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平成19年5月1・2日および25日徳島県鳴門市・徳島市を観光した。平成16年3月の八十八所巡礼バスツアーでの阿波霊場めぐり、10年4月剣山登山以来の来訪になる。
4月30日昼名古屋を出発、名阪国道、淡路島島内など下道を走り、大橋部分2ヶ所のみ有料道路を使用して、21時50分鳴門市ドイツ館に隣接する道の駅第九の里に到着。車中泊。
鳴門市ドイツ館。2日に見学。姉妹都市のリューネブルク市の市庁舎を模した建物である。ちなみに、リューネブルクはハンブルクに近いハンザ都市で私が1983年初の欧州旅行のとき、市庁舎内部を見学し、土産に岩塩を買った街である。展示は2階にあり、収容所でのドイツ人の生活風景が分かる。第一次大戦の頃は、日本はまだ捕虜に対する戦争法規を守ろうとしていた。パン製造を伝えた名古屋収容所のケースもたまに話題になる。
大麻比古神社。5月1日、朝は雨、車内で休み、「ふく利 北島本店」でラーメンを食べたのち、敬意を表してまず神社を見学。背後の山は大麻山で霧に霞んでいる。駐車場からさらに入り境内に駐車。階段を上ると柵に囲まれた神木がある。当日は拝殿まで見学。忌部氏の祖を祀っているという。古代阿波の国は忌部氏と関連が深い。後藤田正晴はその末裔といわれる。
大麻比古神社の裏、北苑にドイツ人捕虜が建設した全長9メートルのドイツ橋がある。地元の和泉砂岩製で1919年建設。翌2日に再度神社を訪れた。北苑は広く山裾に遊歩道がある。
徳島県史跡。
メガネ橋。大麻比古神社の裏に同じくドイツ人捕虜が建設した。いずれも小川にかかっているので小規模である。
「バルトの楽園」BANDOロケ村。映画用に作られた施設。2005年にロケが行なわれた。収容棟(バラッケ)数棟のほか、浴場、製パン棟、酒保、印刷所など20数棟が復元されている。奥の建物は小さく建て遠近法で奥行を強調する工夫をしている。所長室には松江所長が賊藩とされた会津藩出身で「敗者へのいたわり」の気持ちを持ち、人道主義的な取扱いをしたとの説明があり、感動した。事務室の書類等の小道具はなかなかよくカモフラージュされていた。小雨まじりの平日の昼下がりで客は少なかった。水兵の服を着た30才ぐらいの女性ガイドが案内してくれた。映画は未見、早くテレビ放映してほしい。所長役の松平健は好きではないのでどうでもよいが。徳島出身の板東英二がちょい役で出演したと知り、驚いた。
板東俘虜収容所跡のドイツ兵慰霊碑。ロケ村で本来の収容所跡地を知り、県道方向へ戻った西側のドイツ村公園を訪ねる。南半分の収容所棟は今はアパート群に代わっているようだ。北方向に高くなる段丘状の敷地に旧跡の北半分が残っており、整備中の池や園地を越し、さらに、もう一つ水をたたえた奥の池あたりまで上ると、立派なドイツ兵慰霊碑があった。1919年完成。平成19年徳島県史跡に指定された。公園とはいえ、人気はなくひっそりしているのが残念。
眉山。山頂からの眺め。映画「眉山」ロケ記念プレートの所で。この映画は飛行機の中でちらっと見たが暗くて面白そうでなかった。さだまさし自体好きではないし。蔵本駅に寄ったので西部公園からドライブウェイの細い山道を延々と走り駐車場に着いた。花壇の階段を登ると5分ほどで、モラエス館に着く。パゴダのある山頂で四方を眺める。鳴門海峡方向は見えるが剣山方向はガスで見えない。麓から眉山山頂への遊歩コースガイドを見ると11コースもあり、手軽で安全なエクササイズができる人たちをうらやましく思った。岐阜の金華山に似ている。実際、歩いている人を多く見かけた。モラエスは新田次郎の新聞連載を読んでいたので、40年ほど前から概略は知っていたが、復元された書斎・居間や彼の人生は興味深い。山麓には古社寺が多く、瑞巌寺庭園を見学した。
旧徳島城表御殿庭園。三十年近く前から名園として知っていた。先に徳島城博物館を見学。重文の徳島藩御召鯨船「千山船」が逸物であった。その隣に庭園がある。蜂須賀家政入国後、大坂の陣役前に、上田宗箇により作庭され、桃山様式の池泉回遊式と枯山水の二庭からなる。上田宗箇は茶人として知っていたが、本来は名古屋の星崎で生れた武将であった。広島の縮景園、名古屋城二の丸庭園を作庭したという。何れも既見。この庭の蘇鉄や緑泥片岩の阿波青石は素晴らしい。木や石が多く変化に富んだ広大な庭園である。
徳島城本丸・弓櫓跡から眉山を望む。御殿庭園一帯は徳島中央公園にあり、北端の有料駐車場(310円)に駐車した。往路は貝塚のある内堀を通り御殿庭園へ向かい、帰路、遊歩道から本丸・二の丸などがある標高61メートルの城山に登った。あたりの石垣は阿波青石の野面積みでワイルドな趣である。天守は東二の丸にあったという。
鳴門市鳥居記念博物館。模擬天守展望台から鳴門海峡を望む。四国旅行の帰途、5月25日見学。妙見山公園にあり、撫養(岡崎)城の旧地に模擬天守閣として昭和40年開設。鳥居龍蔵(1870〜1953)は人類学・考古学・民族学の先駆者。名前は知っているが詳しくは知らなかった。小学校中退ながら東京帝国大学助教授、人類学教室主任となり、辞職後国学院大学・上智大学・東方文化学院・北京の燕京大学の教授を歴任。研究・行動量に圧倒された。大日本帝国の版図である朝鮮・中国東北部・モンゴル・台湾・千島を調査探訪。さらには、インカの土器まで。遼の皇帝陵発掘遺品などもあり、古代史研究面でもっと注目されてよい。
鳥居博士夫妻の墓。ドルメン(支石墓)をかたどったもの。博物館の裏にあり、豪雨のなか参拝した。
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参考になりました。徳島に止まり、眉山周辺を見学しました。
2008/9/7(日) 午後 1:41 [ 博光 ]
はじめまして関連記事から来ました。
宜しくお付き合いをお願いします。傑作
2009/5/5(火) 午後 4:37