いちご畑よ永遠に

山とロックを愛する自由人・・旅・歴史・音楽

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オーストラリア42日間 メルボルン グレートオーシャンロード 野生のコアラ 12人の使徒


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イメージ 1メルボルンからグレートオーシャンロードへ。サーフ・コーストのバードロック展望台。平成24年4月6日(金)本日はグッドフライデーでイースター休暇の真只中。メルボルン名物の無料トラムも本日は運休。前日セントラルYHAで本日のグレートオーシャンロードのツアーを予約。午後からの半日ツアーを希望したが、早朝からの1日ツアーしかなかった。Otway Discoveryという会社のツアーで95ドル。24人乗りのミニバス使用なので、他社より安い。少ない客数なので、バスの中で名前と出身地を言わされた。若い人が多い。日本人は私一人。
7時集合だったが、運よくピックアップ地点はセントラルYHAから徒歩1分の場所。
バスは南の橋を渡って高速を走り、8時40分にサーフ・コーストのバードロック展望台へ住宅街を通って到着。サーフィンで有名なベルズビーチの北2kmにある。海岸線に沿って崖が続き、砂浜はわずかに見えている。午前の低い太陽が波が寄せ返す海面を照らしだしている。

イメージ 2バードロック展望台の下でサーフィンを沖に漕ぎ出すサーファーの群れ。ベルズビーチ側の海岸に目を転じると、7人ほどサーファーがいた。

イメージ 3グレートオーシャンロード。ローン手前の沿道の山側には凝った別荘建築が散在している。

イメージ 4グレートオーシャンロードの建設記念像。1932年に開通した道路の建設は第一次世界大戦から帰国した兵士たちの失業対策事業でもあったようだ。

イメージ 5ケープ・パットン。ケネットリバーとアポロベイの中程にある展望台。

イメージ 6グレートオトウェイ国立公園内マイツレストの冷温帯雨林。アポロベイから森に入る。ユーカリ、ブナ、シダ類が生い茂る中にボードウォークが設置されている。

イメージ 7マイツレストの冷温帯雨林。海岸沿いとは違って、ひんやりと清々しい空気の中を下って上るルートになっている。ニュージーランドと同じく巨大なシダが生い茂っている。

イメージ 8ケープオトウェイ灯台。13時過ぎに到着。手前の付属官舎を改造したと思われるレスランの外で昼食。軍隊式の給食なのでビュッフェのように好みで沢山という訳にはいかなかった。

イメージ 9ケープオトウェイ灯台。オトウェイ岬に立つこの灯台は1848年に建造されたオーストラリア本土で現存する最古の灯台。

イメージ 10ケープオトウェイ灯台。灯台の中の狭い螺旋階段を上ると、波が崖に押し寄せる光景が見られた。風は強い。管理人がレンズの説明をしていた。

イメージ 11野生のコアラ。ケープオトウェイ灯台を出て、しばらくすると、坂道の途中に乗用車が何台か止まっている。コアラを見るためだ。海がまだ見える高台の道路左右のユーカリにコアラが群がっていた。

イメージ 12ユーカリをむさぼるコアラ。本来このあたりにコアラはおらず、移住させた群れのようだ。動物園でコアラはいくらでも見られるが、自然の中で見られたのはここしかなかった。

イメージ 13ロックアード・ゴージの奇岩群。荒涼としたポートキャンベル国立公園に入り、海岸へ。

イメージ 14ラゾルバック。カミソリの背のような奇岩。

イメージ 1512人の使徒。12の岩が海中に立っているのだが、幾つかは壊れたようだ。一番手前の展望台から。
駐車場に着いた頃から、雨と風が強くなった。

イメージ 1612人の使徒。10分ほど歩いて左側奥の岬突端の展望台から違った景観を味わう。

イメージ 1712人の使徒。一番手前の展望台へ戻ると、雲の切れ間から日没間近の陽光が海面へ広がり、神話的な光景になった。

イメージ 18ギブソンステップス。12使徒から少しメルボルン寄りの海岸へ向かい、長い階段を下ると砂浜に降りられる。12使徒方向を眺めると、日没直前の光が織りなすファンタジーが広がっていた。
18時を過ぎ、あとはメルボルンへ帰るだけだが、かなりの所要時間が予想され、セントキルダに泊まっているという二人の女の子が、何時に帰られるのかドライバーに尋ねていた。
20時頃、途中の町に停まり、麺専門店で30分ほど食事時間を取った。夕食をYHAで食べるつもりだったので、痛い出費だ。一番安いチャーハンでも8ドルほどした。
21時30分頃、朝の集合場所へ到着。私は徒歩1分のYHAセントラルなのでよかったが、他の場所だったらうんざりしただろう。

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オーストラリア42日間 バララット ゴールドミュージアム ユーレカ砦 ファインアートギャラリー

イメージ 1メルボルン・サザンクロス駅。平成24年4月5日(木)、キャンベラからの夜行バスでメルボルンのサザンクロス駅のビル内に8時頃到着。グレイハウンドの営業所で予約を追加したり、インフォを覗いたりして、バララット行き郊外電車の情報を見ると、イースター休暇を利用して工事が行われ、翌日から不便になると分かったので、バララットへ行くことにした。10分ほど歩いてセントラルYHAに到着。荷物をデポ。翌日のグッドフライデーにグレートオーシャンロードのツアーを予約。午後からの半日ツアーを希望したが、早朝からの1日ツアーしか催行していなかった。
サザンクロス駅へ戻り、11時7分発のバララット行きに乗車。運賃は往復とバララット市内のバス運賃込みでオフピークセーバー価格23,4ドル。バララット行きは1時間に1本、ソブリンヒル観光には早朝の電車が推奨されている。

イメージ 2バララット駅。メルボルン・サザンクロス駅から北西へ向かい、丘陵地帯を通って1時間30分ほどで到着。バララットは小学校高学年の時にシャーロック・ホームズの冒険「ボスコム渓谷の惨劇」を読んだときから知っている地名なので、ぜひ訪ねたい場所であった。ゴールドラッシュの町とは知っていたが、幾つかの書籍を読んでイギリスからの独立・共和制運動の端緒として、オーストラリア史上最大の内乱である1854年のユーレカ砦の反乱が歴史上高く評価されていると知った。反乱後、ブッシュレンジャーという追剥強盗たちの跋扈する時代があり、1870年代のネッド・ケリーの活躍に至る。「ボスコム渓谷の惨劇」は1860年代にバララットからメルボルンに金を運ぶ馬車の一隊を襲ったブッシュレンジャーが強奪した金をもとにしてイギリスへ帰ったあとに事件を起こしたというテーマで、オーストラリア独特の呼びかけ声「クーイー」も覚えている。

イメージ 3ソブリンヒル。ゴールドラッシュの時代の町を再現したテーマパーク。入場料が高く、2時間以上はかけないと元はとれないし、内容も大体想像がつくので、入場しなかった。バララット駅の前のバス停から9番の市バスに乗車した。

イメージ 4ソブリンヒル。入口から街並みの様子を覗いて、道路反対側にあるゴールドミュージアムへ向かった。

イメージ 5バララット郊外の風景。ゴールドミュージアムから外を眺めると、緑が残る丘陵地帯に、住宅が散在している。

イメージ 6金のナゲット。ゴールドミュージアムの展示。人の頭より大きい金塊が発掘されていたとは驚きだ。当時の実物。

イメージ 7釣り針型と珊瑚型のナゲット。最近購入したもの。

イメージ 8ゴールドラッシュ時代のバララット。ヴィクトリア州内陸部にあるバララットでは1851年に金が発見され、金の採掘が終わるまで約640トンを産出した。鉄道も1850年代に開通した。

イメージ 9当時のバララットは人口4万5千人で総人口160万程度のオーストラリアで5大都市の一つに数えられていた。
ゴールドミュージアム前のバス停からユーレカ記念公園方面の市バスに乗車。

イメージ 10ユーレカ砦。バララットでは採掘許可権料が法外に引き上げられたことに金鉱夫たちが反抗し、1854年11月紺地に白の南十字星旗(ユーレカの旗)を翻して反乱の誓いをたてた。州総督は騎馬警官を派遣し、採掘料取り立てを強行し、鉱夫たちと小競り合いを繰り返した。

イメージ 11ユーレカ砦の記念碑。12月2日鉱夫たちは丸太を円形に地面に植えこんで直径30mほどのバリケードを構築した。これが、ユーレカ砦(ストッケード)とよばれるものだった。翌3日植民地政府軍が急襲し、1時間足らずの戦闘で30人の鉱夫と5人の警官が死亡した。
反乱後、植民地政府は譲歩の姿勢を示し、鉱夫への待遇を改善し、割当区画を増やすなど、民主化への契機となった。

イメージ 12ユーレカ記念公園。現在も改修工事が進行中。丘陵地の高台にある窪地地形で、砦というイメ−ジからは程遠い。
市バスに乗り、南十字星旗の実物が展示されているバララット駅近くの大通りにあるファインアートギャラリーへ。

イメージ 13ファインアートギャラリーの展示絵画。ユーレカ砦反乱鎮圧の情景。
騎馬警官や鉱夫たちにはアイルランド系移民が多かったという。

イメージ 14ファインアートギャラリーの展示絵画。ユーレカ砦反乱鎮圧の情景。

イメージ 15サザンクロス(南十字星)をモチーフにしたユーレカの旗。照明を暗くした部屋に展示されている。八角形の白い星の部分は厚みがある。鎮圧後、旗の本体は騎馬警官ジョン・キングが持ち去り、同僚らが歯切れを切り取っていったあと、各地で展示されたが、未亡人によりファインアートギャラリーに寄贈された。

イメージ 16ファインアートギャラリーの展示絵画。金は牧羊場、森の中、山の谷間などで発見され、テント張りの町や木の皮の小屋が集まった村ができた。金鉱が掘られると、土地は掘り返され、木は伐り倒され、小川の流れは沈泥でせき止められ荒廃していった。
バララット駅15時58分の電車に乗り、17時30分頃サザンクロス駅に着く頃には、日没が迫っていた。YHAに帰り、スーパーマーケットの場所を尋ねると、サザンクロス駅の外れにコールスがあるというので、再度駅を往復した。翌日のグレートオーシャンロードのツアーは出発が早いので早く寝た。

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オーストラリア42日間 キャンベラ 戦争記念館 日本軍関係展示

イメージ 1零戦。オーストラリア戦争記念館。平成24年4月4日(水)午後3時に入館したので駆け足見学になった。第一次世界大戦関係展示見学後は、太平洋戦争時の日本軍関係展示に絞って見学した。
この零戦は1942年初期の製造で、尾翼記号はV−173、台南航空隊の所属し、ラバウルとラエに配属されて、6月から7月にかけ撃墜王坂井三郎が搭乗したという。

イメージ 2零戦。機首部分。この零戦はニューブリテン島南岸のガスマタ飛行場において連合軍による空襲で破壊され、そのまま放置されていた。1980年代末になりオーストラリア戦争記念館が復元した。

イメージ 3長距離用無線電信機。三菱G4M海軍一式陸上攻撃機(連合軍側の通称はベティ)に装備されていた。

イメージ 4長距離用無線電信機。製造昭和12年、海軍航空技術廠の銘板がある。

イメージ 5山本五十六元帥が戦死時に搭乗した一式陸上攻撃機の破片。山本元帥は1943年4月18日ブーゲンビル島で米軍機により撃墜されて戦死した。

イメージ 6シドニー港を攻撃した特殊潜航艇。排水量46t、全長23.9m、乗員2名、魚雷発射管2門。1942年5月31日深夜、3隻の特殊潜航艇がシドニー港内へ出撃し、うち1隻がアメリカ海軍の重巡洋艦「シカゴ」へ向けて発射した魚雷が、オーストラリア海軍の宿泊艦「クッタブル」を沈没させ19名が戦死した。
引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的でオーストラリア国内に巡回展示されたあと、1943年4月キャンベラのオーストラリア戦争記念館に収容された。伊22号搭載艇と伊27搭載艇の2隻が合わせて1隻として復元されている。

イメージ 7鯉兵団(広島第五師団)の文書。マラヤ半島・シンガポール攻防戦で多数のオーストラリア兵が捕虜となった。

イメージ 8日本軍侵攻に対し、オーストラリア国民の奮起を促すポスター。オーストラリアが直接侵略攻撃されたことは、初めてのことで、恐怖感と戦時体制は大きな心理的圧力となった。

イメージ 9戦争捕虜となったオーストラリア軍兵士。

イメージ 10脱走したオーストラリア軍兵士の斬首処刑写真。この写真はニューギニア島で戦死した日本軍将校の死体から発見された。

イメージ 11サンダカン死の行進。1787名の死者の写真。マレーシア・ボルネオ島東岸サンダカン捕虜収容所に収容されていたオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜を1945年260km離れた西岸ラナウへ移送するさい、1000人以上の捕虜が移動中に死亡するか射殺されてほとんど死亡し、脱走した6人しか生き残らなかったという事件。各州の戦争記念館で言及されているが、日本ではパターン死の行進ほど知られていない。

イメージ 12日本の降伏を報道するメルボルンの新聞アーガス紙。1945年8月11日発行。日本政府は天皇の大権を損なわないという条件でポツダム宣言を受諾する用意があるという記事。日本の同盟通信の放送によると昨晩日本政府がスェーデン及びスイス政府に対し受諾の意思を英米連合国に伝達するよう申し入れたと記述されている。

イメージ 13
オーストラリアの軍事法廷における戦争犯罪裁判記録。このページでは、ラバウルで開催された軍事法廷において、ニューギニアやニューブリテン島でインド人捕虜や原住民を殺害した罪が審理され、絞首刑や禁固刑が宣告されている。

イメージ 14戦争犯罪裁判記録の一部。

イメージ 15戦争記念館閉館時のセレモニー。17時にセレモニーがあるというので、記念館入口で待機していると、各軍の制服を着用した兵士が玄関から入場し、アンザック慰霊ホールの前に進んでいった。

イメージ 16戦争記念館閉館時のセレモニー。トランペットの演奏が始まり、数分後にアンザック慰霊ホールの前に整列した兵士たちは、玄関に向け行進する。回廊の1・2階を含め周りには200人近い見学客が見守っていた。

イメージ 17戦争記念館から国会議事堂方向への風景。中間にある道路はアンザック・パレードとよばれる。
17時過ぎになった。背後にあるエインズリー山はキャンベラを眺める名所なので、レンタカーで行こうかと思ったが、18時までに返さなければならないので諦めて、市街地にあるヨーロッパカーの営業所へ向かった。大体の勘が当たって、営業所から100mほどのセブンイレブンのガソリンスタンドへ17時20分頃到着。給油案内に従って1ドル分というのを押したのがトラブルの始まりで、給油の速度が極端に遅い。通行人に尋ねると、そんなもんだと言われた。おかしいと思い、隣に来た客に尋ねると、1ドル分というのを押さずに普通にノズルを差し込めば良いと言われた。取りあえず、これまでの分を店で精算し、再度給油すると、17時45分になっていた。車を脇に停め、歩いて営業所へ向かった。係員が車を持って来いと言ったが、私はもう嫌気が差していたので、回れというラウンドアバウトがどこなのか分からないと訴えると、係員が私に同行し、車を営業所まで運転してくれた。
シティ・ウォークの寿司屋へ行き、見切り品の巻き寿司を食べたのち、グレイハウンドのバスセンターで23時55分発のメルボルン行きを待った。

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オーストラリア42日間 首都キャンベラ 国会議事堂 戦争記念館その1

イメージ 1キャンベラ。国会議事堂前庭園。戦争記念館とエインズリー山への軸線。平成24年4月4日(水)前日にコジウスコ登山を終えたので、9時にスレドボを出発し、キャンベラへ向かった。帰路なので、概ね順調だったが、高速道路からキャンベラ市街地へ左折するランプへの進入に2度失敗、右折赤信号で右折するという誤解による交通違反をした。国会議事堂のガイドツアーが13時からあるので、議事堂地下の駐車場へ12時前に到着。

イメージ 2国会議事堂。国会議事堂の受付で無料のガイドツアーを申し込み、時間まで内部を見学しながら待機した。
1901年にオーストラリア連邦が成立したとき、シドニーとメルボルンが首都の座を争い、決着がつかなかったため、両者の中間点に首都を建設することとし、27年までメルボルンに首都を置き、27年からはキャンベラに首都が移った。この国会議事堂は1988年にエリザベス女王臨席のもとに開設された。

イメージ 3クイーンズ・テラス・カフェのテラス部分。入口の2階に軽食喫茶店がある。昼食時なので、観光客が多い。ウパゲッティ・サンドイッチ・スープなどのメニューがあり、軽く昼食をとった。室内以外にも、テラス席が用意されている。テラスからは戦争記念館方向の風景が眺められる。端にはエリザベス女王の銅像も置かれている。

イメージ 4テラスから見上げる高さ81mの国旗掲揚塔。旗の大きさは12.8×6.4m。

イメージ 5ナイトとデイムの勲章。オーストラリアは実質的には共和制国家なのだが、国民投票の結果、形式的にはイギリス国王を元首とする立憲君主制国家のままになっている。現行の勲章制度は1975年エリザベス女王により制定された。一般部門と軍事部門の2種類があり、諮問委員会と国防大臣がそれぞれ総督へ推薦し、建国記念日と女王の誕生日に発表される。4段階の種類がある。その上位にナイトとデイムがあり、12人に授けられたが、1986年ホーク労働党政権により廃止された。

イメージ 6国会議事堂ガイドツアー。男性職員のガイド。30人弱が参加。大講堂の2階席でガイダンス。

イメージ 7下院。オーバル型。装飾の基調色は緑色。

イメージ 8下院の書記官席。と、思われる。

イメージ 9メンバーズ・ホール。上院と下院の中間にある吹抜けのある広間。

イメージ 10国旗掲揚塔をメンバーズ・ホールの回廊から見上げる。

イメージ 11上院。装飾の基調色は赤色。ガイドツアーでのみ入場できる。ガイドツアーは1時間弱で終了。国立図書館方面へ徒歩で向かったが距離があったので、レンタカーで移動。

イメージ 12国立図書館。キャプテン・クックの日記や植民地時代初期からの貴重な文献を展示している。
15時を過ぎたので、戦争記念館へ移動。

イメージ 13オーストラリア戦争記念館。日本でいえば靖国神社に相当する施設。建国神話がない国家なので、第一次世界大戦でのアンザック軍の戦いが国家意識を醸成した。

イメージ 14第一次世界大戦関係の展示室。戦争絵画や銃器が展示されている。グループで来館し、解説を聞く学生たちも多い。

イメージ 15第一次世界大戦展示室、ガリポリ半島のジオラマ。トルコのダーダネルス海峡の入口にあるガリポリ半島での戦闘が、当時から現代までオーストラリア及びニュージーランドの国民にとり最大の出来事である。1915年4月25日アンザック(オーストラリア・ニュージーランド・アーミー・コーズ)軍がイギリス軍指揮下のもとガリポリ半島西海岸のアンザック入江へ上陸し、多大な戦死者を出した。その4月25日が現在もアンザックデーとして祝日となり、各地で記念パレードが行われている。当日、ケアンズのYHAでテレビを見たら、パレードを延々と実況放送していた。
ガリポリ半島の戦いではその後、連合軍が8月に攻勢をかけるが失敗し、12月には全面撤退に追い込まれた。ジオラマの赤い線は上陸1週間後のアンザック軍、黄色い線は8月攻勢後のアンザック軍、青い線はトルコ軍の前線を示しており、トルコ軍は常に上方から機関銃を応射できる優位を保っていた。
作戦を提案した当時の海軍大臣ウィストン・チャーチルは罷免させられ、トルコ軍を巧みに指揮し、連合軍を撃退したムスタファ・ケマルはトルコ国民の英雄となり、のちにトルコ共和国の初代大統領となった。
第一次世界大戦当時500万人ほどの総人口だったオーストラリアから約42万人が軍務に志願し、6万人が戦死した。
このあと、日本軍関係資料を中心に見学。

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オーストラリア42日間  スレドボ オーストラリア最高峰コジウスコ山登頂 

イメージ 1紅葉が始まる首都キャンベラの商業地シティウォークの街路。平成24年4月2日(月)12時30分シドニー発のグレイハウンドバスでキャンベラへ向かい、16時前にバスセンターへ到着。市街地のビルは低層で人工都市らしく整然な街並み。歩き方の地図を見ながら15分ほど歩いてキャンベラ・シティYHAに到着。受付でスーパーマーケットとレンタカーのヨーロッパカー営業所の場所を尋ね、至近距離にあるシティウォークへ向かった。しかし、ビル街の外側は専門店ばかりで、スーパーマーケットはない。30分ほど歩いてビルの中に入り込み、2階のフードコートの中国系寿司チェーンで、巻き寿司の見切り品を買って食べた。1階の中央通路を歩くと、スーパーマーケットが入店していたので、食料を購入した。外部に看板が出ていないので分かりづらい。
翌日借りるレンタカーのヨーロッパカー営業所もシティウォークにあると聞いたが分からず、YHAに戻ってから再び予約書の住所を頼りに出歩いて確認すると、グレイハウンドのバスセンター近くの交差点にあった。

イメージ 2キャンベラの国会議事堂前を通ってスレドボへ。4月3日(火)9時にヨーロッパカー営業所でレンタカーを借りた。YHAの予約をした時に割引があると表示がったので、他の大手レンタカーと比較すると確かに安かった。翌日の18時まで2日間144.93ドルでネット予約した。実際には店頭で車両保障を追加したので、19,822円になった。
オーストラリア大陸最高峰コジウスコ山(2228m)の登山口であるスレドボThredboはキャンベラの南2時間ほどの距離だが、一帯はスノーウィーマウンテンズとよばれる有名なスキー場で冬季はバス便があるが、それ以外はスクールバス便しかないので、レンタカーは必須となる。
海外のレンタカーはハワイ島で経験があるので、それほど心配はしなかったが、ラウンドアバウトのみ注意して走行した。ナビなしのヒュンダイ1200cc。国道23号線でクーマを目標に行けばいいのだが、市街地をどう抜けるのか店員に尋ねると空港方向へ走れという。地図も何も貰えず、大通りを走ると、23号線の道標は空港方向ではなく、国会議事堂方向だったので素直に従った。

イメージ 3キャンベラ・クーマ間の国道23号線。少し道を間違えて戻ったりしながら、23号線を進むと大きく右折して南下し、広々とした大地を走っていった。制限時速110kmを維持して走行し、たまに遅い車を追い越した。路肩には古いのと最近のカンガルーの死体がころがっていた。
カシオプロトレックのコンパスで方位を見ると、北を指していたので不安になり、途中の休憩所に寄って、朝食を食べていた豪人夫婦に確かめると、そのまま走ればいいと言われた。

イメージ 4クーマのスノーウィー・ハイドロ・ディスカバリーセンター。11時頃にクーマの街並みに近づくと、この建物が見えた。オーストラリアは第二次大戦後になると、経済上や国防上の必要性から移民政策の制限を徐々にゆるめざるを得なくなり、急速な工業化を推進するためヨーロッパからの未熟練労働者を移民として積極的に受け入れ始めた。政府はスノーウィマウンテンに大規模な灌漑施設と水力発電所の建設を企画し、1949年から74年までに16のダムと7か所の水力発電所を建設したときには移民労働者が雇用された。

イメージ 5クーマの街並み。西方に丘陵地帯が広がってきた。街並みといっても街道沿いにあるだけで、牛乳などの冷蔵品を購入しようとして、スーパーを見逃したので、街の西端で停車し、探してもなかったので、そのままスレドボを目指した。ジンダバイン付近には人造池が多く、景観が美しい。まもなく、道路中央に設置されたコジウスコ国立公園料金所に着き、女性職員から1日券にするか2日券にするか尋ねられ、「どうなるか分からない」と答えると、1日券16ドルを発行され、スレドボのウォーキング用地図を渡された。時刻は12時14分で、期限が過ぎたら超過料金を払ってと言われた。翌朝、通って分かったが、帰途方向に窓はないので時刻確認はできない施設構造だった。

イメージ 6スレドボのコジウスコ・エキスプレスリフト。料金所からかなり進み、両側に山並みがそびえる谷の道路に入ると、標識があり、フライデードライブへ右折してホテル街に向かい、インフォメーションでリフトの状況を尋ねた。9時から16時30分まで運行という。無料駐車場の場所を尋ね、登山装備を準備して、13時過ぎにバレー・ターミナルへ行き、リフト券31ドルを購入した。係員に16時30分までだよねと確かめると、何と16時までと言うので驚いた。ウォーキング用地図にはリフト頂上駅から往復13km、4〜6時間と書いてある。3年ほど前に、コジウスコ登山をネットで眺め、なだらかな登山道と知っていたので、何とかなる、万一運行が終わってもリフト下の道から下山できると考え、13時15分リフトに乗った。

イメージ 7リフトから眺めるスレドボの街並み。幹線道路下斜面と川沿いの低地に宿泊施設が連なっている。オフ・シーズンなので街は閑散としている。コジウスコ山の反対方向にも山岳地帯があり、コジウスコ山と同じ地形だった。
リフトは10分ほどで、頂上駅に到着。

イメージ 8コジウスコ山登山道。頂上駅付近。頂上駅上のレストランから登山道が伸びているのか、入口で確かめるが、駅左の柵から登山道が始まっていた。風が強いので、薄いジャンパーを着た。13時30分出発。なだらかな登山道で、路面には鉄網が敷かれている。川には鉄橋が何か所か架けられている。家族連れや軽装の登山者が続々と帰ってきた。登山道は1か所修復工事が行われていた。時々急な上り坂はあるが概してなだだかに上っていく。同じ風景が続きコジウスコ山がどれか分からず、高齢の女性にあとどれぐらいと尋ねると、まだまだ先だという。しばらくすると、ローソン峠の三叉路に到着。

イメージ 9ローソン峠の三叉路からコジウスコ山を左に眺める。登山道から降りてくるのは、メインレンジトラックの縦走者。メインレンジトラックとコジウスコ山登山道は680mほど同じ道をとり、左の肩あたりで左右に分かれる。コジウスコ山登山道は反時計周りに左側をぐるっと回って山頂へ登って行く。ここから1.67km40分と道標に書いてある。ここまで約1時間。サブザックを降ろして、道標の後ろにデポし、ウエストポーチだけで頂上へ出発。

イメージ 10コジウスコ山山頂周回路からローソン峠を見下ろす。周回路で2人の若い男女と対向した。ほぼ一周し、ローソン峠を見下ろした。峠の左には避難小屋・トイレがすぐ先にあり、駐車車両がいて、幅広の道路が続いていた。リフト方面からの登山道は右の山腹に細く続いている。周囲の山並みはこんななだらかな地形が続いている。

イメージ 11コジウスコ山山頂広場。整備されていて、左側に説明板がある。

イメージ 12コジウスコ山の説明版。最初の登頂者はポーランド人探検家のストルツェルスキーで1840年2月15日であった。彼はポーランド自由解放運動の闘士コジウスコに因んで山の名を命名した。もっとも、この地は各地のアボリジニが集い交流する聖地であったらしい。

イメージ 13コジウスコ山山頂。山頂を示す標石。標高2228m。世界七大陸最高峰セブンサミットの一つ。十数年前から意識はしていたが、キリマンジャロに続き第2峰目となった。といっても、他の5峰に登るつもりはない。
14時52分に到着。16時までの持ち時間は残り1時間5分程度。2分ほど滞在して、14時54分下山開始。
ローソン峠の三叉路でサブザックを回収し、水を飲んだ。リフト方向へ登山道を小走りで帰路に着いた。しばらくすると、小さい作業車が登山道を走ってきた。修復工事の作業員だ。こちらの状況を分かっているので、hurry hurryと笑顔でけしかけられた。数か所に距離表示があり、登山道の半分ほどを小走りで駆け下りた。頂上リフト乗り場には15時57分に到着。山頂から1時間3分ほどだ。息つくひまもなく、リフトに飛び乗った。何とか2時間30分以内で往復できた。リフトの途中でマウンテンバイクを手で持ってリフトを登ってくる青年を見かけた。スキーシーズンではないこの時期はマウンテンバイクで山道を下るのに適している。

イメージ 14スレドボYHA。屋根が急傾斜なシャレー風の外観。宿代は28.5ドル。予約後にメールが来たが、読んでおらず、コジウスコ山登頂後、車の中で読み解くと、周囲が工事中なので、駐車場所を指定していた。幹線道路沿いの駐車場から下って、YHAに近づくと道路が掘り返されていて、道路下法面から入口へ入った。受付の女性は感じのいい人で、10歳前後の娘3人を連れた夫婦、老夫婦などの客が居間や台所でくつろいでいた。

イメージ 15スレドボ・スキー場。幹線道路沿いの駐車場からリフト方向を眺める。山頂レストランの先にコジウスコ山登山道が続いているが、ここからは見えない。
4月4日(水)9時にスレドボを出発し、キャンベラへ向かった。

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