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作品についてhttp://cinema.pia.co.jp/title/171243/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

原作:遠藤周作
監督:マーティン・スコセッシ

江戸時代、キリシタン弾圧下の長崎。
イエズス会の宣教師ロドリゴの目を通して、語られますが
“信仰“だけでなく、”人の気持ち”について、呼び起こされるものがあります。

タイトルからは、迫害される信徒に対して、神様は何もされない?ことへの
疑問のようですが、その問いは、自分への疑問にもなりそうです。


▼〜▼ 以下、内容にふれて個人的感想です。(解釈の違いはご容赦^^;)
▼▼▼

《1.踏み絵》 ←キリシタンか否かのスクリーニング
キリスト像を踏みつけるのは、信徒には耐えがたい。
一方、それは偶像でしかない、と割り切れば、出来なくもない…
ロドリゴも、信徒が、信仰のより所として、
ロドリゴから授かった“モノ“を、有難がる傾向に、懸念を示す。
信仰は、心の中のことであっても
目に見えるものに、“真実“を求めたくなりがちなんです。


《2.棄教=転ぶ》
宣教師が“転ぶ“ときは、自分の信仰が、試されるだけではない!(>_<)
役人もズルい。
宣教師が転ばなければ、村人(信徒)を殺すーと迫る。
フェレイラ神父は、ソレで転び、ロドリゴもそうなる…
(フェレイラ役のリーアム・ニーソンは適役!存在だけで苦悩と慈愛に満ちた品格が!)

一方、ロドリゴの同僚:宣教師は、ついに、棄教できず
村人も、自分も死んでしまう…orz
それは、殉教の誉?というより、“見殺し“感を残しながら
果たして、“沈黙“したのは神なのか?と思うのです…


《3.祈り》
信仰や祈りは、そもそも、誰のため、ナンのためなのか?

祈りは、願い事を叶えてほしい、“手前ミソ感”がありますが(汗)
個人的には、“祈り”とは、自分のお願い事ではなく
心の鎮静化、あるいは、自分以外の人へのご利益にしときます。
(自分の願いは叶わないと思うので、神様を恨みたくないの^^;)

自分が棄教しなければ、罪なき者が殺されるーならば
神様に祈ってもダメです…
信仰が、自分よりも他者の幸福を、祈るものであるならば
ここは迷わず、棄教でしょうーと私は思います。

“棄教“はすれど、その”行為“にこそ、真実があると思う。
もっと言えば、
不本意とはいえ、“棄教“したという十字架を背負うことは
殉教に等しいとさえ、私は思います。


《4.キチジロー》 窪塚洋介さんの存在感のあるユルさが絶妙☆
なんだかんだ、正しい決断に迷うのが、人間なんだもの。
キチジローは、ロドリゴの助けになったり、密告!もしたりして
一貫性なく、信用できない…。(汗)

そんな、場当たり的だけど、彼は
その時々で、そうすべきだと判断したことをした結果、
そうなっていたのかも、しれないのです。


《5.汝、為すべきことを為せ》 ←フェレイラが引用した、キリストの言葉。
ロドリゴが感じた“神の沈黙”は
ともすると、ロドリゴの怒り、そのものだったかもしれません。

「為すべきことを為せ」を聞いたとき、
それがすべてかもしれない、と思いました。

神様が云々でなく
その時々で、自分がすべきことをするしか、ないからです。
神様は、心の中で、ずっとそう仰っていたー(怒りは耳をふさぐ)
そして、それが、そのときの“神様のご意志”と信じることで
その後、自己嫌悪に潰されることなく
次に、なすべき道を、生きていかれるー
キチジローのように……


▼▼▼

↑私の“自悶自闘”ノーガキは、悩ましいばかりで
まとまりありません…
各自、心の中で対話しながら、ご覧くださいませ!

ps;為すべきこととは「自分を裏切るものを赦すこと」かな....

 

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