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深紅に咲きて、潔く散るか「寒椿」―伊藤ふじ子の多喜二への思い
 1933年2月20日、小林多喜二は官憲の拷問によって虐殺された。

次のふたつの句は「森熊ふじ子」(旧姓伊藤)という女性が、『寒椿』という句集のなかで、多喜二の忌を詠んだものである。


アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌


多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋



澤地久枝さんf「小林多喜二への愛」(『続昭和史の女』)で小林多喜二を愛した伊藤ふじ子は「多喜二は『アンダンテ カンタービレ』が好きだった」と語っていたという。
麻布二の橋三の橋は多喜二とふじ子が暮らしていたあたりなのだ。

ふじ子が多喜二の「ハウスキーパー」だったと聞けば、小林多喜二の「党生活者」中の「笠原」のモデルではないかと思う方もあろうが、両者はまったく違う――ようである。多喜二研究家の手塚英孝が東京新聞に「晩年の小林多喜二」を寄せている。「伊藤ふじ子の献身」の小見出しのある部分には、彼女のことを語る多喜二の目に涙が浮かんでいた様子が書かれている。

そしてこの記事(1978年2月21日付)の切り抜きをふじ子は死ぬまで、おそらく持ち歩いていたと思われる。3年あまりの間である。多喜二への追慕の気持ちは死ぬまでついに消えることはなかったのだ。

次は伊藤ふじ子の遺稿である。
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  鰯雲 人に告ぐべきことならず

 この句は私の師加藤楸邨の俳句で、私のために作られた様な気がして心に染みて好きな句です。人に言うべきことでない私と彼との一年間のことどもを又何のために書き残す心算になったのか、まして彼は神様的な存在で、この神様になってにやにやしている彼を、一寸からかってやりたい様ないたずら気と、彼がそれほど悲壮で人間味を知らずに神様になったと思い込んでいられる方に、彼の人間味のあふれる一面と、ユーモアに富んだ善人の彼を紹介し、彼にかわって案外楽しい日も有ったことなど書きとめて、安心してもらいたかったのかも知れません。

 元来彼はユーモリストと申しましょうか、彼の生い立ちとは正反対に、彼と一緒に居るとだれでも楽しくなるところが有りました。

 何せ四十何年の前のことで、その間戦争をまじえて生死の境を何とか生きながらえて来たことで、何分さだかでないこともたくさんあります。

 そもそも私と彼との出会いは、彼が地下の人になる一年程前のことで、あれは彼が上京して東京に住むことになった年の二月だったと思います。

 ひどく雪の降る日でした。ヤップの講演会のビラ張りの日で、新宿方面の割り当てが彼と私と京大の学生(中退?)だったM君の三人だったと思います。彼は大島の対の着物に歯のちびた下駄、たしか帽子はかむっていませんでした。

 雪は私達にとっては幸して、受持のビラを大体張り終った時は、すっかり日が暮れていました。彼は私達をさそって新宿の角筈の(当時は角筈から若松町行の市電が出ていました)その市電の始発の停留所の角に、わりに大きな飲食店が有りました。

 名前は忘れましたが、その二階が牛肉を食べさせる座敷になっていました。彼を先頭に私達はその二階の座敷でスキ焼をごちそうになりました。

 忘れもされません。色の白い彼は鼻の頭を赤くして、髪とまつ毛にまで雪をためていました。

 会計の時、彼は三尺にくるくるまるめた中から小さな蟇口を出して姉さんに金をはらいました。

 食べれ、食べれ、彼はさかんに私達にすすめて、私達に牛のにえたところ取ってくれました。

 おくれましたが、私はそのころ劇団のその他一同の一人で、昼は○大学へつとめていました。その時はそれで何となく別れました。その頃私は新宿の淀橋に住んでいました。翌日の講演会は、彼は二言三言で中止になったと後でききました。

 それからどう言うきっかけで彼と会うようになったのか、どうしても思い出せないのですが、よくお茶をごちそうになったり、彼の小説の原稿の清書を私の知人の女性にたのんであげたりしました。当時彼は大学ノートに原稿を書いていました。

 その時も面白いことが有りました。彼と高田の馬場の駅の階段を上がっていました。すると二段上に下駄の歯が落ちていました。彼はそれをひろって自分の下駄に合わせてみるのです。私は腹をかかえて笑いました。だって階段の二段上に有った歯が下にいる彼のもので有るはずがないではありませんか。

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以上は惜しくも未完である。だがそれにしてもよく残された。


白樺文学館・多喜二ライブラリーは、漫画家森熊猛著『マンガ100年 見て聞いて』を出版している。

森熊猛著『マンガ100年 見て聞いて』(A4判 120頁 定価2,500円)は、白樺文学館・多喜二ライブラリーが、2004年8月に主催した「生誕100年記念小林多喜二国際シンポジウム」に併設された「森熊猛作品展」に出品した作品を中心に、新聞各紙に掲載してきた新聞マンガなどを網羅した著者渾身の書き下ろしで、日本マンガ100年の歩みを回顧する内容。

また、1932年春の中国への侵略戦争拡大の中で、特高に追われた小林多喜二の地下活動を支えた森熊ふじ子(旧姓伊藤ふじ子・森熊猛の妻)の俳句集『寒椿』も抄録され、多喜二亡き後のふじ子の生活を辿れる内容になっている。

著者の森熊猛氏は、2004年9月17日に95歳の生涯を閉じたが、同書の巻頭で、作家澤地久枝さんの「眠りより安らかにー会えなかったふじ子さんへー」が収録されている。

この中で、澤地さんは「伊藤ふじ子の生涯を尋ね歩く仕事は、プロレタリア作家・小林多喜二のたたかいと、その無残な死とに分かちがたくかかわりあっていた。そして、それ以上に、森熊猛・ふじ子夫妻の愛情の物語を辿ることであった」・・・・・「妻の嫁入りの仕度の中にあった多喜二の遺品の保存への顧慮、いつも妻のかたわらにある仏壇にまつられた小さな分骨の包みへの思い。そして、妻亡きあと、おのれ一人の決心で、多喜二の分骨を妻の遺骨へまぜ、埋葬した夫の思いー。尋常の男に出来ることではない」と記している。


 澤地久枝氏はこの様な素晴らしい感動的な書を発刊しているのである…(悲しいというか気持ちが空洞になってしまった)。

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