いちご畑よ永遠に

山とロックを愛する自由人・・旅・歴史・音楽

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2009年08月13日

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イメージ 17月22日(水)。皆既日食後の種子島観光ツアー。宇宙センターから千座(ちくら)の岩屋へ。これは海岸に打ち寄せる波が岩を削った海蝕洞窟。いくつも枝分かれした洞窟内は千人座れるぐらい広い。干潮時には洞窟の奥まで楽に入れるが、満潮時は洞窟には水が溜まってしまい、入れなくなる。

イメージ 2千座(ちくら)の岩屋と海岸。千座の岩屋を横から見る。その後、大浦川のマングローブ林を通り、雄滝雌滝の岩近くの店に寄り、最後に鉄砲館(種子島開発総合センター)へ。

イメージ 3鉄砲館(種子島開発総合センター)。種子島時尭公像近くから眺めると南蛮船の形をしていた。昨日も見学。日食の企画展が無料だったので結局全部無料で見てしまっていた。昨日見なかった2階に上がり、ポルトガルとの交流展を見た。館全体では、鉄砲展示が主体だが、火縄銃発射の仕組みがもっと分かるような展示・映像がほしい。火蓋に火縄が点火される瞬間の高速度撮影とか。
ツアーは近くの市役所駐車場で17時頃解散。私は旅館へ帰らず、鉄砲館付近へ戻り、種子島家住宅捜索に出かけた。鉄砲館で歴史探訪の観光ボランティアガイドツアーのリーフを入手し、そのマップに種子島家住宅が記載されていたからだ。
ちなみにツアータイトルは「鉄砲伝来のロマンをたどる」「ザビエル、永俊尼(カタリナ夫人)の記憶と面影」「女殿様・松寿院さまがつなぐ種子島家と島津家」。松寿院は島津家出身で篤姫の大伯母。西之表港の堤防など土木工事に尽力した。

イメージ 4種子島時尭公像。鉄砲館東の高台は榕城小学校の西端にあたり、赤尾木城跡碑と階段の上に種子島時尭公像がある。

イメージ 5新城跡。文禄4(1595)年、島津領内の豪族に島津家から領地換えが命じられ、16代久時は知覧に配置替えになったのち、慶長4(1599)年に復島した。その間、領主となった島津以久がここに居城を構えた。
種子島家宅を捜して、鉄砲館北東を歩くと、高台に新城跡と公民館があった。通行人に尋ね歩き回るが、観光地でもないので結局不明。犬の馬場、井ノ上の北東部は山あり谷ありで、市街地からは窺い知れない方向感を失う複雑な地形であった。司馬遼太郎が「街道を行く」で訪れ、NHKの「新日本紀行」で紹介された種子島家住宅は訪れたかった。種子島家も禰寝(小松)家同様、島津氏から養子を何度も迎え、乗っ取られたようなもの。
旅館で夕食後、港近くのイベント「夜の歩行者天国」に出かけた。港に近い西町通りで開催され、こんなに人がいたのかというぐらいの人出だった。18時から始まったが、20時30分頃に着いたので終わりかけだった。トラックがステージになって、日比野克彦氏がらみの島外人による劇・コンサート・ダンスが披露され、時の芸術祭を企画した日比野克彦氏の舞台挨拶ののち、種子島鉄砲太鼓で締めくくられた。日比野克彦は10年ほど前から種子島の魅力にはまってたびたび来島しているらしい。バリ島でケチャックを見たことがあるが、ヤポネシアらしい衣装で民俗芸能を島の人で演じてもらった方が文化的価値は高い。
結局、火縄銃の試射は見学できず、山本寛斎や上原美優にも会えなかった。
旅館「美しま」で対応していたのは、種子島ローカルロケーションコーディネイトの荒木氏であった。種子島は木村拓哉・工藤静香以来、サーフィンが盛んだそうで、マリンスポーツのために移住する人も多いという。サッカーの岡田監督もよく来るといい、有名人だからと騒がれない環境がいいらしい。バスガイドも島は観光に関心を持ってこなかったと言っていた。サーフィンをやる若者はいいが、日本人はボーット過ごすことが苦手。屋久島の平内海中温泉のような面白い温泉とかマラソン大会とかあればとは思う。オアフ・ハワイ・バリ・小笠原・沖縄・石垣・隠岐の各島を観光したが、何れも文化的背景が強烈に自己主張しており、それを享受するだけで面白いものがあった。その辺りが種子島には希薄な気がする。
今回は皆既日食を見られなかったが、世界では毎年見られる、2012年5月には金環日食が、2035年9月には皆既日食が見られる。それまで生きて待っていろという天命だと考えればよいだけの話。

イメージ 6照国神社境内と城山。7月23日早朝に種子島から鹿児島本港へ到着。徒歩で鹿児島県立博物館へ。無料。いくつかの自然系ジオラマあり。さつまいもの立体模型は迫力あり。鹿児島湾と人吉盆地まで四万十層が陥没して内海になっていたとは新発見。考古資料館に着いたが、閉鎖されていた。あとで尋ねたら展示資料はそのままとのこと。照国神社の祭神が島津斉彬とは最近知った。境内に照国文庫資料館があり、無人無料。入口のビデオなど金が掛かっている。
鹿児島市内の観光といえば磯地区と桜島だろう。それぞれ2回行っている。

イメージ 7鹿児島城跡。大手門あたりは重厚な造り。中の石垣には穴がいくつか見られ、西南戦争の銃弾の跡か。ハスで濠は見えない。黎明館は二度目だと思うが25年ほど前のことで記憶がない。志布志城のジオラマはしげしげと見た。2ヶ月前実際に歩いたからだ。垂直方向が誇張されていると思うぐらい、峻険な山城である。出水外城のジオラマもある。9年前に阿久根ハーフマラソン参加のさいツルと外城屋敷群を見学した。薩摩焼・絵画・民俗衣装・中近世文書や屋外展示をまじめに見たら、疲れて時間もかかった。城山方面に行かねばならない。

イメージ 8私学校跡石塀に残る弾痕。明治10年9月1日、鹿児島に帰ってきた西郷軍が政府軍から奪回した。

イメージ 9私学校跡石塀に残る弾痕。国道10号線側。

イメージ 10私学校跡石塀碑。国道10号線側に石塀は長く続いていた。鹿児島大学附属病院の門跡でもある。

イメージ 11南洲翁終焉の地。黎明館から北へ歩き、城山へ登らず、JR線路の橋を東へ歩くと、マンションの横に南洲翁終焉の地があった。明治10年9月24日のこと。

イメージ 12南洲翁終焉の地から城山方向を望む。JR線路のすぐ北側である。

イメージ 13西郷隆盛洞窟。終焉の地から城山方向へ歩き、車道の右カーブを登るとあった。かなりの距離である。明治10年9月24日未明西郷と幹部約40人は洞窟前に勢揃いし、岩崎谷を東へ向かった。

イメージ 14西郷隆盛洞窟を城山展望台へ向う途中の高台から眺める。岩崎谷というのだろうか、城山から谷を隔てて北のシラスの小山下に洞窟がある。

イメージ 15右が城山、左が洞窟のある小山、終焉の地は正面左の住宅街の中にあり、その先には錦江湾が見える。

イメージ 20城山西南部にある西郷軍本営跡の碑。岩崎谷の奥は尾根が繋がっており、左の城山公園への道標を進み途中で丘に登ると、薩軍本営跡の碑がある。自決の数日前まで西郷たちはここにいた。中世上山城の一部であり、下にはドン広場があった。

イメージ 16城山展望台。正面には桜島が見える。16時頃なので、はっきりとは見えない。荷物を黎明館の無料ロッカーに預けて歩いたので、黎明館への山道を下りた。天文館方面へ歩く。

イメージ 17鹿児島ラーメン「和田屋本店」。普通ラーメンを頼んだはずが、味噌味で、味噌ラーメンの料金を請求されたので味噌ラーメンなのだろう。スープはおいしいが、豚トロラーメンの豚肉の旨さを知ったからには、豚トロラーメンに軍配。霧島温泉で入浴。鹿児島中央駅で大阪行き夜行バスに乗車。

イメージ 18大阪歴史博物館から見る難波宮跡。生駒山、二上山、金剛山、葛城山が見えて感動した。大極殿の儀式復原展示で女官が翳(さしば)という貴人の顔を隠す団扇を捧げていたが、福岡の竹原古墳の壁画で見たものだけに成程と思った。前期難波宮の八角殿院は他の宮にはないものだけに様々な説があり興味深い。最古の万葉仮名文木簡である「はるくさの」を見た。

イメージ 19難波宮跡地下遺構。前期難波宮時代の倉庫群のうち管理棟とされる遺構。ボランティアガイドに解説を聞きながら地下に潜り、遺構を見学した。上はビルで下は駐車場。建物解体時の処理方法はどうなるのだろうか。史跡の発掘と保存に貢献した山根徳太郎の功績は大きい。橋下のような人間に文化財保存に対する意識があるか疑問。
上本町から近鉄急行を乗り継ぎ、名古屋へ帰宅。

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