現代の「戒名」を考える(会津藩士の墓前で)
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彼岸の一日、家内を誘って三浦の鴨居に「会津藩士の墓」を詣でる事にしました。
先ず、横須賀に「戦艦三笠」を見学して、もうじき再開される「坂の上の雲」のお勉強をしました。
どぶ板通りで、海軍カレーで腹ごしらえを終えました。
国道16号線を観音崎灯台を超えれば、鴨居です。
その先が浦賀になります。
戦艦三笠は日露戦争「日本海海戦」で戦功を上げました
東郷平八郎像
鴨居は静かな浜辺です。
今年も小正月に「どんど焼き」を見物に来ました。
小さな岬があって、戦艦「村雲」の慰霊碑がたっています。
紫色の御影石が海峡に向けてたっています。
その基壇には100名ほどの名が刻まれているでしょうか?
村雨は日本海軍の駆逐艦でした。
昭和18年3月5日、ソロモン群島沖で米駆逐艦の夜戦攻撃を受けます。
一方的に沈没され、約半数の兵隊が海に沈みました。
海中から救われた人達が毎年慰霊の神事を続けておいでです。(kouyoukai.exblog.jp/12944528/ )
駆逐艦村雨の慰霊碑。黒御影石の右に村雨の記録、左側に尊名が刻まれています。
村雨の慰霊碑に続く鴨居の浜辺。右奥に観音崎灯台、小山の中に会津藩士の墓が祀られています。
村雨慰霊碑から少し手前、小高い丘の中腹に「会津藩士」の墓があります。
スダジイ等の常緑樹が小山を覆っています。海に向けては桜が植えられています。
その樹陰にやく30坪ほどの墓地があって、23名の会津藩士が眠っておいでです。
墓標は素朴な石の角塔です。
表面には、「会津藩 俗名」が、側面には没年、反対の側面にはプロフィールが漢文で刻まれています。
俗名ではなく戒名が記されているものと思いました。
戒名が正面で、俗名は墓碑か側面や裏面に記されるものです。
戒名が無かったのか・・・・、
又はあっても俗名と会津藩士であった誇りが優先されたのでしょう。
会津藩士の墓
俗名と会津藩士であった事のみを記す、シンプルな墓標です。
私は、「戒名」についての疑問が頭をもたげます。
仏教の祖「釈迦」は王子様の名前でした。
お釈迦様には戒名は無く、俗名だけでした。
お釈迦様はお弟子さんに戒名を付けた訳でもありませんでした。
釈迦が亡くなると、お弟子さんたちは祇園精舎をはじめ各地の寺院に集い、修行を続けます。
教団が、寺が大きくなるとルールが必要になります。
それが「戒」でありました。
そして、修行僧は自分自身を律する事を求められました。
教団の拡大に伴って「戒律」の重要性が脚光を浴びました。
仏教が中国にわたると、戒律は更に微細に決められます。
戒律を守る人が解脱し、仏になれる(成仏)と考えました。
更に日本に渡ります。
平安時代には天皇や貴族にも生前に戒名を貰う人が現れます。
戒名は自分自身が仏教を信仰し、戒を守って生活します。
そんな姿勢の現れでした。
戦国時代には戒名の方が優先します。
「信玄」も「謙信」も「早雲」もみんな「戒名」でした。
出家はせず、武将として領内の統治拡大に努めますが、仏門に入っています。
そんな姿勢でした。
墓標側面には故人のプロフィールを漢文で記しています。反対側には没年が刻まれています。
中国で、戒名を戴けない段階で突然に亡くなる僧が現れました。
「戒名も無いままであの世に送ったのでは可哀相だ!」考えたのでしょう。
死後に戒名を与えるようになりました。
こうした習慣が日本に伝わると、江戸幕府の「宗門改め制度(キリスト教の禁教施策)」や戸籍を寺に任せた事もあって、「死後戒名」が習慣化しました。
死んだら、お寺のお坊さんが戒名をつける。戒名をいただいたなら葬式をお寺であげられる・・・・。
そして、お寺のお墓に埋もれる事が出来る・・・・。
こうして、生前は仏教を信仰しなかった人も、死んだら戒名をいただきます。
そして、あの世では戒を守って、修行に励みます・・・。
そんな仕組みが一般化しました。
お陰で「葬式仏教」と揶揄されるようになりました。
お釈迦様の考えとは随分違った形が日本で生じています。
会津藩は幕末維新で気の毒な役回りを果たしました。
文化7年(1810)、会津藩は江戸幕府の命を受け藩士とその家族を三浦に送り込みます。
任務は三浦半島の海岸警備、台場構築でありました。
ペリーが来航すると(嘉永6年/1853)房総半島を含めて海上警備を任せられます。
そして、江戸幕府に代わって長州藩などと対抗します。
幕府軍の名代のようにして薩長土肥連合藩と対峙します。
戊辰戦争では会津は抵抗します。
敵討ちのように痛めつけられます。
白虎隊のような若者も「義」の為に命を散らせます。
そんな会津藩士にとって、死後戒名をいただくような姑息な事は考えなかったのでしょう。
死後、故郷から遠い鴨居の坊さんにつけて貰う戒名より、
両親から付けて貰った俗名の方が大切だったのでしょう。
更に、鴨居には会津藩士の家族は居ませんでした。
戒名は「亡くなった故人が成仏して欲しい・・・・」
と言う期待よりも遺族の都合がありました。
遺族はその土地で生活を続けなくてはなりません。
世間並みに葬式を挙げて、世間並みに戒名をいただいて・・・・、期待します。
でも、会津藩士は故郷を離れた防人のような存在です。
任地で死んでも誰かが墓参りしてくれる訳でもありません。
お坊さんにお金を払って戒名を戴く必要も無ければ、戒名料を払う人も居ません。
そこで、このような素朴なお墓になったのでしょう。
そうして、現代の世相は良くわからない戒名に高いお金を払う事に疑問を持つようになってきました。
また「世間体」で立派な戒名を貰う事の意味を考え始めました。
近所や社会関係が希薄になれば世間体は意味を為さなくなります。
鴨居のどんど焼き、向こうの岬に駆逐艦「村雨」の慰霊碑があります。
左側の小山の続きに会津藩士の墓があります。
先日島崎藤村の戒名を紹介しました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45575763.html
9字の院号戒名でしたが、飾りの文字を外すと「藤村」としか書かれていませんでした。
藤村は”そんな戒名なら「藤村居士」4文字で十分だよ・・・” 苦笑されたと思います。
でも、天下の島崎藤村のご遺族が葬儀を執り行います。
粗末な戒名では笑われてしまいそうです。
社会的な立場があります。そこで9字の院号居士を戴きました。
先日は川端康成の戒名も紹介しました。
ノーベル文学賞受賞者です。
戒名は藤村より一段上の「院殿居士」で11文字でした。
ご遺族が一番立派な戒名を望んだのでしょう。
筆者は寺の生まれですから得度は6歳の時にしました。
戒名も親父に付けて貰っておけば良かった・・・、思います。
お飾りはいらないから「正敏信士(しょうびん・筆者の名前)」としでもして貰いたい気持ちです。
親父は何処かの住職にさせる積りだったのでしたから、俗名こそ戒名です。
そして、アバウトですが自らを律して生きてきました。
会津藩士のように下手で貧乏籤を引き続けて来ましたが。
弘法大師空海は名前(戒名)を何度も変えて、8度目の「空海」が気に入りました。
空海のように自分自身で戒名を名乗って、仏教を信仰し、自分自身を律して日々を送るのなら、
それも良いと思います。
死して後閻魔様の審判を仰ぎます。
「閻魔様から●○△(戒名)は居るか!」大音声で聞かれます。
亡者は戒名なんか知りません。
「それ誰の事?」皆が思う事でしょう。
「此処に居ります!」手を挙げなくてはバレバレです。
自己戒名なら、俗名なら直ぐに答えられます。
私は、会津藩士の墓前で暫く考えていました。
そろそろ「死に際」を考えなくてはなりません。
鴨居漁港 右奥に浦賀になります。写真は今年の「ドンど焼き」風景です。書初めを燃やすと字が上手になりま す。 今でもこうした伝統行事を頑なに続けている所が、鴨居らしいのです。
筆者は会津のドンド焼きを何度か見に行きました。
雪の中にドンドの火柱が登りました。昔も今も会津での人は背筋がピンとしており、故郷愛が深いものがありま す。会津は徳一上人が布教した土地。奈良時代から反骨の精神が脈打っているようです。
会津藩士の霊もドンド焼きを眺めて、故郷を思い起こしている事でしょう。
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