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秩父の石置き屋根の家

秩父に行く途中長瀞に寄りました。
川の上流は”瀬”と”瀞(とろ)”を交互して流れます。
瀞は水深があって静かな流れです。
瀞が長く続く場所だから「長瀞」なのでしょう。
日本全国に長瀞という地名は数多くあるようですが、荒川の上流、秩父の入り口にある「長瀞」は一番有名です。
今日お話する旧新井家住宅は「長瀞川下り」乗船場近くにあります。
 
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    今日の話題の旧新井家住宅。主屋は石置屋根ですが、庇や付属部分、庭先厠(トイレ)は茅葺きです。
 
秩父に来ると何時も思います。
「秩父は木曽に似ているなあ!」
山が迫って、川が急です。
長瀞の岸辺を囲む「岩畳」は、木曽川の「寝覚の床」に似ています。
屹度岩の名も同じなのでしょう。(どちらも『変成岩』です。既存の岩石が熱と圧力が加わって出来ます)
 
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   秩父市の市街地を見下ろす。略中央を荒川が流れます。
   秩父市はどことなく木曽川の上流「中津川市」を思わせます。
 
 
そう思ってバスの車窓から眺めると、似たものが次から次に見つかります。
秩父には三峰山があってお遍路さんが集まります。
木曽にも御嶽山があって全国から行者さんが集まります。
秩父にも木曽にも栗の木が多く生えていて、栗の銘菓があります。
 (秩父には菓子匠『栗助』があり、木曽には栗きんとんの『す屋』があります)
そして、秩父も木曽も民家は『石置き屋根』が特徴でした。
 
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          木曽路奈良井宿、石置き屋根も散見しますが殆どがトタン板に代わってしまいました。
 
                                  
秩父の石置き屋根の民家は昭和40年代は見る事が出来たのでしたが、
今は旧新井家住宅だけになってしまいました。
国の重要文化財に指定されたのが昭和46年ですから、
民家としては早くからその価値が認められていた事になります。
でも、石置き屋根の修復が思うに任せなかったようです、
昨年ようやく修復を終え、今公開しているのでした。
秩父市の職員が熱心に説明してくださいますし、その姿勢に郷土愛が感じられて好感です。
 
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   長瀞の旧新井家住宅の全景。石置き屋根、荒壁と柱・梁とのコントラストなど、どこかお洒落です。
   
”この屋根の修復には2千万円もかかったんですよ。
屋根の上の石は漬物石と同じ大きさですから、屋根板も厚くなければならなしし・・・・・、
水が染み込まないように重ねて葺きますから・・・・、材料が嵩みます。”
”その上材質は栗の木でなくてはなりません。栗の木は濡れても頑丈で・・・、線路の枕木も栗ですから・・・・、
屋根に枕木があるようなものです・・・・”
 
言われるように木曽の石置き屋根も今ではなくなり、妻籠でさえ文化財に指定されたものしか残っていません。
屋根はトタン板で葺いても可だが、焦げ茶色にするように・・・・決められているそうです。
でも、石を置いた屋根が連なっている景色を見た人は、現在の姿に満足できません。
藤村の”夜明け前”の景色は屋根の上に重い石が置いてなくては・・・・、情趣が浅くなってしまいます。
 
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                              木曽路妻籠の嵯峨屋は石置き屋根です。(重要文化財)
 
 
文化庁の「重文データベース」を調べると以下のようになっています。
文化庁の指定根拠も秩父地方の板屋根に重きを置いています。
【構造】 桁行(幅)17m 梁間(奥)10m 切妻造り二階建て、板葺き、東面下屋付属部茅葺き、西面北面庇は杉      皮葺。
【時代区分】  江戸中期 延享2頃(1745頃)
【解説】  大きな居間を持った家で、居間や土間周りの柱や梁は太くいかにも農家らしい。かって秩父地方に広く分布していた板葺き農家の典型であり、外観の意匠も優れている。
 
秩父市の案内では以下のようになっています。
「新井家」はもと長瀞町大字中野上にあって、新井正之氏から市に寄贈された。(昭和50年)
新井家は名主だったと言われるがそれを証明する文書はない。
この建物は解体修理によって3度の改築が行われた事が判明しています。
建物内から三峰山高雲寺(三峰神社)のお札が数多く見つかり、その最も古い物が「延享2年」でしたのでその年建築されたと判断しました。
建物の構造はかって長瀞町で多く見られた養蚕農家の姿をよく表しています。
馬屋が建物の中に設けられていること、屋根裏の「母屋(もや)」をアケビの蔓で結んでいること、
軒下には関西風の格子戸が取り付けられていること等が特徴です。
 
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   秩父は石灰岩の大産地ですが白壁ではなく土壁です。全体としては質実剛健なた獲物ですが、細部には    お洒落心が伺えます。例えば、屋根の庇の下、格子戸があります。二階は屋根裏部屋で養蚕を行なってい   ました。そのため風を通し、光をとるため障子戸にして格子戸を入れたのですが、京風にしました。
 
 
名主の家よりも百姓代クラスの家と考えたほうがよさそうです。
・・・・、と言うのは玄関もないし、奥の間(書院)も無いのですから。
我が家の近く「小岩井家住宅」は名主の家で、床の間、玄関付きで・・・・、半分は武士の家です。
でも、横浜市の文化財止まりで、国の指定は受けていません。
立派ですが、地域文化の香りでは新井家住宅には遥かに及びません。
(住人としては残念ですが納得です)
 
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    潜り戸(土間に続く、横浜では『トンボ口』と呼びます)の上に取り付けられた魔除けのおまじない。
    丸石は女性自身、棒石は男性自身を示す”道祖神”です。
 
地域文化の香り・・・・、そのひとつが潜り戸上部の”魔除け”です。
家人もお客も土間の前に設えた「潜り戸」を通って家に入ります。
潜り戸ですから、背の高い人は腰を少し屈めないと、頭をぶつけてしまいます。
その頭の上に丸い石が二つ、棒状の石が二つ、交互に括りつけてあります。
病気や疫病・・・貧乏神が家に入り込まないように・・・、厄除けです。
丸い石は女性の、棒石は男性のアレです。
だから・・・・、村の辻に厄除けに立っている道祖神様が、家の入り口にも睨みをきかせているのです。
 
私は市の職員に言いました。
”祀られていますね道祖神様が”
市の職員は笑顔で応えます。
”良いもんでしょう・・・・・・!”
”良いものです”
 
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   居間の神棚。三峰山(秩父神社)の神が祀られています。周囲は木製(麻)の御弊でしょうか?
   梁は松の木が使われています。屋根裏が見えますが竹で組んだモヤにアケビの蔓で栗板を結んでいま    す。栗板は重ねられて水の浸入を防いでいます。これだけでは屋根が軽く吹き飛ばされてしまいますので    屋根の上に重石を置いています。それが「石置き屋根」です。
 
 
横浜市の「小岩井家住宅」には土間に棚が幾つも用意されています。
でも其処にあるべき神様は不在です。
私は管理人に言いました。
「この位置には神棚があった・・・、神様は”大山阿夫利神”ですかそれとも”寒川大明神”ですか?」
すると・・・こう咎められました。
「ここは横浜市の施設です。神様はお引取り頂いています」
文化の香りの最も濃いところが宗教です。
神棚の神様不在では文化のエキスが無くなってしまいます。
民家と言った文化財の最も良いところは・・・・、八百万の神々が祀られている所です。
前に行った田麦俣の多層民家(国重文)には湯殿山の神々が祀られ、
その横には明治天皇の御真影が飾られていました。
神々の不在な民家は・・・、骸骨みたいなものです。
 
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   土間から居間を見る。中央の角柱が大黒柱で欅材です。框は栗で板間は杉で張られています。
   竹やアケビも含めて地場産のオンパレードです。この日は油絵や絹の作品が展示されていました。
 
黒光りした大黒柱は欅材だそうです。
屋根の梁は松だそうです。
そして屋根が栗で、
板間や縁側は桧材や杉材を使い分けて・・・・、
そう、秩父の山に自生している材木を総て使った家です。
 
室内には様々な道具が展示されています。
中でも養蚕の用具が目を引きます。
土間の壁一つ隔てて牛小屋です。(若しかしたら馬小屋かも?)
部屋があって、道具があって・・・・、ただ足りないには蚕や牛(馬)がいません。
これが肝心なのです。
私は、脳裏に蚕棚に沢山の蚕がいて、庭でとってきた桑の葉をバリバリ食べている様子が思い浮かびます。
障子戸が開いて、格子の間を五月の山風が吹き降ろして来ます。
 
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     奥が蚕棚、手前が繭を取り出す「回転まぶし」、出来た繭から座繰りを使って生糸に製糸します。
     その段は明日「秩父銘仙」で案内します。
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   土間続きの牛小屋(?)牛こそいませんでしたが牛車が置かれていました。
   牛さえいれば現役で使えそうです。(長瀞町教育委員会の案内では馬小屋になっています。
   www7.ocn.ne.jp/~youkotei/top/007syuuhen/.../araike.htm )
 
 
旧新井家住宅は素晴らしい民家です。
案内している人達も熱心で、強い愛着を持っていて楽しませてくれます。
 
 
 
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虞美人草と堤義明氏の夢

ポピーと呼べば「花屋の店先」です。
ヒナゲシと呼べば、アグネスチャンの歌。
虞美人草と呼べば夏目漱石です。
いずれも、同じ花の名前ですが・・・・、ずいぶん印象も違います。
そして最近は「花菱草」も出現しました。
ポピーの新種で、4枚の花弁が菱形に見えるからでしょう。
 
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                    今日の話題は様々な名で呼ばれる「ポピー」です。
                     咲いているのは秩父小鹿野の「癒しの森花回廊」です。
 
虞姫は項羽の愛人でした。
垓下の戦いで項羽(秦)は漢に敗北します。
敗北の原因は、虞姫の美しさに項羽が溺れたから・・・、臣下達は責めます。
虞姫は殺され・・・、その墓から美しい花が咲きました。
花の名を虞美人草と呼びました。
 
1980年代、フォーブス社の発表する世界一の富豪は「堤義明氏」でした、
新橋田村町の米屋「森泰吉郎氏」は貸ビルに転業して成功していました。
ダイエーの中内功氏も・・・、富豪ランクの上位には日本人が続いていました。
 
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         正面のピラミッドのような山が武甲山。秩父セメント(現日本セメント)によって石灰岩を掘り出され、         やせ細りました。まるでピラミッドのようです。カメラの背後に花の回廊があります。
 
森泰吉郎氏も中内功氏も・・・・同じように堤康次郎氏も一代で西武を起こしていました。
その後継者堤義明氏は愛妾石塚恒子氏との間で産まれた三男でしたが・・・、
早稲田大学在学中に康次郎氏から命題を与えられます。
「冬のあいだに軽井沢に集客する計画を立案しろ!」
軽井沢は夏型のリゾート地でしたが・・・、義明氏はスケートリンクとスキー場を開設するプランを立てます。
企画は実施に移され、康次郎氏は義明氏を後継者に指名します。
最も可愛く”出来る子”だったのでしょう。
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           西武の小鹿野ゴルフ場を転用して「癒しの森花回廊」にいたしました。向こうの山が両神山。
 
西武池袋線は次々に支線を開設しながら延伸します。
狭山湖の湖畔には西武園遊園地やユネスコ村を作り、所沢には西武球場を作りました。
アミューズメント施設を作り、鉄道を作り、全体で収支を計算します。
新しいやり方の鉄道・リゾート事業でした。
 
西武秩父駅の先には小鹿野があって、その先は両神山、下仁田の先の荒船山を超えれば軽井沢です。
西武線を真っ直ぐ延伸させれば、軽井沢プリンスや軽井沢72のフロントに出られる筈でした。
堤義明氏の脳裏には、西武池袋線が西武軽井沢線に名前を変えて、
池袋駅発軽井沢行きのブルーアロー号が発着している光景があったでしょう。
(私は確認したわけではありませんでしたが、西武の融資担当として同社の計画を理解していた積もりです)
 
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   「癒しの森花回廊」から遠く妙義山の方角を見る。
   遠い山脈の先に軽井沢があって、直線距離はすごく短いのです。
 
2004年西武は総会屋との不明瞭な付き合いを指摘されます。
2005年には有価証券報告書の偽りで義明氏は逮捕され、西武グループの総ての役職から追放されます。
西武グループの管理職は西武が堤家の事業であると鼻から思っていました。
でも、西武鉄道は公開していましたから、東京証券所が決める公開基準を守らなければなりません。
西武は業績は順調でしたが、上場を維持するには株式の取引量と株主数が不足しがちです。
そこで、義明氏は「自身が実質所有している株式を売却することを認めます。
管理職は「どうせ市場で売却するのなら、少しでも高く売って義明氏を喜ばせよう」思ったのでしょう。
管理職の上場についての認識が甘かったのでした。
部下の失態が義明氏の命取りになります。
 
義明氏が反省するならば「世界一の富豪」「長野オリンプックの成功」等の名声の中で、
国民やマスコミの妬みヤッカミに気付かなかった事でしょう。
 
世上、有価証券報告書の偽造は蔓延しています。
国の財政白書だって、年金の運用実績報告だって、疑わしいものでしょう。
一企業の財政状態の偽造と株式状態の偽りとは犯罪の軽重が違います。
赤字を黒字と偽れば万死に値します。
株主は実態堤義明氏の名義貸しであった・・・、
この事実が判明すると、堤義明氏は追放されてしまいます。
これほどまでの過酷な仕打ちが妥当であったのか?
私は行き過ぎだと思います。
 
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                                 所々ゴルフ場の芝生が残っています。
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                            向こうの小屋はゴルフコースのお茶屋でした。
 
小さな偽りで失脚した人はこの20年のあいだに沢山います。
江副浩正氏、中内功氏など真の起業家は次々に奈落に沈みました。
それでいて今頃、マスコミは「日本には起業家は居ないのか!」
騒いでいます。
僅かに気を吐いているのは孫正義(ソフトバンク)や柳井正(ファーストリテイリング)でしょうが、
彼らは販売の革新者でありますが、彼らが活躍しても日本は元気になりません。
ユニクロが活躍する陰には町の衣料店が何店も閉店している事でしょう。
 
西武は、西武秩父駅の先小鹿野の山の中にリゾートを開発していました。
波のプールに沢山のテニスコート、ゴルフ場にロッジ・・・・、を設備しました。
若い人や家族連れが健康に過ごせる施設でした。
軽井沢プリンスのミニ版でした。
 
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                  青い矢車草の先はゴルフの打ちっ放しです。これも旧状のまま残されています。
 
しかし、西武が解体されると・・・、小鹿野リゾート単体では債務過多である実態が明らかになりました。
そもそも、リゾートが赤字でも鉄道が黒字なら全体で収支が取れている・・・、考えていたのでした。
慌てて秩父市は株式会社秩父開発機構を設立して、小鹿野リゾートの受け皿にしました。
 
2009年4月「癒しの森花の回廊」をオープンさせます。
回廊とは「ゴルフ場のコース」でした。
コースの芝を剥ぎ取って、春には「ヒナゲシ」や矢車草、金魚草を咲かせました。
秋にはコスモスやサルビアを咲かせて、春・秋に開園しました。
 
ゴルフ場を閉めて、虞美人草を咲かせるのは・・・・、
義明氏の事業に期待した私にとっては皮肉に写ります。
虞姫が美しすぎたから・・・、殺しても秦は滅亡してしまいます。
第一殺意は妬みでしかありません。
 
 
人間の醜さの一つが妬みです。
日本社会はこの20年間妬みが原因でたくさんの起業家を抹殺してきました。
そして、今生き残っている起業家は・・・、似非起業家が目立つようになって来ました。
 
文藝春秋6月号では「日本再生会議」と題して稲森和夫氏、飯田亮氏、牛尾治朗氏等が対談し、
「戦後の復興を牽引した重鎮がひ弱な日本人を叱る」と副題しています。
「何故第二の松下幸之助、本田宗一郎、井深大が出現しないのか!」叫んでいます。
私は何処か変だな!思います。
稲森さん等は松下幸之助や井深大のように日本の社会を牽引する起業家なのでしょうか?
 
 
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私は確信しています。
第二の松下幸之助は沢山いたのだが、日本社会は異常な清潔病にかかって、
少しでも悪事が発見されると再生できないほどの深みに落とし込んでしまった・・・、のです。
結果日本にはつまらない財界人ばかりが跋扈しました。
政府に働きかけ、高額所得税を抑えて、法人税も低くして、労働市場を破壊させて・・・・、
そして原発事故のような事故を招来させて・・・・、
その責任も不明瞭のまま国民負担に押し付けようとしています。
小悪には小さな責任を取らせて、大きな失態にこそその責任を厳しく問う・・・、
そんな社会であって欲しいと思います。
 
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     手前はヒナゲシ、畑は花菱草・・・、花菱草は背丈の低いヒナゲシです。
     4枚の花弁が離れているので菱形(武田信玄の家紋)のように見えます。(写真は長瀞)
 
 
 
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青葉が茂って・・・、でも不如帰が聞こえません。

青葉が目にしみる季節になりました。
卯の花は既に咲き誇っていますし、筍も鰹も充分戴きました。
でも、不如帰(ホトトギス)の鳴き声は聞いていません。
今年も聞けずに過ぎてしまいそうで・・・・、悲しい事です。
 
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   遊行寺の大銀杏。私は銀杏の青葉が最も美しいと思います。
 
不如帰はツバメよりも少し遅れて南から渡ってきます。
ヨシキリや四十雀が巣作りを終えた頃現れて、その巣に卵を産んで、育ててもらうからです(托卵)。
托卵するには、もう遅すぎます。
佐渡では朱鷺が、我が家では雀やカラスが巣離れをしています。
自然界は子育ても最後のステップです。
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                      宗祖一遍上人像、今日の写真は総て遊行寺とその周りの緑です。
家内と遊行寺に出かけました。
遊行寺の裏山なら、不如帰の鳴き声が聞こえるかもしれない・・・、期待したからです。
 
   峰の色 渓(たに)の響きも皆ながら
          我釈迦牟尼の声と姿と    (道元・道歌)
 
遊行寺は全山が青葉です。
でも、樹によって青葉も違います。
青葉の美しさ、輝きを競っているようです。
五月の山風が梢を震わせて通り過ぎてゆきます。
葉音が清々しく響きます。
水音も小鳥のさえずりも・・・・・、聞こえます。
一木一草に至りまで、仏の命を宿して、輝いているようです。
こんな季節に、こんな自然を道元禅師は師「釈迦牟尼」と思ったのでしょう。
三井寺で円空が賜った法名は「仏性常住金剛宝戒相承」でした。
”自然界の総てに仏性あり”
円空らしい名で、この名を戴いて大喜びしたことでしょう。
 
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                                      卯の花、背景の緑は桂です。桂の緑も最高です。
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                              遊行寺の桂。沢山の小鳥を宿しています。
 
朝のNHKラジオでは陸前高田の復興に苦心される人達の姿を伝えています。
1ヶ月前、三春の滝桜が見事に咲いた・・・・、伝えられました。
自然は、四季は、人間の営みには関係ないような顔をして表情を変えてゆきます。
人間の命も、人間の作った文化文明も自然の前にあっては危ういものだ・・・、
大津波に悲しいほどに厳しく教えられました。
 
しかし、自然は人間に”頑張れ”励ますかのように、美しくも優しい呼びかけをしてくれるようです。
私たちも自分のチャンネルを「自然チャンネル」にリセットして、
道元禅師のように毎日を過ごすのが知恵のようです。
そして”峰の青葉に、川のせせらぎ”に励まされて、背中を押されて生きて行かなくてはならないようです。
 
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   遊行寺の楡(材木にすると欅) 背後は藤沢の街です。
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                               楡の梢、背景は遊行寺の本堂です。
 
日吉の喫茶店で友人と雑談しました。
まるで、40年前と同じように。
私は先日BSNHKで放映された「ファーブル昆虫記」を話しました。
 
ファーブルは”ある言い伝え”を実証しようとします。
言い伝えとは”火を点けた炭でサソリを囲むと・・・・、サソリは脱出を図り・・・、
脱出が不可能だと絶望すると、自らの毒で自殺する”というのです。
自然界では自殺する生命はありません。
人間だけが死を承知していて、自殺する方法を知っている筈なのに・・・・。
実験してみるとサソリは死んでしまったように地面に伏して動かなくなってしまいます。
しかし、暫くすれば・・・、動き出します。
矢張り、サソリも自殺することはしません。
生きることしか致しません。
 
友人から反論が出ました。
”ネズミは集団で海に入って死んでしまう・・・、あれは自殺ではないか?”
”竹だって、竜舌蘭だって花を咲かせれば、枯れてしまう。花さえ咲かせなければ・・・、死ぬことはない”
”サソリもカマキリも性交すれば、オスはメスに食われてしまう。種を残そうとさえしなければ・・・、食い殺されることはない”
生命は種の保存をする為には・・・、自殺を厭わない。
 
私も友人も種を増やしました。
生物としての責任を果たしました。
子供たちは既に自立しています。
私自身は、なんだかんだ言いながら・・・、生き続けています。
でも、実態は・・・・、カマキリに近いかもしれません。
 
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                                  曙杉、池畔では子供がエビ釣りに夢中でした。
 
大地には小さな花も、大きな樹も、小鳥も昆虫も命の営みを見せています。
彼らは生死を憂う事もないから、生老病死の心配もありません。
悠久の時間の流れに自らの命を託すだけです。
なまじ人間だけが大脳が発達したものだから、心身を悩まし欲望に、煩悩に身をやつして、
自分の足元も行く方向も解らなくなってしまったようです。
 
私の残りの日月はどのくらいあるのか・・・、わかりませんが、
せめて自然にチャンネルを合わせて過ごすことにしましょう。
道元禅師の教えを支えにして・・・・。
 
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【追記】 今日(28日)友人に聞いたら、私の生活圏では鎌倉半蔵坊 、明月院の裏山で不如帰が今年も啼いているそうです。昨年は私も同所で聞きました。今度出かけようと思います。
 
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12万体目の円空仏(尽きぬ疑問)

5月26日(土)慶応大学日吉校舎で、日本文化研究会で私の円空に関しての研究報告を終えました。
従来の円空研究の視点が、美術美学史的、又は民俗学、民芸愛好者、シュルリアリズム(超現実主義)に偏したりしているように思います。
私は宗教社会学的な視点や手法で研究したら、一層分かり易い・・・、と考えて報告しました。
何故なら、円空仏がどうだこうだ言う前に、円空自体が一人の遊行僧という江戸時代初期に生きた宗教人であったからです。
円空がお釈迦様と同じように全国を托鉢してまわり、一宿一飯のお返しにその家のご本尊を彫ってあげます。
中世から近世に変わる境目の時代にあって、
一人の作仏聖とそれを支えた農村社会に視座を置いて研究するのが解り易い、と考えました。
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                               慶応大学日吉キャンパス。銀杏の緑が鮮やかでした。
 
毎回のように、報告が終わると沢山の質問や意見が集中します。
聴講いただいた人からの質問が楽しみであり、更に刺激になります。
今回も、その幾つかを記して、今後の研究の材料にしようと思います。
 
【円空が誓願した弥勒浄土とは】
1654年、24歳の青年僧円空は郡上美並の寺を出奔し、伊吹山の太平寺に入り、修験道を極めようとします。
更に、1665年35歳の時松前船に乗って蝦夷地に向かいます。
12万体の仏像を彫り上げる事を誓願します。
数値目標は12万体であっても、宗教人としての目標は何だったのでしょうか?
円空の残した和歌や仏像の背に残る墨書から推して、
「死後に浄土に生まれ変わるのではなく・・・・、現実の農村社会が弥勒浄土になるように・・・」
その役に立ちたい・・・、誓願して遊行聖、作仏聖の旅に出たと思います。
 
円空は”父親の無い子”として生まれ、母親一人に育てられます。
父親は誰か、そして何故捨てられたか? 疑問が生じます。
父親は郡上美並の富豪(星宮神社の宮司西神頭安永と言う研究もあります)で、
木地師の娘に子を孕ませてしまった。
そこで、娘を美濃羽島に追いやって・・・、日陰で育てさせた・・・・、というところが通説のようです。
しかし、円空7歳の時母は長良川の洪水で亡くなってしまいます。
 
こうした事実から、円空の目指した弥勒浄土とは・・・・、
親子が揃って暮らせる家・・・、とか洪水や飢饉が無い平安な社会・・・、とか言った事が考えられます。
青年円空の記憶には島原の乱(1637年)や由井正雪の乱(1651年)があったでしょう。
そして、封建領主に抵抗した農民一揆、国一揆の筵旗には「弥勒浄土」が掲げられている事も知っていたでしょう。
円空が義民になることでなく、仏像を彫って回る事を選択しました。
母を奪ったのも長良川、母を自分を育てたのも長良川・・・・、
ならば長良川を弥勒浄土に変えたい・・・、
そんな誓願であったのだろう・・・、私は推測します。
 
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    中宮寺弥勒菩薩像。円空は法隆寺で修行中朝な夕なに接したでありうと思われます。弥勒菩薩は釈迦入    滅56億7千万年後地上に降りてきて救済してくれる・・・・・、メシア思想の仏です。しかし、そんな長い先の    ことでなく、現実世界を救済して欲しい・・・、そんな願いから、一方では百姓一揆等の理念的裏づけになり    ます。円空の信仰の中核は弥勒信仰であった事は和歌等で確実ですが、肝心の弥勒仏が無いのは解せ    ません。
 
【12万体目の円空仏】
円空は蝦夷地から下北の恐山や津軽を遊行します。
しかし、津軽藩は円空を追い払います。
江戸幕府は島原の乱に懲りて遊行僧を厳しく扱い始めたのでした。
僧侶は何処かの寺院に定住して・・・・、管理しやすくしたい考えたのでしょう。
この頃から円空には幕府嫌い、天皇好き・・・、の傾向が現れてきます。
 
1673年42歳の円空は法隆寺に入り、法相宗の血脈を受けます。
丁度、亡母の33回忌にあたります。
更に修験道の総本山とも言うべき大峯山に入り、日本神道の核伊勢志摩をめぐります。
故郷に戻ると、すぐさま琵琶湖の東、三井寺に入ります。
三井寺は推古天皇以後、天智天皇らの寄進した4体の弥勒佛がご本尊の「弥勒信仰」の寺でありました。
ここで大僧正直々の血脈を受けます。
弥勒を信仰する法悦の和歌を残します。
円空の心の核に弥勒の二文字がくっきりと刻まれた事でしょう。
 
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                                             三井寺 善女龍王像
 
更に日光から湯殿山をめぐり、飛騨千光寺に入ります。
1690年(59歳)の時、故郷に近い岐阜県吉城郡上宝村金木戸に入り、
桂峯寺で十一面観音、善女龍王、今上皇帝像を彫ります。
今上皇帝像の背に「10万体達成」と墨書します。
十一面観音は白山(日本三霊山)の本地仏です。
善女龍王とは長良川の治水の神様で、母の面影でありましょう。
で、今上皇帝は・・・・・?
今上皇帝とは多分現人神の「天皇」のことでしょう。
幕藩体制が締め付けを厳しくしている時に、天皇を彫るのは・・・、勇気ある行為だと思います。
10万体出来たのですから、目標の8割達成です。
もう、先が見えた・・・、喜びを感じます。
ならば・・・・・・、目標の12万体目は何仏にして、何処のお寺に納めたのか・・・・、大いに気になります。
 
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        桂峯寺 十一面観音(中央)、善女龍王(左)、今上皇帝像(右) 。今上皇帝像が10万体目でした。
 
1691年(60歳)円空は遊行中に書き留めた和歌を整理して、「熱田大神金渕龍王春遊」と表題をつけます。
遊行聖として必要な旅道具を整理します。
故郷に弥勒寺(関市)を再建し、三井寺の末寺に認めてもらい弟子の円長に血脈を与えます。
人生の締め括りの準備を進めたのでした。
1695年、64歳の盂蘭盆会に、自ら掘った土の中に入ります。
遊行中に見聞したと思われる湯殿山の即身成仏を我が身を以て実行したのでした。
穴は大事にした藤の花の下に掘りました。
地中からチリン・チリン鈴の音が止まったら、入定した合図です。
「この花が咲く間、私は仏になってこの地を守る」、と語ったと言い伝えられます。
現代風に言えば「樹木葬」という事になります。
 
私の直感では円空のミイラ(即身成仏)が12万体目の仏像であった・・・、
そして最初にして最期の弥勒仏だった・・・、思うのです。
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      円空の自刻像と言われる。円空はこんな表情で即身成仏したい、思ったのでしょか?
(弥勒寺の円空館所蔵です。朝日新聞円空展目録から転写)
 
【円空に少ない仏】
円空は法隆寺の西円堂で大日如来を刻みます。(1673年43歳)
その時、法隆寺の飛鳥仏をまじかに見て、深く勉強します。
ですから、円空の仏には飛鳥仏の影響が色濃く残っています。
当然、中宮寺の弥勒菩薩も拝んだはずです。(上段の写真)
でも、円空は”真似できない”思ったのではないでしょうか?
三井寺では7体ほどの仏像を収めていますが、全て善女龍王像で、
火災からお寺やお経を守る意味で納められています。
信仰の核に弥勒菩薩がありながら・・・・、最高の弥勒菩薩に接しながら・・・、
あえて弥勒菩薩を彫りませんでした。
 
理由は  ”我死して弥勒にならん”
若い時から念じていたのでしょう。
 
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円空が法隆寺で血脈を受けた際に彫った大日如来(高島屋法隆寺展目録から転載)
 
日本で最も多い仏は、観音様かお地蔵さんでしょう。
でも、円空にははっきり地蔵菩薩とわかる仏像は一体しかありません。
(一体も円空の真作とは断定できません)
木っ端仏と名付けられている千体仏が地蔵と言えない訳ではありませんが・・・・、
端材を使った仏で・・・、何とでも見られる仏様です。
更に閻魔大王をはじめとした十王像は一体も見つかっていないと思われます。
総じていえば、如何に庶民に、農民に信仰されていても「あの世を思わせる仏」は彫っていないのです。
屹度お釈迦様の教えを確信していたのでしょう。
「あの世の仏は偽りであり、この世の仏が真実である」
だから、今日、明日、現世を生き抜く人を救ってくれるのが仏様だ・・・・、考えていたと思われます。
 
【天照大神が男神の訳】
農家の床の間や仏間に良く天照大神の掛け軸(書)がかかっています。
天照大神が天皇家の神様だから・・・、というよりは太陽神であり、農業には最も大事な神様だからでしょう。
でも、天照大神の像は滅多に見ません。
恐れ多くて神像にできない、絵にも描けない・・・・、のかもしれません。
円空が敢えて天照大神を彫ったのは天皇を崇敬していたからでしょう。
反面では、伊勢神宮を支配しようとする幕府が嫌いだった・・・・、思われます。
 
ところが円空は天照大神を男神として刻んでいます。
天照大神は女の神様であり、弟が暴れ者の素戔嗚尊である事は江戸時代の農民も知っていたことでしょう。
それを「円空は古事記も知らなかった」批難する人がいます。
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                      白山神像(福田寺)は伊邪那美でした。(朝日新聞社円空展目録から転写)
 
白山の神(伊邪那美/いざなみ、天照大神の母)の本地仏が十一面観音でありました。
ですから円空にとっては、白山や流れ出す長良川は母性を特徴とする仏(神)であり、
胎蔵界の仏でありました。
白山の神が母性なら・・・、天照大神は父性(金剛界)を特徴付けたくなります。
水と太陽、母と父、両性が備わって宇宙は回っているのですから。
 
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                              天照大神像
もう、ブログとしては長くなりすぎました。
「円空は奥が深く興味が尽きない・・・・・」
そんな事を記したかったのでした。
ソロソロ、筆ならぬキーボードを離れます。
それにしても、熱心に聞いてくださり有難うございました。
 
 
 
 
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”吸い葛の花”に託した想い

野山に「吸い葛」の花が目立つ季節になりました。
白い蕾が花開くと徐々に黄色く変化してきています。
白と黄色が並んだ花が「金の花」「銀の花」に見えるので、別名を”金銀花”と呼びます。
 
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   蕾の時は白で、花開くと直に黄色くなってしまう”吸い葛”です。今が見ごろです。(柏尾川遊歩道で)
 
30年前、我が家の北側の生垣に夾竹桃を植えました。
北側でも育つし、防風にもなると考えたのでした。
ところが考えが甘かった。
夾竹桃の生命力は壮ましく、木は生い茂るは根が張って下水管を壊すは、大変な負担になりました。
垣根には山茶花が良かった・・・、後悔先に立たずで、毎年刈り込みに苦心しています。
 
 
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                            我が家の吸い葛、花陰にカタツムリがいました。(左下)
 
生命力の旺盛な夾竹桃に勝るのが「吸い葛」です。
蔓こそさして太くは無いのですが、細かく枝分かれしながら夾竹桃に覆いかぶさっています。
葉が生い茂って既に夾竹桃の葉も蕾も見えません。
このままならいずれ夾竹桃は枯れてしまうかも知れません。
”それも良いか”思ったりしますが。
あんまり吸い葛が繁茂すると、お化け屋敷のようですし、貧乏くさいので・・・・・、
花が終わったら夾竹桃と一緒に刈り込もう・・・、とも思いますが・・・・・、
その頃、私はどうしているか? 少し心もとない最近です。
 
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吸い葛の花を引き抜くと、ラッパ状の花弁が出てきます。
花弁の根元を吸うと甘いのです。
子供の頃、甘いものが欲しくて、この花を引き抜いて・・・・、チュ・チュ・・、と吸って遊びました。
英語の名前が「Honeysuckle」ですから、英国人も日本人と同じようにして遊んでいたのでしょう。
 
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     吸い葛の花、左端(子房の位置)に花蜜が溜まっています。これを吸うので”吸い葛”と呼びます。
 
吸い葛が日英共通するのは偶然でしょうが、その生命力に驚異したのは洋の東西共通だったようです。
と言うのは、吸い葛は「忍冬」とも呼びます。
忍冬唐草として模様の代表になっています。
引越しで使う大風呂敷や獅子舞のボディーになっている・・・、深緑色に白く染め抜かれた模様です。
唐草と言うように中国から伝って来ました。
冬にも耐えて葉を落とさないので”冬を忍ぶ”と書きました。
 
忍冬模様はペルシャからシルクロードを伝って唐を経て日本に伝わりました。
法隆寺の平瓦の先端には美しく伸びやかな忍冬の模様が描かれています。
法隆寺が末永く存続するように・・・、祈願したのでした。
期待通りに法隆寺は世界最古の木造建築になって・・・、日本人の心の支えになっています。
 
我が家の北側では、如何ともし難い吸い葛ですが・・・・・、古代から日本人の心に深く根ざした葛でした。
 
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       法隆寺平瓦、模様が忍冬唐草模様です。(国立博物館HPから転載)
 
 
 
   玉葛 花のみ咲きて 成らざるは 誰が恋にあらめ 吾は恋ひ思ふを
巨勢郎女(こせのいらつめ)が大伴安麻呂の誘いに応じて贈った歌でした。(万葉集巻2−102)
玉蔓とは吸い葛とは限りません。
定家葛かも、真葛かもしれません。
でも、誰もが吸い葛だと思っています。
 
何故か?
それは万葉人も吸い葛の甘い蜜が好きで、チュ・チュとやっていたと思わるからです。
だから・・・、恋心を託すには玉鬘は吸い葛に違いありません。
 
ところで、歌の意は次のような事でしょう。
 
 吸い葛(玉蔓)は花が咲いても実がなりません。そんな”ならない恋”をするのは一体誰でしょうか?
 人は知らないのですが、私は恋しいのです。
 
巨勢郎女が大伴安麻呂の誘いに応えて・・・、
”今晩やってきて・・・・、チュしても良いわよ!”
とまで答えてはいないかもしれませんが・・・、
万葉時代のおおらかさが伝わってきます。
 
 
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                                              柏尾川の土手を埋めた吸い葛の花
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      吸い葛を居間で活けてあげました。垣根を覆っていた時には憎らしいほどの花でしたが、
      花瓶に入れれば中々可愛い花です。
 
 
 
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