」が立ち上がります。 小男の三郎が大男の五郎に敵う筈がありません。 「投げ飛ばすだろう」憶測していると、三郎は前褌を取って、高くかかげて、横に投げてしまいます。 この技が「河津掛け」でした。 この時の「恥」が原因とは思えませんが、俣野五郎は河津三郎の息子「曾我兄弟」の仇討ちの標的にされてしまいます。 豪族間の領地争いの結果だったのでしょう。 俣野五郎は筋の通った人物で、終始「平家」に加担します。 もう、源氏の勝ち戦が確定した後でも、「今は源氏の勝ち戦、源氏に鞍を変えたらよい!」 アドバイスを 「我等は東国では名を知られた武士、変節は潔しとしない!」 と主張、木曽義仲に向った倶梨伽羅峠に出かけます。 そんな俣野五郎の持念仏「十一面観音」が俣野観音堂に祀られています。 「俣野五郎景久」の子孫「俣野五郎景平」は藤沢に遊行寺を創建します。 時宗の総本山になります。 (俣野観音堂、持念仏、横浜市HPから) 英雄であったものの、世渡りが下手であった俣野五郎でしたが「観音堂」だけが残されていました。 火の見櫓が合って、寂れたお堂でした。 お堂の横に掲げられた案内板をじっくり読めば「英雄」の面影をのこす「お堂」であると判断できました。 でも、お堂の扉は腐りかけ、赤いトタン屋根も腐っていました。 何よりも、何時しか廃棄業者が境内を占拠して、廃棄物の処理を始めました。 「困ったものだ!、もっと、地域を大切にしなくてはいけない」 思っていました。 昨年から工事が始まりました。 何時しか廃棄物業者は、退去して、お堂は建て替えが始まりました。 お堂の屋根こそ少し低くなったものの、銅葺きの屋根が光っていますし、壁も「土壁」です。 何処か、草薮に隠れていたのでしょう、庚申塔、道標が三基出現しました。 未だ、正面の位置こそ間違っていますが、眩しく見えます。 (道祖神は正面を向いてますが、庚申塔は未だ横向きですよ・・・) お隣は梅林です。 花も散り掛けです。 スミレの花が群生していました。 (梅林の奥、隣が観音堂です) 俣野五郎も、観音様も喜んでいることでしょう。 「落慶式」の案内があれば、必ずお祝いに出かける事に致しましょう。 (梅林の下陰に「おおいぬのふぐり」が咲いていました) 観音堂の縁側に腰掛けてお弁当をひろげたら・・・・。 もう、股旅物の世界です。 「森の石松」でも出てきそうです。 |
