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島根県東部で戦国史を中心に郷土の歴史散歩をしてます。調査のメモを書き残したり、郷土史をつらつらとおしゃべりしたいと思います。
久しぶりに週休となり、天気もよかったので月山冨田城を久しぶりに探訪しようかと思っていたのですが、
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現在、整備工事の真っ最中です。
山頂城郭群周辺の伐採作業は昨年には行われていましたが、現在は七曲がりの登城路周辺の伐採と山道整備(階段整備)の工事がなされているようです。工期は今年十一月末までの予定。よって探訪ができなかったわけですが、整備された月山冨田城の姿を楽しみにしたいところです。

それで予定を変更し、一度訪れて印象深かったところを再度探訪することにしました。奥出雲町上阿井に所在する「たたら角炉伝承館」です。
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角炉は、1893年(明治26)に官営広島鉄山の技師黒田正暉によって開発された、従来のたたら製鉄と西洋式の高炉製鉄を折衷した、銑鉄製造の溶鉱炉です。三日三晩で操業を止めるたたら製鉄よりも長く連続操業でき(三ヶ月程度)、高炉よりも低温で製鉄することで、不純物の少ない高品質の銑鉄が生産できるものです。最初に作られた角炉は、北九州に造られた官営八幡製鉄所が安定操業するようになった1904年(明治37)に廃業しましたが、明治から大正にかけて島根県東部山間地に黒田式角炉が多く建設され、操業されました。洋鋼の流入によって和鋼の生産、流通に大きな打撃を受けた出雲地方の製鉄業者は、当時の新技術を積極的に取り入れて再起を試みたのです。
上阿井にあるこの角炉は、出雲の鉄師のひとつ櫻井家によって操業されていた槙原角炉を復元、保存したものです。島根県の角炉で生産されていた銑鉄は軍艦に搭載する艦砲の砲身に使用されるなど、高品質が求められるものの素材に使われましたが、第一次世界大戦が終結すると需要がなくなり、ほとんどが廃業しました。槙原角炉は一時廃炉となったものの、1935年(昭和10)に再建され、1945年(昭和20)まで操業されました。その後廃炉となりましたが、資料写真によると、伝承館として復元されるまで煉瓦造りの高炉は形をとどめています。なので、ここに残る角炉は復元というより、現存というほうがただしいのでしょう。

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伝承館内部は保存された角炉と資料、そして当時の作業を模した人形によって、どのように操業されていたかが説明されています。地上階部分では、一方から砂鉄と石灰、反対側からは木炭が投入されていく様子が示されています。これを15分ごとに行っていたということです。作業は24時間連続、12時間交替です。
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地下部(炉床部)では、生産された銑鉄を取りだし、砂型に流し込んで製品化していく様子が。反対側の口からは鉱滓を排出していきます。
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たたら製鉄といえば、近世の高殿たたらで用いられた足踏み式のふいごが有名ですが、近代たたらや角炉では、水車を用いた送風設備が使用されています。槙原角炉で使用された水車と送風設備はなかなか大きなものでした。

たたら角炉伝承館は奥出雲町上阿井、鉄師櫻井家の資料館である可部屋集成館の近くに所在します。入場観覧は無料ですし、出雲の鉄に関心のある方はぜひ訪問してみることをお勧めします。

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萩城下 馬來家旧宅

なかなか遠出ができない日々ですが、久しぶりに休みが取れたので、少し遠方に足を伸ばしてきました。山口県萩市です。多くの方々がご承知の通り、長州藩毛利家三七万石の城下町で、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作などを産んだ維新胎動の地です。

今回探訪した目的は、萩城とその城下町を見聞するためでした。萩城は日本海に面した陸繋島である指月山と、阿武川河口の三角州という、天然の水堀という地形を生かした場所に築かれ、三角州に城下町が広げられています。その三角州にも内堀(橋本川から菊ヶ浜にかけて)と外堀が開削され、内堀の内部は二ノ丸、内堀と外堀の間は三ノ丸として構成されています。
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  北の惣門
堀内と呼ばれる三ノ丸は、北の惣門、中の惣門、平安古門の三つの城門をもち、外郭には土塁もあります。堀内は上級武士の屋敷が建ち並んだ地区であり、石垣、土塀、隅櫓や長屋門が設けられて、有事の際にはそれぞれが小城砦として機能する仕組みになっていました。

その堀内にあるひとつの物件が、萩を訪れた大きな目的でした。
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「馬來杢旧宅地」です。堀内の三年坂筋という場所にあります。
出雲国仁多郡馬木郷の国人領主で、出雲十旗のひとつに数えられた馬來一族の末裔が暮らした武家屋敷跡です。
馬來氏は出雲十旗のひとつとして尼子氏に従っていましたが、毛利元就の出雲進出を機に毛利氏に帰属します。天正十七年(1589)に通達された惣国座替で、馬來元貞は先祖伝来の土地を離れて広島へ、関ヶ原以降に萩へ移ります。元貞からは元行、元昌、元次、元征の四人が生まれ、分家しました。この馬來家旧宅は、元貞次男元昌の家族が代々住んでいました。馬來元昌は萩藩大組士に列し、361石の扶持を与えられていました。
看板では「馬來杢旧宅地」となっていますが、馬來杢は前原一誠の起こした萩の乱に前原党のひとりとして参加し、二番隊隊長を務めたことで名が残っています。

萩の城下町は、山陰本線が建設された時も、城下町を迂回するように線路が敷設されたこともあり、江戸時代の町並みがほぼそのまま保存されています。現代でも江戸時代の絵図を見て歩けるといわれるほどです。さらに、この萩城下町は、「世界遺産 明治日本の産業革命遺産」に含められています。
堀内には口羽家の門、益田家物見櫓、周布家長屋門、問田益田家旧宅土塀などが文化財として現存していますが、馬來杢旧宅も同じ文化財としての案内板が設置されています。渡り塀、長屋、門、井戸、礎石が現存しており、藩士邸宅の全体的な姿を残している物件です。今後整備も計画されているとのことで、歴史文化財として活用されることに期待したいです。

奥出雲の天空城を拠点にした馬來一族のその後の姿を語るものが、長州の萩に今も残るということは、歴史ロマンを追う者として心をくすぐられます。


(馬來杢旧宅地などの情報については馬來氏末裔の馬來信武様からいただいたものに拠ります。この場を借りて御礼申し上げます)

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城址探訪 蔀山城

私事ながら、昨年九月に転職し、以来多忙を極めていまして、郷土史調査を行う時間を取れないでいました。そのため、このブログも一年足らずの間休業状態となってしまいました。長らくお待たせいたしまして申し訳なく思います。

やっと得た休日を使いまして、今日は探訪しようと長らく思っていた、北備後の城館遺跡を三ヶ所、巡ってまいりました。
中国筋、とりわけ中国山地の辺りは、山陽側の大内氏と山陰側の尼子氏という二大勢力の狭間にあり、両者の勢力争いの繰り広げられる現場となってきました。その地域に割拠し、両者の争いに関わってきた国衆たちについて理解を深めようと思い立ったのです。

まず訪れたのは、広島県庄原市高野町の蔀山城です。


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毛無山尾根筋先端に位置する、標高775mの蔀山の山頂部を中心に築かれた山城です。正和五年(1316)、地毘荘地頭として来住した山内三郎兵衛尉通資が築城したのが始まりとされます。通資は元享年間に本拠地を甲山城に移し、弟の五郎通俊に城を譲ります。通俊は多賀山氏を名乗り、以来多賀山氏代々の居城となります。

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県指定史跡である蔀山城址は公園となっており、主郭である山頂部は東屋が建っています。麓からの遊歩道があるので、比較的探訪しやすい城跡です。
山頂部は東西に延びる形になっており、北側は岩盤の露出する断崖となっています。南側も急斜面ですが、こちらには尾根筋があり、麓に向かって小郭が連なっています。
山頂の主郭は長さ、幅とも15m程度の曲輪で、灌木が茂っていたこともあり、広くは感じませんでした。
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主郭から東に向かう尾根筋は、二の段、三の段が構成されています。長さ30m、幅15m程度ですが、山城の曲輪としてはそこそこの広さとなっています。
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二の段の南側に水の手があり、井戸の跡が残っていました。跡というより、今も湧き出している泉です。飲めるかどうかは試しませんでした。
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登城路は城域の北西側からの尾根筋を通るのですが、そこには堀切が切ってあり、道を遮断しています。堀切を渡ると急斜面がはじまるので、なかなかとりつき難い構成になっています。

蔀山城は多賀山氏代々の本拠地となっただけあって、全体的に普請が丁寧で、遺構も明瞭に残っていました。興味を引いたのはその構成で、出雲地方に残る典型的な山城の形、つまり自然地形を利用して人工的な加工をあまり行わない形状であることが観察されました。南北朝から戦国前期の山城の形が残っている遺構だと言えるでしょう。

天文四年(1535)、毛利元就は蔀山城の多賀山通継を攻め、包囲してこれを降伏させています。元就の戦いを描いた軍記『安西軍策』では、この時厳重な包囲で兵糧攻めをしたものの蔀山城衆は持ちこたえており、元就は、もしかしたら秘密の糧道があるのではと考えて綿密に探ったところ、蔀山城では寄せ手の死角になる崖下に綱を渡し、大きな瓢を使って、いわばロープウェイの要領で兵糧を補給しているのを発見。元就は桂元澄に綱を矢で射るよう命じ、元澄は一矢でこれを射切ります。程なく蔀山城は降伏したという記述があります。

遊歩道が設置され、県指定遺跡ともなっている蔀山城址ですが、遊歩道は倒木で遮断されているところが数多くあり、整備される必要があると感じました。また、東屋も設けられているのですから、主郭部分の樹木を梳いてやれば、高野町の高原地帯の眺望を楽しめるであろうにとも感じました。

続いて探訪した城址の記事は、明日以降にまた掲載する予定です。

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神西三郎左衛門元通

前記事では、神西城主神西氏の歴史とあらましについて書きましたが、神西氏の系譜の中に、尼子時代史において名の挙がっている武将、神西三郎左衛門元通のことが出てきません。今回、神西元通について取り上げてみます。資料は前回に引き続き、『尼子十旗龍王山 竹生城城主 神西三郎左衛門』(2014/馬庭將光著)です。

神西城は永禄三年、吉川元春率いる毛利軍の前に陥落し、城主神西景通は石見国山口村に逃亡しますが、その時に元通は神西城にはおらず、月山冨田城にいたようです。そこには元通の後見役として神西甚之允という人物がいました。馬庭氏の作成された系譜には、元通は永禄元年に月山冨田城にいたとしています。冨田城三面攻撃の時には、陰徳太平記や雲陽軍実記といった軍記に拠れば尼子方として奮戦し、毛利軍の撃退に寄与しています。しかしその後、富田城落城の前に毛利元就に投降しています(馬庭氏は冨田城三面攻撃を永禄六年としているが、実際は八年)。後見人だった神西甚之允は尼子義久の降伏の時まで城内に踏みとどまっています(一次史料である冨田下城衆書立には名前が見つからなかったので、軍記にあるのかもしれない。要確認)。
元通は毛利元就から忠勤を認められ、伯耆国末石城の在番として、毛利家臣中原善左衛門、小寺佐渡守とともに在城します(軍記にある末石城は末吉城の誤記と思われる)。永禄十二年、尼子再興軍が出雲奪還を目指して侵入します。山中鹿介と立原久綱は、神西元通に帰参を促す密書を送ります。この時鹿介は元通の心の内が読めなかったと記述されていて、元通の毛利への忠誠が高いと見ていた様子があります。元通は白扇の面に「ふるから小野の本柏」としたためて返事としたとされます。「石の上古る柄斧の本柏 本の心はわすられなくに」(古今和歌集・雑歌上・詠み人知らず)の一首を示して、尼子旧臣としての心を忘れていないと返事をしたのです。この返信に中原らも気がつきましたが、元通は中原善左衛門を殺害して尼子再興軍に加わります。再興軍では元亀元年に布部山の戦い、末次城攻防に参加しています。その年に因幡に向かったと軍記の記録があります。城主であるはずの神西城は山中鹿介が七百旗で入ったとされますが、その年の内に吉川元春が占領し、神西城で元春は越年します。元亀二年に尼子再興軍は出雲からの退出を余儀なくされますが、翌元亀三年、元通は毛利方の富山山城守が拠る富山要害城を攻めようと二股(現・出雲市多伎町奥田儀本郷)で戦ったという記録があります。そののち、京に上り、織田軍配下の尼子党に加わります。
天正六年(1578)尼子党は羽柴秀吉軍団に加わって毛利氏と戦い、上月城に入りますが、毛利軍の厳重な包囲の前についに救援の望みも絶たれます。この際、毛利方への降伏条件として、籠城の責任者として神西元通が切腹することが出されますが、最終条件は尼子勝久、氏久、加藤政貞、神西元通の切腹でした。同年七月二日、神西元通は上月城尾崎において自刃しました。

さて、神西元通は尼子再興軍の中でも最年長格とされ、藤岡大拙氏の『山陰の武将』で、また妹尾豊三郎氏も前記を論拠に『尼子人物盛衰記』で、元通の享年は六十余歳としていますが、馬庭氏はこれに異を唱え、神西元通は三十歳前後だったとしています。その根拠は永禄三年の時点で、元通に神西甚之允という後見人が付いていたと言うことです。後見人は元服前の若者に付きます。永禄三年に十二才か三才(投降の判断やその後に在番の役に服していることからすると、永禄八年には既に元服していなければならない)だとすると、天正六年には三十歳前後と言うことになります。
そして、元通は尼子勝久から神西氏旧領を保証する証文を与えられているものの、神西城には入らなかった可能性があります。神西城にいたという記録が残っていませんし、元通に当てた文書に「御宿所」と書かれたものがあり、この文言は本拠と言うより仮に逗留していた居所を指します。

馬庭氏の研究の中には、神西元通の系図や子孫の有無についてはまだ調査が終わっていないことを認めておられ、不明の部分が多くあります。また、尼子→毛利→尼子再興軍に加わった真意についても、一次史料の少なさから記述を控えておられます。
この研究を見たところの私見として、元通は若くして富田城に入っていた可能性が高く、おそらく、尼子義久の近習として仕えたいたのではないかと思います。冨田城三面攻撃では奮戦したものの、その後毛利元就が富田城衆投降解禁に転じた時に降伏したのは、頭の中に本領復帰があったからだろうと思います。既に神西氏は本領を失って、惣領家は離散していたからです。尼子再興軍への復帰も同様の理由と考えられます。上月城開城の条件に切腹を命じられたのは、彼が毛利家旗本の中原善左衛門を殺害しての尼子帰参だったからと想像できます。

上月落城に際して、責任を負う形で切腹を命じられて死んだ神西元通は、尼子再興軍の犠牲者とも言えるかもしれませんが、転戦した生涯と軍記に描かれた見事な最期で名を残した、戦国を生きた男の一人でした。

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県立図書館で借りてきた郷土史資料に『尼子十旗龍王山 竹生城城主 神西三郎左衛門』という小冊子がありました。平成二十六年三月三十一日付で発行された新しい資料で、著者は出雲市湖陵町の郷土史家、馬庭將光氏です
これまで神西氏についてはあまり調査をしてこなかったので、この資料を使って簡単にメモを残しておこうと思います。

出雲神西氏の歴史がはじまったのは、相模国古荘小野城主だった小野高通が出雲国神門郡五箇荘に地頭として赴任したのは貞応二年(1223)のことです(この時より神西三郎左衛門小野高通を称する)。巷説では、日御碕神社の小野氏が鎌倉幕府に仕え、神西の地頭に任じられたというものがありますが(わたしはこちらを認識していました)、これは裏付けとなる資料がなく、馬庭先生はこの説を排除しています。
神西高通の事績としては、赴任後に大病を患い、知井宮の福知寺薬師如来に病気平癒を祈願したところ全快したので、ここを祈願所と定めたことが寺史に伝わっているようです。嘉禄元年(1225)には故郷小野から自らの師匠寺である常楽寺を勧請開基しました。そして、当時華蔵寺(多伎町)の寺領だった常楽寺村を地頭佐波氏と争い、これを横領しました。常楽寺は華蔵寺と争いが絶えず、神西氏は常楽寺の寺名を十楽寺に改めました。
神西氏ははじめ、湖陵町三部にある高丸を居城としていたことが、文永八年(1271)の大社千家文書の記録からわかります。現在、神西氏の居城と伝わる神西城(龍王山城、竹生城)に拠点を移したのは永正年間頃(1504〜21)で、それまでの三百年間は、神西湖の畔で古くから開けていた三部(三部や二部といった湖陵町の地名は荘園時代の名残らしい。元は三分、二分)に政庁を置いていたようです。神西村誌の資料によると、神西氏の領地としては、五箇荘、神西新荘、園山荘が挙げられており、現在でいう出雲市東神西町や外園町あたりから多伎町田儀に至るまでの広い範囲を所領としていたようです。もっともそこからの領地の変遷(とはいえ神西氏の資料に勢力拡大を示すものは、先の常楽寺村横領くらいしかない)はあったようですが、それでも、西出雲の古豪として、戦国期には有力な国人と見られていたことでしょう。永禄十二年(1569)九月三日付の領地証文では、尼子勝久より神西350貫、畑250貫、神西のうち三部300貫が知行されています。

神西城が築城されたのは永正年間頃で、この頃には神西氏は尼子氏の麾下に加わっていたと考えられます。神西湖や出雲平野を俯瞰する位置に築城された神西城は、西出雲の戦略的拠点として尼子経久の意を受けて築城されたという見立てがなされています。それは伝わっている城名からもうかがえ、竹生城あるいは龍王山城は琵琶湖周辺の地名や神社に由来を求めることができ、尼子家臣に加わってからつけられた名前ではないかという説がなされています。
神西城周辺は神西表として古文書に記されていますが、神西城自体は五十年ほどの歴史しか持たず、城下集落が形成されることはなかったようです。ただ、神西城址高倉山周辺の谷あいには「市場」「とぎば」という地名、「鉄砲屋」「白銀屋」「馬具屋」といった屋号が残されています。武具や鉄砲を調達する商人か職人を神西氏が掌握していた形跡を見ることができます。

神西氏は初代高通から元通→景通→時通→貞通→清通→惟通(性通という記述があるが誤り。清通と家督争いをしたという。明徳四年頃の人)→為通→連通→久通(天文十二年十一月一日付の「家督ゆづり状」が残る。この頃尼子十旗に数えられる)→広通(冨田城にあり尼子の参謀として参戦)→国通→景通と十三代続きます。永禄三年(1560)神西城は毛利軍に攻められて開城、城主神西景通(三郎左衛門小野丹後守)は石見国山口村に落ち延び、そこで帰農します。慶長十五年八月二十八日に没します。その直系の子孫に当たるのが、大田市山口町の神在静香家だそうです。また、鎌倉市の神西清家も直系の子孫に当たるそうです。

これが神西氏歴代の歴史のメモです。

ところで、尼子時代史で神西一族といえば、尼子再興軍に加わって歴戦し、上月城で自刃した神西元通が有名ですが、彼は神西氏の直系ではありません。神西元通については次の記事にでも扱いたいと思います。

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